home > 通信 >自由意志と運命:『アセンション館通信』第896号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/06/20(第896号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在504名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.自由意志と運命

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.自由意志と運命
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は雨模様。

眼前の光景の上半分は雨霧に隠れています。

もう夕方にななってしまいました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

今日は朝まだ薄暗いベッドの中で

高木悠鼓さんが翻訳された

ラメッシ・バルセカールのちょっと分厚い

『意識は語る』を眺めました。
https://amzn.to/3gsVHcj

今回は「自由意志」と「運命」という

一般に背反語と見なされている言葉に関する

ラメッシ・バルセカールの綿密かつ

決定的な論理展開をご紹介したいと思います。

「第二章 意識の本質」のなかに

【現象の機能】という一節があります。

全文だとちょっと長すぎるので

ところどころ掻い摘んでご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 現象の機能
 
 人々が過去生の記憶をもつとき、
 それは過去と関係したどんな記憶でもなく、
 ただその瞬間に起こる
 自然発生的思考なのですか?
 
 
 思考がわき起こるのは自然発生的です。
 もちろん、
 どんな思考も起こりえますが、
 医者に起こりがちな思考は、 
 弁護士や機械工には
 起こりそうにはありません。
 ある特定の肉体精神機構に起こる思考は、
 その生まれつきの特徴と関係があります。
 アインシュタインの脳に起こった方程式は、
 他のどこかでは起こりえなかったことでしょう。
 ここでの全ポイントとは、
 人間の心は
 自分のコンパスを完全に超えた何かを観察して、
 理解しようとし、
 それゆえ私たちは
 ものすごい逆説に気づくのです。
 全人生が逆説となるのは、
 心がそれを理解できないからです。
 
 昔、ニュートン系物理学者の思考は、
 人はその一部を理解することで
 世界を理解できるというものでした。
 でも今では、
 全体を理解するのに部分が必要なのと同じくらい、
 部分を理解するのに全体が必要ということが
 受け入れられています。
 そしてこのことは、
 人間の心にかなりの混乱を生んでいます。
 私たちがこういった大きな事柄について考えるとき、
 人間の知力の限界は決して考慮に入れられません。
 自由意志対運命は実のところ
 自由意志対運命でも、
 運命に反する自由意志でもないのです。
 自由意志は、
 この運命の一部です。
 あなたは自由意志を
 ある思考の結果として、
 自分がもっている何かとして考えています。
 でも思考が起こり、
 そのせいで、
 あなたが自由意志だと考えているものへと導くのは、
 機能の全体性の一部です。
 ですから、
 自由意志を運命に反するものと考えることが
 間違った解釈なのです。
 
 『意識は語る』(p74-75)
 https://amzn.to/3gsVHcj
──────────────────

ここまで読んでもうすでに

「なるほど!」と疑問氷解した方も

いらっしゃるかもしれませんね。

まさに

【自由意志は、この運命の一部】

なのでしょう。

> 人々が過去生の記憶をもつとき、
> それは過去と関係したどんな記憶でもなく、
> ただその瞬間に起こる
> 自然発生的思考なのですか?

ラメッシ・バルセカールから

この回答を導き出したのは

「過去生の記憶」に関する問いでした。

> 思考がわき起こるのは自然発生的です。
> もちろん、
> どんな思考も起こりえますが、
> 医者に起こりがちな思考は、 
> 弁護士や機械工には
> 起こりそうにはありません。
> ある特定の肉体精神機構に起こる思考は、
> その生まれつきの特徴と関係があります。

誕生したそれぞれの身体からは

それぞれに見合った思考が生まれると。

> アインシュタインの脳に起こった方程式は、
> 他のどこかでは起こりえなかったことでしょう。
> ここでの全ポイントとは、
> 人間の心は
> 自分のコンパスを完全に超えた何かを観察して、
> 理解しようとし、
> それゆえ私たちは
> ものすごい逆説に気づくのです。
> 全人生が逆説となるのは、
> 心がそれを理解できないからです。

ただ、人間の場合は、

(あるいは、

 ミナミAアシュタール的情報も加味するなら、
 
 特に地球人類の場合は……かもしれませんが)

既知の情報と

知ろうとする全体像との懸隔が大きすぎて、

マインドが全体像を理解できる

下地も可能性もほとんどない。

> 昔、ニュートン系物理学者の思考は、
> 人はその一部を理解することで
> 世界を理解できるというものでした。
> でも今では、
> 全体を理解するのに部分が必要なのと同じくらい、
> 部分を理解するのに全体が必要ということが
> 受け入れられています。
> そしてこのことは、
> 人間の心にかなりの混乱を生んでいます。
> 私たちがこういった大きな事柄について考えるとき、
> 人間の知力の限界は決して考慮に入れられません。

(現地球人類にかぎって言えば)

かなり最近まで地球での常識だった

ニュートン物理学的・実体論的世界イメージでは、

部分を理解すれば

その理解を全体に敷衍できるはずだった。

ところが最近の量子論的世界イメージでは、

全体が部分を包括しているだけでなく、

部分も全体を包括していることがわかってきた。

この新しい事態に

私たち人類の常識がまだ追いついていない。

特にこのような宇宙的問題を考えるには

人間の知力の限界が小さすぎることが

まだ充分に理解されていない。

> 自由意志対運命は実のところ
> 自由意志対運命でも、
> 運命に反する自由意志でもないのです。
> 自由意志は、
> この運命の一部です。

人間は「自由意志」をもっているのか、

それとも「運命」を歩まされているだけなのか、

という自由意志と運命の対立論は、

じつは、対立でも何でもなく、

“人間の自由意志”は

すなわち“人間の運命”であり、

“人間の自由意志”とは

“人間の運命”の一部に他ならない。

> あなたは自由意志を
> ある思考の結果として、
> 自分がもっている何かとして考えています。
> でも思考が起こり、
> そのせいで、
> あなたが自由意志だと考えているものへと導くのは、
> 機能の全体性の一部です。
> ですから、
> 自由意志を運命に反するものと考えることが
> 間違った解釈なのです。

私たちは

“自分”が思考するようになった結果、

“自分”は自由意志をもつに至ったと考える。

だから自由意志をもつ“自分”の歩みは

運命で定められてはいない、と。

しかし実際は、

人間という肉体精神機構を誕生させて、

そのような自由意志をもつ“自分”へと導いたのは

全機能の一部として全体に織り込まれていることだ。

人間には自由意志をもつ以外の選択肢はない。

自由意志と運命を対立概念と考えること自体が

間違った解釈なのだと。

そしてここから

ラメッシ・バルセカールは

手持の新聞記事を参照しながら

この「自由意志=運命」論を概観します。

ただしラメッシ・バルセカールが

述べている例をそのまますべて引用するのは

ちょっと長すぎると思われるので、

以下、少し掻い摘んでご紹介します。

(興味がある方はぜひ本を手に取られると

 いいと思います。
 https://amzn.to/3gsVHcj )

──────────────────
 無秩序から秩序を生み出す
 確率論──大数の法則
 
 
 この宇宙で最も隠されている秘密の一つは、
 原子より小さい粒子の
 極小世界の問題と関連しています。
 その粒子は同時に波粒子であり、
 それは厳密な決定論と
 機械的因果関係を拒んでいます──
 この曖昧で「波上の泡のカーペット」が
 どうやって固い秩序だった
 因果関係的な日常的経験の極大世界を
 生み出すのでしょうか。
 この極大世界は、
 私たちがそれを見るとき、
 非常に確固として明確で
 正確な原因と結果であるのに対して、
 極大世界がそこから生まれるこの極小世界は、
 人間の心と知力にとっては完全な混乱です。
 
 この混乱と無秩序から、
 どうして極大世界の秩序が
 生じることができるのでしょうか?
 現在の科学者たちの答えは、
 この無秩序から秩序を創造するという
 見たところ奇跡的な偉業は、
 確率論、
 あるいは「大数の法則」の観点から
 見られなければならないというものです。
 しかしそのときには、
 この法則は
 物理的力では説明されることができません。
 人面の知力は
 「自然の法則には
  確かな物理学の土台があるはずだ」
 と言います。
 しかし、
 そうである必要はないのです。
 それが間違った前提なのです。
 この法則は、物理的力によって
 説明することができないのです。
 
 『意識は語る』(p76)
──────────────────

> 無秩序から秩序を生み出す
> 確率論──大数の法則

ラメッシ・バルセカールが

自由意志から発生するはずの無秩序と

運命的な秩序を整合させる

鍵として紹介するのは確率論です。

「大数の法則」ともいうんですね。

ここでラメッシ・バルセカールが

教えてくださった考え方は

じつに目からウロコの感ありです。

> この宇宙で最も隠されている秘密の一つは、
> 原子より小さい粒子の
> 極小世界の問題と関連しています。
> その粒子は同時に波粒子であり、
> それは厳密な決定論と
> 機械的因果関係を拒んでいます──

量子論の誕生というのは

旧世界の崩壊にとって

決定的な意味をもつことなのでしょう。

私たちが日常的に体験している

確固として明確な原因・結果の世界が、

どんなふうに微細な波粒子の振る舞いによって

実現されているのかは

私たちには皆目見当もつきません。

> 現在の科学者たちの答えは、
> この無秩序から秩序を創造するという
> 見たところ奇跡的な偉業は、
> 確率論、
> あるいは「大数の法則」の観点から
> 見られなければならないというものです。

この奇跡の理解への架け橋が

どうやら「大数の法則」らしいのです、

> この法則は
> 物理的力では説明されることができません。

ただし、

この「大数の法則」を成立させている力を

物理的力としては計測できない。

それは物理的パワーではないようなのです。

> 人面の知力は
> 「自然の法則には
>  確かな物理学の土台があるはずだ」
> と言います。

私たちは従来の実体論的物質イメージで

この「大数の法則」を理解したい。

理解できるはずだと考える。

> しかし、
> そうである必要はないのです。
> それが間違った前提なのです。
> この法則は、物理的力によって
> 説明することができないのです。

しかし私たちに理解できないのだから

それは存在できないはず、というのは、

ちょっと論理に飛躍がありすぎる。(*^_^*)

ここでラメッシ・バルセカールは、

ウォーレン・ウィーバーという

数学者の確率論の本に掲載されている

古典的事例を紹介しています。

ニューヨーク保健省の統計によれば、

一日に犬が人間を噛む事例の報告の平均が

1955年は75.3人、1956年が73.6人、

1957年が73.5人、1958年が74.5人、

1959年が72.4人だというのです。

「どうやって犬たちは自分たちが
 いつ噛み始めて、
 いつ噛み終えるべきなのかを
 知ることができるのでしょうか?」と。

(-_-;)

(なんとなくの感じですが、

 犬が堪忍袋の緒を切るような扱いをする

 飼い主または通行人の数を
 
 反映しているのかも。)

それに似たような話が、
 
十九世紀のドイツの軍隊で、

騎兵馬が兵士に致命的な蹴りを与える

事例でも示されたそうです。

(やっぱり馬だって普段我慢して

 無理をしすぎていればねぇ。)
 
それからイングランド地方とウェールズ地方の

殺人件数でも同様の統計資料があるらしい。

第一次世界対戦後、

百万人あたりの殺人件数は十年間ごとに、

1920年から1929年までが年3.8人、

30年代が3.7人、40年代が3.9人、

50年代が3.3人、60年代が3.5人なのだとか。

アメリカの数学者のフォン・ノイマンは

これを「黒魔術」と呼んだそうです。

つまり、個々の出来事自体は

まったく予測不能であるにもかかわらず、

その個人的出来事の全体的結果は

驚くほどの正確さで予測可能だというのです。

しかしここで

再度確認して置かなければならないのは、

確率論がなぜ有効なのかの理由は

じつはわれわれにはわかっていないことです。

ただし、

事実それが有効なことがわかっているので、

いまでは、物理学や遺伝学、

経済のプランナーたち、保険会社、

ギャンブルのカジノや世論調査に

欠くことができない道具となっていると。

ルーレットのボールも、

サイコロの目も、

長い目で見ればバランスを回復することを

私たちは経験的に知っています。

なぜそうなるのかと訊いたら、

「確率の法則」だと教えられるでしょう。

「しかしその法則は、
 それを実行するどんな物理的力も
 もっていないのです」

ホントだ!(@_@) ⌒★?

「それは無力であり、
 しかしながら、
 実質的には全能なのです。」

誰がこんなことをやっているのか?

「人間の知力はそれを知ることができません。」

たしかに。

──────────────────
 デヴィッド・ボーム教授
 (アメリカの物理学者。1917〜92)が
 「それゆえ、人は
  分割できない全体という新しい概念に導かれ、
  それは、世界を分析し、
  分離独立して存在する部分に分けることは
  可能であるという古典的概念を否定する」
 と表現したように、
 あるタオのマスターは非常に生き生きと
 それを次のように表現しました。
 「あなたが一枚の草の葉を引き抜けば、
  宇宙を揺らすことになる」。
 宇宙に起こることで、
 他のあらゆることに関連していない
 出来事はないのです。
 あなたは自分が一枚の草の葉を
 地面から抜いたと思っています。
 本当のポイントは、
 草の葉一枚が引き抜かれたということで、
 誰の手によって行われたかは、
 どうでもいいことなのです。
 その原理の形而上学的意味は根本的なことです。
 それは1925年、
 エルヴィン・シュレーディンガー
 (オーストリアの物理学者。1887から1961)
 が彼の有名な法則を創造する前、
 『わが世界観』(My View Of The World 筑摩書房刊)
 という本の中で述べた素晴らしい事実です。
 「あなたが生きているこのあなたの生命は、
  この全存在の一片であるばかりでなく、
  ある意味では全体である。
  この全体だけが、
  一瞥で概観することが
  できないように構成されている。
  私たちが知っているように、
  これが、
  ブラフマンがその聖なる神秘的な教義
  『汝、それなり』、
  あるいは
  『私は東にも西にもいる。
   私は下にも上にもいる。
   私はこの全宇宙である』
  という言葉の中で表現しているものであり、
  それは非常にシンプルでありながら、
  全く完全である」。
 人間にとって問題が起こるのは、
 私たちは自分の日常生活に対して
 何らかのコントロールができるように見えながら、
 それにもかかわらず、
 自分は他者の意志の無力な犠牲者であり、
 何らかの超自然的秩序の支配下に
 いると感じざるをえないからです。
 ショーペンハウアー
 (ドイツの哲学者。1788〜1860)は、
 そういった超自然的秩序をある種の宇宙意識、
 「形而上学的実体」と呼び、
 それに比べれば個人的意識は夢にすぎません。
 もし私たちが宇宙の全体性を理解し、
 確率論の不確定さからある種の確実さが生まれ、
 見かけの無秩序から奇跡的な秩序がもたらされる
 という事実を受け入れるなら、
 もし私たちがこれを説明なく受け入れるなら、
 そのときにはその状況を受け入れるのは
 困難ではないことでしょう。
 
 『意識は語る』(p79-80)
──────────────────

アメリカの物理学者

デヴィッド・ボーム教授は、

だから人類は

「分割できない全体」という新しい概念に

導かれたのだと言ったわけです。

対象世界が

客観的に存在しているという前提で、

分離独立した部分に分けたり、

それを分析したりできるという

古典的概念は否定されたのだと。

たしかに、

すでに否定されているのです。

(ここでラメッシ・バルセカールが言うように
 
 「自分は他者の意志の無力な犠牲者」
 
 という観念もありうるわけですが、
 
 ミナミAアシュタールが言うような
 
 「絶対無限の存在の分身」
 
 という観念もありうるわけですよね。

 どちらも観念ですけど。)

> もし私たちが宇宙の全体性を理解し、
> 確率論の不確定さからある種の確実さが生まれ、
> 見かけの無秩序から奇跡的な秩序がもたらされる
> という事実を受け入れるなら、
> もし私たちがこれを説明なく受け入れるなら、
> そのときにはその状況を受け入れるのは
> 困難ではないことでしょう。

pariの場合も

そういう「奇跡的な秩序」を受け容れることは

できるようには思いますが……。

でも、

まだ受け容れてはいないんだろうなぁ。

──────────────────
 人間の知力は秩序が好きです。
 それは確率論や不確定性理論を好みません。
 私はある物理学者による次の一節に出くわしました。
 「なぜ私たちは
  安全性をもつべきではないのでしょうか?
  なぜ私たちは
  確実性を持つべきではないのでしょうか?
  私たちはその世界をもてないのです。
  それは受け入れられないことであり、
  うまくいかないのです。
  確実性の世界はうまくいかないのです」。
 この不確実な世界に代わるものは確実な世界です。
 そういった世界では、
 粒子はそれぞれの点で正確な位置にいて、
 すでに決まった道に従います。
 これが人間の知力が望むものです。
 なぜなら、
 これなら人間の知力が
 理解できることだからです。
 しかし、
 確実な世界というこの代替案は、
 うまくいかないことが知られています。
 そういった確実な世界では、
 あらゆる原子の内部にあるあの小さい電子は、
 あらゆる瞬間にエネルギーを
 放出しなければならないことでしょう。
 それはすべてのエネルギーを失い、
 すばやく核の中へ落ちてしまい、
 すべての原子は消滅してしまうことでしょう。
 そうなれば、
 電磁場は消滅し、
 すべての神経組織はその活動をやめてしまい、
 すべての生命は止まることでしょう。
 というのは、
 私たちが知っているような生命は、
 不確実性の祝福を通じてのみ
 存在することができるからです。
 安全性は神話です。
 ですから、
 探求者たちが自分は然々(しかじか)の道に従い、
 然々の期間ある修行をおこない、
 瞑想をしているので、
 自分は悟ることを期待する権利がある……
 そういう類の確実性、
 そういったたぐいの期待は神話なのです。
 
 『意識は語る』(p80-81)
──────────────────

> 人間の知力は秩序が好きです。
> それは確率論や不確定性理論を好みません。

たしかに。

人間はと言うべきなのか、

それとも「思考の檻」に閉じ込められてきた

地球人はと言うべきなのか。

自分の頭で理解できることが好きで、

曖昧であることに耐えられないようです。

そのように仕込まれてきたのかなぁ。

> 私はある物理学者による次の一節に出くわしました。
> 「なぜ私たちは
>  安全性をもつべきではないのでしょうか?
>  なぜ私たちは
>  確実性を持つべきではないのでしょうか?
>  私たちはその世界をもてないのです。
>  それは受け入れられないことであり、
>  うまくいかないのです。
>  確実性の世界はうまくいかないのです」。

確実性の中では現象世界は

存続できなみたいですね。

> この不確実な世界に代わるものは確実な世界です。
> そういった世界では、
> 粒子はそれぞれの点で正確な位置にいて、
> すでに決まった道に従います。
> これが人間の知力が望むものです。
> なぜなら、
> これなら人間の知力が
> 理解できることだからです。

アインシュタインでさえ、

「神はサイコロ遊びをしない」

と言ったそうですものね。

> しかし、
> 確実な世界というこの代替案は、
> うまくいかないことが知られています。
> そういった確実な世界では、
> あらゆる原子の内部にあるあの小さい電子は、
> あらゆる瞬間にエネルギーを
> 放出しなければならないことでしょう。
> それはすべてのエネルギーを失い、
> すばやく核の中へ落ちてしまい、
> すべての原子は消滅してしまうことでしょう。
> そうなれば、
> 電磁場は消滅し、
> すべての神経組織はその活動をやめてしまい、
> すべての生命は止まることでしょう。

なるほど。

すべての原子は消滅してしまって、

電磁場が消滅してしまうのか。

そうなれば全生命現象はとまるんですね。

> というのは、
> 私たちが知っているような生命は、
> 不確実性の祝福を通じてのみ
> 存在することができるからです。

永遠の変化を担保にして

現象世界は維持されているわけですね。

> 安全性は神話です。

地球では、

この「安全」という存在しえないものを

求めさせられてきているのか……。

> ですから、
> 探求者たちが自分は然々(しかじか)の道に従い、
> 然々の期間ある修行をおこない、
> 瞑想をしているので、
> 自分は悟ることを期待する権利がある……
> そういう類の確実性、
> そういったたぐいの期待は神話なのです。

ふふ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日はちょっと寝不足でした。

とっくに暗くなっています。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2021 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡