home > 通信 >素粒子間自律ネットワーク?:『アセンション館通信』第892号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/05/23(第892号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在504名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.素粒子間自律ネットワーク?

2.編集後記
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■ 1.素粒子間自律ネットワーク?
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今日は晴天というには

ちょっと日が出ていない。

まあいいじゃないですか、という感じ。

相変わらず飽きもせずに

恵まれた状況を夢見つづけています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

あなたはエゴとしてのアイデンティティを

まったく疑うことなく維持してますか?

それともそれほどの真面目さは

もう維持できなくなった感じですか?

土曜日になるとこうして

たいていマハラジの言葉を読むのですが、

土曜日のこんな気分の中では、

マハラジの言葉にもう違和感は湧きません。

とはいえ、

普段マインドが立ち上がってこないような

状態にいるわけでもありません。

だからいまだにこうして、

マハラジの理解に近づきたくて、

物欲しげにメルマガを書いています。

もちろん、

わかっていることもあります。

足りないのはノーマインドに浸る時間です。

マインドに対する興味が消滅していたら、

特にすることがなければ

ノーマインドに吸い込まれるでしょう。

ところがこうして、

せっかくの休日にメルマガを書いていたりする。

誰が誰に対して何をしようというのか?

ふ。

たとえば、

ミナミAアシュタールの言葉は、

これからの世渡りという意味では、

とても役に立つ理解だと思います。

正直、生き下手な登場人物として

誕生させられたらしいこの身体は、

とても助かりました。

しかし、かと言って、

自分がご機嫌さんでいられる

この身体でのこれからの人生に興味をもつ……

というようなことも

どうも起こりそうもありません。

まあ自然に任せるしかなさそうです。

そんな感じが湧いたとき、

こうしてこの夢の中で起こる見方と、

マハラジの理解とは何が違うのだろう?

と思われたりもするのです。

決定的な違いは、

マハラジの言葉は無心から出てきており、

pariの言葉はマインドが紡いでいる、

ということはわかった上での話ですが。

さて、それは理解した上で、

マハラジの言葉が表明している理解と

ここに起こっている理解との間には

まだまだ詰められるギャップがあるのでは?

とも思われるわけです。

そう思っては毎回こうして言葉を紡いでいます。

そんなわけで今日は、

【33 認識する人は誰もおらず、
   ただ認識することだけがある】

という短い章をご紹介しましょう。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 33 認識する人は誰もおらず、
   ただ認識することだけがある
 
 
 ある朝、
 訪問者が「私は知りたいと思います……」
 と自分の質問を始めたとき、
 マハラジは笑い始め、
 マラティ語の通訳を待たずに、
 「私──それは誰だ?」と
 英語で質問して切り替えしました。
 それから、
 その冗談を非常に楽しんで、
 彼は母国語であるマラティー語に戻り、
 言いました──
 私があなたに伝えようとしているこれは、
 実に、非常に単純なことだ。
 聞いているとき、もし「自分」を
 わきによけることさえできるなら、
 あなたもまたそのことを発見するだろう!
 私の言うことを意図的に理解しようと努力する、
 想定されている自立した実体がいるかぎり、
 本当の理解は問題外であることを
 あなたが覚えてさえいれば。
 形而上学的啓示の理解は、
 問いかけるオープンな
 「空っぽ」なマインドを前提として、
 その中にそういった直感的理解が入ってくる。
 どんな「独立した」実体も
 観念に満ちた条件付けられた
 マインドを示していて、
 それゆえ、
 私が授けたいと思っている
 どんなことの入場も拒むのだ。
 私の言うことが理解されたかどうか疑問だが!
 
 私は言葉を使い、
 あなたはそれらを聞いていても、
 主体と対象物がそれを聞くことの中で
 融合するときだけ受容は可能になる。
 まず最初に、
 話したり聞いたりする人がいるのか、
 それとも単に「機能」
 ──話すこと、聞くこと、
   理解すること、経験すること──
 があるだけなのかを調べてみなさい。
 
 あなたが「実存している」何かを考えるとき、
 形をもった対象的な何か
 という観点で考えるだけだ。
 あなたは対象的現象だけに関心があるが、
 それに対して私は、
 あなたも含めたすべての対象物を
 意識の中の見かけにすぎないものとして見ていて、
 それゆえ、
 実存していないものとして見ている。
 そして、主体性それ自体は
 どんな対象的質ももたないために
 明らかに実存することはできない。
 では、何が実存しているのか?
 実存というようなものも
 非実存というようなものもありえないのだ!
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p197-198)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

マハラジが突然笑い出すようなときも

そりゃ、あるでしょうね。(^_-)

とはいえ、それは本筋の上でのこと。

> 私があなたに伝えようとしているこれは、
> 実に、非常に単純なことだ。

それはマハラジにとっては、

実に自明の単純なことです。

ただし、それが単純なのは、

> 聞いているとき、もし「自分」を
> わきによけることさえできるなら、

というわけです。

しかも、

> 私の言うことを意図的に理解しようと努力する、
> 想定されている自立した実体がいるかぎり、
> 本当の理解は問題外である

というのですから、いやはやです。

まず人間はほとんどすべて

自分は独立した実体だと思っているので、

そういう普通の前提で

マハラジの言葉を理解しようと、

聞き耳を立てていたのでは

理解など問題外だというのですから、

敷居はメチャクチャ高い。

> まず最初に、
> 話したり聞いたりする人がいるのか、
> それとも単に「機能」
> ──話すこと、聞くこと、
>   理解すること、経験すること──
> があるだけなのかを調べてみなさい。

ます、この

「話す当人」「聞く当人」など

存在しえない……ということを、

(たとえ、論理的にだけでも)

疑問の余地なく納得できるかどうかを

ここでちょっとダメ押ししておきましょう。


  ………○………○………○………


●【“自分”は主体ではありえない

  ことの論理的理解】

(1)マハラジの説明


もし、マハラジがよく使う説明で

納得できるなら、論理的には

それで一巻の終わりです。

つまり、

「話す当人」「聞く当人」といった

“自分”が一体化している身体感覚や

湧いてくる思考・観念・想念は、

知覚の対象物だということ。

そして知覚の対象物である以上

それは知覚されるモノであって、

(「話す当人」「聞く当人」といった)

知覚の主体ではありえない……

という論理的理解です。

これが完全に自明だと納得できるなら、

知的理解に関しては終わりです。


  ………○………○………○………


上記の説明がいまいち腑に落ちない場合、

現代における科学的知見という

次のような方便もありえます。


●【“自分”は主体ではありえない

  ことの論理的理解】

(2)「物質」の素粒子的原子イメージ


あなたが

“自分”は身体という実体として

存在していると考えている場合、

その身体が物質であることに

たぶん異論はないだろうと思います。

身体は細胞で構成されており、

細胞は原子で構成されているという概念も

たぶん共有されているでしょう。

そして、おそらくですが、

現代の素粒子論による原子イメージについて

聞いたことがあるのではないでしょうか。

現代の量子物理学者によると、

原子の

99.9999999999999%が

空洞だそうです。

身体を物理的実体として想定している場合、

もちろんそれは

(身体の体積の)空間の意味ではなく、

目に見える身体のことだと思います。

ところがこの目に見える身体は、

見かけの身体の

0.0000000000001%、

10兆分の1の質量しかない存在しないらしい。

となると、

この身体が全体から分離した独立実体だとすると、

この身体内の10兆分の1の質量の素粒子たちが、

確立の雲の中で飛び跳ねながら、

独自の素粒子ネットワークを構築して

そこネットワーク内での情報交換で

身体という実体を物理現象として顕現・運営し、

かつ同時に想念を生成し、それを

他者の身体の10兆分の1の質量の素粒子たちと

キャッチボールしながら情報交換して

ドラマを実演している……、

というような曲芸を実演している

ということになるわですが……。(-_-;)

はてさて、

そもそも素粒子間のネットワークで

はたして1ビットの情報の受け渡しですら

可能なのかどうか?

その素粒子間のネットワークの動きを

いったいどの素粒子が取りまとめて、

調整・制御・指揮するんですか?(?_?)

それに個々の素粒子には

情報の発信・受信機能は備わっているのかしら?

素粒子ってそういうもの?(?_?)

うーむ。(-_-;)

いや、そりゃ、無理でしょう。(*^_^*)

……と考えて、

全体から分離した

独立実体としての“自分”という観念は、

ちょっと無理筋だな……と

納得する手もあるかもしれません。


  ………○………○………○………


> あなたが「実存している」何かを考えるとき、
> 形をもった対象的な何か
> という観点で考えるだけだ。

たしかに、われわれは

いつも知覚に訴える感覚的・対象的な

姿・形・形象ばかりを気にしていますよね。

> あなたは対象的現象だけに関心があるが、
> それに対して私は、
> あなたも含めたすべての対象物を
> 意識の中の見かけにすぎないものとして見ていて、

まさに、すべての対象物は、

意識の中の【見かけ】にすぎないもの

としか見えなくなってきました。

> それゆえ、
> 実存していないものとして見ている。

どうやら実体としての“自分”など

実存していない感じがしてきますね。

“自分”がいないのだから

“他人”もいるはずがないし。

> そして、主体性それ自体は
> どんな対象的質ももたないために
> 明らかに実存することはできない。

なるほど、

絶対的主体性は、

実存するという言い方はしないわけですね。

実存というのは対象的質を伴った

実体として存在するという意味なのか……。

> では、何が実存しているのか?

はい。

> 実存というようなものも
> 非実存というようなものもありえないのだ!

ははは。

それはわかりやすい。(*^_^*)

──────────────────
 少し前に質問した訪問者に戻ることにしよう。
 彼は自分自身を「より良い個人」
 ──賢者、ジニャーニ──
 に変容させてくれるようなある種の知識を求め、
 おそらく苦労して
 かなりの費用をかけてここへやってきた。
 で、
 私がなぜ笑わざるをえなかったのかを
 あなたは理解しただろうか?
 ──彼のことではなく、
 マーヤー(幻想)が
 彼女の幻想を通じて仕掛けたトリックを。
 
 少しの間、考えてみなさい。
 ある状態から別の状態へと変わるという
 変容という観点、
 自己改善という観点で誰が考えているのか?
 もちろん意識の中の見かけ、
 映画の中の登場人物、 
 夢の中の個人に他ならない──
 夢見られた偽実体が
 自分自身をカルマの働きに従属している
 と見なしているのだ。
 どうやって夢見られたそんな登場人物が
 自分自身をその夢見られた自己以外の
 何かへと「完成し」、
 仕立てあげることができるだろうか?
 どうやって影が自分自身を本体へと
 完成する」ことができるだろうか?
 夢見ているものが、
 夢ないし顕現の源泉の
 本当のアイデンティティを再解明する以外、
 どうやって
 夢からの「目覚め」がありうるだろうか?
 
 そして、「目覚め」とは、
 現象世界を個人的に認識する人はおらず、
 すべての現象の本質的性質と目的は
 単に現象を認識すること、
 つまり、
 この−今−ここにおける機能
 であることを理解することにある。
 つまり、
 感覚のあるあらゆる存在
 ──すべての経験の
   潜在可能性の源泉としての私──
 が、肉体精神装置を通じて
 見かけの宇宙を対象的に経験しているのだ。
 これがいったいどういうことなのかを
 理解するまさに最初の一歩は、
 分離した実体としての積極的意志をもった私
 という観念を放棄し、
 プロセスとして認識することと機能すること
 という受け身の役割を受け入れることである。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p198-199)
──────────────────

> 私がなぜ笑わざるをえなかったのかを
> あなたは理解しただろうか?
> ──彼のことではなく、
> マーヤー(幻想)が
> 彼女の幻想を通じて仕掛けたトリックを。

なるほど。

> 少しの間、考えてみなさい。
> ある状態から別の状態へと変わるという
> 変容という観点、
> 自己改善という観点で誰が考えているのか?

誰が考えているのか?(^_-)

> どうやって夢見られたそんな登場人物が
> 自分自身をその夢見られた自己以外の
> 何かへと「完成し」、
> 仕立てあげることができるだろうか?

(*-_-*)

> 夢見ているものが、
> 夢ないし顕現の源泉の
> 本当のアイデンティティを再解明する以外、
> どうやって
> 夢からの「目覚め」がありうるだろうか?

夢見ている「あなた」が夢から覚める。

果たしてそれ以外の

「目覚め」がありうるものだろうか?

> そして、「目覚め」とは、
> 現象世界を個人的に認識する人はおらず、
> すべての現象の本質的性質と目的は
> 単に現象を認識すること、
> つまり、
> この−今−ここにおける機能
> であることを理解することにある。

“素粒子の振る舞い”などという観念自体が

夢見ている【見かけ】のなかに空想された、

ひとつの概念的夢にすぎない。

> つまり、
> 感覚のあるあらゆる存在
> ──すべての経験の
>   潜在可能性の源泉としての私──
> が、肉体精神装置を通じて
> 見かけの宇宙を対象的に経験しているのだ。

「私は在る」という最初の想念が

自らの想像で生み出し森羅万象をつうじて

見かけの宇宙を経験している。

> これがいったいどういうことなのかを
> 理解するまさに最初の一歩は、
> 分離した実体としての積極的意志をもった私
> という観念を放棄し、
> プロセスとして認識することと機能すること
> という受け身の役割を受け入れることである。

“自分”とは

「私は在る」という最初の思考から流れ出す

空想世界の中に自然に滲み出す誤解にすぎない。

それは「私は在る」から自然に流れ出す

プロセスの一部としての

夢の中の役割なのだと受け入れなさい。

──────────────────
 では、
 いくつかの秘訣を与えることで
 あなた方を喜ばせてあげよう。
 私が何を言っても、
 あなた方は自分の「自己改善」コースを続け、
 「秘訣」を探し求め続けることを
 私は知っているからだ。
 だから、
 ノートを開いて、
 これから私が言うことを書き留めなさい。 
 
 (a)受動態で考え、
    話すことを習慣としなさい。
    「私は何かを見る」、
    「私は何かを聞く」の代わりに、
    「何かが見られる」とか、
    「何かが聞かれる」というように
    受動態に考えたらどうだろうか?
    そうすれば、
    その認識は現象的実体による
    行為にもとづくものではなく、
    出来事や起こることに
    もとづくようになるだろう。
    そのうちに、
    偽実体「私」は
    背景へ引っ込んでしまうことだろう。
 
 (b)夜寝る前に、
    およそ10分間、「あなた」は
    肉体−マインドの構造物ではなく、
    活動している意識であるという立場で
    体とマインドをくつろがせて過ごしなさい。
    そうすれば、
    睡眠中にこの考えが
    あなたの存在に染み入ることだろう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p199-200)
──────────────────

> 私が何を言っても、
> あなた方は自分の「自己改善」コースを続け、
> 「秘訣」を探し求め続けることを
> 私は知っているからだ。

経験者は語る。(^_-)

> (a)受動態で考え、
>    話すことを習慣としなさい。

(-||-)

> (b)夜寝る前に、
>    およそ10分間、「あなた」は
>    肉体−マインドの構造物ではなく、
>    活動している意識であるという立場で
>    体とマインドをくつろがせて過ごしなさい。

ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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樹木希林さんではありませんが、

『すべてなりゆき』ですね。

今日は暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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