home > 通信 >「私」がその【興味】だから:『アセンション館通信』第891号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/05/16(第891号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在504名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「私」がその【興味】だから

2.編集後記
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■ 1.「私」がその【興味】だから
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今日は晴天ですね。

すばらしい春の一日。

もうじき梅雨の季節が始まるようですね。

この夢の中はいつの頃からか

ヒルが出るようになってきたので、

ちょっと鬱陶しい季節とも言えますが、

相変わらず飽きもせずに

恵まれた状況を夢見つづけています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

これまで何度もマハラジの

この言葉を引用してきました。

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 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしてそれは
 今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
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今になって、

この言葉の意味合いが以前感じたのと

少し変わってきたように思います。

> そしてあなたは
> その興味と闘うことはできないのだ。

以前はこう言われると、

なんか不甲斐ない自分が情けないような感じが

しないでもありませんでした。

“自分(見かけの中の身体)”への一体化が

それだけ強かったということでしょう。

いまだって“自分”への一体化は

しょっちゅう起こっていることでしょう。

でも、それをどうできる

“自分”がいるわけでもないという修正は

ほとんど自動的に入ってきます。

そして気がついたら、

> そしてあなたは
> その興味と闘うことはできないのだ。

という言葉の意味合いが

少し以前と違ってきたような気がします。

それはほとんど

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 あなたが見ているものは、
 ほかでもないあなたの自己なのだ。
 あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。
 それが事実を変えることはない。
 運命(プラーラブダ)のフィルムを通して、
 あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。
 あなたはそれを鑑賞する人であり、
 光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。
 運命のフィルムさえも自ら選択され、
 自らに課されたものだ。
 その精神は障害を乗り越えることを楽しむ
 ひとつの競技だ。
 その努めが困難なほど、
 真我の実現はより深く広いものとなるのだ。
 
 『私は在る』(p498)
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と同じような意味合いと

感じられるようになりました。

つまり「私」は

自分がいまフォーカスしている【興味】が

展開する世界を見ているわけです。

Google検索に興味のあるキーワードを

【クエリとして】入れて、ググれば、

瞬時に何らかの回答が現れます。

そこに現れる情報群は個人の記憶の範囲を

遥かに超えるデータベースから検索されてきます。

なるほど……と感心させられる。

寝ているときに観る「個人的な夢」では

その画面が個人の記憶データベースから

アニメーションされて展開されます。

目が覚めてから考えても、

“自分”以外の誰も

その夢を見ないであろうとは自明にわかります。

しかし、

起きてから観るこの白昼夢の世界は、

“自分”という個人の記憶データベースから

抽出展開されるものではありません。

もっとずっと膨大な宇宙的既知データベースから

抽出・塩梅されて瞬時に展開されている。

だからその知覚の対象物の振る舞いを

興味をもって眺めているかぎり

その展開のパターンを見破ることなど

まずは起こるはずもないわけです。

しかし眼前に展開される現実が

「私」がフォーカスする【興味】が

磁力となって展開されていることは間違いない。

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 結局、あなたの法則ではなく、
 それ自体の法則に従って去来する想念を離れて、
 マインドというものは存在しないのだ。
 ただあなたが興味を持つために、
 マインドに支配されてしまうのだ。
 まさにキリストが、
 「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
 悪に抵抗することで、
 単にあなたはそれを強調してしまう。
 
 『私は在る』(p366)
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眼前に展開される現実が

「私」の【興味】から出現してくるのは間違いない。

そして眼前に展開される世界は、

「あなたの法則ではなく、
 それ自体の法則に従って去来する」わけですから。

身体に一体化した個人はその展開を知りません。

でも、それを呼び出しているのが

「私」の【興味】であることは確かです。

だからこそ、

その興味と闘うことはできない「私」は、

「それとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならない」わけです。

なぜ「その興味と闘うことはできない」のかというと、

「私」が「その興味」にフォーカスしているからです。

ある意味では、

その【興味】が「私」だからです。

「私」が現象にフォーカスして、

知覚の対象物として顕現するものに

【興味】をもちつづけるかぎり、

Googleの検索窓に

【クエリ】を入力してググり続けたのと

同じことが起こりつづけるでしょう。

絶えず【クエリ】に対応した

回答の出力画面が表示され続けることになる。

もちろん、その出力画面は

“わたし(身体に一体化した個人)”の法則ではなく、

それ自体の法則に従って去来するわけなので、

“わたし”はあるときは納得し、

あるときは感心し、

別のときには圧倒されて、

いずれにせよ結局は翻弄されつづけます。

地球上の情報空間を集積統合して

検索システムを構築したGoogleを、

“自分”とは別の実体と見なすように、

“自分”の【興味】に応じて

知覚の対象物を塩梅・演出する者を

“自分”とは別の実体と見なすなら、

それは“神”などと呼ばれるのかもしれません。

しかし“自分”が

【見かけ】の中の身体という知覚の対象物に

一体化した観念的虚構にすぎないなら、

“神”などという“実体”が存在するはずもありません。

“自分”が存在しないことが自明になれば

その片割れである“神”も消滅するしかなく、

【見かけ】を演出しているのは

自らを惑わせて遊んでいる

「私」以外ではありえません。

「私」は永遠に「私」を迷わせて遊んでいる。

「私」が「私」を迷わせるには、

「二元性の原理」に基づく虚構の分裂を想像し、

自らを分割して現象を展開するしかありません。

かくて展開された無限の森羅万象は

時空的観念で構成された一大データベース、

「意識」あるいは「無限の既知」として

蓄積されることになります。

この「無限の既知」データベースに対する

「検索・知覚・解読・解釈・顕現」用の

超高性能バイオコンピュータ(VRゴーグル)が

「私」の【身体】というわけでしょう。

> あなたはその興味と闘うことはできないのだ。

それは「その興味」こそが「私」だからです。

「私」が現象する既知(意識)に【興味】をもつかぎり、

「私」はまたこの不毛な虚構の旅に

出かけなければならないのです。

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  目覚めないし悟り、解放は、
  私たちの本質
  ──今−ここに−あるもの──は、
  想像可能な、あるいは、
  認識可能なものの絶対的不在である。
  つまりそれは、
  不可知な潜在可能性の絶対的存在と
  同じであることを
  直感的に深く理解することに他ならない」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p269)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
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(-||-)

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 在ることを試みなさい。
 ただ在りなさい。
 重要な言葉は「試みること」だ。
 一日のなかで、
 充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
 
 『私は在る』(p528)
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(-_-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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相変わらず

土曜日のマインド無礼講のなかでばかり

元気になっていますが、

かと言って元気になっている実体は

観念以外には存在していません。

知覚の対象物が迷ったり苦しんだりするとき、

「私」は何がしかの興味(慈悲)をもって

それを映し出しているのでしょう。

しかしその「私」が純粋になったとき

もはやそれを映し出すことはないのでしょう。

今日は明るいうちに終えました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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