home > 通信 >「リーラ」:神の隠れん坊:『アセンション館通信』第911号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/10/03(第911号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在494名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「リーラ」:神の隠れん坊

2.編集後記
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■ 1.「リーラ」:神の隠れん坊
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台風一過の今日は、

すばらしい晴天です。

サンデッキの上や後ろの庭には

たくさんの落ち葉が散り敷いていて、

いまそれを連れ合いに分担を指図されながら

掃き清めてきたところです。

今度は誰にも指図されない

(そしてたぶん誰にも必要とされていない)

自分の道楽の時間。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ヒンドゥー教の伝統に

「Lila(リーラ)」という言葉があります。

「Leela」と英語表記されたりもします。

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 Lila or Leela can be loosely translated 
 as the "divine play". 
 
 https://en.wikipedia.org/wiki/Lila_(Hinduism)
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大まかに“divine play"と翻訳できる意味合いだそうで、

「神の遊び」とか「神聖遊戯」などと意訳されます。

でも、もう少し意味内容に立ち入って

「神様のかくれんぼ」と

意訳されている方がいるんですね。

神様が「かくれんぼ」をして遊んでいるというのです。

まあ、じつに見事な比喩というか……。

もしこの話が宇宙のブラックホールに

閉じ込められているという噂もある

この惑星地球でしか聞かれない話だとしたら、

その惑星地球に閉じ込められた

夢の中の登場人物にもなにがしの

ご褒美があったということかもしれません。

「神の隠れん坊」とは何を意味するのか?

誰が誰から隠れているというのでしょう?

「神の隠れん坊」という見事な比喩は、

別の言葉を使って、

【映画を観るには、
 
 スクリーンは無視しなければならない】

という意味だと言えるかもしれません。

映画館に行くのは映画を観るためであって、

スクリーンを見るためではありません。

映画『シネマパラダイス』にもあったように、

せっかく切符を買って映画館に入ったのに

掛けるフィルムが届いていないからといって、

白いスクリーンばかりを見せられたのでは

観客は腹を立てて「金を返せ」という話になる。

ことほどさように、

映画館にスクリーンがあるのは先刻承知です。

でも誰もスクリーンなど見にきていない。

映写機にフィルムがかかって、

スクリーン上に光の点滅が起こり、

銀幕上に展開される物語に共感したいのです。

スクリーンは映画鑑賞には必要不可欠です。

でもそれは実際には無視されるためにあります。

映画が観られるためには、

スクリーンは存在を消す必要があるのです。

それでこそ映画の物語世界に入り込める。

しかし、それにあまりに入れ込むと、

今度はそこから出られなくなる可能性もあります。

そのときです。

映画世界は単なる光の点滅にすぎず、

実際に存在しているのは

スクリーンであることを思い出す必要があるのは。

しかし、映画を観ているかぎり、

スクリーンの存在は隠れるわけです。

それが「隠れん坊」の意味です。

では「神」に喩えられた

「スクリーン」とは何なのか?

それは映画が始まる前も、

映画が始まってそれを観ている間も、

そして映画が終わって何も映っていなくても、

常に実際に存在しているものです。

そして実際には

それしか存在していないものです。

それは「実在」とも言われます。

“現に<いま・ここ>に在るもの”であるため、

「現存」と呼ばれることもあります。

すべての変化を映し出すものであるため、

“永遠不動の背景”とも言われます。

それは哲学的に

「本体(ヌーメノン)」とも言われます。

「純粋意識」と呼ばれることもあります。

「神聖遊戯(リーラ)」とは

「純粋意識の隠れん坊」なのです。

見る者と見られるものを合わせた「意識」を

映画の全体に喩えているのなら、

「純粋意識」とは

「絶対的主観性」とも言えるでしょう。

そして、

「神の隠れん坊(リーラ)」とは、

何が表現されても「純粋意識」は隠れる、

という意味をも包含していることでしょう。

そしてまた逆に、何が表現されても

それは「純粋意識」の顕現でもあるのでしょう。

「私」が気づいていなければ、

いかなる現象もありえません。

しかしまた、

気づいている「私」が

なんらかの属性を帯びたとたんに、

その「私」はもはや

「絶対的主観性」ではありえず、

そこに実現しているのは

「神の隠れん坊(リーラ)」なのです。


「リーラ」の中に何かを求めること、

それが幻影の中で溺れること。

想像の中に意味を求めることが、

無知の印なのでしょう。


「私」の外に、

客観的に存在するものなどありえません。


想像され知覚されるものはすべて、

単なる想像としての観念であるか、

時間と空間という観念装置に支えられた

知覚の対象物としての観念にほかならず、

あらゆる意味が単なる空想にすぎないことが

これほどはっきりしても、

なおかつその

空想の中で彷徨わなければならない。

そしてまだ

想像の物語の中に

何かの根拠を求めようと足掻くのです。

それがただの想像にすぎないことに

まだ得心が行っていない……

とでも言うのでしょうか?

この上なにを納得すべきなのか?

しかし、

何かをできる分離した実体としての

わたしなど存在しません。

すべては

「神の隠れん坊(リーラ)」なのです。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はまだまだ明るいです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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