home > 通信 >誰が苦しむのか?:『アセンション館通信』第917号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/11/14(第917号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.誰が苦しむのか?

2.編集後記
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■ 1.誰が苦しむのか?
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今日もまたポカポカ陽気。

ありがたいことです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

二十代のはじめころ確信したことがあります。

それは人生には

その瞬間が支えたその意味以外に、

他のどんな意味もあるはずがない

という直感的確信でした。

ある人が人生のある瞬間に感じたその意味を、

それ以外の誰のどんな理解や意味が

それを代替したり、代表したり、

包摂したり、保証したり、

無かった以前に戻したりできるだろうか?

そんなことができるはずがない!

という直感的確信でした。

過去のあるとき釈尊が悟りを得て、

山川草木悉皆成仏したという。

しかし今、この自分は迷い苦しんでいる。

今のこの自分の苦しみは

過去の釈尊の成道によって未発にもなっていないし、

無かったことにもならない。

そんなことができるはずがない!

今ここで起こっている

どんな人のどんな瞬間も

それ自体のために現象しており、

他のどんな理解によっても代替不可能な

固有の瞬間でしかありえないと。

その直感はその後の

わたしの判断の基準になりました。

人生がそういうものであることは間違いない。

さて、ところで

別にこんなモノ要らないではないか?

と思ったわけです。(*^_^*)

<何故にすべては始まってしまったのか?>

というのがその後の人生を賭けた問いといえば問いでした。

人が人生の意味を問う、

つまり今の瞬間の意味を未来の観念に求めるのは、

自分が体験しているいまこの瞬間の「意味」が

明かされるような別の瞬間とか理解が

ありうると考えるからでしょう。

もちろん、人生は変化します。

新たな瞬間はもちろん

新たな理解や解釈を生み出すでしょう。

より包括的で深遠で普遍的な理解も

もちろん浮上するかもしれない。

しかしそれは、

今のこの瞬間の未熟で浅薄な苦しみや理解が

その包括的で深遠な理解に到達するための

過程だということなのだろうか?

その最深の理解を聴いたら

この未熟な理解は満足のあまり蒸発したり、

恥じ入って消滅すべきだというのか?

では未熟で粗野な苦しみや理解なしに、

深遠で普遍的な理解だけで現象できるというのか?

すべてはただ

現象構造体という一大空中楼閣の一族郎党、

大小様々の部品にすぎないのではないか。

誰のどんな瞬間のどんな意味も理解も解釈も、

それ自体がそれ自身のために現象している。

誰のどの瞬間の理解や意味も、

その意味ではまったく同じでしかありえない。

どんな理解も意味も

他の理解や意味に代わることなどできない。

つまり、あらゆる瞬間の意味は、

その瞬間そのように現象し、

支えられたその意味以外ではありえない。

まあ、あるときそんな思いが起こったわけです。

思考エネルギーは

それに見合った思考を引き寄せるようです。

けっきょくその思考は

マハラジが伝える観念に出会うことになりました。

マハラジはこう教えてくれました。

全現象は知覚に依拠していること。

何かを知覚するには空間的広がりが必要であり、

また知覚を可能にするには継続が必要であり、

それには空間−時間の概念が不可欠であること。

人間の身体が提供する感覚機能とは、

電磁気的刺激を解読して

それを時空間現象として展開する機能と言えます。

(これがミナミAアシュタールが言う

「人間の身体は超高精細VRゴーグル」の意味でしょう。)

要するに、

全現象とはそれ自体が意識内の観念であり、

全宇宙とは一大観念構造体であると。

かくてマハラジは意識内の全現象を

「不妊の女性の子供」に喩えたわけです。

すべては意識の戯れです。

ただしその瞬間に現われた意識内容は

一つの表現としてそれ自体が認識の対象物であり、

その表現を観ている主観性ではないとも言えるでしょう。

<何故にすべては始まってしまったのか?>とは、

意識的体験自体が一つの苦しみと感じられたゆえの

疑問であったことは間違いありません。

では、なぜ体験自体が苦しみと感じられたのか?

そもそも苦しむのは誰なのか?

ラメッシ・バルセカールが描く

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』の最後近くに

【51 誰が苦しむのか?】

という一節があります。

今回はこの一節を眺めてみたいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 51 誰が苦しむのか?
 
 
 訪問者の数が少ないとき、
 マハラジはよりざっくばらんに
 より打ち解けた様子で話す傾向があります。
 しかし、
 彼の小さなロフトの部屋が満杯になるとき、
 彼は最初に
 誰か質問のある人がいるかどうかを尋ねるのですが、
 その質問は、
 人がこの世の中で何をすべきで、
 何をすべきではないかということに関連しては
 いけないという制限的、
 というよりむしろ抑制的条件を
 たいてい彼はよく付け加えます。
 言い換えるなら、
 その質問は肉体との一体化なしに(!)
 尋ねられるべきだということです。
 この制限は、
 時間の無駄になるだけの
 表面的で不真面目な質問を排除することを
 意図していたのでしょう。
 人々が自分の個人的問題の複雑さに
 どう取り組むのかを、
 彼に尋ねてはいけない
 ということもまた了解されています。
 マハラジは、
 自分は予言者でもないし、
 奇跡の人でもないことを何度も明言しています。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p274)
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> 人がこの世の中で何をすべきで、
> 何をすべきではないかということに関連しては
> いけないという制限的、
> というよりむしろ抑制的条件を
> たいてい彼はよく付け加えます。

面白い条件ですよね。

こうなると相当理屈っぽい人間しか

マハラジに質問はできなくなるでしょう。

結果的に、

よほどの物好きしかマハラジのロフトを訪ねようとは

しなくなるかもしれません。

──────────────────
 ある朝、
 「なぜ人は苦しまなければならないのでしょうか?
  なぜ不幸が存在しているのでしょうか?」
 と尋ねた人がいました。
 マハラジはしばらく黙って座っていて、
 それから静かに話し始めました
 ──
 人がどんな感情や感覚を経験しても、
 それは意識の中の運動である。
 人が悲しみは不幸を感じるとき、
 それは出来事が
 その瞬間に感じられる必要性や欲望を
 満たさなかったという意味だ。
 しかしながら、
 ある人には悲しみをもたらすかもしれない出来事が、
 別の人には幸福を与えるかもしれない。
 さらに言えば、
 あるときに
 ある特定の人に不幸をもたらした出来事が、
 別の時期であれば同じ人に幸福を与えるかもしれない。
 それはその人が
 その時期に何が欲しいと考えるかによっている。
 幸福や不幸、
 喜びや苦痛の経験として人が考えることには、
 どんな要因が巻き込まれているのだろうか?
 一番目に意識がなければならない。
 二番目に欲望をもった一人の実体というか
 人という観念がなければならない。
 三番目に、
 空間−時間中に出来事がなければならない。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p275)
──────────────────

「なぜ人は苦しまなければならないのか?」

「なぜ不幸が存在しているのか?」

という問いに対してマハラジがまず確認を促したのは、

何かの出来事が悲しみや不幸と感じられるのは

その出来事がその瞬間に感じられた必要性や欲望を

満たさなかったからだという背景でした。

これは「なぜ苦しみや不幸が存在するのか?」

というきわめて抽象的な問の

実際の具体的構造・条件を明確にするものでした。

そして出来事自体に

苦しみや不幸という属性があるわけではなく、

それは体験者と出来事とタイミングの

組み合わせによるのだと。

そして苦しみや不幸の成立には

三つの要因の存在が不可欠だといいます。

一つ目は、(現象に意味をもたせる)意識の存在。

二つ目は、欲望をもった個人という観念の存在。

三つ目は、知覚対象となる時空間内の出来事の存在。

──────────────────
 出来事が起こり、
 自分の欲望をもった人がそこにいても、
 もし意識がなければ、
 人は出来事にもその影響にも関心をもつことはない。
 主要な要因と俳優は意識なのだ!
 実際「私の本質」は、
 「私は在る」という知識が到着するまで
 その実存に気づいてさえいなかった。
 その原初の状態においては、
 どんな必要性、欲望、希望、望み、野心、
 喜び、苦痛の可能性もなかったのだ──
 これらのすべてが肉体といっしょにやって来た。
 意識が到着した後でさえ、
 感じられたものは、
 (私はこれはあれである、ではなく)
 「私は在る」という意識している存在それ自体であった。
 意識がそれ自身を外側の形態に一体化した後で初めて
 観念的実体が存在するようになるのだ。
 しかし、
 その実体は観念にすぎず、
 それ自身の独立した実存をもっていない。
 
 意識といっしょに空間−時間の観念がやって来た。
 空間−時間の観念なしには
 顕現した現象は認識されることはできない。
 現象が感覚的に認識されるためには、
 それは必ず体積を持たねばならず、
 そこには空間の観念がなければ不可能である。
 そして、
 現象が出来事として経過の中に拡大されるには、
 時間の観念が必要である。
 幸福と不幸、
 そして、
 すべての様々な相互関連する正反対なものは、
 実際はそれ自身では実存していない。
 実存することができないのは、
 それは空間−時間の中の
 観念的対象化にすぎないからだ。
 もしこれらの正反対のものが
 どんなときでも重ね合わせられれば、
 それらはお互いに消去し合い、
 バランスを回復することであろう。
 
 私たちの絶対的本質
 (時間がなく、空間がなく、
  条件付けられていず、属性、
  アイデンティティが完全に欠如した純粋な存在)
 は苦痛や喜びが何かを知ることができない。
 なぜなら、
 私たちの本質は
 対象的なものを何ももたないからだ。
 ただ対象物だけが苦しむことができ、
 あらゆる種類の経験をすることができる。
 私たちが分離した対象物としてそう見えるものは、
 顕現化した現象である──
 それは時間に縛られ、
 制限され、
 感覚を通じて認識可能となる。
 私たちが苦しむのは
 ただ分離した対象物との
 間違った一体化(!)を通じてだけだ。
 私たちは少なくとも
 このことを理解するべきではないだろうか?
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p275-276)
──────────────────

ところが、

(欲望をもった個人という)観念も、

(知覚対象となる時空間内の)出来事も、

それら自体が(現象に意味をもたせる)意識を

内側から支える構造的部品とも言えるものです。

要は、

苦しみや不幸は意識の中でしか成立しない。

その主要な要因と俳優は意識であり、

それらはすべて観念的なものだと断定します。

「意識」という言葉の使い方は

マハラジの場合ちょっと独特で、

たとえ、欲望をもった人がいても、

そこに意識がなければ不幸や苦しみは起こりえない

というふうに考えるようです。

たしかに、欲望をもった個体を

他の動物や植物として考えるなら、

そこに欲動推進はあるでしょうが、

そこに人間がもつような意識はないので

苦しみや不幸は成立しないことになります。

苦しみや不幸は人間の肉体の誕生にともなう

「私は在る」の感覚、

分離した自己感覚の到来とともにやってきた、

とマハラジは言います。

> 実際「私の本質」は、
> 「私は在る」という知識が到着するまで
> その実存に気づいてさえいなかった。

自身気づきでありながら、

この原初の状態にある「私」は、

自分の存在にすら気づいていないわけです。

> その原初の状態においては、
> どんな必要性、欲望、希望、望み、野心、
> 喜び、苦痛の可能性もなかったのだ──
> これらのすべてが肉体といっしょにやって来た。

気づきである原初の状態の「私」は

ただ透明に静まる湖面のように

いかなる波紋も描かず、

いかなる意識内容も映し出していなかった。

> 意識が到着した後でさえ、
> 感じられたものは、
> (私はこれはあれである、ではなく)
> 「私は在る」という意識している存在それ自体であった。
> 意識がそれ自身を外側の形態に一体化した後で初めて
> 観念的実体が存在するようになるのだ。
> しかし、
> その実体は観念にすぎず、
> それ自身の独立した実存をもっていない。

そんな気づきが揺動したとき

最初に起こったのは「私は在る」という

自己存在の感覚だけだった。

その「私」が(その存在感という)自らが何であるかを求めて

意識の内容を形態として対象物化させ

かつその形態と一体化したとき初めて、

観念的実体が存在するかのような想像が始まった。

しかしその実体とは

あくまでも意識の中の観念にすぎず、

観念的想像以外のどんな実体もそこにはない。

時空間の中に展開されるどんな形態も、

その形態に付与されるどんな意味づけも、

すべては「二元性の原理」の支配下で想像される

対極性の展開にすぎず、

その証拠に両極端は同時には想像できないため、

両極端は同時存在させられると、それには耐えられず、

互いに相殺して極性の意味は空中に雲散霧消してしまう。

> 私たちの絶対的本質
> (時間がなく、空間がなく、
>  条件付けられていず、属性、
>  アイデンティティが完全に欠如した純粋な存在)
> は苦痛や喜びが何かを知ることができない。
> なぜなら、
> 私たちの本質は
> 対象的なものを何ももたないからだ。

純粋な気づきである「私」自身は

苦痛も喜びも知ることはできない。

なぜならいかなる属性も気づきの対象物であり

「私」(純粋な気づき)自身ではありえないからだ。

> ただ対象物だけが苦しむことができ、
> あらゆる種類の経験をすることができる。

したがって、

苦しむことができるのは、

「私」(純粋な気づき)の対象物となった

分離した対象物と一体化した意識だけだ。

対象物と一体化した意識は

その一体化によってそれ自体が対象物化して

あらゆる経験を苦しむことができるのだと。

> ただ分離した対象物との
> 間違った一体化(!)を通じてだけだ。

私たちが苦しむことができるのは、

現象している分離した対象物を本物と錯覚して一体化してしまい、

本来の自分が純粋な気づきであることを忘れて、

自ら対象物化するからなのだ。

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 あなたの原初の全体性の状態、
 あなたが「生まれる」前の状態に立ち戻りなさい。
 そのとき、
 「私は在る」という知識が何もなかったので、
 それゆえ、
 どんな種類の必要性も欲望もなかったのだ。
 偽物を偽物として、
 一時的なものを一時的なものとして
 あなたが超然として純粋に気づくとき、
 すべての苦しみは終わるのだ。
 いったん偽物と一時的なものは
 まさにその実存を
 空間−時間の観念に依存していることを見たなら、
 あなたは自分の存在により近くなっている。
 苦しむのは、
 あなたが自分自身だと想像している観念的実体だと、
 いったん理解したなら、
 あなたは神聖さとヒーリングが
 絶対的に内在している
 自分の本質の全体性の中へと目覚めるのだ。
 
 結論として、
 マハラジは
 「医者が彼に宣告したひどい病気」について
 言及しました──
 この病気の名前、
 ガンと聞いただけで、
 普通、患者はショック状態に陥るだろう。
 しかし、
 私の反応はまったく違っている。
 誰が病んでいるのか?
 明らかに、
 「生まれた」ものは
 決められた時には来れば死ぬのだ。
 この特定の肉体精神器官の
 源泉である「材料」は
 いずれ劣化のため瀕死状態になり、
 「死んだ」と宣告され、
 その器官の内部の意識は解放されて、
 あらゆるところに内在し行き渡っている
 意識と融合することであろう。
 自分についてはどうなるのか?
 一度も一人の「自分」はいたことがなかったし、
 一人の「自分」は決して存在しえない。
 しかし、
 「私」は常に絶対的に存在してきた。
 実際、
 私の相対的不在が私の絶対的存在であり、 
 「死」の瞬間は
 この肉体精神器官にとっての
 最高のエクスタシーの瞬間、
 最後の感覚的認識となることだろう。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p277-278)
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> 苦しむのは、
> あなたが自分自身だと想像している観念的実体だと、
> いったん理解したなら、
> あなたは神聖さとヒーリングが
> 絶対的に内在している
> 自分の本質の全体性の中へと目覚めるのだ。

あなたが自分だと想像している観念的実体以外に

苦しんでいる者などどこにもいない。

苦しみも不幸も

対象物に一体化した意識に対してしか、

つまり観念的実体に対してしか存在しない。

苦しみも不幸も無知の中にしか現れえない。

そして無知は実際は存在しないため、

苦しみも不幸も実際は存在していない。

だからあなたが苦しむことを

止められる実体というものも存在しない。

すべてはただ「神の遊び」として展開するだけだ。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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今日はいい天気でしたね。

いい日でした。

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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