home > 通信 >「私」以外に何もない:『アセンション館通信』第902号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/08/01(第902号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在495名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.「私」以外に何もない

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.「私」以外に何もない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今はこの瞬間だけ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pariとの

一体化が緩みはじめている意識です。

存在するのはこの瞬間だけ。

そして存在するのは「私」だけ。(^_-)

すべての余計な物思いは

まだまだ未来があると思っていて、

「自分」以外に「他者」もいる

と思っているせいなのかもしれません。

今回はラメッシ・バルセカールの

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr

の後半にある

【45 「私」以外に何もない】

という一節をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 45 「私」以外に何もない
 
 
 マハラジは
 「社会の中で行き渡っている倫理、
  道徳規範、行動規範について、
  自分は議論したくない」
 と繰り返し主張しました。
 そういった問題を深く詳細に議論するだけの
 特別な訓練、性向だけでなく、
 時間ももっている人たちがたくさんいるからです。
 彼自身はまったくそういう話題を避けたものでした。
 もちろん、
 人は自分の国の法律に暗黙のうちに従い、
 自分の行為によって
 意図的に人を傷つけることを避けねばならない、
 という程度のことは別です。
 こういった非常に一般的で
 普遍的に受け入れられている
 最低限の行動・道徳規範は別にして、
 マハラジはそういった話題の詳細に関する
 どんな議論も避けたものでした。
 なぜなら、
 彼に言わせれば、
 道徳と行動の標準と基準は
 時代と状況によって変化してきたからです。
 彼は人間自身の不変の本質だけを取り扱いました。
 もし人が自分の本当のアイデンティティを
 理解把握するなら、
 残りのすべてはその意味と重要性を失うのです。
 なぜなら、
 それに引き続く思考と行為は
 二元性にもとづいていないので、
 単純で直接的で直感的で
 自然なものになるからです。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p250-251)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

> マハラジはそういった話題の詳細に関する
> どんな議論も避けたものでした。

ありがたいことです。(-||-)

あまり色々なテーマについて語られると、

それでなくても充分に混乱していて、

軽重がわからなくなりたいわれわれは、

すぐにそれらの話題に巻き込まれて

ますます混乱を深めるだけです。

つねに肝心要のことしか語らない

マハラジのようなグルがいるのは

本当に助かります。

> なぜなら、
> 彼に言わせれば、
> 道徳と行動の標準と基準は
> 時代と状況によって変化してきたからです。

まったくです。

> 彼は人間自身の不変の本質だけを取り扱いました。

ありがたい。(-||-)

> もし人が自分の本当のアイデンティティを
> 理解把握するなら、
> 残りのすべてはその意味と重要性を失うのです。

まさに。

【残りのすべてはその意味と重要性を失う】のです。

> なぜなら、
> それに引き続く思考と行為は
> 二元性にもとづいていないので、
> 単純で直接的で直感的で
> 自然なものになるからです。

そうか、ひとたび

自分の本当のアイデンティティを理解把握できたら、

それに引き続く思考と行為は

もう「二元性」にもとづかなくていいんですね。

いつまでも習慣的なエゴの立場に立ち返って

二元的発想を繰り返す必要はないわけです。

──────────────────
 こういったマハラジの考え方に対して
 新しい訪問者たちは、
 マハラジはまさに人生の問題の核心を避けている
 とたぶん感じるので、
 そのことを受け入れがたく思い、
 また長い間
 彼の話を聞いてきた一部の人たちでさえ
 受け入れがたく思うのです。
 彼らはこの二つの考え方の分裂を
 受け入れがたく思うのです。
 自分の本質に関して
 人がどんな結論や確信に到達しようとも、
 さてどうやって
 自分の仲間に対する関係や行動について
 以前と同じくらい、
 あるいは、
 以前以上に考えることを避けることができるのか、
 というわけです。
 ですから、
 マハラジがあるセッションで
 この件に関して自分の態度を明確に述べたとき、
 ある定期的訪問者の女性は
 かなり辛辣な質問をすることを
 抑えきれませんでした。
 「マハラジ、
  あなたの話を非常に注意深く聴き、
  ジニャーニになるほど完全に
  あなたの言うことを理解した人が、
  それから外に出て、
  原爆を作り、
  それを使いたいという気になれば、
  それを使うことは
  正しく適切なことなんでしょうか?」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p251)
──────────────────

> こういったマハラジの考え方に対して
> 新しい訪問者たちは、
> マハラジはまさに人生の問題の核心を避けている
> とたぶん感じるので、
> そのことを受け入れがたく思い、
> また長い間
> 彼の話を聞いてきた一部の人たちでさえ
> 受け入れがたく思うのです。

それはそれで全体がしている

いわゆる「大数の法則」でしょう……。

> 彼らはこの二つの考え方の分裂を
> 受け入れがたく思うのです。
> 自分の本質に関して
> 人がどんな結論や確信に到達しようとも、
> さてどうやって
> 自分の仲間に対する関係や行動について
> 以前と同じくらい、
> あるいは、
> 以前以上に考えることを避けることができるのか、
> というわけです。

わかります。

“自分”もやってきたことなので。

> ですから、
> マハラジがあるセッションで
> この件に関して自分の態度を明確に述べたとき、
> ある定期的訪問者の女性は
> かなり辛辣な質問をすることを
> 抑えきれませんでした。
> 「マハラジ、
>  あなたの話を非常に注意深く聴き、
>  ジニャーニになるほど完全に
>  あなたの言うことを理解した人が、
>  それから外に出て、
>  原爆を作り、
>  それを使いたいという気になれば、
>  それを使うことは
>  正しく適切なことなんでしょうか?」

はは。(^^)/

──────────────────
 それに対してマハラジは即座に返答しました
 ──
 もしこの問題について、
 ある時点、
 たとえば今から百年前、
 あなたは何の不足も必要も問題ももっていなかった
 という基本的事実をマインドに留めながら
 真剣に考えたならば、
 あなたは自分自身でその答えに到達したことだろう。
 その答えとは、
 質問それ自身が誤解されている(!)ということだ。
 
 もしあなたが言うように、
 人がジニャーニになるほど
 自分の本当のアイデンティティを理解し、
 それを受け入れているなら、
 その人はすべての現象、
 そして現象としての自分自身をも含む
 感覚のあるすべての生き物は、
 夢の中のイメージと同じくらい
 想像的なマインドの中の観念的イメージにすぎない
 という結論に達するのではないだろうか?
 この真実を深く理解した人は
 原爆を使うことはおろか、
 原爆を準備するなどということを思いつくだろうか?
 
 しかし、
 この説明は無知の人を満足させるための
 表面的答えにすぎない。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p251-252)
──────────────────

> たとえば今から百年前、
> あなたは何の不足も必要も問題ももっていなかった
> という基本的事実をマインドに留めながら
> 真剣に考えたならば、
> あなたは自分自身でその答えに到達したことだろう。

いつでもこの基本的事実を思い出せば……。

というわけで、

「人がジニャーニになるほど
 自分の本当のアイデンティティを理解し、
 それを受け入れているなら……」

という前提を展開した

マハラジの一般的解説は終わります。

> しかし、
> この説明は無知の人を満足させるための
> 表面的答えにすぎない。

ここからが本論です。

──────────────────
 あなたが発見しなければならないことは、
 私たちが話題にしている、
 そして自分の甘美な意志と喜びに従って(!)、
 あれこれをやっているとされている
 「自分」、
 「あなた」、
 「彼」とは誰なのかということだ。
 あなたはどのように自分自身を見ているのだろうか?
 あなたは自分の体を見る
 ──あるいは実際はその一部を見る──
 そして、
 あなたは自分自身をそれと一体化する。
 しかし、
 熟睡中や麻酔状態のとき
 あなたはこの体と自分自身を一体化しない。
 実際に起こることは、
 意識の中のあなたの見かけの肉体は、
 他の観察者によってなされるのと
 まったく同じように、
 あなたによって認識され解釈されるのだ。
 あなたは自分を解釈するときは
 多少は褒めすぎ(!)かもしれないが、
 他人の解釈と同じように
 偽りでつかの間のものである。
 気づくべきポイントは、
 あなたが自分自身だと思っている確固とした人格は、
 意識の中の見かけにすぎないということだ。
 さらに、
 その解釈は時々変化するだろうし、
 今までもずっと変化し続けてきた。
 あなたについての考えは、
 それがあなた自身のものであろうと、
 誰か他の人の物であろうと、
 意識の中の運動、
 一時的なマインドのイメージにしかすぎない。
 それがあなたであるすべてだ。
 しかし、
 ただのマインドのイメージにすぎないもの、
 それが本当のあなただろうか?
 行為の選択ができる
 不変で独立し自立した実体として、
 人が自分自身を一体化できるイメージが
 実際あるのだろうか?
 
 相対的には
 ──現象的には──
 「あなた」、
 あるいは「自分」は、
 親の子宮の中で妊娠された
 物理的物質のかけらにすぎず、
 そのかけらの内部に意識の火種が隠れていて、
 それは全現象に内在している。
 相対性の中の無数の形態すべては
 絶対的主体性の対象物である──
 「私」は
 現象が主体と対象物を通じて二元的になる土台だ。
 そして、
 主体の能力を想定されている対象物は、
 あらゆる対象物を「他者」として認識するが、
 その想定された主体もまた対象物なのだ。
 どんな対象物も
 独立した実存それ自体をもっていない。
 私たちすべては意識の中の単なる見かけ、
 マインドの観念にすぎず、
 それぞれの感覚のある生き物は
 まさに自分自身の観念と、
 他者だと自分が考える者たちの観念に他ならない。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p252-253)
──────────────────
 
> あなたが発見しなければならないことは、
> 私たちが話題にしている、
> そして自分の甘美な意志と喜びに従って(!)、
> あれこれをやっているとされている
> 「自分」、
> 「あなた」、
> 「彼」とは誰なのかということだ。

まったくです。

この「自分」という個人とは

いったい何なのか?

本当にそういう者は存在するのか?

ということです。

> あなたはどのように自分自身を見ているのだろうか?
> あなたは自分の体を見る
> ──あるいは実際はその一部を見る──
> そして、
> あなたは自分自身をそれと一体化する。

はい。まさに。

> しかし、
> 熟睡中や麻酔状態のとき
> あなたはこの体と自分自身を一体化しない。

間違いないです。

熟睡中のときも麻酔状態のときも

わたしはいませんでした。

> 実際に起こることは、
> 意識の中のあなたの見かけの肉体は、
> 他の観察者によってなされるのと
> まったく同じように、
> あなたによって認識され解釈されるのだ。

いわゆる他人がわたしを認識し

解釈しているのとまったく同じように、

この自分の見かけの肉体の振る舞いを

認識し解釈しているのはわたしだ、と。

なるほど。(@_@) ⌒★?

> あなたは自分を解釈するときは
> 多少は褒めすぎ(!)かもしれないが、

たしかに、

わたしは他の肉体の振る舞いを解釈しているときには、

この自分の肉体の振る舞いよりは

いささか辛辣に解釈しているような。

いわゆる他者に起こっていることも

同じようなことだろうなぁ……。

しかし、いずれにせよ

> 他人の解釈と同じように
> 偽りでつかの間のものである。

わたしのこの自分の体の振る舞いに対する解釈も、

他人がわたしの身体の振る舞いに向ける解釈同様、

偽りでつかの間のものにすぎない。

こりゃ、自明だわ。(@_@)

> 気づくべきポイントは、
> あなたが自分自身だと思っている確固とした人格は、
> 意識の中の見かけにすぎないということだ。

ここではっきり気づくべきことは、

わたしが自分だと思っている

このわたしの体とそれに付随する人格的属性は、

(百年前のわたしが知る由もなかった、
 
 また熟睡中にはけっして一体化が起こらなかった)

意識の中の「見かけ」にすぎないということだ。

> さらに、
> その解釈は時々変化するだろうし、
> 今までもずっと変化し続けてきた。

しかもそのわたしの解釈自体、

これまでつねに変化し続けてきており、

これからも変化することだろう。

> あなたについての考えは、
> それがあなた自身のものであろうと、
> 誰か他の人の物であろうと、
> 意識の中の運動、
> 一時的なマインドのイメージにしかすぎない。
> それがあなたであるすべてだ。

わたし(の身体とその振る舞い)について、

わたしがもつ考えも、他人がもつ考えも、

すべて意識の中の現れであり、

マインドに現れる一時的なイメージにすぎない。

わたしがたいそう気にしている「自分」とは、

しょせんその程度のものにすぎない。

> しかし、
> ただのマインドのイメージにすぎないもの、
> それが本当のあなただろうか?

だが、

本当のあなたとは、

そのつかの間のマインドのイメージに

すぎないものなのだろうか?

(あなたはそんな一時的なものの
 
 多少の改善を求めて
 
 探求だなんだと大騒ぎをしてきたのか?)

> 行為の選択ができる
> 不変で独立し自立した実体として、
> 人が自分自身を一体化できるイメージが
> 実際あるのだろうか?

時空間に展開された意識の内容、

現象として現れた意識の見かけの中に、

それ自体が独立し自立していて

自らの行為を選択できる不変の実体として

あなたが一体化できるイメージが

実際あるだろうか?

(もしここで、
 
 また聞きの噂話も範囲に含めるなら、
 
 ミナミAアシュタールが伝える

 絶対無限の存在の分身としての自分、
 
 というイメージはありうることでしょう。
 
 そのイメージのほうが好きなら、
 
 それに一体化することが起こることでしょう。
 
 いずれにせよそこで選択している
 
 分離した独立の実体が存在しているわけではない。)

> 相対的には──現象的には──
> 「あなた」、
> あるいは「自分」は、
> 親の子宮の中で妊娠された
> 物理的物質のかけらにすぎず、
> そのかけらの内部に意識の火種が隠れていて、
> それは全現象に内在している。

(意識の中の現れである)現象世界のなかで、

「あなた」が一体化している身体は

母親の子宮の中で育まれた受精卵が、

出産されて成長した姿に他ならない。

> そのかけらの内部に意識の火種が隠れていて、
> それは全現象に内在している。

その受精卵という物質のかけらに隠れていた

意識の火種は全現象に内在している。

(マハラジの話は正確ですね。
 
 まるで足立育朗さんの『波動の法則』みたい。)

> 相対性の中の無数の形態すべては
> 絶対的主体性の対象物である──
> 「私」は
> 現象が主体と対象物を通じて二元的になる土台だ。

意識の顕現側にある無数の形態すべては

絶対的主体性(意識の非顕現側)の対象物だ。

「私」は、

意識が自らを現象させるために

主体性と対象物として二元的になる

その土台を提供しているのだ。

> そして、
> 主体の能力を想定されている対象物は、
> あらゆる対象物を「他者」として認識するが、
> その想定された主体もまた対象物なのだ。
> どんな対象物も
> 独立した実存それ自体をもっていない。

ゆえに、

わたしたちの「自分」とは、

あらゆる対象物を「他者」として認識する

主体と想定されてはいても、

それ自体もまた対象物であるしかない。

そして意識の見かけの中に現れるどんな対象物も、

それ自体で存在してはいないのだ。

> 私たちすべては意識の中の単なる見かけ、
> マインドの観念にすぎず、
> それぞれの感覚のある生き物は
> まさに自分自身の観念と、
> 他者だと自分が考える者たちの観念に他ならない。

わたしたちが一体化して

たいそう気にかけている「自分」とは、

すべて意識の中の見かけの小さな部分にすぎない。

時空間という観念装置によって創造された

マインドの観念の一部なのだ。

ゆえに、

個々の感覚をもつ生き物たちは、

それぞれの自分がもつ観念であると同時に、

自分が他者と見なす者たちの観念でもある。

──────────────────
 もしあなたが
 どんな独立した実存ももっていなければ、
 どうやって行為することができるのだろうか?
 そもそも実際あなたは行為するのだろうか?
 あるいは、
 あなたは操り人形のように
 ただ外側の刺激に反応するだけだろうか?
 もしあなたが静かに座って、
 何が起こるかを見るなら、
 私たちは本当は「生きて」いるのではなく、
 「生かされている」、
 生それ自体は
 見かけの機能とも呼べるようなものに他ならない
 ことをすぐに理解することだろう──
 なぜ見かけかと言えば、
 すべての機能は、
 もう一度言えば、
 意識の中のパノラマ的見かけだからである。
 熟睡中や麻酔状態のときのように、
 もし意識がなければ、
 どんな機能もない。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p253-254)
──────────────────

> もしあなたが
> どんな独立した実存ももっていなければ、
> どうやって行為することができるのだろうか?
> そもそも実際あなたは行為するのだろうか?
> あるいは、
> あなたは操り人形のように
> ただ外側の刺激に反応するだけだろうか?

では、もし個人としてのあなたが

単なる意識の中の見かけにすぎず、

自分自身では存在できないのだとすれば、

その見かけの存在がどうやって行為できるのか?

そもそもあなたは実際に行為しているのか?

それとも、

あなたは操り人形のように、

ただ外側の刺激に反応しているだけなのか?

> もしあなたが静かに座って、
> 何が起こるかを見るなら、
> 私たちは本当は「生きて」いるのではなく、
> 「生かされている」、
> 生それ自体は
> 見かけの機能とも呼べるようなものに他ならない
> ことをすぐに理解することだろう──

もしあなたが見かけの動きに巻き込まれず、

静かに座って起こることを見ていられたら、

私たちは本当は「生きて」いるのではなく、

「生きられて」いることを知るだろう。

生命現象そのものは

「見かけ」の機能とも呼べるものだと

すぐに理解することだろう。

> なぜ見かけかと言えば、
> すべての機能は、
> もう一度言えば、
> 意識の中のパノラマ的見かけだからである。

なぜ「見かけ」の機能と呼ぶのかと言えば、

現象世界のすべては

本来<ひとつ>でしかありえないものが、

姿を現すためにあえて

主体と対象物という虚構を演じ、

そのために「自分」と「他者」、

「わたし」と「あなた」といった

多数に分裂して見せた、

意識の中のパノラマ的見かけだからだ。

> 熟睡中や麻酔状態のときのように、
> もし意識がなければ、
> どんな機能もない。

だがその意識の「見かけ」も、

あなたが「自分」を意識している

ときにしか現れない。

熟睡中や麻酔状態のときのように、

そこに意識が存在しなければ、

どんな見かけの機能も存在しない。

──────────────────
 それでは、
 このすべての機能の中で
 どこに「私たち」が入って来るのだろうか?
 それがこのマーヤー(幻想)喜劇における
 究極の冗談なのだ。
 「私たち」は
 それから一度も外に出たことがないだけでなく、
 全機能は私たちに他ならない。
 私たちの本質は全体で、
 聖なる非現象的絶対であり、
 感覚的に認識不可能である。
 そしてそれは、
 顕在化した現象として
 相対的二元性の中でのみ認識され知覚される。
 「私たち」は、
 「私」としては現象的には超越であり、
 非現象的には内在であり、
 それは私たちが自分をどう見るかによる。
 「私」しかいないのであり、
 どんな「自分」も「他者」もいない。
 相対的顕現の中で、
 現象が「自分」とそれぞれの対象物として
 意識の中で観念化されて、
 主体的アイデンティティを装い、
 他の対象物を「他者」として認識する。
 しかし、
 非現象的にはどんな二元性もなく、
 ただ主体的「私」があるだけだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p254)
──────────────────

> それでは、
> このすべての機能の中で
> どこに「私たち」が入って来るのだろうか?
> それがこのマーヤー(幻想)喜劇における
> 究極の冗談なのだ。

では、

このすべての見かけの機能の中の

どこに「私たち」は入って来るのか?

それこそが

この幻想の喜劇における究極のジョークだ。

> 「私たち」は
> それから一度も外に出たことがないだけでなく、
> 全機能は私たちに他ならない。

じつは、

「私たち」はこの現象世界から

一度も外に出たことがないのだ。

つまり、

この「見かけ」の世界の全機能とは

私たちに他ならないということだ。

> 私たちの本質は全体で、
> 聖なる非現象的絶対であり、
> 感覚的に認識不可能である。

<ひとつ>の全体しか実在していない。

実在する私たちの本質は全体だ。

それは聖なる非現象的絶対であり、

それを感覚的に認識することは不可能なのだ。

> そしてそれは、
> 顕在化した現象として
> 相対的二元性の中でのみ認識され知覚される。

非現象的絶対は

それ自体を認識することは不可能であり、

自らを認識するためには

自らを現象として顕在化して、

主体と対象物という相対的二元性の中で

その対象物を知覚するしかない。

> 「私たち」は、
> 「私」としては現象的には超越であり、
> 非現象的には内在であり、
> それは私たちが自分をどう見るかによる。
> 「私」しかいないのであり、
> どんな「自分」も「他者」もいない。

実在する「私たち」とは、

自らが存在することを

「私」としては現象を超越しており、

非現象的には内在なのだ。

それは私たちが自分をどう見るかだ。

事実は「私」しかいないのであり、

どんな「自分」も「他者」も存在しない。

> 相対的顕現の中で、
> 現象が「自分」とそれぞれの対象物として
> 意識の中で観念化されて、
> 主体的アイデンティティを装い、
> 他の対象物を「他者」として認識する。
> しかし、
> 非現象的にはどんな二元性もなく、
> ただ主体的「私」があるだけだ。

つかの間の相対的現象の中では

意識の中で観念化された主体的「自分」が

他の対象物を「他者」として認識する。

だが、

その見かけの背後にどんな二元性もなく、

実際はただ主体的「私」があるだけだ。

──────────────────
 では、
 あなたの原爆に戻るとしよう。
 もしこのことを本当に理解したなら、
 「悪」を為す巨大なパワーを所有する
 独立し自立した実体のある悪漢が人生に存在する、
 あるいは、
 善を為す巨大なパワーを所有する
 アヴァターが存在すると
 あなたは考え続けることができるだろうか?
 それらの両方が、
 かつて妊娠された
 一滴の液体に他ならないのではないだろうか?
 もちろんあなたは、
 「善」と「悪」は
 単なる相互依存している正反対物であり、
 二元性の中の重要な現象であり、
 機能全体の中でそれぞれの役割を果たしている、
 意識の中の見かけであることを
 理解しているに違いない。
 実際、
 自分自身を信じ、
 一つの実体と一体化することが束縛のすべてであり、
 プラジュニャーの全体的機能から分離した
 どんな実体も存在しえないと理解することが、
 即座の解放である。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p254-255)
──────────────────

> では、
> あなたの原爆に戻るとしよう。
> もしこのことを本当に理解したなら、
> 「悪」を為す巨大なパワーを所有する
> 独立し自立した実体のある悪漢が人生に存在する、
> あるいは、
> 善を為す巨大なパワーを所有する
> アヴァターが存在すると
> あなたは考え続けることができるだろうか?
> それらの両方が、
> かつて妊娠された
> 一滴の液体に他ならないのではないだろうか?

では、

あなたの質問の原爆に話を戻そう。

もし私がこれまで話してきたことを

あなたが本当に理解したとするなら、

原爆を作って巨大な悪を為す

独立し自立した悪漢が実体として存在する

と考えることができるだろうか?

あるいは逆に、

巨大な善を為すアヴァターが

実体として存在すると

あなたは考え続けられるだろうか?

そういう物語の中の善人も悪人も

すべてが意識の見かけ中、

現象世界の中でかつて妊娠された

一滴の液体に他ならないのではないだろうか?

> もちろんあなたは、
> 「善」と「悪」は
> 単なる相互依存している正反対物であり、
> 二元性の中の重要な現象であり、
> 機能全体の中でそれぞれの役割を果たしている、
> 意識の中の見かけであることを
> 理解しているに違いない。

これまで長く

私の話を聴き続けてきたあなたは、

そういった「善」とか「悪」が

二元性の原理にもとづいて生成される

単なる相互依存する正反対物にすぎず、

機能全体の中で個々の役割を果たしている

意識の中の見かけであることを、

もちろん理解しているに違いない。

> 実際、
> 自分自身を信じ、
> 一つの実体と一体化することが束縛のすべてであり、
> プラジュニャーの全体的機能から分離した
> どんな実体も存在しえないと理解することが、
> 即座の解放である。

つまりは、

現象している身体に一体化して、

自分という個人の存在を信じることが

束縛のすべてであり、

全体的機能から分離した

どんな実体も存在しえないと理解することが、

即座の解放なのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

わたしがマハラジの言葉をなぞっているのか?

全体がそんな見かけを演じているのか?

知ることができる誰が存在しているのか?

今日もまた暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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