home > 通信 >私は非顕現:『アセンション館通信』第916号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/11/07(第916号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私は非顕現

2.編集後記
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■ 1.私は非顕現
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今日もまたポカポカ陽気。

ありがたいことです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

マインドに注目すれば、

マインドは常に何かの想念として湧いてきます。

そのマインドの展開の姿に巻き込まれて

その姿を追いかけつづければ

それは求める何かであるようにも見えます。

でも実はそれはただ

隙間を埋めるためにその瞬間配達された想念にすぎず、

それが求める何かである根拠などありません。

そもそも誰が何を求めているのか?

何かを求めれば次の想念は湧いてきます。 

しかし誰が何を求めているというのか?

「私は在る」。

しかし私は何かであるわけではありません。

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 対象宇宙は無数の形態を投影し、
 消滅させている。
 つまり、
 そのイメージは始終変化し続けている。
 しかし、どうして「私」が
 このことを気にするだろうか?
 私はこのすべての出来事の
 単なる観照者にすぎない。
 出来事の最中に起こることが何であれ、
 それぞれの場合に、
 ただ肉体精神器官に影響するだけで、
 「私は在る」の「私」には影響はないのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p106)
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しかしもし自分をこの身体と見なしたら、

たちまちその身体は

対象宇宙で展開される物語のなかで

個人として動き出すことになるのは間違いない。

そしてその個人こそが

いつかその不条理さに耐えられずに、

<何故にすべては始まってしまったのか?>などと、

呟やきだしていたのです。

現に<いま・ここ>に現われている顕現は、

いまこの瞬間に現れているだけの

つかの間の【見かけ】にすぎないことは明らかです。

しかしもしその一瞬の【見かけ】を追いつづけたら、

たちまちこの身体を取り囲む

現象宇宙という一大構造体が立ち上がってきます。

【見かけ】のなかのこの身体は個人となって、

いつの間にかまわりを取り巻く現象世界の

虜囚になり果てていることでしょう。

そこで展開されている物語は

その個人の観点からするなら

この上もなくもっともらしい構造によって

支えられることになります。

そこではどんな疑問に対しても

たちまち問う者が納得する解答が配達され

問えば問うほど背景の現象宇宙は

一見深遠な構造となって立ち現れることでしょう。

現象世界で身体が歩む個人の物語を

その個人として楽しめるのなら

もちろん楽しんだらいいのです。

しかしそこで創造される物語の中に

私が求めているものが現れることはない。

なぜならその求めている“私”自身が

現象世界の一部だから。

その“私”は顕現の中の物語の部品にほかならない。

夢見られているその“私”が

何かを求めることなどできるでしょうか?

いやそれは読まれている物語の中の黒い文字のようなもの。

スクリーン上に映し出された光の点滅のようなもの。

何かを求める実体などではありえない。

では誰が求めているというのか?

それは顕現として展開される物語を観ている者です。

しかしその者は何かを願ってはいません。

なぜなら、何かを願ったとたん、

願ったその者は属性を担った何者かとして顕現の一部になり

展開する物語の中に取り込まれてしまうからです。

展開する物語の一部になってしまっては、

物語を展開することはできない。

スクリーンが投影される光の点滅に染まってしまっては、

もう映画を映し出すことができないようなものです。

スクリーンは映画には染まらない。

だからこそスクリーンは映画を映し出せるのです。

私は非顕現。

非顕現である私はすべての顕現を観照しています。

非顕現である私がいなくては顕現はありえない。

あらゆる顕現は非顕現である私ではない。

私はあらゆる顕現を愛し、受け容れ、観ている。

しかしまた、

非顕現である私はあらゆる顕現でもある。

なぜなら、私が観ているすべては

私が観ているがゆえに顕現でありえているのだから。

私が観ているがゆえに在りえているあらゆる顕現は

すでに私自身の顕現にほかならない。

あらゆる顕現は非顕現である私の顕現にほかならない。

私は非顕現。

非顕現である私がすべての顕現として現われている。

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 現象とは別に創造された何かでも、
 また投影された何かでさえもなく、
 実に非現象が
 観念化ないしは対象化されたものである。
 言い換えるなら、
 その違いは純粋に観念的なものである。
 その観念がなければ、
 それらは分離することができず、
 現象と非現象の間に
 現実には二元性はないのだ。
 
 このアイデンティティ
 ──この分類不可能性──
 が理解への鍵、
 というより
 私たちの本質を直感的に理解する鍵である。
 なぜなら、
 もし現象と非現象の間の
 基本的融合が見失われれば、
 対象化と観念のぬかるみの中で
 行き詰まってしまうだろうからだ。
 いったん、
 非現象は私たちであるすべてであり、
 現象は私たちが分離した対象物として
 そう見えるものであることが理解されれば、
 どんな実体も
 私たちの本質に関係することはできない
 こともまた理解され、
 それゆえ、
 解放を必要とする実体という観念が
 ナンセンスなものと見なされることであろう。
 そして、
 「解放」がもしあるとすれば、
 まさに束縛と解放という観念からの
 解放であることがわかるだろう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p109)
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(-||-)

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 マハラジは、
 私たちがいつもいっしょにいる仲間は意識であり、
 自分の意識の流れに継続的に注意を払うことが、
 私たちを絶対
 ──根本的実存、生命−愛−喜び──
 へ連れて行くということを、
 私たちに決して忘れさせません。
 マハラジによれば、
 意識していることをまさに意識することが、
 すでに絶対に向かう運動であるということです。
 マインドはそのまさに性質によって、
 外向きで、
 物事の源泉を物事それ自身の
 内部に求める傾向があります。
 マインドが内なる源泉に向けられるとき、
 それはほとんど
 新しい生活の始まりのようなものです。
 絶対が意識にとって替わるのです。
 意識の中の一つの思考である
 「私は在る」が停止します。
 気づきの中においてはどんな思考もありません。
 気づきは意識の源泉です。
 マハラジは
 「静かに座って、
  マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
  素晴らしい霊的練習である」
 と私たちに提案します。
 私たちが思考と呼んでいるものは、
 水の表面のさざ波のようなものです。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p43)
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>「静かに座って、
> マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
> 素晴らしい霊的練習である」

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日は比較的涼しかったので

以前から懸案にしていた杉の樹を

まずは一本チェーンソーで切りました。

その杉の樹の姿を見て

南北どちらの方向に倒すかを判断するのだけれど、

今日はそれが成功してとても自信に繋がりました。

思った方向に傾いでくれないと、

チェーンソーが重くなって切れなくなるのです。

ありがたかった。(-||-)

とは言っても切り倒したわけでもありません。

まだ他の立木にもたれかかって斜めに立っています。

どういうわけやら。

(*^_^*)

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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