━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2021/07/25(第901号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在495名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.生まれる者も死ぬ者もいない
2.編集後記
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■ 1.生まれる者も死ぬ者もいない
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今はこの瞬間だけ。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人pariとの
一体化が緩みはじめている意識です。
存在するのはこの瞬間だけ
というのはいいですね。
すべての余計な物思いは
まだまだ未来があると思っている
ということなのかもしれません。
今回はラメッシ・バルセカールの
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr
の最後のほうにある
【55 生と死についての混乱】
という短い一節をご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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55 生と死についての混乱
マハラジが喉のガンを患っていることが知られて以来、
ますます多くの人々、
そうでなければ、
おそらく来ることもなかったような人々まで
彼のところへ来るようになりました。
彼らの多くは純粋に心配しているようでしたし、
マハラジが致命的な病気で弱々しく、
顔色も悪いにもかかわらず、
陽気でいつものように話していることに
驚きを隠せませんでした。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p290)
https://amzn.to/2J4Pbtr
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インドにはいわゆるグルに対する
このような一般的関心が、
(たとえそれが表面的なものだとしても)
いまだに存在するんですね。
「マハラジ」とは誰が言い出したことなのか……。
語られている内容は
「生きる」という目的に即しているわけではない。
ただ、「生きる」ということが何なのかを
指摘しているだけです。
かなり“かけ離れて”いるとも言えるわけですが。
そしてこうして時空を隔てて
この「生と死」についての
この上もなく単純明瞭な真実の話に
われわれも参加できるわけです。
ありがたいことです。(-||-)
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ある夕方、
彼のまわりの人たちが沈んで悲しそうにしているとき、
マハラジが生と死について語り始めました。
「もしあなたが
生と死のあるがままの位置づけを理解しさえすれば、
私同様に
生と死について思い煩わなくなることだろう。
実際、その二つの間には何の違いもない。
あなたは生まれる前には、
『死んで』いたのではなかっただろうか?
暗闇とは光の不在以外の何であろうか?
『生』の不在以外『死』とは何だろうか?
もっと重要なことは、
『生』とは意識の中の一つのイメージとして始まり、
そのイメージが実存することをやめるとき、
私たちはそれを『死』と呼ぶ。
死の恐れとは実際、
生きたいという欲望、
つまり、
『あなた』とは
分離した『私』という架空の実体との一体化を、
永続化したいという欲望の産物なのだ。
現実を知った者たちは、
『生』と『死』のウソもまた知る」
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p290-291)
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> 「もしあなたが
> 生と死のあるがままの位置づけを理解しさえすれば、
> 私同様に
> 生と死について思い煩わなくなることだろう。
普段特に自分が「生と死」について
思い煩っているとは思っていなくても。
なんやかや四六時中
マインドが落ち着いていないというのは、
結局「生と死」の幻想の中で
溺れているということなんでしょうね。
> 実際、その二つの間には何の違いもない。
> あなたは生まれる前には、
> 『死んで』いたのではなかっただろうか?
生まれる前とは
われわれは死んだあとに行くところ。
どうやらそのことに疑いはないようです。
こうしたすべてのマインドの揺動は、
その生まれる前にあった『死んで』いた状態を
求めているだけとも言えるのかもしれません。
> 暗闇とは光の不在以外の何であろうか?
> 『生』の不在以外『死』とは何だろうか?
『生』の不在以外に
『死』が存在するわけもありません。
> もっと重要なことは、
> 『生』とは意識の中の一つのイメージとして始まり、
> そのイメージが実存することをやめるとき、
> 私たちはそれを『死』と呼ぶ。
意識の中に生き物の身体が誕生すると、
そこに一連のイメージのドラマが始まるらしい。
そしてその生き物の身体が崩壊すると、
その一連のイメージのドラマは終わるようです。
その一連のイメージのドラマの中では、
それは死と呼ばれている。
> 死の恐れとは実際、
> 生きたいという欲望、
> つまり、
> 『あなた』とは
> 分離した『私』という架空の実体との一体化を、
> 永続化したいという欲望の産物なのだ。
『わたし』とは
分離した『私』という架空の実体との
一体化を永続化したいという欲望の産物……。(-_-;)
どうやらこの『わたし』は
そんな架空の実体との一体化を永続化したがっている。
……たしかに、
いつの間にか動き出しているマインドに
それ以外の動機があるはずもないのか……。
何も望んでいないのなら、
あえてマインドとして動き出す必要もない。
それはまさに
分離した『私』という架空の実体との
一体化を永続化したいという欲望というわけか。
思考とは、
生きていたい、死にたくないという叫びだろうから、
架空の分離した実体という幻影を
永続化したいという欲望以外ではない。
考えることの先に
架空の観念以外の何があるはずもないのだから。
> 現実を知った者たちは、
> 『生』と『死』のウソもまた知る」
『生』も『死』も意識の中の架空の観念にすぎない。
──────────────────
マハラジは続けました。
「その混乱の根本的原因は、
一つの自立した対象的実体が存在していて、
それが『誕生と死』と呼ばれている出来事と、
その二つの間にある
『人生』と呼ばれている時間の経過を
経験しているという信念である。
現実には、
これらすべては意識の中の
単なる観念的イメージにすぎないものであり、
それらはテレビ画面上や夢の中のイメージと
同じくらいしか実体をもっていない」
マハラジはさらに続けました。
「現象とは何か、
すべての現象を本当に理解しなさい。
それは意識の中の見かけにすぎない。
誰がそれらを認識しているのか?
それは意識自身が空間と時間という
双子の観念のメカニズムを通じておこない、
その双子の観念がなければ、
見かけは認識可能な形態をもたないので、
認識されえないことだろう。
そして、
認識それ自身が、
マインド(マインドとは意識の中身)が
主体と対象物に分裂することを通じて起こるのだ。
そして判断と選択のプロセスは
相互関連する正反対のもの
──愛と憎しみ、幸福と不幸、罪と徳など──
に基づいている。
いったんこのプロセスが正しく観察されたなら、
生まれて、生きて、死ぬ個人が
実際に存在するわけではないことが
簡単に理解される。
意識の中に
一般的に『生まれた』として知られる現象、
見かけがあるが、
それは空間の中の幻影である。
そしてこの現象化した見かけが
その一時的寿命を生きて、
それから、
その終わりに来て、
『死』として知られる
もうひとつの幻影が起こるのだ。
生を生きている者と死を死ぬ者という観念に
人がしがみついているかぎり、
この単純なプロセスは
それ自体として認識されることはできない」
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p291-292)
──────────────────
> 「その混乱の根本的原因は、
> 一つの自立した対象的実体が存在していて、
> それが『誕生と死』と呼ばれている出来事と、
> その二つの間にある
> 『人生』と呼ばれている時間の経過を
> 経験しているという信念である。
この生き物の身体の誕生から始まった
一連のイメージ・ドラマの中で真剣になるとは、
この人生と呼ばれる一連のイメージ・ドラマを
経験している“自分”という
“一つの自立した対象的実体”が存在する
という信念に他ならない。
誕生したばかりの赤ん坊が
その“一つの自立した対象的実体”という観念を
もともともっていたわけもないけれど。
“自立した対象的実体”という幻想は、
同じ幻想をすでに条件づけられていた
一連のイメージ・ドラマの中の大人たちから
教育によって条件づけられたものなのだから。
> 現実には、
> これらすべては意識の中の
> 単なる観念的イメージにすぎないものであり、
> それらはテレビ画面上や夢の中のイメージと
> 同じくらいしか実体をもっていない」
意識の中の一連のイメージ・ドラマの中で
独立した分離実体と見なされているものは、
実際は時空間という観念装置を媒介して
意識の中に展開された観念的イメージにすぎない。
知覚対象である現象の中に
現象から独立した分離実体が存在できるはずもなく、
それらはすべて夢の中の観念的イメージと
同程度の実体しかもっていない。
> 「現象とは何か、
> すべての現象を本当に理解しなさい。
> それは意識の中の見かけにすぎない。
> 誰がそれらを認識しているのか?
> それは意識自身が空間と時間という
> 双子の観念のメカニズムを通じておこない、
> その双子の観念がなければ、
> 見かけは認識可能な形態をもたないので、
> 認識されえないことだろう。
現象が何であるかを理解すればいいだけのこと。
赤ん坊として生まれてきたとき、
あなたが知覚した現象とは何だったのか?
それは実際は
あなたが知覚した見かけではなかったか?
では誰がそれらを認識していたのか?
もちろんそれは
あなたによって認識されたのだ。
あなたはその意識の見かけを
空間と時間という観念装置を使って
解読する方法を教えられて学んだ。
それらの認識方法を知らなければ、
あなたはいまあなたが住んでいるその物語空間を
けっして知ることすらなかっただろう。
> そして、
> 認識それ自身が、
> マインド(マインドとは意識の中身)が
> 主体と対象物に分裂することを通じて起こるのだ。
そういった認識とは、
意識の内容物であるマインド自体が
自ら主体と対象物に分裂することによって幻出している。
> そして判断と選択のプロセスは
> 相互関連する正反対のもの
> ──愛と憎しみ、幸福と不幸、罪と徳など──
> に基づいている。
またそこで想像され幻出された
物語の中で起こるすべての選択は
唯一存在する意識の内容物を
相互関連する正反対のものへと分裂させる
虚構によって成り立っている。
> いったんこのプロセスが正しく観察されたなら、
> 生まれて、生きて、死ぬ個人が
> 実際に存在するわけではないことが
> 簡単に理解される。
> 意識の中に
> 一般的に『生まれた』として知られる現象、
> 見かけがあるが、
> それは空間の中の幻影である。
> そしてこの現象化した見かけが
> その一時的寿命を生きて、
> それから、
> その終わりに来て、
> 『死』として知られる
> もうひとつの幻影が起こるのだ。
> 生を生きている者と死を死ぬ者という観念に
> 人がしがみついているかぎり、
> この単純なプロセスは
> それ自体として認識されることはできない」
いちどこの観念的プロセスの虚構性が見えたら、
生まれ、生き、死ぬ個人が
実際に存在するわけではないことが
簡単に理解されることだろう。
たしかに
意識の中に誕生として知られるイメージは起こる。
それは時空間の中に展開された幻影にすぎない。
生き物の身体として現象化したその見かけが、
その身体の一時的寿命を生きて、それが終わるとき、
死として知られるもう一つの幻影が起こる。
人生を生きる自分という架空の観念への
興味がそこに存在するかぎりは、
この単純なプロセスが自ら姿を現して
あなたに認識を迫ってくることはない。
──────────────────
最後に、
マハラジは次のように締めくくりました。
「母親の子宮の中で妊娠された
『材料』ないし『化学物質』が
自然に赤ん坊の体に成長し、
それから自ずと肉体の最盛期まで育ち、
それから衰え始め、
最後には原初の『材料』と融合することによって
終焉する。
そのとき呼吸は肉体を離れ、
外側の空気と混じる。
つまり、
内なる意識が非個人的意識と融合し、
その特定の『出来事』のプロセスは終わるのだ。
しかし、
私たちの本質は一度も『生まれる』ことも、
『生きる』ことも、
『死ぬ』こともない」
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p292)
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知覚対象である現象世界の中で
両親によって消化吸収された食べ物のエッセンスが
母親の子宮の中で妊娠され、胎児として育まれ、
そして赤ん坊として分娩される。
やがてその知覚の対象物は成長し最盛期を迎え、
それから衰えて身体の崩壊を迎える。
この見かけの劇が展開されているあいだ、
実際は、
そこで誕生したどんな実体も存在せず、
生存したどんな実体も存在せず、
死亡したどんな実体も存在しない。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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今日もまた暗くなりました。
いま意識の中でこんな
イメージ・ドラマが起こっています。
今日は満月。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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