home > 通信 >経験の中に経験者はいない:『アセンション館通信』第895号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/06/13(第895号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在504名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.経験の中に経験者はいない

2.編集後記
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■ 1.経験の中に経験者はいない
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眼前の光景が風に揺れています。

日差しも明るいです。

こうして言葉にした瞬間に

それは観念になってしまいますが。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

朝方まだ儚いころに

ベッドの中で目が覚めたまま

ぼんやりしている時間っていいですよね。

この時間は最高です。

目乞食が一向に抜けないpariの場合は

前夜、横に何か本を置いてあります。

手を伸ばし、本を取って開き、

寝たまま出てきたところを読む。

書いてあることはそのままわかります。

まったくそのままわかります。

まったく疑問の余地もないことが

書いてあるだけですから。

目乞食の方は

試してみるといいかもしれません。(^_-)

このごろはたいてい

高木悠鼓さんが翻訳された

ラメッシ・バルセカールの本です。

今回読んだ『意識は語る』の
https://amzn.to/3gsVHcj

最初の部分があまりに良かったので、

みなさまにご紹介したいと思いました。

【第一章 はじめに】の最初の部分です。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 第一章 はじめに
 
 
 私がセミナーやリトリート
 (合宿型の修養)の参加者たちに
 たった一つ確認してもらいたいと
 常に思ってきたことは、
 私は誰にも何も売っていない、
 ということでした。
 しかし突然
 「いや、それは真実ではない」
 という考えが心に浮かんだのです。
 私は聖なる実体の代理として
 何もない何かを売っていて、
 その聖なる実体は実のところ実体ではなく、
 それゆえ、
 それもまた何もないものなのです。
 そして、
 最大のジョークは、
 私はこの何もないものを、
 やはり何もないものである皆さん全員に
 売っているということです!
 これは本当にジョークです。
 しかしこのジョークが
 ジョークとして理解されるまでは、
 それはひどく
 悲劇的なジョークになりえるのです。
 
 『意識は語る』(p24)
 https://amzn.to/3gsVHcj
──────────────────

> 私がセミナーやリトリート
> (合宿型の修養)の参加者たちに
> たった一つ確認してもらいたい
> と常に思ってきたことは、
> 私は誰にも何も売っていない、
> ということでした。

いかにもという感じですね。

ラメッシ・バルセカールという

精神身体機構は

こういう個性なんでしょうね。

> しかし突然
> 「いや、それは真実ではない」
> という考えが心に浮かんだのです。
> 私は聖なる実体の代理として
> 何もない何かを売っていて、
> その聖なる実体は実のところ実体ではなく、
> それゆえ、
> それもまた何もないものなのです。

これもまた間違いのない事実として

わかります。

ラメッシ・バルセカールは

たしかに何かを売っているんですよ。

もちろん、

そこに金銭的な意味はありません。

元銀行の頭取ですからね。

でも聞き手がもっていない

ある種の理解を提供したいと思って、

何かを売っているわけです。

> そして、
> 最大のジョークは、
> 私はこの何もないものを、
> やはり何もないものである皆さん全員に
> 売っているということです!

そこで

(ラメッシ・バルセカールの理解の中で)

起こっていることは、

(ラメッシ・バルセカールという

 仮想の名前をまとった)
 
何者でもありえない意識が、

同じく

(それぞれ別の仮想の名前をまとった)

何者でもありえない意識に、

どんなものでもありえない

何かを売っているわけです。

> これは本当にジョークです。
> しかしこのジョークが
> ジョークとして理解されるまでは、
> それはひどく
> 悲劇的なジョークになりえるのです。

これはまったく悪い冗談です。(*^_^*)

しかしこの冗談が

冗談であることが理解されるまでは、

それぞれ想像上の名前に

一体化した意識にとっては、

悲劇的な冗談にもなりえるわけです。

──────────────────
 昨日、
 「誰が何を求めているのか?」
 と尋ねられました。
 科学が私たちに教えるところによれば、
 その「誰」は信じられないスピードで
 特定のパターンとして振動している
 鮮明なエネルギー・パターン
 以外に存在していないのです。
 そうなるとその「誰」は崩壊します。
 その「何」は、
 私たちの感覚の一つで
 認識されることができる何かではないので、
 これもまた崩壊します。
 「誰」と「何」からのサポートがなければ、
 探求もまた崩壊するはずです!
 そして、
 探求が何もない中へ
 純粋な主体の静寂の中へ崩壊し、
 その中では探求者も探求すべきことも、
 探求そのものもありません。
 
 『意識は語る』(p24-25)
──────────────────

> 昨日、
> 「誰が何を求めているのか?」
> と尋ねられました。
> 科学が私たちに教えるところによれば、
> その「誰」は信じられないスピードで
> 特定のパターンとして振動している
> 鮮明なエネルギー・パターン
> 以外に存在していないのです。
> そうなるとその「誰」は崩壊します。

ある肉体精神機構に起こっていた

人間という自己認識が崩壊した後、

その肉体精神機構の振る舞いが

どう変化するのかは

一概には決められないことでしょう。

それは全体が決めることですから。

しかし、

夢から醒めたその意識が

どのように振る舞うのかを

おおよそ推察することはできます。

その肉体精神機構が

置かれた環境の変化に対応して、

必要とされる行為が

その肉体精神機構が馴染んだ能力を利用して

発現することでしょう。

たとえば、

「誰が何を求めているのか?」

と尋ねられた場合、

マハラジに起こる返答と、

ラメッシ・バルセカールに起こる返答が、

同じになるはずがないのは、

容易に推測できることです。

ラメッシ・バルセカール

(の精神身体で夢から醒めた意識)に、

一番役立つだろうと見なされ、

採用された比喩は

現代の量子論による物質イメージでした。

もし

「誰か」が「何か」を求めている

とするなら、

それは「誰か」という何らかの実体が

「何か」という何らかの実体を

求めているという意味でしょう。

しかし現代の最先端の物理学である

量子物理学は、

現象として現れている物質には、

信じられないスピードで振動する

特定のエネルギー・パターンの他は

どんな実体も存在しないと言っています。

もしそうなら、

その「誰」は崩壊するしかないでしょう。

> その「何」は、
> 私たちの感覚の一つで
> 認識されることができる何かではないので、
> これもまた崩壊します。

そしてその「誰か」が求めている

対象である「何か」もまた、

私たちの五感が捕捉できるようなものではない。

となると、

この「何」もまた崩壊するしかない。

> 「誰」と「何」からのサポートがなければ、
> 探求もまた崩壊するはずです!

「誰」もいないし、

「何」も捕捉できないのだとしたら、

「誰か」が「何か」を探し求めているという

その探求がどこにあるというのか?

探求そのもの崩壊せざるをえないでしょう。

> そして、
> 探求が何もない中へ
> 純粋な主体の静寂の中へ崩壊し、
> その中では探求者も探求すべきことも、
> 探求そのものもありません。

かくて

探求は何にも支えられず、

純粋な主体性の静寂の中へ崩壊します。

純粋な主体性の中には

探求者も探求の対象も、

探求そのものも存在しません。

──────────────────
 私たちが今理解したことは、
 知的レベルにあります。
 でも、
 このことを今ここで経験することは
 非常に簡単なことです。
 ではやってみましょう。
 目を閉じたままで、
 リラックスしてください。
 
 私は
 「リラックスしてください」と
 言いましたが、
 「背中を伸ばしてください」
 とは言いませんでした。
 でも起きることはこういうことです。
 つまり、
 私たちは
 「何かをしなさい」と言われた瞬間、
 それが「リラックスすること」であっても、
 最初にすることは
 リラックスしないことなのです。
 あなたはリラックスしていました。
 そして突然、
 背中を伸ばすのです。
 まさに同じことが、
 あなたが探求しているときにも
 起こり続けています。
 探求は常に起こっていますが、
 探求者はいません。
 探求はずっと起こり続けています。
 ですから、
 ただ目を閉じて、リラックスし、
 本当は「誰」も
 いないことを理解してください。
 その「誰」は単に想像された観念です。
 「誰」もいませんし、
 探求すべき「何」もありません。
 どんな「誰」も、
 どんな「何」もないことが、
 知的にではなく、
 あなたに感じられ、
 本当に理解されるとき、
 そのときには途方もない何もない感覚、
 完全なる自由の途方もない感覚、
 現在の瞬間、
 永遠の瞬間を感じます。
 実際、
 永遠の瞬間、
 現在の瞬間こそが、
 その経験なのです。
 
 『意識は語る』(p25)
──────────────────

この『意識は語る』の最初の章

「はじめに」のハイライトはこの部分にあります。

ラメッシ・バルセカールは、

上記で語った知見は

簡単に体験できるというのです。(@_@)

> 私たちが今理解したことは、
> 知的レベルにあります。
> でも、
> このことを今ここで経験することは
> 非常に簡単なことです。

もしそんなことができるなら、

すごいことです。

> ではやってみましょう。
> 目を閉じたままで、
> リラックスしてください。

……。(-_-)

> 私は
> 「リラックスしてください」と
> 言いましたが、
> 「背中を伸ばしてください」
> とは言いませんでした。

はい。(@_@)

> でも起きることはこういうことです。
> つまり、
> 私たちは
> 「何かをしなさい」と言われた瞬間、
> それが「リラックスすること」であっても、
> 最初にすることは
> リラックスしないことなのです。

う……。

> あなたはリラックスしていました。

ええ。

> そして突然、
> 背中を伸ばすのです。

なるほど。

たしかに、もしラメッシ・バルセカールの

リトリートに参加していて、

眼前のラメッシ・バルセカールから

そう言われたら、

背筋を伸ばすかもしれませんね。

> まさに同じことが、
> あなたが探求しているときにも
> 起こり続けています。

ん?(?_?)

> 探求は常に起こっていますが、
> 探求者はいません。

え?

あ、そういうこと! ⌒★?

【探求者はいない】って、

そういう意味か……。(*-_-*)

自然に起こってくる探求に対して、

勝手に帳尻合わせの責任を買って出て

立ち上がってくるやつがいるということか。

> 探求はずっと起こり続けています。

なるほど。

四六時中……探求が起こっている。

たしかに。

> ですから、
> ただ目を閉じて、リラックスし、
> 本当は「誰」も
> いないことを理解してください。

ああ……。

> その「誰」は単に想像された観念です。

そうか……。

生まれた当座の赤ん坊は誰でもなかった。

自分が誰かなんて想像もしなかった。

「誰」はその後の学習で身につけた観念だ。

> 「誰」もいませんし、
> 探求すべき「何」もありません。

ここには「誰」もいない。

探求している者がいないから

探求されている対象物もない。

> どんな「誰」も、
> どんな「何」もないことが、
> 知的にではなく、
> あなたに感じられ、
> 本当に理解されるとき、
> そのときには途方もない何もない感覚、
> 完全なる自由の途方もない感覚、
> 現在の瞬間、
> 永遠の瞬間を感じます。

いまこの瞬間に「誰」もいないこと、

「何」も求められていないことが、

知的理解ではなく、

直感的に感じられ理解されたら、

<永遠のいま>が感じられる。

知的理解では……ダメか。

> 実際、
> 永遠の瞬間、
> 現在の瞬間こそが、
> その経験なのです。

この感覚が……、

目が覚めたばかりのときと、

文章を綴っている今の違いかなぁ。

──────────────────
 この瞬間の中には、
 何かを経験している
 どんな経験者もいません。
 存在するのはただ、
 今ここ、
 現在の瞬間であるその経験だけです。
 そして、
 その永遠の瞬間、
 その現在の瞬間には、
 どんな「自分」も、
 どんな継続も、
 どんな過去も現在も未来もありません。
 どんな「自分」もなく、
 継続の感覚もないとき、
 存在するのはただ、
 観念化が起こりえない静寂だけです。
 観念化は、
 その「自分」と継続に
 まったく依存しています。
 もしどんな「自分」も継続もなければ、
 観念化はありえないのです。
 それは現在の瞬間、
 永遠の瞬間です。
 私たちが「経験する」どんな経験も、
 その経験を私たちが話すときだけ、
 それは継続の中にあります。
 それは常に過去です。
 その経験は
 私たちがそれについて考えたときだけ、
 過去の中の出来事としてやってくるのです。
 実際の経験があるとき、
 経験者は存在しません。
 どんな経験も必然的に非個人的経験です。
 「自分」がその経験を考えるときだけ、
 非個人的出来事が人格、
 個人性を想定するのです。
 しかし、
 その経験はすでに過去にあります。
 ですから、
 それは苦痛だろうとエクスタシーだろうと、
 その経験それ自身の中では、
 決して「自分」は存在しないのです。
 なぜなら、
 経験は必然的に現在の瞬間の中にあり
 ──それは継続の外側にある瞬間です。
 それは完全に異なる次元にあります。
 それは現在ではありません。
 現在の瞬間は、
 現在ではないのです。
 なぜかと言うと、
 「現在」とは
 過去と未来に関連しているからです。
 この経験は、
 苦痛であれ喜びであれ、
 どんなことも現在の瞬間です。
 もしこのことが理解されるならば、
 多くの混乱、多くの質問が
 自動的に止まることでしょう。
 今考えることができる
 どんな経験についても、
 あなたは
 「そうです!
  でも、この瞬間に私は
  その経験を考えることができます」
 と言うでしょう。
 はい、確かに。
 しかし、
 あなたが今考えている経験は記憶なのです。
 あなたは決してその経験を、
 二度と再び経験することはできません。
 似たような経験を
 することはできるでしょうが、
 それは決して同じ経験ではないでしょう。
 現在の瞬間の経験は、
 あなたがその経験について
 考えた瞬間に消えてしまいます。
 あなたはまた
 未来にも経験を想像することができます。
 その経験が過去から持ち出されても、
 未来へ投影されても、
 それは現在の瞬間ではありません。
 そして、
 過去の経験が好ましいものであれば、
 それを何度も繰り返したいと思い、
 受け入れがたいものであれば、
 それを二度と繰り返したくないと思うのは、
 心の典型的なトリックなのです。
 
 もしこのことが理解されたなら、
 それは素晴らしい変容生み出します。
 たとえそれが知的レベルであっても、
 それは変容です。
 知的理解であっても、
 この結果、
 しだいに巻き込まれることが
 観照へ明け渡されます。
 でも、
 これは悟りではありませんし、
 本当の覚醒でもありません。 
 
 『意識は語る』(p26-27)
──────────────────

> この瞬間の中には、
> 何かを経験している
> どんな経験者もいません。

そう。

経験は起こっています。

でもその経験が起こっている瞬間、

経験している者はいない。

> 存在するのはただ、
> 今ここ、
> 現在の瞬間であるその経験だけです。

はい。

> そして、
> その永遠の瞬間、
> その現在の瞬間には、
> どんな「自分」も、
> どんな継続も、
> どんな過去も現在も未来もありません。

たしかに。

そこで考えなければ。

> どんな「自分」もなく、
> 継続の感覚もないとき、
> 存在するのはただ、
> 観念化が起こりえない静寂だけです。

そこに思考がないとき……。

> 観念化は、
> その「自分」と継続に
> まったく依存しています。

ところが習慣になった考えることが始まり、

観念化が起こったら、

その観念化の中では

「自分」とその記憶が前提されている。

> もしどんな「自分」も継続もなければ、
> 観念化はありえないのです。

考えることが始まっていなければ、

観念化はありえない。

ふふ、

考えることと観念化……これは同義反復。(^_-)

> それは現在の瞬間、
> 永遠の瞬間です。

観念化が起こっていない瞬間、

それが永遠の瞬間。

> 私たちが「経験する」どんな経験も、
> その経験を私たちが話すときだけ、
> それは継続の中にあります。

ああ……なるほど。

> それは常に過去です。

たしかに。

> その経験は
> 私たちがそれについて考えたときだけ、
> 過去の中の出来事としてやってくるのです。

そのとおりです。

> 実際の経験があるとき、
> 経験者は存在しません。

そうか。(-_-;)

> どんな経験も必然的に非個人的経験です。

たしかに。

どんな経験も必然的に非個人的経験。

経験が起こっているときは

それは必然的に非個人的経験……。

わかります。

> 「自分」がその経験を考えるときだけ、
> 非個人的出来事が人格、
> 個人性を想定するのです。

間違いありません。

その経験が考えられるときだけ、

つじつま合わせの「自分」が想像される。

> しかし、
> その経験はすでに過去にあります。
> ですから、
> それは苦痛だろうとエクスタシーだろうと、
> その経験それ自身の中では、
> 決して「自分」は存在しないのです。

考えられた経験は、

<いま>の瞬間に回想された過去の記憶にすぎない。

経験が起こっているとき、

その経験をしている「自分」という者は

けっして存在していない。

> なぜなら、
> 経験は必然的に現在の瞬間の中にあり
> ──それは継続の外側にある瞬間です。
> それは完全に異なる次元にあります。
> それは現在ではありません。
> 現在の瞬間は、
> 現在ではないのです。

なぜなら

経験は必ず<いま>の中で起こっており、

それは記憶を観念化することの外側だから。

経験は記憶とは完全に異なる次元で起こる。

経験が起こる<いま>は記憶の参照点ではない。

> なぜかと言うと、
> 「現在」とは
> 過去と未来に関連しているからです。

過去と未来に挟まれた現在とは、

観念としての記憶の参照点でしかない。

> この経験は、
> 苦痛であれ喜びであれ、
> どんなことも現在の瞬間です。

苦痛であれ喜びであれ、

実際の経験は<いま>の中でしか起こらない。

> もしこのことが理解されるならば、
> 多くの混乱、多くの質問が
> 自動的に止まることでしょう。

もしこのことが腑に落ちたら、

多くの疑問が自然に消えているだろう。

> 今考えることができる
> どんな経験についても、
> あなたは
> 「そうです!
>  でも、この瞬間に私は
>  その経験を考えることができます」
> と言うでしょう。
> はい、確かに。
> しかし、
> あなたが今考えている経験は記憶なのです。

考えることができる経験は、

すべて<いま>に引き出された

過去の経験の記憶でしかない。

> あなたは決してその経験を、
> 二度と再び経験することはできません。
> 似たような経験を
> することはできるでしょうが、
> それは決して同じ経験ではないでしょう。

実際に起こる経験と、

その経験の記憶の回想とは別のもの、

似たような経験は起こりえても、

まったく同じ経験は

二度と再び起こることはない。

> 現在の瞬間の経験は、
> あなたがその経験について
> 考えた瞬間に消えてしまいます。

しかも<いま>起こっている経験は、

それを考えた瞬間に消えてしまう。

> あなたはまた
> 未来にも経験を想像することができます。
> その経験が過去から持ち出されても、
> 未来へ投影されても、
> それは現在の瞬間ではありません。

また未来の経験を語るということ起こりえる。

しかしそれは

想像が<いま>起こっているにすぎない。

想像するとは、

過去の記憶を<いま>未来に投影していること

とも言えるだろう。

> そして、
> 過去の経験が好ましいものであれば、
> それを何度も繰り返したいと思い、
> 受け入れがたいものであれば、
> それを二度と繰り返したくないと思うのは、
> 心の典型的なトリックなのです。

そして

好ましい過去の経験の記憶を

再現への期待とともにまさぐり、

受け容れがたい過去の経験の記憶を

嫌悪とともに想起するのは、

マインドが意味ありげにやりたがる

ありふれた詐術にすぎない。

> もしこのことが理解されたなら、
> それは素晴らしい変容を生み出します。

もしこのことが腑に落ちたら、

すばらしい変容が起こることだろう。

> たとえそれが知的レベルであっても、
> それは変容です。
> 知的理解であっても、
> この結果、
> しだいに巻き込まれることが
> 観照へ明け渡されます。

たとえそれが

知的レベルの理解であっても、

変容が起こることだろう。

それが知的レベルで腑に落ちただけでも、

しだいに巻き込まれることが少なくなり、

観照に明け渡されてゆくことだろう。

> でも、
> これは悟りではありませんし、
> 本当の覚醒でもありません。 

とはいえ、

これがエゴを完全に破壊し尽くすことはない。

これは本当の覚醒ではない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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このごろ、

別れの気持ちを込めて

昔見て感動した映画を観たりします。

本当に久しぶりに

「にあんちゃん」という映画を観ました。

子供のころに観て、

とても感動して、

ボロボロ涙を流した記憶があるのです。

ところが今回あらためて観てみて、

にあんちゃんたちが置かれた状況が

思った以上に過酷だったことを知った一方で、

どこでそんなに泣いたのか、

それがどうしてもわかりませんでした。

ただ破れた障子と畳の殺風景な部屋が

変に居心地良く感じられたのでした。

多分贅沢な話なのでしょうが……。

今の時代のいわゆる現実よりも、

なんだかずっと現実っぽくて。

馴染んだ時代の空気感なんでしょうね。

今日は暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>



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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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