home > 通信 >究極の暴虐について:『アセンション館通信』第884号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/03/28(第884号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在506名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.究極の暴虐について

2.いただいたお手紙から:Kuboさん

3.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.究極の暴虐について
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

明日の日曜日は雨になるというので、

晴れている今日のうちに

近隣の長い桜並木を観に行ってきました。

戻ってきてこうして

ハレーションを起こしたような

明るい空の下の眼下の光景を見下ろしています。

これからがいちばん庭が華やかな季節。

相変わらず飽きもせずに

恵まれた状況を夢見つづけています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariへの

一体化が緩みはじめている意識です。

先週の応答で呆れて嫌われることもなく

今週もKuboさんからご投稿いただきました。

ありがたいことです。(-||-)

こうして反応していただくと

土曜日のマインド無礼講に弾みがつきます。

今回はたっぷり書いていただき、

たくさんの話の糸口を提供してくださいました。

なにぶん全文は長いので、

下の「いただいたお手紙から」のコーナーで

ご紹介させていただきます。

Kuboさんは今回のご投稿の最後に

「もしPariさんがこの文章を読んで、
 引っかかるところがあったり、
 新たな想念が引き出されるようなことがあったら
 教えてください。」

と書いてくださっています。

そんな自由を与えていただいたので、

今回はそういう話の糸口だけ

つまみ食いさせてもらって、

ここで使わせていただきます。

そこで起こる連想を綴らせてください。

pariという夢の中の登場人物としては

どうしようもないことなのですが、

自ら(マインドというもの)の愚かさが

身にしみてくる感じはあります。

これが興味・関心というものなのでしょうね。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
 https://amzn.to/3pEbJE8
──────────────────

このマハラジの言葉の意味を

あらためて噛みしめています。(*-_-*)

【だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。】

(;_;)

今回のご投稿はかなり長くて

中にいろいろな話の糸口がありますが、

今回は2点だけ

話題に取り上げたいと思います。

Kubo さんはキリスト教的な

背景の方と伺っています。

マハラジたちの言葉遣いについて

pariの方が読み慣れていそうです。

こんな部分が目につきました。

> ニサルガダッタはさらにこの意識の奥に
> 「純粋な気づき=わたしは在る」を
> 見るのだと思います。

これはマハラジの用語の意味合いなので

少し説明させてください。


──────────────────
●一点目:「純粋な意識」と「私は在る」
──────────────────

この二つの言葉は同じ意味ではなく、

意識の別の状態を現しています。

こういう話はすべて観念なので

真実とかいうことではありませんが。

イメージしやすく

「<意識>の海」というものが在ると

思ってください。

この「<意識>の海」が完全に静かで

安らいでいて、不動なら、

この「<意識>の海」は完全に透明です。

つまり「無」と言ってもいい。

これが「純粋な意識」と呼ばれる状態です。

このとき<意識>は

自分が存在することを知りません。

この状態の<意識>は

「気づき」という言葉でも表されます。

なので言い方によっては、

「純粋な意識」とは

「意識」のない状態とも言えます。

この「<意識>の海」の表面に

何の原因もなく

さざ波が立つことがあります。

つまり、ふと

自分が存在していることに気づくのです。

「<意識>の海」のこの状態を

「私は在る」という言葉で表すわけです。

つまり、存在感のことです。

「私は在る」とは、

永遠の不生不滅である

「<意識>の海」に兆す最初の思考です。

この「私は在る」という

最初の思考が生じると同時に

一瞬で全意識世界が立ち上がる

というのがマハラジの説明です。

この最初の思考が現れるのに

どんな理由もありません。

ただそういう性質だというだけです。

もしこの第一思考の「私は在る」が

何かの原因によって現れるとしたら、

「私は在る」(=存在感)を引き起こす

原因があることになります。

「原因」と「結果」という

「二元性の原理」が機能することになります。

でもこの「二元性の原理」は

全顕現である意識世界(現象世界)を

支配する構造原理です。

つまり、

存在感という源泉から流れ出した

意識世界の中の構造原理を、

元の源泉に当てはめようとしているわけです。

想像された物語世界の展開方法を、

始原のありように拡張附会するような

ことになってしまうというわけです。

地球社会のすべての歴史展開が

太陽エネルギーの一発現形態であるとしても、

地上社会の歴史展開の原因として

太陽を問い詰めようとしても、

太陽はそんなことは知らないわけです。(*^_^*)

> これには意図がないのかもしれません。
> これが私の理解ですが、
> 違っていたら教えてください。

はい、おっしゃるように、

まさに意図はないのでしょうね。

意識世界の源泉が、

意識世界のマナーに準じなければならない

理由はないでしょうから。

> (無意識、意識、マインド、スピリット、
>  個我、真我、気づき、わたしは在る、
>  アートマン、ブラフマン、
>  これらの単語が私の中で時々混同されます。)

言葉はすべて、

意識の中に存在しています。

意識の中に存在しているものはすべて、

時間と空間という識別装置の中でしか

存在しないわけです。

マハラジの言い方では、

──────────────────
  あなたが
  知識として得ることができるすべてが
  観念的レベルにある
  ──
  あなたが対象的見かけとして
  得るだろう知識のことだ。
  そういった知識は、
  いかなる意味においても、
  「無知」と違わない。
  なぜなら、
  知識と無知は観念レベルにおける
  相互関連する正反対のものだからだ。
  言い換えるなら、
  マインドのレベルでの理解は
  観念化を意味し、
  それゆえ、
  完全に幻想である。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p299)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

【マインドのレベルでの理解は
 観念化を意味し、
 それゆえ、完全に幻想である。】

まあ、

こういうツレナイ話になります。(^_-)

ラマナ・マハルシは

「知性(ブッディ)とは何か?」

と問われて、こう答えています。

──────────────────
 思考あるいは識別の機能です。
 それらは単なる名前でしかありません。
 自我、心、知性、それらはみな同じものです。
 誰の心でしょう? 
 誰の知性だと言うのでしょう? 
 自我のです。
 自我は実在でしょうか? 
 いいえ。
 私たちは自我を取り違えて
 知性や心と呼ぶのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話1』p379)
──────────────────

(>_<)

おしなべて、

こういう方々はツレナイですね。(*^_^*)


  ………○………○………○………

──────────────────
●2点目:究極の暴虐について
──────────────────

そしてもう一点、

Kubo さんの今回の文面から

連想されたことをご紹介したいと

思いました。

> もし我々が快感と幸福がずっと続く世界にいるのなら、
> 誰が「解放」を求めるでしょう。

という Kubo さんの言葉を読んで、

浮かんできた連想です。

ミナミAアシュタールの言葉から察するに

外宇宙というか通常の現象世界では、

誰も「解放」などは求めていない

のかもしれませんね。

元々「自由」であることが

あまりにも当然の社会に生きている

わけでしょうから……。

Kuboさんはこう書いていますね。

> それではなぜこのような世界が生まれたのか?
> それこそpariさんが紹介してくださった
> ミナミAアシュタールの
> テラという惑星に仕組まれた
> 強烈なマインドコントロールと
> レプティリアン(?)自身の手になる
> DNA操作で創造された奴隷種族が我々地球人なのだ
> と説明されれば、理屈は通りそうです。
> しかしこの物語はいかにもハヤカワノベルズの
> SFに出てくるような内容ですね。
> これも夢の中の一つのヴァリエーションだと言えば
> それまでですが、
> この説明は根本的な問いには応えていません。
> 人間は実は機械に繋がれた電池だったのだと言わて、
> ここから解放される映画「マトリックス」と
> たいして変わりません。
> この映画の続編が出されるごとに
> つまらなくなっていくのは、
> 結局解放されるための戦いも、解放されたあとも、
> 解放される前の仮想現実から
> 基本的なパラダイムが変わっていないからです。
> (空を飛んでも弾丸を避けても。)

ラマナ・マハルシの弟子に

プンジャジという方がいます。

パパジの愛称で知られる方です。

福間巌さんが翻訳された

『覚醒の炎』というこの方の本があります。

この本の中のどこかでプンジャジが、

この現象世界という夢から目覚めるという話は

他のどの星の転生でも聞いたことがない、

という意味のことをおっしゃっていました。

つまり解放を求めざるをえないような

それほどの閉塞感というか束縛を

他の惑星では体験できないのかもしれません。

このテラという星は外宇宙からすれば

一種のブラックホールにも当たるような

世界らしいのです。

pariがこういうたぐいの情報に初めて接したのは

1994年に発行された

バーバラ・マーシニアックのチャネリング本

『プレアデス+かく語りき
 ――地球 30 万年の夜明け――』
https://tinyurl.com/4fw3ckks

という本からでした。

「本棚」
https://www.ascensionkan.com/books/index.html

ではこんな紹介文を書いています。
https://www.ascensionkan.com/books/pleiad+1.html

この本の

「第8章 究極の暴虐の及ばないところ」は

次のように書き出されています。

──────────────────
 社会における究極の暴虐は
 戒厳令による支配ではありません。
 意識を心理的に操作することによって
 支配することこそ究極の暴虐です。
 意識を心理的に操作して、
 現実を規定し、
 その現実の中にいる存在は
 自分が檻の中に閉じ込められていることすら
 気がつかないのです。
 このような状況の中にある人々は、
 彼らが存在する場所の外に
 何かが存在するということすら知りません。
 私たちは、
 あなた方が教え込まれてきた存在の枠組みの
 外側にあるものを代表しています。

 『プレアデス+かく語りき』(p126)
 https://tinyurl.com/4fw3ckks
──────────────────

この文章を初めて読んだときは

pariはそれなりに理解したつもりでした。

しかし当時は

そのリアリティが本当に伝わっては

いなかったと思われます。

次にこのたぐいの情報に接したのは、

ほとんど同じころ翻訳出版された

ロバート・A・モンローの

『魂の体外旅行――体外離脱の科学――』
https://tinyurl.com/tdr942nm

という本からでした。

この本の「第十二章 伝聞証拠」を読んだときは、

その情報の消化・吸収にしばらく時間がかかりました。

そこには「ルーシュ」という実験作物の

自然発生とその拡大安定生産に至るまでの過程が

綴られていました。

著者のロバート・モンローは、

このルーシュについての情報に順応するまでに

数ヶ月を要したと書いています。

「本棚」ではこんな紹介文を書いています。
https://www.ascensionkan.com/books/journeyf.html

pariの場合は

その情報を自分で得た著者とは

ショックの度合いも違うでしょうから、

数ヶ月はかかりませんでしたが、

それでもこの情報を飲み込むのに数週間は

かかったことを覚えています。

この情報は他の誰かに伝えられる

というものでもありませんでした。

そして誰からだったか、

グルジェフの

『ベルゼバブの孫への話
  人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』

にもこのルーシュについての話が

埋め込まれていると聞いたことがあります。

後年、平河出版社から浅井雅志さんの翻訳が

出版されたとき買って眺めてみましたが、

この難読書の中で該当箇所を特定するだけの

エネルギーが続きませんでした。

しかしその後、

なんやかやいろいろあって、

そしてマハラジの

『私は在る』に出会ってから、

そういう話からは離れるようになりました。

こういう過程で非二元論に触れるようになり、

今ではこういう体験の流れを決定している

pariという独立した実体があるとは、

まったく思っていません。

このように流される道具として、

pariの身体が誕生したのだろうと

思っています。


──────────────────
●3点目:「仏教の輪廻転生」ということ
──────────────────

> 仏教思想ではこの苦しみの世界を
> 輪廻転生する世界と呼び、
> 輪廻からの解放を解脱と呼んでいます。
> ラマナ・マハルシもニサルガダッタも
> この系統の中にいます。

ええと、ここはだいぶ

大雑把なお話になっているので

ちょっと整理しておいたほうが

いいかもしれません。

【仏教思想ではこの苦しみの世界を
 輪廻転生する世界と呼び】

確かに、世の中の“仏教思想”は

そういうふうに言えるかもしれませんね。

しかし、

ゴータマ・ブッダ(釈尊)が

輪廻転生をまったく否定していることは

歴史的な事実であることにも

留意しておく必要はあるかもしれません。

そのことはラマナ・マハルシも

認めている事実ですから。

> ラマナ・マハルシもニサルガダッタも
> この系統の中にいます。

この文面がどういうニュアンスなのか

はっきりしませんが、

ラマナ・マハルシやニサルガダッタが

輪廻転生からの脱出方法を指導している

という意味に取るなら、

これはちょっと語弊のある表現に

なると思います。

現に、マハラジはいつも、

「誰が転生するのか教えてほしい?」

と言っているわけですものね。(*^_^*)

──────────────────
 (夢からの)出口の必要はないのだ!
 出口もまた夢の一部分だということが
 わからないのだろうか?
 あなたがするべきことは、
 夢を夢として見ることなのだ。
 
 どこであろうと、
 それが導くところ、それは夢だ。
 夢を超えていこうとする考えそのものが
 幻想なのだ。
 なぜどこかへ行かなければならないのか?
 あなたはただ世界という夢を見ているのだ、
 ということを悟りなさい。
 そして、出口を探すのはやめなさい。
 夢があなたの問題なのではない。
 問題は、
 あなたが夢のなかのある部分が好きで、
 別の部分が嫌いだということだ。
 すべてを愛すがいい。
 あるいは何も愛さないことだ。
 そして不平を言うのはやめなさい。
 あなたが夢を夢として見たとき、
 為すべきことはすべて為し終えたのだ。
 
 『私は在る』(p135)
──────────────────

マハラジはこうおっしゃっています。

今回はいろいろ勝手に

つまみ食いさせていただきました。

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


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■ 2.いただいたお手紙から:Kubo さん
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   ………○…………○…………○………


今回も、Kuboさんからご投稿をいただきました。

ご返答できる部分は上の方で使わせていただきました。

全体がかなり長いものですから、

全文はこちらの方でご紹介いたします。

【件名】:
──────────────────
 Pariという呼び名のたぶん夥しい読書量と
 精神世界において思索を重ねられた方がおられ、
 その方がそれらを我々に
 シェアしてくれているのはありがたいことです。
 失礼な言い方をお許し願えれば、
 ちょっと突けばいっぱい出てくるといった感じ。
 調子に乗ってもう少し
 突いてもよろしいでしょうか。
 逆に認知症寸前の私が理解していることを
 だらだらと書けば、
 ツッコミどころがいっぱい出てくるはず。
 これは大いに助けになります。
 
 前回のメールで三次元仮想現実及び意識について
 とても明快な説明(海辺の家)をしていただきました。
 よく言われるのは、物質だけであれば、
 まるで台風の後に突然ジャンボジェット機が
 現れるのと同じような状況を
 科学者は説明しなければならないということです。
 
 自省的<意識>の表現=物質過程
 
 なぜここでOSHOは
 「自省的」という言葉を加えたのでしょうね。 
 
 それはともかく、
 娘にそのことを話すと、
 「それは納得できる。
  で、だから、どうなるの?
  どうすればいいの?」
 ということ。
 その意識の意図を知らなければ
 当然こういう問いが現れてきます。
 つまり、
 このことを認めることで我々は実に
 様々な問いを抱かざるを得なくなります。
 意識を認めなければ
 ただ唯物的に起こることを観察記述し、
 予想するだけです。
 
 ジャンボジェット機が作られた意図は
 はっきりしています。
 より多くの人々をより速く、
 より安全に移動させるという意図です。
 意識があり、
 そこに意識によって物質が現象するとしたら、
 そこには意図があるはず。
 それは何なのか?
 つまり意識によって我々の世界は
 造られていることが明白であっても、
 その意識の意図を知らなければ、
 我々は何も知らないと同じです。 
 DNAの二重螺旋構造には明確な意図があります。
 それは複製を効率的に作り出すという意図です。
 その奥には自分の種を存続させる、
 つまり
 「生きなければならない(Pariさんが言われた)」
 という意図があります。
 盲目的な生存意志(ショーペンハウエル)が
 この世界をまさに盲目的に、
 強引に突き動かしているということになります。
 
 ということは、
 
 「意識」=盲目的な生存意志
 
 ということになりませんでしょうか。
 ニサルガダッタはさらにこの意識の奥に
 「純粋な気づき=わたしは在る」を
 見るのだと思います。
 これには意図がないのかもしれません。
 これが私の理解ですが、
 違っていたら教えてください。
 (無意識、意識、マインド、スピリット、
  個我、真我、気づき、わたしは在る、
  アートマン、ブラフマン、
  これらの単語が私の中で時々混同されます。)
 
 ところで、
 我々が「生きてる」と感じる最も強烈な時、
 別の言い方をすれば、
 生きているという現実を意識する時はいつでしょうか?
 それは体に痛みがあるとき、苦しみがあるときです。 
 我々は幸福の絶頂にいる時は、
 現実感よりも「夢のようなひと時」を感じます。
 その意味でも
 苦痛は盲目的な生存意志の実に強力な協力者です。
 我々は苦痛により、
 また苦痛に対する恐れより、
 苦痛が行き着く先の死より、
 盲目的生存意志を発動させ、
 現実に引き戻されます。
 盲目的と言ったのは
 我々の好むと好まざるとに関わらず、
 善悪を考慮せず生存意志が発動するからです。
 
 「解放」という言葉はここから端を発しています。
 もし我々が快感と幸福がずっと続く世界にいるのなら、
 誰が「解放」を求めるでしょう。
 仏教思想ではこの苦しみの世界を輪廻転生する世界と呼び、
 輪廻からの解放を解脱と呼んでいます。
 ラマナ・マハルシもニサルガダッタもこの系統の中にいます。
 解放されるべき世界、
 だからそれは三次元仮想現実
 (つまり本当のあるべき真実ではない世界)
 でなければならないのです。
  究極的な解放はニサルガダッタが言うように
  「何も起こっていない」と言えることです。
 
 それではなぜこのような世界が生まれたのか?
 それこそpariさんが紹介してくださった
 ミナミAアシュタールの
 テラという惑星に仕組まれた
 強烈なマインドコントロールと
 レプティリアン(?)自身の手になる
 DNA操作で創造された奴隷種族が我々地球人なのだ
 と説明されれば、理屈は通りそうです。
 しかしこの物語はいかにもハヤカワノベルズの
 SFに出てくるような内容ですね。
 これも夢の中の一つのヴァリエーションだと言えば
 それまでですが、
 この説明は根本的な問いには応えていません。
 人間は実は機械に繋がれた電池だったのだと言わて、
 ここから解放される映画「マトリックス」と
 たいして変わりません。
 この映画の続編が出されるごとに
 つまらなくなっていくのは、
 結局解放されるための戦いも、解放されたあとも、
 解放される前の仮想現実から
 基本的なパラダイムが変わっていないからです。
 (空を飛んでも弾丸を避けても。)
 
 これも一つの物語に過ぎないのですが、
 イエスが語ったとされる
 「放蕩息子のたとえ話」があります。
 
 長者の息子が親なしで自由に生きることを夢見て
 故郷を捨てて街に行きますが、
 結局そこで放蕩の限りを尽くして無一文となり、
 貧困のどん底に喘ぎます。
 そして進退窮まって、
 また父親のもとに還ろうとする話です。
 父の元から離れることが分離、
 二元性の始まりであり、
 都会が今の我々の三次元仮想現実を象徴し、
 この世界からの解放が父への回帰、
 一元への復帰となります。
 親が遠くからこちらに向かって歩いてくる
 乞食のような息子を見かけ、
 走っていって息子を抱きかかえる描写は
 何度読んでもグツと来ますね。
 たぶんこれを話したイエスが
 実際に体験していることであり、
 我々もほんの少しでもどこかで
 体験しているからなのかも知れません。
 ここにはこちらからの働きと
 恩寵の働きの両方が同時に存在します。
 ニサルガダッタもこんなことを言っています。
 
 あなたが突き進むにつれて、すべてはやってくるだろう。
 まず第一歩を踏み出しなさい。
 すべての恩寵(おんちょう)はあなたの内側からやってくる。
 内面に目を向けなさい。
 あなたは「私は在る」ことを知っている。
 自発的にそこへ戻ってくるようになるまで、
 もてるかぎりの時間をそれとともに在りなさい。
 それ以上やさしい方法はないのだ。
 
 さて、ここまで来ても、
 「なぜこのような世界が生まれたのか?」の問いには
 一向に答えていないことがわかると思います。 
 ここらへんで、
 この問いそのものを吟味しなければならないのかも知れません。
 
 まず、我々はなぜ「なぜ?」と問うのでしょう。
 逆にこのなぜ?に対する
 納得したと思わせる答えはなんでしょうか?
 それは「あなたはなぜ傘を持ってきたの?」
 それは「今日天気予報で雨が降ると言っていたからだよ。」
 と答えるように、
 「なぜ?」に対する答えは
 その現象の原因と目的が明確に示された時です。
 この場合、
 原因は今朝の天気予報で、
 目的は雨に濡れないためです。
 つまり「なぜ?」には原因と目的が対応しています。
 この原因と目的がわかれば、
 我々はわかった気がします。
 
 ところが、原因と目的が本来無いものは、
 「なぜ?」の問いかけに答えらません。
 「ありてあるもの」という聖書の中に出てくる
 神の記述はこれに当てはまります。
 ニサルガダッタの言う
 「私は在る(I am that.)」がそれに当たります。
 ここには空間と時間がありません。
 ですから物語もないのです。
 
 それでも昔から多くの人が
 この「なぜ?」に答えようとしてきました。
 その中の一つとして、シモーヌ・ヴェイユや、
 最近ではロバート・シャインフェルドなどの
 スピリチャル系の人が言っているのですが、
 それは神という空間と時間を超越したすべてのことが
 全能の存在が敢えて自分に制限を与え、
 重力に象徴される空間と時間を創ったのだということです。
 だからこの世に制限や苦しみがあるのは
 最初から意図されたことなのだと説明します。 
 こうなると先ほどの放蕩息子は神が仕組んだことであり、
 この仮想現実から神のもとに還るのも
 想定済みということになります。 
 (神という表現は一元的には妥当ではありません。
  一元的には放蕩息子と神は同じです。)
 
 ところがこれすら根本的な「なぜ?」には答えていません。 
 そもそも絶対的、完全な存在である神が
 なぜ涅槃からわざわざそんなことをしでかしたのか!? 
 
 このように「なぜ?」はとめどなく続いていきます。 
 トリフソンに言わせればこの状況は
 「質問が、架空の問題を創り出し、
  質問によってその問題が解けるというふりをしている」
 のです。
 
 「その質問が、架空の問題を創り出し、
  質問によってその問題が解けるというふりをしている
  ことを認識することです。
  あなたは絶対に〈ここ・今〉の外に出ることは
  できないということを認識することです。
  この瞬間を、
  まったく今あるようにさせてください。
  あなたは何の選択もできないということを認めてください。
  あることは、あるようにあります。
  この「あちら」へ到達しようとする
  馬鹿げた絶望的な探求でさえ、
  〈ここ・今〉に現れている思考、感覚に他なりません。
  これもただの過ぎ去るショーで、
  瞬間的に消えるものです。
  それは誰のものでもありません。」 
 (トリフソン)
 
 しかしここで注意しなければならないのは、
 どうせこれも夢の中のゲームで、
 過ぎ去るショーなんだから、
 我々の脳に浮かぶあらゆる想念は
 この瞬間の波動シャボン玉の模様の一部に過ぎない
 といったところで
 生を投げ出してしまっているのではないということです。
 対岸の火事を見るようにではなく、
 むしろ生に親密になることだとトリフソンは言います。
 「あちら」へ到達しようとする馬鹿げた絶望的な探求でさえ
 〈ここ・今〉に現れている思考、感覚であり、
 親密さは少しも変わらないのです。 
 
 ですから、
 
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 というニサルガダッタの文章を読んで、
 「真我としてあることがなぜ〈至福〉なのか?」
 という架空の疑問が浮かんできたら、
 ここ、今の私にはニサルガダッタが私に真剣に、
 全力で自分の肉体精神機構を携えて
 検証してみよと教えているように思われます。 
 たとえこの質問によって疑問が解けるかもしれない
 というふりをしているだけだとしても、
 〈ここ・今〉に現れている思考、
 感覚であることは間違いのないことです。
 起こることは起き、
 あることはあるようにあるということなのでしょう。
 
 もしPariさんがこの文章を読んで、
 引っかかるところがあったり、
 新たな想念が引き出されるようなことがあったら
 教えてください。
 それもこの瞬間の波動シャボン玉の模様の一部ですが、
 貴重な一瞬です。
──────────────────

Kuboさん、ありがとうございました。

ここではちょっと私信的に

コメントさせてください。

> 自省的<意識>の表現=物質過程
> 
> なぜここでOSHOは
> 「自省的」という言葉を加えたのでしょうね。 

二十数年前に書かれたこの

『21世紀へ指導原理 OSHO』
https://amzn.to/2EOmyyg

という本の内容は

Oshoの引用と明示された部分以外は、

すべてpariが普通の意識で書いた文章です。

ここで「自省的」と書いたのは、

当時pariは

「自らを省みる」意識をもっている、

つまり自覚的に自分の存在を意識しているのは

人間だけだと思っていたからです。

ミナミAアシュタール情報によると

人間以外のほかの動物たちも、

それから植物たちも鉱物たちも、

すべて自分の存在を自覚していて、

自らこの星の生を選択しているんだそうですね。

> それはともかく、
> 娘にそのことを話すと、
> 「それは納得できる。
>  で、だから、どうなるの?
>  どうすればいいの?」
> ということ。

娘さんは

そんなふうに反応なさる方なんですね。

この

【で、だから、どうなるの?
 どうすればいいの?】

という言葉に対しては

いろいろな観念が立ち上がりますが。

さてどんな言葉が適当なのかとなると……、

わかりません。(*^_^*)

ただ、

「だから、どうなるの?」

ということを考える必要はなくて、

「自分はどうしたいのか?」

という想念を一度じっくり自分の中に

沈めてみてはどうでしょうか。

ハートが答えてくれるまで……。

マハラジたちが語っている

「非二元論」的観点から言うなら、

自分でどうこうできるという

分離した実体は存在しません。

夢の中の登場人物のわれわれとしては

そのときそうせざるをえなくて、

そうしているだけですから。

そのことを「行為者はいない」と

言ったりするわけですが。

……

Kuboさん

また何かお寄せいただければ、

なにか書かせていただくかもしれません。

ありがとうございました。

<(_ _)>


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■ 3.編集後記:
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少しずつ

自分が何をやっているのかが

わかってきつつあるようです。

断食が起こるまで。

暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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