home > 通信 >『アセンション館通信』第909号:オーストラリアは存在してない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/09/19(第909号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在494名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.オーストラリアは存在してない

2.編集後記
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■ 1.オーストラリアは存在してない
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今日の今頃は台風で大雨が降っているずでしたが、

なんと晴天ではないものの、

庭の木々はそよとも揺れていません。

今の天気予報は昔の天気予報とは違って、

細かい時間予報までありますが、

このところ結構外れている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

一週間が過ぎて土曜日が巡ってくるのが早いです。

どんどん早くなる。

きっとどんどん体験量が減少しているのでしょう。

そういうことを望んでいたのかもしれません。

何も体験しなければ何の問題もないわけです。

それでも一週間経ってこの画面に向かえば、

まったく同じ言葉が出てくることはない。

そういうものですね。

しかもその言葉を

pariが書いているというのも誇張です。

『夢へと目覚める』で

レオ・ハートンが引用している

ウェイ・ウー・ウェイの言葉が

そのことを教えてくれました。

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 トム、ディック、ハリーは、
 自らの名を記した本は
 自分が著したのだと考えている
 (絵を描いたり、
  教会を建てたり場合も同じだ)。
 だが彼らは誇張している。
 書いたのはペン、
 もしくは何か別の道具だ。
 そのペンを握っていたのは彼らではないか?
 そうではあるが、
 ペンを握っていたその手もまた道具であって、
 その手を操っていた脳についても同じだ。
 そうしたものは媒介物、道具、
 単なる装置にすぎない。
 たとえ最高の道具であったとしても、
 トムやディックやハリーといった個人名は必要ない。
 
 タージマハル、シャルトルの大聖堂、
 ランスの大聖堂、
 交響曲を思わせる幾多の大聖堂を建てた
 名も無き人々がそのことに
 もし気がついていたのだとしたら──
 そして道具としての自分を通じて創造された作品を
 自らの作と考えるような無作法を
 慎んでいたとするならば──、
 通り過ぎていく形而上的概念を書き留める者が
 同様にそのことをわきまえていても
 おかしくないのではないだろうか。

 https://amzn.to/2KkUkAu『夢へと目覚める』(p17-18)
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(@_@) ⌒★?

まさに、まさにです。

pariというのは、

他のあらゆる名詞と同じく、

あるレベルの集合名詞に他なりません。

たしかに、視覚的には

ひとつの顕著なレベルかもしれないけれど、

それをたとえばpariと固有名詞化して

他のレベルと差別化すれば、

それは大きな誤解の温床となりえます。

そこで温められ育まれた重層的な誤解は

そのpariという身体レベルの誕生から崩壊までの

生涯にわたる想像上の大惨事……

というのが大袈裟なら、

人生という観念的な夢を引き起こします。

しかしそれは、

pariという分離した個人に

起こったことではありませんでした。

実在する唯一無二の<現存>が

pariと固有名詞化された身体レベルで顕現した

ひとつの夢にすぎないものでした。

「一人芝居」という言葉があります。

芝居というからには、

そこには何らかの多様性として展開される

客観的個性の間で演じられる劇が暗示されています。

しかし「一人芝居」ではそのような関係性の劇が

一人の独演で演じられているわけです。

たとえ一人で演じられていても、

その芝居を見ている観客がいるなら、

その「一人芝居」は芝居として成り立ちます。

しかしもしその「一人芝居」が、

唯一無二、二番目のない非二元の

<一体性>によって演じられているとなると、

それを「一人」と言うことすら、

意味をなさないかもしれません。

そこに緊張は起こりえません。

緊張がありえないという意味での

安らぎはあるかもしれません。

しかもなおそこで、

劇が起こっていたらどういうことになるか?

それは想像するだに不思議な

奇跡というよりないものかもしれません!!

ヒロさんが翻訳された

『わかっちゃった人たち』は素晴らしい本ですね。
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この本を声を出して読むのはお薦めです。

「一人芝居」とは言わないまでも、

朗読劇の台本のつもりで読んでみる。

もし聴いてくれる方がいるなら、

どなたかに読み聞かせるのも一興です。

本当に語りの当人になったつもりで、

全身で台詞に共振しながら

思いを込めて読んでみると面白いかもしれません。

たとえば、

こんな感じです。

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 無関心の感覚があるかどうか?
 ある意味ではイエス、
 別の意味ではノーになるね。
 完全に生き生きとした感覚があって、
 ものごとにしっかりとつながってる感覚がある。
 それと同時に、
 ものごとに振り回されたり、
 巻き込まれたりすることはない。
 人生にちゃんと関わりながら。
 仕事もあるし、
 経営者の打ち合わせもあるし、
 そんなようなことがいろいろあって、
 登場人物としてそれをしている。
 登場人物はそういうことすべてを演じるんだけど
 そこに激しさはない。
 と言っても
 身を引いてなるように任せているわけじゃない。
 ちゃんと関与はしてる。
 ただ、
 結果に対する感情的なこだわりはない。
 それは行為の結果を知ることはできないから。
 望んだとおりにものごとが起こるかもしれないし、
 起こらないかもしれない。
 でもどうなろうと問題はないってこと。
 
 実際のところ、
 ほんとうに普通だね。
 じつにきわめて普通。
 それ以上のことは何もない。
 気がついたら自分が本棚になってたなんてこともない。
 本棚は僕じゃない。
 そういうスピリチュアルなことは何も起こらない。
 すごく普通。
 言ってみれば、
 自分の気づきに
 この瞬間に現れていることがなんであっても、
 それがすべてだってことだけだね。
 それが存在してるすべてなんだ。
 ほかには何も存在してない。
 
 オーストラリアは存在してない。
 頭の中の観念としては存在してるけど、
 それ以外にオーストラリアってものはない。
 今あるのは、
 どこかにオーストラリアと名づけられた場所が
 存在しているっていう頭の中の観念だけ。
 それが存在しているすべてなんだ。
 オーストラリアがどこに存在してるのか、
 僕に見せられるかい?
 つまり、
 「今この瞬間に」存在しているのは、
 オーストラリアが存在しているっていう
 頭の中の観念だけなんだ。
 それだけしか存在してない。
 下の階の玄関もそう。
 そんなの存在してない。
 気づきの中に生じてるだけなんだ。
 この部屋から出れば、
 現れるものが現れる。
 僕らの目の前に絶え間なく現れ続ける。
 気づきが空間を創っていて、
 空間を広げてるんだ。
 気づきが空間の中に
 広がっていくわけじゃない。
 
 『わかっちゃった人たち』(p85)
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この部分だけで言うなら、

まさにミナミAアシュタールの説明と同じですね。

そしてまた、こんな感じ。

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 いろんなことが起こって、
 マインドはその意味をつかもうとする。
 それがマインドの仕事だから。
 マインド意味づけをして、
 理屈づけをして、
 原因を探って、
 なぜかとか、
 それはこうだからとか、
 いろいろこねくり回すんだ。
 それがマインドがすること。
 実際は何の見当もつかないのに。
 どんなこともただ起こってるだけなんだ。
 ただ単に。
 マインドが割り込んできて
 「これはこれを意味するに違いない。
  あれは間違いなくそういう意味だな」
 とか何とか言うこともある。
 それはすらすら出てくる。
 ほんとうに何の苦もなく簡単に出てくる。
 
 それがマインドがすること。
 マインドはいつだって理解しよう、
 知ろう、
 解き明かそうとする。
 そういうことを全部しようとする。
 生き残ろうとしながらね。
 マインドがしようとしてるのは、
 自分が生き残るということだけなんだ。
 マインドがしてることといったら、
 マインド自身を守ろうという、
 それだけ。
 まるで安全じゃないみたいに。
 それに、
 自分がコントロール主体ですっていう感じで。
 実際は全然違うのに。
 
 結局それが伝えたいことだね。
 僕らはコントロールしてないんだってこと。
 自分でコントロールしていると思い込んでるよね。
 自分で選択してると思い込んでる。
 自分で決めてると思い込んでるんだ。
 でもそれは見かけ。
 すべてただの見かけなんだ。
 これは夢から目覚めるってこと。
 夢の中にね。
 
 『わかっちゃった人たち』(p87-88)
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この辺りは非二元とミナミAアシュタール情報の

ベクトルがまったく逆になるところ。

どちらに惹かれるかが運命と言えば運命、

恩寵と言えば恩寵なんでしょうね。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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書くことなんか何もないものだから、

こうして書写しています。

それもこの手が。(^_-)

そしてマインドが何やかや言葉を引き寄せる。

【マインドがしようとしてるのは、
 自分が生き残るということだけなんだ。】

(^_-)

今日はまだ明るいです。

ではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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