home > 通信 >現象とは継続的対象化:『アセンション館通信』第905号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/08/22(第905号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在494名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.現象とは継続的対象化

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.現象とは継続的対象化
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は薄曇り。

比較的涼しいですね。

あ、これはこのあたりの気温かな。

あなたのところとは違いますか?

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人pari

(として現われている〈それ〉)です。

昔はいろいろ不満もあったものです。

この身体が自分だと教わって、

その身体としてこの惑星の文化の中を

泳ぎ渡るべく奮闘しているうちに

溜まりに溜まった感情だったんでしょうね。

でもその不満も十分に吐き出したのか、

もうそんな不満のエネルギーは残っていません。

むろん、身体が生きている間は

なるべく楽なほうが助かるけどなぁ、くらいの

(たぶん人間に平均的な)色気は残っていますけど、

それだって、

起こることに抵抗するそれほどの

エネルギーが残っているわけでもないですし。

アドヴァイタ(非二元論・不二一元論)と言うと、

存在するのは二番目のない<ひとつのもの>だけ、

という意味なんだと思います。

と同時に、

この「アドヴァイタ」という表現には

「二つはない」という含意もあるでしょうね。

ふふ。

同じことじゃん!(@_@)

とも言えるようでもあるのですが、

ときにとても違って聞こえることもあります。

生きていれば、

理解って変化し続けるますよね。

たとえば、

ニサルガダッタの言葉にしても、

『私は在る アイ・アム・ザット』

のころに語られている内容と、

『意識に先立って』で語られている表現、

そしてラメッシ・バルセカールが霊感を得て描いた、

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

で語られている表現。

それぞれかなり違うようにも感じられます。

身体が生きているあいだは、

その身体を通じて起こる表現は変化します。

変わり続けますよね。

でも……、

「二つはない」わけです。(^_-)

マインドが充分に駄々をこねて、

不満エネルギーを放出し続けたら、

不満エネルギーの再生能力が

だんだん追いつかなくなってきたようです。

欲望はわいてくるけど、

その欲望をフォローするエネルギーが

足りないのかもしれません。

欲望がわき、興味もわくけど、

実行までは至らないみたいな。

欲望がわいて、興味もわいて、

実行してみて、達成して、ホッとするのなら、

そのホットする部分だけ今やったら?

同じことじゃん。

「二つはない」んだから。

みたいな感じでしょうか。

全然、論理の体をなしていませんね。(^_-)

ふふ。

だんだん理屈がどうとか

そういうのがどうでもよくなってきています。

ラメッシ・バルセカールの描写の中に

マハラジが彼のロフトを訪れたウェスタンに

基本的事実を説明しているところがあります。

せっかく私を訪れてくれたのだから、

少なくともこれくらいは理解しよう、と。

私たちも少なくともそれくらいは

理解することにしましょうか。

今回は

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 
の前半にある

【18 基本的事実を理解しよう】

という一節をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 18 基本的事実を理解しよう
 
 
 海外からマハラジの元を訪れる
 ほとんどすべての訪問者たちは、
 彼の本『アイ・アム・ザット 私は在る』を
 読んだあとでやってきます。
 彼らはその本を読むやいなや、
 マハラジに個人的に会いたいという
 衝動を感じたと言います。
 また、
 彼らの多くが長年、
 霊的探求に関心をもってきたとも言います。
 
 海外から来る平均的訪問者を例にとりましょう。
 最初の訪問のときはほとんどの場合に、
 自分がここに来るのにそれほど多くのお金と、
 取るのが大変な年休を使ったことが
 正しかったのかどうかというある種の疑いが
 その人のマインドにわき起こります。
 マハラジの家のまわりの汚い環境、
 彼の小さいロフトの質素な部屋、
 彼の平凡な外見と身なり──
 これらすべてが最初の疑いに拍車をかけます。
 しかしもちろん、
 最初の数回のセッションに参加したあと、
 そして、
 その人が去る頃までには外国の訪問者は、
 明らかにすでに次の訪問を
 心待ちにするようになります!
 
 それからまた、
 外国の訪問者がはじめの間、
 気にし続けることがあります。
 それはマハラジの行動が、
 町にいる普通の人と何ら変わらないことです。
 それは、
 賢者ないしジニャーニはどう振舞うべきか
 というその人の観念にまったくそぐわないのです。
 とはいえ、
 この観念自体がきわめて曖昧な場合もありますが。
 その人はマハラジの小さな部屋の壁一面に
 無数の神々や聖人の絵や写真が
 乱雑に貼られているのを発見し、
 またマハラジが一日四回
 バジャンの詠唱に参加するのを目にします。
 その人はマハラジが国産の安いタバコを始終吸い、
 またときにはささいな事柄を
 軽い調子で話すことに気づきます。
 その人はこういったすべてに非常に混乱するのです。
 その人が
 マハラジに対して抱いていた先入観はおそらく、
 サフラン色の僧衣を着た長老的人物が
 訪問者から離れた高台の座席に座って重々しく話し、
 時には高所から人を見下すような態度で
 奇跡を一つか二つもたらす、
 というようなものです。
 代わりに彼が発見するのはまったく普通の男です!
 
 それゆえ、
 まさに最初のセッションが終わる前に、
 マハラジはジニャーニにもかかわらず、
 なぜ一日に四回もバジャンを歌うのかと、
 私たちの訪問者は訪ねたい誘惑に抵抗できません。
 あるいは、
 その質問は次のような場合もあります。
 なぜマハラジは
 絶えずタバコを吸うことが必要なのか? と。
 そういった場合のマハラジの返答は単純です。
 「それが何か問題かな?
  私はこの肉体と八〇年余りも付き合っている。
  だから、
  この肉体が慣れている
  少しのかけらを受け入れたからといって、
  何か問題だろうか?
  一日に四回のバジャンに関していえば、
  それは私のグルの時代からの習慣である。
  私が一般的にいわゆる
  『目覚め』と呼ばれているものを得たからといって、
  そのときからこの古い無害な習慣を
  放棄しなければいけないと感じるべきだろうか?
  人は与えられた寿命を通じて生きなければならない。
  自分がすることが
  意図的に他の誰かを傷つけないかぎり、
  人が何をするかは重要だろうか?
  それはそのくらい単純である」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p111-113)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────
 
まあ、ウェスタンの気持もわかりますよね。

そして、

>  人は与えられた寿命を通じて生きなければならない。
>  自分がすることが
>  意図的に他の誰かを傷つけないかぎり、
>  人が何をするかは重要だろうか?
>  それはそのくらい単純である」

このマハラジの返答はしごく納得がいきますよね。

では、先に進みます。

──────────────────
 マハラジはこのテーマを以下のように続けます
 ──
  もし人が物事をあるがままに見る
  ──直感的に理解する──
  もし人が、
  個人の分裂したマインドによってではなく、
  全体のマインドで現象全体を理解するなら、
  人は偉大な目覚めから遠くはなく、
  そのときには人が何をしようが重要ではない。
  実際、
  個人的存在が
  独立して行動することができると考えること、
  それ自体が間違いなのだ。
  私たちの本質は意識している存在であって、
  意識の外側の箱ではなく、
  つまり、
  現象を認識するために使われる
  肉体精神器官でしかない肉体ではない。
  この器官はそう見れるすべての見かけに反して、
  空間的時間的な観念にすぎず、
  独立して行動することはできない。
  この基本的事実を理解しよう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p113)
──────────────────

>  個人的存在が
>  独立して行動することができると考えること、
>  それ自体が間違いなのだ。

(もし、ここでマインドの理屈を持ち出すなら、
 
 個人的存在が
 
 独立して行動できるかできないかは、
 
 もちろん、マハラジ的な観点と
 
 ミナミAアシュタール的な観点とでは
 
 ニュアンスに違いが出ることでしょうね。
 
 マハラジ的な観点からは、
 
 当人の理解の状態に合わせて
 
 心配の根本原因である欲望の本質の理解や、
 
 その欲望からの自由が激励されることでしょう。
 
 またミナミAアシュタール的な観点からは、
 
 絶対無限の存在の分身としての
 
 自らの欲望の実現方法が
 
 語られることになるのかもしれません。
 
 両者の指針は大いに異なるのかもしれませんし、
 
 結局は、同じことなのかもしれません。
 
 いずれにせよ聴く者は、
 
 自分に合ったほうに惹かれるのでしょうが。)

ここではもちろん、

マハラジが語ります。

>  私たちの本質は意識している存在であって、
>  意識の外側の箱ではなく、
>  つまり、
>  現象を認識するために使われる
>  肉体精神器官でしかない肉体ではない。
>  この器官はそう見れるすべての見かけに反して、
>  空間的時間的な観念にすぎず、
>  独立して行動することはできない。
>  この基本的事実を理解しよう。

あなたの本質は

意識が起こるための肉体精神器官にはない。

あなたは意識している存在そのものだ。

この基本的事実を理解しよう。

──────────────────
  それでは生命とは何だろうか?
  個々の人がどう考えるかにかかわらず、
  この宇宙の生命とは「現象の機能」に他ならない。
  この視点から眺めれば、
  洪水や地震などの様々な社会的現象は
  「現象の機能」にすぎず、
  善悪はない。
  それぞれの肉体は他の何かのための 
  食糧にほかならない──
  ネズミはネコの食料であり、
  人間や家畜はライオンの食料であり、
  子羊や鶏は人間の食料である、
  といった具合に。
  ということは、
  ある者にとっての善は
  別の者にとっては悪ということだ。
  実際、
  起こるように見えるどんな出来事も
  現象の機能を構成する。
  それぞれの個人にとっては
  すべて自分自身の行為であり、
  経験のように見えるが、
  しかしながら、
  基本的事実はと言えば、
  どんな現象的対象物
  (つまり、それは相対的に言えば、
   感覚のある存在すべてのことである)も、
  それ自身のどんな独立した実存も
  もっていないのだ。
  いったんこのことが明確に理解されれば、
  すべての責任と罪悪感もまた、
  感覚のある存在が
  独立した実存と自主性と行為の選択をもっている
  という間違った概念に基づく
  想像的観念であることが自動的にわかるだろう。
  
  それでは、
  人間的活動の様々な領域における
  すべての優れた業績
  ──芸術、科学、スポーツ、偉大な思想家たち──
  についてはどうなのだろうか?
  私たちは、
  観念的現象にすぎない個人的人ではなく、
  こういった様々な
  物理的形態(人間)を「通じて」
  意識によって為されている
  業績を賛美すべきである。
  実際に起こることを理解し、
  それに関して明確になろう。
  それに引き続く質問は次のことであろう。
  もし達成されたことが何であれ、
  個々の人がそれを達成していないなら、
  誰がそれをやっているのか?
  その答えとは、
  個人的には誰もやっていない、
  というものだ。
  プラーナを通じて
  意識の中で現象の「機能」が起こり、
  そのプラーナ、
  この夢ショー全体の輝かしい俳優/演出家が、
  現象であるこの偉大な夢ドラマの
  すべての役割を演じている。
  そして、
  この意識している存在の源泉は非現象である。
  感覚のある存在は行動し反応するように見えるが、
  現実の機能は意識の中で起こる。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p113-115)
──────────────────

>  それでは生命とは何だろうか?
>  個々の人がどう考えるかにかかわらず、
>  この宇宙の生命とは「現象の機能」に他ならない。
>  この視点から眺めれば、
>  洪水や地震などの様々な社会的現象は
>  「現象の機能」にすぎず、
>  善悪はない。

マハラジはここで一挙に

この宇宙の生命とは

「現象の機能」に他ならないと断定します。

「現象の機能」という言葉で

マハラジは何を意味しているのでしょう?

マハラジの言う意味は、

宇宙の生命が目指しているのは

現象することそれ自体であって、

現象自体の中に善悪の基準は存在しえない

ということのようです。

>  それぞれの肉体は他の何かのための 
>  食糧にほかならない──
>  ネズミはネコの食料であり、
>  人間や家畜はライオンの食料であり、
>  子羊や鶏は人間の食料である、
>  といった具合に。
>  ということは、
>  ある者にとっての善は
>  別の者にとっては悪ということだ。
>  実際、
>  起こるように見えるどんな出来事も
>  現象の機能を構成する。

現象中に現れる

個々の意識の器(生き物の身体)は、

それぞれ別の生き物の食料になっている。

つまり、

ある生き物にとっての善とは

別の生き物にとっての悪ということだ。

見かけ上起こるどんな出来事も、

実際は

現象の機能を構成しているにすぎない。

>  それぞれの個人にとっては
>  すべて自分自身の行為であり、
>  経験のように見えるが、
>  しかしながら、
>  基本的事実はと言えば、
>  どんな現象的対象物
>  (つまり、それは相対的に言えば、
>   感覚のある存在すべてのことである)も、
>  それ自身のどんな独立した実存も
>  もっていないのだ。

生命世界の中では

見かけ上のそれぞれの個人には

個々の出来事が

自分の行為のように見えても、

感覚のあるすべての存在は

実際は他者にとっての

現象的対象物に他ならない。

それは独立した実体ではない。

>  いったんこのことが明確に理解されれば、
>  すべての責任と罪悪感もまた、
>  感覚のある存在が
>  独立した実存と自主性と行為の選択をもっている
>  という間違った概念に基づく
>  想像的観念であることが自動的にわかるだろう。

いったんこれが明確にわかれば、

個々の感覚のある生き物が

独立した実体として存在している

という前提にもとづく責任や罪悪感が、

間違った概念に基づく

想像にすぎないことが自明になるだろう。

>  それでは、
>  人間的活動の様々な領域における
>  すべての優れた業績
>  ──芸術、科学、スポーツ、偉大な思想家たち──
>  についてはどうなのだろうか?
>  私たちは、
>  観念的現象にすぎない個人的人ではなく、
>  こういった様々な
>  物理的形態(人間)を「通じて」
>  意識によって為されている
>  業績を賛美すべきである。
>  実際に起こることを理解し、
>  それに関して明確になろう。
>  もし達成されたことが何であれ、
>  個々の人がそれを達成していないなら、
>  誰がそれをやっているのか?
>  その答えとは、
>  個人的には誰もやっていない、
>  というものだ。

では、

芸術や科学やスポーツ、

偉大な思想家たちといった

様々な領域の人間活動の

優れた業績についてはどうなのか?

それらの優れた業績は

個々人という想像上の架空の実体が

実現したものではない。

それらは人間という形態をつうじて

意識によって成し遂げられている。

では、誰がそれをやっているのか?

実際は、

それをしている者は存在しない。

>  プラーナを通じて
>  意識の中で現象の「機能」が起こり、
>  そのプラーナ、
>  この夢ショー全体の輝かしい俳優/演出家が、
>  現象であるこの偉大な夢ドラマの
>  すべての役割を演じている。
>  そして、
>  この意識している存在の源泉は非現象である。
>  感覚のある存在は行動し反応するように見えるが、
>  現実の機能は意識の中で起こる。

ただ意識の中で

現象化の機能が起こって、

ショー全体の輝かしい俳優兼演出家が、

この壮大な夢幻劇のすべての役割を演じている。

この意識ドラマの源泉はと言えば、

それはこの夢を見ている非現象以外にはない。

観られた夢の中では個々の生き物が

反応しているように見えても、

すべての機能は意識の中で起こっている。

──────────────────
 さらにマハラジは言います
 ──
  青空、美しい月、
  そして輝く星々を賞賛しよう。
  自然の美しさについての詩を書こう。
  時代を超えて、
  地上に降り立つ多くのアヴァター
  (神の化身たち)を愛そう。
  一日に四回のバジャンを歌おう。
  しかし、
  少なくとも本当の立場を理解することにしよう!
  私、非現象は
  意識の中のすべての「機能」である(!)ことを。
  
  最後に、
  私たちは自分自身にこう尋ねるかもしれない 。
  それなら、
  私は一日何をしているのだろうか?
  私たちこの世界の何百万の人々は
  自分の人生を生きているのだろうか?
  もし私たちが、
  自分が人生と知っているものを
  深く合理的に考えるなら、
  自分が来る日も来る日もやっているすべてのことは、
  対象化に他ならない
  という結論に簡単に到達することであろう。
  実に、
  現象それ自身が継続的対象化に他ならないのだ。
  なぜなら、
  熟睡しているときは、
  意識が休息し、
  必然的に対象化も止まり、
  だから対象化宇宙も止まる。
  熟睡しているとき、
  どんな自己も世界も神もない。
  
  私たちが自分でやっていると思っていることは
  対象化にほかならない。
  現象の機能は意識があるかぎり起こる。
  人は自分自身を
  不必要に行為者として一体化することによって、
  責任と罪悪感を引き寄せるのだ。
  意識の中味であるマインドが空白のとき
  ──それが断食ないし休息しているとき──
  マインドの紡織が止まり、
  それは静まる。
  マインドが「すること」を止めるとき、
  それは単に在る。
  対象化がないとき、
  私たちの絶対的存在が在り、
  顕現した宇宙はない──
  私たちは在る。
  あるいはむしろ、
  「私は在る」。
  少なくともこれらの基本的事実を理解しよう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p116)
──────────────────

だからすべての夢幻劇を称賛するといい。

>  しかし、
>  少なくとも本当の立場を理解することにしよう!
>  私、非現象は
>  意識の中のすべての「機能」である(!)ことを。

だが少なくとも

観ている自分の立場を理解するといい。

観ている非現象の自分こそが、

この夢幻劇の全「機能」であることを。

>  最後に、
>  私たちは自分自身にこう尋ねるかもしれない 。
>  それなら、
>  私は一日何をしているのだろうか?
>  私たちこの世界の何百万の人々は
>  自分の人生を生きているのだろうか?
>  もし私たちが、
>  自分が人生と知っているものを
>  深く合理的に考えるなら、
>  自分が来る日も来る日もやっているすべてのことは、
>  対象化に他ならない
>  という結論に簡単に到達することであろう。

私たちが日がな一日やっているのは

何なのだろうか?

本当にこの世の何百何千万という人々が

個々の人生を生きているのだろうか?

もし起こっていることを

深く合理的に考えるなら、

劇を見ている非現象の自分がしているのが、

意識の内容物の対象化に他ならない

という結論に達することだろう。

>  実に、
>  現象それ自身が継続的対象化に他ならないのだ。
>  なぜなら、
>  熟睡しているときは、
>  意識が休息し、
>  必然的に対象化も止まり、
>  だから対象化宇宙も止まる。
>  熟睡しているとき、
>  どんな自己も世界も神もない。

そして実際、

現象とは継続的対象化に他ならない。

なぜなら、

熟睡中には意識が休息し、

必然的に対象化も止まるため、

この夢幻劇は起こらないからだ。

非現象である自分が熟睡するとき、

そこにどんな自己も世界も神もない。

>  私たちが自分でやっていると思っていることは
>  対象化にほかならない。
>  現象の機能は意識があるかぎり起こる。

私たちの人生とは

意識の内容物の対象化なのだ。

そして意識があるかぎり

現象の全機能も起こることだろう。

>  人は自分自身を
>  不必要に行為者として一体化することによって、
>  責任と罪悪感を引き寄せるのだ。
>  意識の中味であるマインドが空白のとき
>  ──それが断食ないし休息しているとき──
>  マインドの紡織が止まり、
>  それは静まる。
>  マインドが「すること」を止めるとき、
>  それは単に在る。

意識の内容物の対象化し、

(非現象である)自分が

不用意に観ている夢幻劇の中の

行為者として一体化するとき、

その行為者は責任と罪悪感を引き寄せる。

非現象である自分の中味が空白のとき、

マインドは

夢を紡ぐことを止めて、静まる。

マインドが「すること」を止めると、

非現象である自分はただ在る。

>  対象化がないとき、
>  私たちの絶対的存在が在り、
>  顕現した宇宙はない──
>  私たちは在る。
>  あるいはむしろ、
>  「私は在る」。
>  少なくともこれらの基本的事実を理解しよう。

そこに対象化がないとき、

絶対的存在がただ在り、

顕現宇宙は存在しない。

「私は在る」。

少なくともこの基本的事実を理解しよう。

(-||-)

自分という背景の中で

意識の内容物の対象化が起こり、

いま非顕現である自分が

夢幻劇の一場面を観ているんでしょうね。

それがこの場面なのでしょう。

この場面以外の場面が

起こる可能性はありませんでした。

その可能性がなかったから

この場面が起こっているのでしょうね。

だからこの場面でいいわけです。(*^_^*)

別の場面を想像して、

空想上の比較をする必要もないですね。

その別の場面は

きっと夢幻劇の中の別の担当者が

実現してくれていることでしょう。

この夢幻劇の中では

それこそ無限数の担当者たちがいて、

今も想像もできないほどの数の

欲望の実現追求をしてくれていることでしょう。

たくさんの夢の仲間たちに感謝して

自分は今の中で休んでいいわけですね。(^_-)

それが誰の邪魔になるわけでもない。

「私は在る」。

しかし「二つはない」のですから。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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いろんな季節がありますね。

時代も変化してゆきますね。

これでいいのだと思います。

今日もまた暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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