home > 通信 >真理の証明:『アセンション館通信』第898号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/07/04(第898号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在497名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.真理の証明

2.編集後記
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■ 1.真理の証明
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昨夜来の強い雨は今はやんでいます。

ガラス戸を開けると

一瞬増水した川の轟音が入ってきます。

それもまた耳慣れると

ただの普通の川の音です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

朝方の強い雨音を聞きながら

枕元の電灯を点けて

ラメッシ・バルセカールの

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』
 https://amzn.to/2J4Pbtr

手に取って眺めました。

目次を眺めて開いたのは、

【8 真理の証明】という一節でした。

特に何を求めているというつもりはなくとも

こうしてエネルギーは

何かを求めているのでしょう。

ただ「私は在る」にだけ

フォーカスしていればいいものを。(*-_-*)

──────────────────
 
 8 真理の証明
 
 
 「真理の証明がありえるだろうか?」と、
 マハラジは時々この質問を
 まるで自分自身にするかのように問いかけます。
 真理とは知的に理解できるものでしょうか?
 
 「鋭い知性の人は別として、
  探求者は信頼をもたなければならず、
  その信頼のおかげで
  その人は真理の根本的本質を
  理解することが可能となる」
 とマハラジは言います。
 そしてその信頼とは、
 グルの言葉を神自身の言葉として
 受け入れることができるような
 類のものであるべきです。
 信頼が最初のステップで、
 最初のステップが踏まれないかぎり、
 それ以上の真理は不可能なのです。
 
 鋭い知性には恵まれないながらも、
 信頼を豊かにもっている
 単純なマインドの人たちがいます。
 マハラジは彼らにマントラを与え、
 彼らの精神が
 知識を受け取るほど浄化されるまで、
 それを詠唱し、
 瞑想するように求めます。
 
 しかし、
 知的な人々に対しては、
 マハラジは違った対応しなければなりません。 
 知的な人々は
 様々な宗教が宣伝しているもの、
 それらが提唱する倫理的道徳的体系、
 またそれらが描く形而上学的観念について
 理解します。
 しかし、
 それでもそういった人は悟らないままです。
 その人が実際に求めているのは、
 真実であり、
 変化の支配を受けない常なる要因です。
 さらに、
 その人は証明を欲しがりますが、
 では一体どんな証明なら、
 自分を満足させるのかというと、
 それには答えることができません。
 そういった証明はそれ自身が
 空間と時間の支配下にある何かでしょうし、
 知的な人はそのことを知るだけの
 充分な知性があります。
 真理はそれが真理であるためには、
 時間と空間を超えていなければなりません。
 マハラジは
 「『私は在る』という意識している存在の感覚、
  『存在している』という感覚こそ、
  感覚をもつあらゆる生き物が
  知ることのできる唯一の真理であり、
  それだけが
  人がもてる唯一の『証明』であることを
  どんな知的な人も認めるはずだ」
 と言います。
 しかしながら、
 単なる実存だけでは
 真実と同等化することはできず、
 その単純な理由とは、
 実存それ自身は
 現実のように永遠で無限ではない
 というものです。
 
 マハラジは講話の中で、
 このこう着状態に対して豊かな光を投げかけます。
 盲目の人は次のように言うかもしれません。
 「色があることを私に証明してみせてください。
  そうすれば初めて私は、
  あなたが虹を美しく描写することを
  信じるでしょう」
 そういった質問がマハラジに為されるたびに、
 彼は
 「では、ボンベイ、ロンドン、
  ニューヨークというようなものが
  存在することを私に証明してみせなさい!」
 と言って、対抗します。
 「あらゆる場所で、
  それは同じ大地、空気、水、空である」
 と彼は言います。
 言い換えるなら、
 人は真理を対象物として
 求めることもできなければ、
 真理を描写することもできないのです。
 それはただ、
 ほのめかされたり、
 指し示されたりできるだけで、
 言葉では表現されることができないのです。
 なぜなら、
 真理は考えられることができないからです。
 考えられるどんなものも対象物であり、
 真理は対象物ではないのです。
 マハラジは次のように言います。
 「これが『真理』だと
  権威をもって確証されたり、
  スタンプを押されたりする何かとして
  『真理』を買うことはできない」
 真理の証明を探し求めようとするどんな試みも、
 マインドを主体と対象へ分割することへ巻き込み、
 それゆえ、
 その答えは真理ではありえないのです。
 なぜなら、
 真理には対象的なことは何もなく、
 それは本質的に純粋に主体性だからです。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p54-56)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
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> 「真理の証明がありえるだろうか?」と、
> マハラジは時々この質問を
> まるで自分自身にするかのように問いかけます。
> 真理とは知的に理解できるものでしょうか?

マハラジは自分の周りに群がり

まだ人間の夢を見ている者たちに、

こんなふうに言っているの

かもしれません。

あなたたちがそうして

まだ何かを物欲しげに

私の周りに集まってくるのは、

きっと自分が知っている以上の

まだ何かの真理の確証があるに違いない、

そして自分はまだそれを手にしていないと

思っているからなのだろう。

だが、真理の証明というのは、

いったいありえるものなのだろうか?

> 「鋭い知性の人は別として、
>  探求者は信頼をもたなければならず、
>  その信頼のおかげで
>  その人は真理の根本的本質を
>  理解することが可能となる」
> とマハラジは言います。

特別に鋭い知性に恵まれた人ならいざしらず、

私たちのような普通の探求者は

まず真理への信頼をもたなければならない。

そのような無条件の信頼なしに、

真理の根本的本質を理解することは

できない。

> そしてその信頼とは、
> グルの言葉を神自身の言葉として
> 受け入れることができるような
> 類のものであるべきです。
> 信頼が最初のステップで、
> 最初のステップが踏まれないかぎり、
> それ以上の真理は不可能なのです。

ここで言う信頼とは

グルの言葉を神自身の言葉として

受け容れるような無条件の信頼のことだ。

まず最初にそのような

信頼がなければならない。

そのような信頼が起こっていないのなら、

真理への最初の一歩も

まだ踏み出されていないと言うべきだろう。

> 鋭い知性には恵まれないながらも、
> 信頼を豊かにもっている
> 単純なマインドの人たちがいます。
> マハラジは彼らにマントラを与え、
> 彼らの精神が
> 知識を受け取るほど浄化されるまで、
> それを詠唱し、
> 瞑想するように求めます。

それほどの知性に恵まれていなくても、

豊かな信頼をもっている人になら、

バジャンの詠唱を勧めることもできる。

> しかし、
> 知的な人々に対しては、
> マハラジは違った対応しなければなりません。 
> 知的な人々は
> 様々な宗教が宣伝しているもの、
> それらが提唱する倫理的道徳的体系、
> またそれらが描く形而上学的観念について
> 理解します。
> しかし、
> それでもそういった人は悟らないままです。

だが知的な人々には

バジャンの詠唱を勧めることはできない。

彼らはすでにたくさんの霊的理屈を知っていて、

その理屈を超えた形而上学的論理で

何かを納得することを求めているからだ。

> その人が実際に求めているのは、
> 真実であり、
> 変化の支配を受けない常なる要因です。
> さらに、
> その人は証明を欲しがりますが、
> では一体どんな証明なら、
> 自分を満足させるのかというと、
> それには答えることができません。
> そういった証明はそれ自身が
> 空間と時間の支配下にある何かでしょうし、
> 知的な人はそのことを知るだけの
> 充分な知性があります。
> 真理はそれが真理であるためには、
> 時間と空間を超えていなければなりません。

彼らが実際に求めているのは

永遠の真実だ。

そしてそれと同時に提示されたものが

永遠の真実であることの証明も

得たいと思っている。

それにもかかわらず彼らは、

どんな証明なら自分が満足できるのかを

明確に述べることはできない。

どんな形而上学的論理を聞いても

それは観念でしかありえず、

その観念(的文脈)の上に立って

新たな疑問を提示することができるからだ。

知的な人たちにはそれがわかる。

しかし、それゆえに

自分が本当に求めているものは、

実際は時間と空間の中で展開される

物語ではありえないということまでは、

まだ確信できていないのだ。

> マハラジは
> 「『私は在る』という意識している存在の感覚、
>  『存在している』という感覚こそ、
>  感覚をもつあらゆる生き物が
>  知ることのできる唯一の真理であり、
>  それだけが
>  人がもてる唯一の『証明』であることを
>  どんな知的な人も認めるはずだ」
> と言います。
> しかしながら、
> 単なる実存だけでは
> 真実と同等化することはできず、
> その単純な理由とは、
> 実存それ自身は
> 現実のように永遠で無限ではない
> というものです。

実際は、

あらゆる意識の内容を構成する

観念化が始まる前に存在するのは、

「私は在る」という感覚だけだ。

この存在の感覚こそが、

感覚をもつあらゆる生き物が

知ることができる唯一の真理だ。

知的な人間なら誰でも、

人間が唯一確信できるのは、

「私は在る」という感覚しかありえない

ことがわかるはずだ。

それだけが、

人間がもちうる唯一の『証明』なのだ。

> 人は真理を対象物として
> 求めることもできなければ、
> 真理を描写することもできないのです。
> それはただ、
> ほのめかされたり、
> 指し示されたりできるだけで、
> 言葉では表現されることができないのです。
> なぜなら、
> 真理は考えられることができないからです。
> 考えられるどんなものも対象物であり、
> 真理は対象物ではないのです。

あなたが

作り話の神話を信じることができない

知的な人間だとしよう。

しかし、それでもあなたは

真理を知覚や想像の対象物として

確認したいと夢想しているのかもしれない。

あなたが自分に無理難題を押しつけ、

勝手に迷路の中で行き詰まっていることを

理解しなさい。

あなたが知覚できるもの、

あなたが考えることができるものは、

すべて対象物であり、

意識の内容物でしかありえないのだ。

そしてあなたが求めているのは

真理であり、

真理は対象物ではありえないことを

理解しなさい。

> マハラジは次のように言います。
> 「これが『真理』だと
>  権威をもって確証されたり、
>  スタンプを押されたりする何かとして
>  『真理』を買うことはできない」

これが「真理」だという

権威で保証された確証スタンプ付きの

「真理」を買いたいという

夢想を諦めなさい。

> 真理の証明を探し求めようとするどんな試みも、
> マインドを主体と対象へ分割することへ巻き込み、
> それゆえ、
> その答えは真理ではありえないのです。
> なぜなら、
> 真理には対象的なことは何もなく、
> それは本質的に純粋に主体性だからです。

あなたがどんな証明を探し求めようと、

マインドが保証するような確証が、

あなたの観念化にとどめを刺すことはできない。

真理にはいかなる対象性も属性もない。

真理とは純粋な主体性だからだ。

──────────────────
 「全プロセスは、
  犬が自分の尻尾を追い求めるようなものだ」
 とマハラジは言います。
 この謎への解決法を求めるとき、
 人は問題それ自身を
 分析しなければならないのです。
 誰が
 現実や真理の証明を求めているのでしょうか?
 私たちは自分が何かを
 明確に理解しているのでしょうか?
 すべての実存は対象的であるのです。
 私たちはすべて対象物として、
 私たちを認識する意識の中の見かけとしてのみ
 実存しているだけです。
 誰か他の人のマインドの中で
 認識された対象物として以外、
 私たち(現実の証明を求める者)自身が
 実存しているという証拠があるのでしょうか?
 
 真理の証明を求めるとき、
 私たちやろうとしていることは、
 本体の影のような証明を
 求めることに等しいのです!
 それゆえ、
 マハラジは私たちに
 偽物を偽物として見るように促し、
 そうすればもはや
 真理を探し求めることはなくなります。
 彼は
 「私の言わんとしてることがわかるだろうか?」
 と尋ねます。
 そして、言います。
 「あなたはその状態が何なのか、
  直感的に感じないだろうか?
  求められているものは
  探求者それ自身であることを!
  目はそれ自身を見ることができるだろうか?
  どうか次のことを理解しなさい。
  感覚的に認識されない
  永遠で無限なものが私たちの本質であり、
  一時的で有限で感覚的に認識されるものが、
  私たちが分離した対象物として
  そう見えるものである。
  肉体的形態を獲得する前の
  あなたが何であったのか考えてみなさい。
  そのとき、あなたは
  何かについて証明が必要だっただろうか?
  証明の問題が起こるのは、
  相対的実存の中だけであり、
  相対的実存の中の
  限界の中で提供されるどんな証明も、
  真実ではありえない!」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p56-57)
──────────────────

> 「全プロセスは、
>  犬が自分の尻尾を追い求めるようなものだ」
> とマハラジは言います。
> この謎への解決法を求めるとき、
> 人は問題それ自身を
> 分析しなければならないのです。
> 誰が
> 現実や真理の証明を求めているのでしょうか?
> 私たちは自分が何かを
> 明確に理解しているのでしょうか?
> すべての実存は対象的であるのです。
> 私たちはすべて対象物として、
> 私たちを認識する意識の中の見かけとしてのみ
> 実存しているだけです。
> 誰か他の人のマインドの中で
> 認識された対象物として以外、
> 私たち(現実の証明を求める者)自身が
> 実存しているという証拠があるのでしょうか?

自分が撒き散らした観念化の創作物の中で

自分が見つかる可能性などあるだろうか?

あなたが見つけられるものはすべて

見かけの中に見つかる対象物にすぎない。

そして探しているあなた自身が

見かけの中の対象物であることが

わからないのだろうか?

> 真理の証明を求めるとき、
> 私たちやろうとしていることは、
> 本体の影のような証明を
> 求めることに等しいのです!
> それゆえ、
> マハラジは私たちに
> 偽物を偽物として見るように促し、
> そうすればもはや
> 真理を探し求めることはなくなります。

あなたが求めている真理の証明とは、

自分の影の中に自分の根拠を

求めるにも等しい。

それはあなたの影だ。

それが自分の影にすぎないことを理解して、

自分の根拠をそこに求めるようなことは

やめなさい。

真理を探す必要などない。

> 彼は
> 「私の言わんとしてることがわかるだろうか?」
> と尋ねます。
> そして、言います。
> 「あなたはその状態が何なのか、
>  直感的に感じないだろうか?
>  求められているものは
>  探求者それ自身であることを!

あなたは影の中に自分の姿を求めている。

あなたに見つかるものはすべて、

あなたの影だ。

探している本人こそが、

自分自身であるのがわからないのだろうか?

>  目はそれ自身を見ることができるだろうか?
>  どうか次のことを理解しなさい。
>  感覚的に認識されない
>  永遠で無限なものが私たちの本質であり、
>  一時的で有限で感覚的に認識されるものが、
>  私たちが分離した対象物として
>  そう見えるものである。

あなたは自分を対象物にできるだろうか?

あなたが観念化したものが

あなたが知覚できる見かけの中の対象物だ。

探している自分は対象物にならないことを

いま直感的に認識しなさい。

永遠に存在している

絶対の主観性こそがあなただ。

あなたが感覚的に認識できるのは、

一時的で有限なるあなたの影のなかの対象物だ。

その中に自分を探すのはやめなさい。

>  肉体的形態を獲得する前の
>  あなたが何であったのか考えてみなさい。
>  そのとき、あなたは
>  何かについて証明が必要だっただろうか?
>  証明の問題が起こるのは、
>  相対的実存の中だけであり、
>  相対的実存の中の
>  限界の中で提供されるどんな証明も、
>  真実ではありえない!」

身体として誕生して

意識を獲得する以前の自分が、

何であったのかを考えてみなさい。

そのとき何かの証明が必要だっただろうか?

そんな問題が起こるのは、

意識の内容物である観念化の中だけだ。

観念が提供するいかなる証明も、

あなたにとっては必要ないのだ。

観念化が起こる前に「あなたは在る」。

観念化の中のどんな証明も、

あなたにとっての真実ではありえない。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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起こっていることに、

責任を取れるような誰も存在しません。

今日は暗くなりました。

明日は地域の草刈りです。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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