home > 通信 >トニー・パーソンズの存在(being):『アセンション館通信』第913号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/10/17(第913号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在494名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.トニー・パーソンズの存在(being)

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.トニー・パーソンズの存在(being)
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すっかり涼しくなりました。

涼しくと言うより、

こういうのは寒くなったというのかな?

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

なんの問題もない状態から

何かを求める状態が発生するようです。

別の言い方をすれば、

無から有が生じるとも言えるでしょう。

何も無いところから、

どうして藪から棒に何かが現れたりできるんだ?

という理屈もあるかもしれませんが、

それはすでに何かが生じたあとの

その生じた何かの中の部分として生じた

後付けの理屈でしょうから、

その先どんな理屈が展開したところで、

それは有が生じる前の源泉である

無の知ったことではないことでしょう。

無から生じてしまった有は、

藪から棒に生じてしまった自分に戸惑って、

自分がいったい何なのかを、

やたらに知りたくなってしまうようです。

ところがこの

“自分が何なのかを知る”という

一見素朴な欲求はなかなか陥穽に富んでいるようです。

無邪気にその願いについてゆくと

八幡の藪知らずのようなところに導かれかねません。

というのも、

自分が何であるかを知るということは、

自分の境界線を見極めるみたいなことだからです。

ところがこの“自分の境界線を見極めたい”という欲求には

暗黙裡にすでに別の前提が紛れ込んでいます。

まず、

“自分の境界線を見極めたい”という意図には

“自分には境界線が在る”ということ、

しかも“その境界線は見極められる”という思い込みが

忍び込んでしまっているわけです。

安易にそういう思い込みを許してしまうと、

さらに別の前提を密輸入してしまいかねません。

つまり、

もし“自分に境界線が在る”とするなら、

その“境界線”は“自分”と“自分以外”の間に

在ると想定されることになる。

となると、当然、

“自分以外”が在ることがまたまた前提されます。

そして、

“自分の境界線は見極められる”という観念は

“自分”には限界が在ることを前提してしまっている。

どうでしょう! この状況の急転回は!

藪から棒に無から生じてしまった有は、

ただ“自分が何かを知りた”かった

だけかもしれません。

しかし、たったそれだけのことで、

すでに、

自分を知りたい有は

“自分には限界が在ること”。

“自分”と“自分以外”が在ること。

そして“自分”は、

“自分”と“自分以外”の間にある

有限の“境界線”で制限されていることを

知らず識らずのうちに

暗に前提してしまっていたのかもしれません。

もしかしたら、

“知りたい”という欲望は

なんの不足もない状態から

何かが不足している状態を引き起こすための

魔法のトリガーなのかもしれませんね。(^_-)

一つひとつの“知りたい”という欲望は、

暗黙裡にさらなる前提を折り込みながら

個々の“知りたい”エネルギーに応じた

当座の解答を引き起こすかもしれません。

そうして出来上がったのが

わたしたちが現在住み前提としている

この現象世界なのだとしたらどうでしょう?

そして事実、わたしたちはいつの間にか

つねに何かを求めるようになってしまっています。

(この惑星テラでの夢は、

 また特別なのだというお話は、
 
 これまた藪から棒に無から誕生した
 
 有の中の後付の物語の一部なのでしょう。)

わたしたちは誰の責任でもない

後付の物語の中で苦しんでいるのかもしれません。

──────────────────
 そこには想像があるだけだ。
 知性とエネルギーは、
 あなたの想像のなかで
 すべて使い果たされてしまった。
 あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、
 どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえ
 わからなくなってしまったのだ。
 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
 宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。
 それにもかかわらず、
 それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、
 実際は存在しないのだ。
 
 『私は在る』(p306-307)
──────────────────

(-||-)

ヒロさんが残してくださったサイト

「resonanz360 塩人間の海底探検」に

【トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋】

という記事が4ページにわたって

掲載されています。

トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その4
トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その3
トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その2
トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その1

ヒロさんはここで『Nothing being Everything』からの

抜粋翻訳を掲載してくださっているのですが、

これは木悠鼓さんが翻訳された

『何でもないものが あらゆるものである
  - 無、存在、すべて -(覚醒ブックス)』
http://goo.gl/f5mlKO

が出版されるより以前のことですね。

わたしはヒロさんのサイトでは

トニー・パーソンズの文章に触れたのは

それほど早くからではありませんでした。

ヒロさんのブログの最初のころの記事を読んだのは

ずっと後になってからのことでした。

この記事を知ってからはこの翻訳を何度か読みました。

最初のころどんなふうに読んでいたのか?

この記事をこうして残してくださっているのは

ありがたいですね。

「取り付く島もない」というふうにも聞こえるはずの

トニー・パーソンズの言葉が、

こうして余裕をもっていま読んでみると、

不思議なほどに違和感がないですね。

そういう感じ全体がこれまた誤解ということも

当然ありえるわけですが。

ここではちょっと

【トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その2】

から抜粋して転載させていただきます。

──────────────────
 Q. 存在しているのは気づきだけだと言いましたね?
 
 A. そうではなく、あるのは存在だけです。
   気づきは、存在の中で、
   起こったり起こらなかったりするものです。
 
 Q. ただ存在だけがあると。
   あと、
   気づきというものは感覚の一つだと言っていました。
 
 A. ええと、気づきというのは、
   私の理解では過渡的な状態で、
   そこにいたり、
   いなかったりするような一種の場所です。
   気づきもまたストーリーの中に存在しています。
   
   ……
 
 Q. ひっきりなしに私たちのところにやって来る
   いろいろな情報をどうしたらいいですか?
 
 A. どうもしません。
 
 Q. どうもしない?(笑)
 
 A. 何かをできる誰かというのは存在していませんし、
   しなければいけないことも、
   知らなければいけないことも何もありません! 
   何かができるような誰かというのが
   存在したことは一度もありません。
   自分は何かできるとか、
   自分は何かをすべきだというような考えは
   完全なる思い違いであって、
   そういう考えがあるせいで、
   人間は分離の感覚にしっかりと結び付けられています。
   なぜ何かをする必要があるのでしょうか? 
   ものごとはただ起こっているだけです。
   すべては完璧に完全であり、
   何も不足しているものなどありません。
 
 Q. じゃあ、
   私たちは何に気づいているべきなんでしょうか?
 
 A. 気づくべきことは何もありません(笑)。
   気づいていないといけない、
   というような義務がまた出てきましたね。
   気づきは一時的な状態です。
   ただものごとは起こるだけで、
   それがあるだけです。
   何かに気づいているというような観念は罠です。
   気づきは他の存在を必要とします。
   だから、
   気づきは二元性のストーリーの中にあります。
   他者というものは本当には存在していません。
 
 Q. そうは言っても、
   起こることというのは変化しますよね。
   瞬間瞬間に変化します。
   不変ではありません。
 
 A. そうです。
   確かに変化するように見えます。
   でも、すべてのことは
   変化しているように見えるだけであり、
   違っているように見えるだけであり、
   他のものと区別できるように見えるだけです。
   起こっていることはすべて、
   存在が見かけの上で生じているだけです。
 
 Q. では、不変なものはどこにあるのでしょうか?
 
 A. 不変なのは存在です。
   存在はどこにもなく、
   またあらゆるところにあります。
   起こっていることというのは、
   存在が現れて、
   動き回っているということです。
   存在があるものすべてです。
 
 Q. では、
   起こっていることとの関係で言うと、
   私はどこにいるのでしょうか?
 
 A. あなたはいません。
   存在している人は誰もいません。
   関係というものはありません。
   あるものすべては存在であり、
   「私」という概念はその存在の中で生じます。
 
 Q. うーん(笑)。
   じゃあ、それを知って何になるんですか?
 
 A. まったく何の価値もありません。
   ここではまったく何も提供されていないんです。
   何の価値もありませんし、
   何も提供されません。
   この場で起こりえることのなかで、
   もっとも素晴らしいことがあるとしたら、
   それは、何も起こらないということです。
   もしここを出る際に何かを得て帰るのであれば、
   あなたはまだ何かを持っている誰かだ
   ということになります。
   「いま私にはこれがある。
    これは私のもので、
    これで何かをしよう」と。
   このメッセージを
   本当に聞くということが起こったときには、
   得ることができるものも
   知ることができることも何もない、
   ということが理解されるでしょう。
   起こることが見かけの上で起こり続けるだけです。
  
  どこも行くべきところはありません。
  目標もありません。
  ご褒美はありません。
  賞品もありません。
  あるものすべて、それがこれです。
  でも、
  起こっていることがただ起こっているというのと、
  起こっていることは自分に起こっている
  という感覚がそこにあるのとでは、
  無限の違いがあります。
  
  https://bit.ly/2YW9cxH
──────────────────

>  Q. 存在しているのは気づきだけだと言いましたね?
>  
>  A. そうではなく、あるのは存在だけです。
>    気づきは、存在の中で、
>    起こったり起こらなかったりするものです。

ニサルガダッタやラメッシ・バルセカールは

【存在するのは意識だけ】

という言い方をしていましたが、

トニー・パーソンズの場合は

【あるのは存在(being)だけ】

という言い方になるようです。

また「気づき」という言葉は

マハラジやラメッシ・バルセカールの用語法では

自らの存在に気づいていない純粋意識の状態

を表すために使われていました。

トニー・パーソンズの用語法では、

being の見かけの状況に応じて、

起こったり起こらなかったりする

対象物に対する主体意識を指すようです。

>  Q. ただ存在だけがあると。
>    あと、
>    気づきというものは感覚の一つだと言っていました。
>  
>  A. ええと、気づきというのは、
>    私の理解では過渡的な状態で、
>    そこにいたり、
>    いなかったりするような一種の場所です。
>    気づきもまたストーリーの中に存在しています。

トニー・パーソンズの「気づき」という概念は

マハラジやラメッシ・バルセカールの場合の

「私は在る」の概念に近い感じですね。

むろん、

使い方はは用語自体の包含が違うので

変わってくるでしょうけど。

>    ……
>  
>  Q. ひっきりなしに私たちのところにやって来る
>    いろいろな情報をどうしたらいいですか?
>  
>  A. どうもしません。
>  
>  Q. どうもしない?(笑)
>  
>  A. 何かをできる誰かというのは存在していませんし、
>    しなければいけないことも、
>    知らなければいけないことも何もありません! 
>    何かができるような誰かというのが
>    存在したことは一度もありません。
>    自分は何かできるとか、
>    自分は何かをすべきだというような考えは
>    完全なる思い違いであって、
>    そういう考えがあるせいで、
>    人間は分離の感覚にしっかりと結び付けられています。

このあたりは、

トニー・パーソンズも

マハラジやラメッシ・バルセカールも

ほぼ同じ言い方をしそうですね。

>    なぜ何かをする必要があるのでしょうか? 
>    ものごとはただ起こっているだけです。
>    すべては完璧に完全であり、
>    何も不足しているものなどありません。

ここも同じでしょうけど、

ただお金を話題にするときだけは、

ニサルガダッタもラメッシ・バルセカールも

トニー・パーソンズも三者三様の

話し方になるかもしれませんね。

ラメッシ・バルセカールは、

「私はお金のない人にこういう話はできません。

 貧乏人にスピリチュアルな話をするのは、
 
 傷口に塩をすり込むようなものです」

といった話し方をする方ですよね。

トニー・パーソンズはどこかで、

「ただお金だけは稼いでください。

 私のミーティングに出るのに必要ですから。
 
 これは大事です」(*^_^*)
 
などとジョークを飛ばしていましたね。

トニー・パーソンズ SANDヨーロッパ2013での講演
https://resonanz360.wordpress.com/2013/07/08/tony-sand-2013/

の中だったかどうか。

>  Q. じゃあ、
>    私たちは何に気づいているべきなんでしょうか?
>  
>  A. 気づくべきことは何もありません(笑)。
>    気づいていないといけない、
>    というような義務がまた出てきましたね。
>    気づきは一時的な状態です。
>    ただものごとは起こるだけで、
>    それがあるだけです。
>    何かに気づいているというような観念は罠です。
>    気づきは他の存在を必要とします。
>    だから、
>    気づきは二元性のストーリーの中にあります。
>    他者というものは本当には存在していません。

トニー・パーソンズは

「気づき」という言葉をこの意味で使うようです。

>  Q. では、不変なものはどこにあるのでしょうか?
>  
>  A. 不変なのは存在です。
>    存在はどこにもなく、
>    またあらゆるところにあります。
>    起こっていることというのは、
>    存在が現れて、
>    動き回っているということです。
>    存在があるものすべてです。

見かけの出来事はすべて

being が現れて動き回っているだけ。

そこに誰かがいるわけではない。

>  Q. では、
>    起こっていることとの関係で言うと、
>    私はどこにいるのでしょうか?
>  
>  A. あなたはいません。
>    存在している人は誰もいません。
>    関係というものはありません。
>    あるものすべては存在であり、
>    「私」という概念はその存在の中で生じます。

「私」という概念は

being の一つの現れの形態。

>  Q. うーん(笑)。
>    じゃあ、それを知って何になるんですか?

ふふ。

>  A. まったく何の価値もありません。

これをこう言い切ってくれるのは、

それを求めている being の状態にとっては

ありがたいですね。

>    ここではまったく何も提供されていないんです。
>    何の価値もありませんし、
>    何も提供されません。
>    この場で起こりえることのなかで、
>    もっとも素晴らしいことがあるとしたら、
>    それは、何も起こらないということです。
>    もしここを出る際に何かを得て帰るのであれば、
>    あなたはまだ何かを持っている誰かだ
>    ということになります。

まさに。

>    「いま私にはこれがある。
>     これは私のもので、
>     これで何かをしよう」と。
>    このメッセージを
>    本当に聞くということが起こったときには、
>    得ることができるものも
>    知ることができることも何もない、
>    ということが理解されるでしょう。

そういうことですよね。

>    起こることが見かけの上で起こり続けるだけです。

見かけの上で悩むということが起こっているだけで。

それが起こっているときは、

being がその状態で現れている。

>   どこも行くべきところはありません。
>   目標もありません。
>   ご褒美はありません。
>   賞品もありません。
>   あるものすべて、それがこれです。

はい。

>   でも、
>   起こっていることがただ起こっているというのと、
>   起こっていることは自分に起こっている
>   という感覚がそこにあるのとでは、
>   無限の違いがあります。

それが起こるのはプロセスではないけれど、

それが起こるまでは

プロセスがあるかのような見かけが起こる

かもしれない、と。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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午後から雨が降り出しました。

今日はまだまだ明るいです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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