home > 通信 >記憶が始まる前の「私」とは?:『アセンション館通信』第894号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/06/06(第894号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在504名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.記憶が始まる前の「私」とは?

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.記憶が始まる前の「私」とは?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

昨日の強雨のあと

今日は大部分雲に覆われた空には

ときどき青空が姿を現します。

昨日と違って温かいですね。

相変わらず飽きもせずに

恵まれた状況を夢見つづけています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

前回はラメッシ・バルセカールが

残してくださった

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

の中の【17 非現象と現象】の

前半部分をご紹介しました。

そこで知らされたのは、

マハラジが生涯をかけて

あたかも狩猟者が自分の獲物を追うように

【私は「私は在る」と知っている。
 そして私は一個の肉体をもっている。
 どうしてこのことが、
 私の知らないうちに、
 私の同意もなく起こりえたのだろうか?
 そして「私は在る」というこの知識とは何なのか?】

という大疑団を

絶え間なく追求していたことでした。

マハラジはまさに

ミナミAアシュタール的表現をするなら

自分が誰であるかを知ろうとする

絶対無限の存在そのものとして

純粋な問い自体に化していたわけです。

そしてその生涯をかけた追求の末に

マハラジは自分が到達した答えに

完全に満足しましす。

そこではっきりしたことは、

つづめて言えば次のことです。

普段“自分”と見なされているのは

「この身体」に他なりません。

しかしこの“自分”の身体は

他人や他の動物たちの身体と同じく、

ただ体験が起こるための

道具にすぎないことは明らかです。

わたしが本当に気にしているのは

肉体精神器官で起こる体験ですから。

では、

その道具である肉体精神器官は

それ自体で体験(意識現象)を

構成することができるのかとなれば、

いやそれは不可能です。

なぜなら肉体精神器官は

意識現象が起こるため道具であると同時に

それ自体が知覚の対象物であって

知覚する者ではありえないからです。

つまり肉体精神器官が

意識現象を起こしているのではなく、

意識が自らを現象として観るために

そのための道具として

肉体精神器官を創造しているのです。

肉体精神器官が

意識を所有しているのではなく、

意識が肉体精神器官を創造しているわけです。

肉体精神器官のなかで

最重要な要素がその「意識」、

そこで起こっている体験であることに

疑問の余地はありません。

肉体精神器官で実現されている要素で

いちばん重要なのは「意識」です。

その「意識」がなければ、

肉体精神器官だけでは何の役も果たせません。

現象宇宙は無数の形態を出現させては

消滅させています。

それは「意識」の顕現的側面です。

その顕現的側面は

その背後にある非顕現的側面によって

裏打ちされて実現しているわけです。

非顕現的側面なしには

現象という顕現的側面は実現しえません。

そしてその非顕現的側面は

けっして顕現的側面にはなりえない。

「私」とはこのすべての出来事の

単なる観照者にすぎない。

食物連鎖宇宙の中で何が起ころうとも、

それはただ肉体精神器官に影響するだけで、

「私は在る」の「私」には影響はない……。

というのが前回の内容でした。

では今回はそれに続いて

【17 非現象と現象】

の後半部分をご紹介しましょう。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

前回の部分に次いで

マハラジは次のように語ります。

──────────────────
 基本的にこれが私の知識の内容である。
 この現象世界で何が起きても、
 それは「私」としての自分から
 離れていることがいったん明確になれば、
 その他のすべての疑問も自ずと解消する。
 では、正確にどの段階で、
 私は自分の「実存」の知識を
 もつようになったのだろうか?
 「私は在る」というこの知識が私に来る前、
 私は何だったのだろうか?
 「私は在る」というこの知識は
 記憶にあるかぎり私とともにあり、
 おそらく
 この肉体が生まれた数ヶ月あとからである。
 それゆえ、
 記憶それ自身が「私は在る」というこの知識、
 この意識といっしょに来たにちがいない。
 それ以前の立場は何だったのだろうか?
 その答えとは、
 「私は知らない」である。
 それゆえ、
 私が何であれ知っているものは
 ──苦痛と快楽、昼間と夜、
   目覚めと睡眠を含めて、
   実に二元性と両極の全領域は──
 意識の中で始まりがあり、
 その中では
 片方がなければもう片方は存在できない。
 では再び、
 意識を起こる前の立場は何だったのだろうか?
 これらの相互関連する両極の物事は必然的に、
 相互否定、
 ユニシティ、
 全体性の中にだけ存在していたに違いない。
 これがその答えのはずだ。
 このユニシティこそ私の本質である。
 しかし、
 このユニシティ、
 このアイデンティティ、
 この全体性はそれ自身を
 知ることができない。
 なぜなら、
 その中には、見たり知ったり
 認識したりするプロセスに必要な、
 一つの対象物から分離した
 どんな主体も存在しないからだ。
 言い換えるなら、
 ユニシティないし全体性の原初の状態では、
 それを通じて知ることが起こる
 どんな媒介物も道具も存在しない。
 
 マインドはマインドを超えるために
 使われることはできない。
 目はそれ自身を見ることはできない。
 味はそれ自身を味わうことはできない。
 音はそれ自身を聞くことはできない。
 「現象」は
 非現象がなければ現象ではありえない。
 マインドの抽象化である
 観念化可能の限界が非現象、
 未知なるものの無限である。
 唯一の主体である非現象は、
 認識可能な対象物になるために、
 自分自身の内部で、
 しかし、
 見かけ上は外側に現象的に顕現しながら、
 自分自身を対象化し、
 宇宙を認識する。
 非現象が現象宇宙として
 対象的にそれ自身を顕現するために、
 空間−時間という観念が運動を開始する。
 なぜなら、
 対象物が認識可能となるためには、
 それらに体積を与えることによって
 空間内で拡大されねばならず、
 継続ないし時間の中で引き伸ばされ
 なければならないからだ。
 さもなければ、
 それらは認識されないことだろう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p107-108)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

「私」が確実に知ったのは、

「私」自身は知覚可能な出来事の中には

存在しえないということだ。

「私」自身はこのすべての出来事の

単なる観照者にすぎない。

知覚可能な現象世界に何が起ころうとも、

それはすべてただ現象世界の中にいる

肉体精神器官に影響するだけで、

観ている「私」には何の影響もない。

これが「私」が知ったことだ。


ではその「私」は、

いつ自分が「実存」するという

知識をもつに至ったのか?

「私は在る」という存在感が始まる以前、

「私」はいったい何だったのか?

「私は在る」というこの知識(感覚)は

記憶するかぎり「私」とともにある。

おそらくその感覚は

肉体精神器官誕生の数カ月後には

すでに始まっていたと推測される。

ということは、

「私は在る」というこの知識(感覚)は

記憶そのものと同じもの

と見なしていいだろう。

では、

その記憶が始まる以前の

「私」の立場とは何だったのか?

その答えは、

「私は知らない」だ。

ということは、

「私」が知っていることはすべて、

意識の中で始まっているということだ。

つまりそれは意識の内容物なのだ。

ならば、

「私」が知りうることはすべて

意識の内容物として

二元性の原理内で展開されている。

現象を知覚可能なものにするための

基本的な概念装置である

「時間−空間」の観念領域内で展開され、

そこで比較参照され、記憶される

観念的データだということだ。

それらは

苦痛と快楽、昼間と夜、目覚めと睡眠、

といった架空の分裂によって創造され、

架空の両極によって定義される。

それらは観念領域でしか存在できない。

それらの観念領域を定義している

想像上の両極は

実体をもって存在してはいないため、

両極を同時に実存させようとすると、

互いに相殺し合って消滅するしかない。

意識の内容物とはすべて

観念上の仮想の比較の中にしか存在しない

ただの観念にすぎないということだ。

では、

以上のことを了解した上で

再び問おう。

意識が起こる前の

「私」とは何だったのか?

意識の中の内容物、

それらの相互関連し、

相互否定する両極の観念は必然的に、

源泉である単一体、

ユニシティ、全体性以外の

どこにも存在してはいなかった。

それ以外に答えはありえない。

このユニシティこそが

「私」の本質だ。

だが、

このユニシティ、

このアイデンティティ、

この全体性は

それ自身を知ることはできないのだ。

なぜなら、

このユニシティ中には、

知覚過程や認識過程に必要な

対象物から分離独立した主体など

存在できないからだ。

言葉を換えると、

ユニシティ(単一体)という

源泉そのものの原初の状態には、

知覚過程を可能にするような

どんな媒介物も道具も存在しないからだ。

「現象」は「非現象」に支えられて

はじめて「現象」になりえる。

「現象」が存在できるためには、

その「現象」の定義が必須だ。

「現象」を定義するためには、

源泉であるユニシティの中に

潜在能力として存在している

意識の内容物(マインド)の抽象化である

観念化作業が必要なのだ。

その観念化の限界が非現象であり、

即ち無限なる未知なのだ。

唯一の主体である非現象が

自らを知ろうとするなら、

自分を認識可能な対象物にするしかない。

そのためには非現象は自らを

自分自身の内部で対象化し、

見かけ上は外側に現象的に顕現して

自分自身を宇宙として認識する。

非現象が自らを現象宇宙として

対象的に顕現するために、

空間−時間という観念が運動を開始する。

というのも

対象物が認識可能となるためには、

それらに体積を与えることによって

空間的に拡大しなければならず、

またそれを時間の中で引き伸ばさなければ

それらを認識することはできないからだ。

──────────────────
 ということで、
 私は今全体像をもっている。
 感覚のある生物は、
 見かけ上
 非現象が現象宇宙へと映し出される
 プロセスの中で非常に小さい役割しか
 果たしていない。
 それは、
 対象化全体の中の一つの対象物にすぎず、
 それ自体としては
 「私たち」は自分自身の本質をもっていない。
 それにも関わらず
 ──そして、
   この点が非常に重要なことだが──
 現象は、
 非現象とは別に創造された何かでも、
 また投影された何かでさえもなく、
 実に非現象が
 観念化ないしは対象化されたものである。
 言い換えるなら、
 その違いは純粋に観念的なものである。
 その観念がなければ、
 それらは分離することができず、
 現象と非現象の間に
 現実には二元性はないのだ。
 
 このアイデンティティ
 ──この分類不可能性──
 が理解への鍵、
 というより
 私たちの本質を直感的に理解する鍵である。
 なぜなら、
 もし現象と非現象の間の
 基本的融合が見失われれば、
 対象化と観念のぬかるみの中で
 行き詰まってしまうだろうからだ。
 いったん、
 非現象は私たちであるすべてであり、
 現象は私たちが分離した対象物として
 そう見えるものであることが理解されれば、
 どんな実体も
 私たちの本質に関係することはできない
 こともまた理解され、
 それゆえ、
 解放を必要とする実体という観念が
 ナンセンスなものと見なされることであろう。
 そして、
 「解放」がもしあるとすれば、
 まさに束縛と解放という観念からの
 解放であることがわかるだろう。
 
 私が「生まれる」前に、
 私が何であったかについて考えるとき、
 「私は在る」というこの観念が
 そこになかったことを私は知っている。
 意識がなければ、
 どんな観念かもないのだ。
 何を見ることが起こっても、
 それは一つの実体である人が
 主体対対象として見るのではなく、
 内部から見ることであり、
 すべての見ることの源泉から見ることである。
 それから、
 この「目覚め」を通じて、
 すべてを包括する絶対の全体性は、
 ほんのわずかな相対的不完全ささえも
 もつことができないことを私は理解する。
 だから、
 私は相対的には与えられた人生の寿命を生き、
 そして、
 最後にその終わりが来るとき、
 この相対的知識は
 絶対の何も知らない状態へと融合する。
 「私は知っている」と
 「私は、私が知っていることを知っている」
 というこの一時的状態が、
 そのとき
 「私は知らない」と
 「私は、私が知らないことを知らない」
 という状態に融合するのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p108-110)
──────────────────

かくて「私」は

今やついに全体像をもつに至った。

その全体像の中では、

これまで見かけ上の現象宇宙の中で

この上なく重要な意味をもつと

見なされてきた個々の肉体精神器官、

即ち感覚のある生き物たちは、

非現象が現象宇宙へと

自らを映し出すプロセスの中では

ごく小さい役割しか果たしていない。

それは対象化全体の中の

一つの対象物にすぎないのだ。

肉体精神器官自体としては

「私たち」に独自の本質はない。

現象とは

非現象が観念化されたもの、

あるいは対象化されたもののことだ。

現象と非現象の違いは

純粋に観念的なものにすぎない。

現象と非現象を分けているのは

観念化の作業にすぎず、

その観念がなければ、

両者は分離することすらできない。

現象と非現象の間には

実際は二元性は存在しない。

このアイデンティティの理解、

この分類不可能性の直感的理解が

「私」の本質を理解する鍵だ。

それを直感的に理解しないかぎり、

現象と非現象がじつは唯一の実在の

両面であることが見えなくなって、

対象化と観念のぬかるみの中で

迷子になってしまうことだろう。

だがひとたび

非現象こそが「私」であり、

現象とは

「私」が自らを観るために

対象物として分離したものにすぎない

ことが理解されれば、

知覚可能などんな実体も

「私」の本質には無関係であり、

解放を必要とする

どんな実体も存在しないことが

理解されるだろう。

もし「解放」があるとするなら、

それは束縛と解放という観念からの解放だ。

「生まれる」前に、

「私」が何であったかを考えるとき、

「私は在る」という

この観念がそこになかったことを

「私」は知っている。

意識がなければ、

どんな観念も存在しない。

知覚可能などんな出来事が起こっても、

それは一人の個人という実体が

主体となって対象物を見ているのではなく、

唯一の絶対的主体「私=非現象」が

自らを内部に対象化して

見かけ上の外在的対象物として

源泉から見ているのだ。

すべてを包括する絶対の全体性には、

ほんのわずかな相対的不完全性もありえない。

ゆえに現象宇宙の一部である

肉体精神器官としての私は、

与えられた見かけの人生の寿命を生き、

最後にその終わりが来るとき、

この相対的知識は

絶対の何も知らない状態へと融合する。

「私は知っている」と

「私は、私が知っていることを知っている」

というこの一時的状態が、

そのとき

「私は知らない」と

「私は、私が知らないことを知らない」

という状態に融合するのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ときどき

こんなことをしていいものだろうか?

という疑問がわき起こります。

しかし一方で

他者がいるというのは幻想にすぎない。

という思いも起こります。

何かを何かと比べるという判断が

すべて幻想であるのも確実です。

──────────────────
 解放への道には
 何も立ちはだかっていない。
 そしてそれは
 今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と
 闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

その興味こそが

「私」が映し出す“自分”ですから。

今日は暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2021 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡