home > 通信 >八鍬先生の思い出:『アセンション館通信』第912号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/10/10(第912号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在494名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.八鍬先生の思い出

2.編集後記
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■ 1.八鍬先生の思い出
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いまこのモニターの左側に

広がっている青空を見ながら

このテキストを書いているのは誰なのか?

たしかに、

このモニター画面もその背後の壁も

左側のガラス戸の向こうに広がる外の景色も

一面に広がる色彩にほかならないし、

その色彩の遠近法的アニメーションが想像させている

対象物の形体と空間の広がりに他ならない。

それらの色彩の広がりを投影しかつ眺めながら、

同時に漫画の吹き出しのように浮上してくる想念を

見ているのは誰なのか?

それらすべてを観ている<これ>。

それらすべてを創造しているのが

そこに身体として登場しているpari個人などで

ありえないのは言うまでもない。

pariの身体はガランドウ。

pariの身体はVRゴーグル。

そこに物質としての実体などありません。

道具が夢を観ることなどできません。

<いま・ここ>で誰が夢を観ているのか……。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

子供のころ毎週日曜日に画家の先生のところに

絵を習いに通っていたものでした。

父親がとても教育熱心な人で

その先生に自分で話をつけに行ったのだと思います。

と言っても、

それはずいぶん昔の話ですから、

その先生は絵画教室など開いておらず、

いわば本当の画家でした。

それも変な言い方ですね。

要するに油絵を描く以外は何もしていない方でした。

八鍬先生とおっしゃる方で、

奥様と小学生の男の子の三人のご家族でした。

八鍬先生は足が悪くて歩くのが不自由な方でした。

なので静物画や肖像画を描かれていました。

家には奥様の肖像画が何点か置かれていたものです。

いま考えてみると、

こういう方を見つけてその方と連絡を取り、

息子に絵を教えてほしいと頼むなど、

父の教育熱心はちょっと常軌を逸していたかもしれません。

でもおかげさまで、

当時小学五年生になっていたわたしは、

毎週日曜日が来ると当然のごとく

朝八時には弁当をもたせてもらっていそいそと、

途中で鉄道の踏切を越えてゆく三、四十分の道程を歩いて

鉄南のその八鍬先生のお宅にまで出かけたのでした。

と言っても、八鍬先生のご自宅で

パステルの静物画を描いていたのは最初のころだけでした。

じきに先生から

外に出て水彩で風景画を描くように指導されたのです。

それからは朝ご自宅に伺って先生にご挨拶すると、

すぐにその日のポイント探しに出発しました。

これはとても性に合っていたのか、

わたしは時間を忘れて風景の写生に没入しました。

いまこうして回想してみても、

こんな上辺の大まかな状況は思い出せても、

いちばん没頭して充実していたはずの

その一日の大半を過ごして写生をしていた時間のことは

まるで思い出すことができません。

先生からは四時をすぎたら適当なところで

終わりにするように言われていたと思います。

そして五時ころ先生のご自宅で講評を受けるのです。

ときには一筆かふた筆、

絵に手を入れてくださることもありました。

すると、それだけで

絵がまるで違った深みをもち、輝きを放つのが

子供のわたしにもわかったものです。

家に帰るとじきに暗くなったような気がします。

あの時間はどこに存在するのでしょうか?

先生も奥様もおそらく今はいらっしゃらない。

環境を作ってくれた父親も

弁当を作って送り出してくれたはずの母親もいまはいません。

あのような時間の存在を知っている人はもういない。

今この瞬間にわたしの回想の中に現れただけです。

そしてそもそもあの写生の没頭していた時間は

当時のわたしの記憶の中にすら存在しない……。

中学生になってからは油絵を教わりました。

これは一日で一つの作品を仕上げた水彩と違って、

何週間かをかけて仕上げたものでした。

最後のころ一度だけ先生の薦めで

地元の大人たちの展覧会に出品したことがありました。

そういうことがとても好きだったのか、

子供のころわたしは

画家になりたいという夢をもっていた時期があります。

しかし、父親はもちろん

わたしを画家にしたかったわけではありませんでした。

父からは、画家で生活するのは難しいから

やめておいたほうがいい、と言われたものです。(*^_^*)

父は本屋のことは知っていましたが、

画家にはなったことがないわけですから

画家になることを勧めるわけにはいかなかったでしょう。

そのときどのくらい悔しかったかは

今ではよく思い出せませんが、

いずれにせよ、そういうものかと思って

わたしは画家になる夢は諦めました。

素直というか、

あまり意志が育っていなかったというか、

そういう運命だったというか……。

まあ夢の劇の中では

いろんな解釈が成り立つだろうと思います。

アドヴァイタ(非二元論)風に言うなら、

夢の中でその筋書きを独自に変更できる

分離した主体としての登場人物など存在しえない

ということなのかもしれません。

あるいは

ミナミAアシュタール風に言うなら、

これまでの三次元世界のテラでは

確かにそうだったかもしれないけれど、

実際は波動宇宙というのは

そこに充満している意識エネルギーが

瞬間瞬間の思考エネルギーの刺激で形成されるのだから、

絶対無限の存在の夢の中に根拠をもち

絶対無限の存在から

その自由の表現を委託されているわたしたちは

常に<いま・ここ>において自らの思考で

自分が体験する世界を変えることができる、

ということなのかもしれません。

またアドヴァイタ的観念といい

ミナミAアシュタールふうの観念といい、

両者は見かけほど異なる状況ではないのかもしれません。

顕現宇宙に関わること、

つまり多様性に関わること、

すなわち現象宇宙に関わることはすべて、

客観的対象物として独自に存在してなどいません。

二番目のない<一体性(ワンネス)>のなかに

絶対的主観性とは別個に(絶対的主観性の外側に)、

客観的対象物として存在するものは何もありません。

現象宇宙に関わるすべては

実在する二番目のない<一体性(ワンネス)>のなかの

観念としてしか存在していないのです。

現象宇宙を構成する多様性はすべて、

「二元性の原理」の支配下にある

比較と対消滅を構造的前提とした

一大観念構造(意識内容)の要素としてしか存在しません。

あらゆる現象とその意味は

すべて<いま・ここ>で想像されているのです。

それ以外に意味というのは存在しません。

それゆえ、

いかなる瞬間に想像されたいかなる観念も、

その瞬間以外の瞬間を代表することはできません。

いかなる次元のいかなる理解も、

その瞬間やその理解以外のものを代替することも

総括することもできないということです。

あらゆる意味、あらゆる理解は

それぞれが単なる一つの想像にすぎません。

それ自身以外のどんな瞬間を

評価することも、

代替することも、

総括することもできません。

なぜなら、

どんな瞬間も、どんな理解も、どんな観念も、

それが現れた瞬間にのみ存在しており、

ほかの瞬間や理解や観念によって、

理解されたり、総括されたりする瞬間にまで

客観的に存在してなどいないからです。

一瞬の打ち上げ花火が、

それ以前の打ち上げ花火やその意味を

理解したり、総括したりなどできるものでしょうか?

比較や、理解や、総括というのは、

それぞれがつねに一瞬一瞬に打ち上げられる新たな花火であり、

それぞれが新たな観念、新たな想像にすぎません。

そして……、

現れはすべて一瞬の変化の相にすぎません。

“一瞬の変化の相”だからこそ、

それは顕れることができるのです。

それを永遠の不動が映し出しているのです。

その永遠の不動こそが<それ>です。

そして<それ>が「私」です。

むろん、pariではない。(^_-)

pariは一瞬の光景の点景です。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はまだまだ明るいです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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