home > 通信 >顕現と非顕現は一つである:『アセンション館通信』第918号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/11/21(第918号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.顕現と非顕現は一つである

2.編集後記
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■ 1.顕現と非顕現は一つである
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今日もまたポカポカ陽気。

ありがたいことです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

土曜日が来ると相変わらず

こうしてモニター画面に向かって

“「私は在る」噺”を書こうとします。

これはいつもしているからできることとも言えます。

私が信頼している言葉の一つに

体験自体は何も変わらない

「あなたに必要なのは理解することだけだ」

というのがあります。

「理解」という観念自体が

ストーリーの中の話だとも言われます。

確かにその通りでそれも間違いないけれど、

でもマインドがマインドを理解することを

全体がやっているわけです。

全体のごくごく少部分でしかないpariに

他にどうしようがあるでしょうか?(*^_^*)

ストーリーの中ではこうして週にいちど

やっと自由に使える時間がきたのですから

“「私は在る」噺”に費やすのも悪くないでしょう。

「必要なのは理解することだけ」

これは私のためにあるような言葉なので

これにすがるしかありません。

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 一般的な常識でさえ
 欲望を満たしたいのなら
 それを思いつづけなさいと言う。
 もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、
 あなたの存在の秘密があばかれるまで、
 つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。
 
 『私は在る』(p148)
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(-||-)

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 快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。
 ただ理解だけがそれをもたらすのだ。
 ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、
 生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、
 それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。
 快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
 至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。
 あなたの本性そのものが至福だからだ。
 悟りを得るためには、
 あなたではないもの、
 対極と向き合わなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p325)
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(-||-)

──────────────────
 私を信じなさい。
 そこには目的地もなければ、
 それへ到達する道もまたない。
 あなたが道であり目的地なのだ。
 あなた自身を除いて、
 到達するようなものは何もないのだ。
 あなたに必要なのは理解することだけだ。
 そして理解はマインドの開花なのだ。
 ……
 あなたが知らなければならないことは、
 そう在ったことではなく、
 そうなるだろうことでもない。
 ただ在ることなのだ。
 宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
 世界はあなた自身の創造だと知り、
 自由になりなさい。
 
 『私は在る』(p397-398)
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(-||-)

ラメッシ・バルセカールが描く

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』の最初のほうに

【4 顕現と非顕現は一つである】

という一節があります。

今回はこの一節を眺めてみたいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 4 顕現と非顕現は一つである
 
 
 「私」は様々なレベル
 ──顕現レベルと非顕現レベル──に現れる
 常に存在している実体なのでしょうか?
 形を変え、
 様々な言葉で、
 様々な人たちからこの質問が
 マハラジの前にしばしば提出されますが、
 その質問の本質はどれも同じです。
 たまたまマハラジが
 「私の話を聴く人は、
  私が一人の個人として
  別の個人に話しかけているのではなく、
  意識として意識の本質について
  意識に話しかけていることを
  マインドに留めておくべきだ」
 と言及することがあれば
 (彼は実際よくそうしますが)、
 大胆な訪問者がセッションの初めから
 その質問を持ち出すこともあります。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p36)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
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【「私」】と鉤括弧で閉じられるのは、

もちろん、個人のことではなく、

「真我」とか「実在」と呼ばれることのある

わたしたちの本体のことです。

マハラジに向けて

存在すべてが「私」なのでしょうか?

目に見えるものも見えないものも

すべて「私」なのですか?

といった質問がよく出されるのでしょうね。

マハラジが提供する「私」という観念の説明を

ラメッシ・バルセカールが解説します。

──────────────────
 マハラジによれば、
 マインドのレベルでは、
 「私」は三つの局面から考えられることができます。
 
 (1)非個人的なもの
    ──非顕現(アヴィヤクタ)、
    絶対的「私」、
    あらゆる感覚的認識や経験を超え、
    自分自身に気づかないもの。

 (2)超個人的なもの
    ──顕現している(ヴィヤクタ)、
    「私は在る」として、
    意識の中で絶対が反映されたもの。

 (3)個人的なもの
    ──肉体と生命プロセスの構造物で、
    それを通じて意識が自分自身を顕現する
    肉体精神器官(ヴィヤクティ)
 
 しかしながら、マハラジは
 こういった区別は純粋に観念的なもので、
 現実には存在していないと
 何度も何度も繰り返し指摘しています。
 本質的に顕現(ヴィヤクタ)と
 非顕現(アヴィヤクタ)の間に何の違いもなく、
 それは光と日光に
 本質的に何の違いもないのと同様なのです。
 宇宙は光に満ちていますが、
 その光は日光として表面に反射しないかぎり、
 見られることはできません。
 日光が表しているものは個人(ヴィヤクティ)です。
 人間という形態の個人は常に対象物です。
 その一方、
 観照者としての意識は主体であり、
 その相互依存の関係
 (意識は肉体という器官がなければ
  現れることができず、
  肉体は意識がなければ
  感覚を持つことができません)は、
 それらが絶対と根本的に一つであることの証明です。
 それらは両方同じ意識であり、
 片方は休息中の意識であり、
 片方は運動中の意識であり、
 お互いが相手を意識しています。
 
 「全顕現宇宙は意識の中にのみ存在する」
 とマハラジは説明します。
 その観念化のプロセスは次のようになるでしょう。
 意識が、
 ただそうすることがその性質である
 という以外の何の特別な原因も理由もなく、
 純粋な存在の中にわき起こります
 ──ちょうど海の表面の波のように。
 意識の中に世界が現れ、
 消え、
 私たち一人ひとりが
 次のように言う資格があります
 ──存在するすべては私であり、
 私の物です。
 すべての始まりの前でも
 すべての終わりのあとでも
 私はそこにいて、
 起こることが何であれ観照します。
 「自分」、
 「あなた」、
 そして「彼」は、
 意識の中に見かけにすぎず、
 すべてが根本的には「私」です。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p36-38)
──────────────────

マハラジは「私」という観念を

三つの局面から説明するようです。

それは意識の三つの状態とも言えそうです。
 
(1)非個人的状態──非顕現
   波一つ立てずに静まる絶対不動の意識の海。
   自らの存在に気づいていない状態です。
   休息中の意識とも言えます。

(2)超個人的状態──顕現
   意識の海に微かなさざ波が立った状態。
   「私は在る」という存在感が生じた状態。
   運動中の意識といえます。

(3)個人的状態──肉体と生命プロセスの構造物
   肉体を通じて意識が自らを顕現した状態
   現象世界の中で個人が相手を意識している。
 
しかしマハラジはここで

この三つの状態はあくまでも観念的分類で、

実際にそういうものが存在しているわけではない、

と説明するようです。

というのは意識が自らを顕現するためには、

その顕現を確認する意識(主体の観照者)と

確認される意識内容(対象物)が必要だが、

実際は

意識は肉体という器官がなければ現れられず、

また肉体は意識がなければ感覚を持てない以上、

この両者は相互依存の関係にあることになる。

要するに、

観照者と対象物というのは

意識が自らを顕現するための機能的分岐にすぎず、

両者は原初の意識の絶対状態の中に

潜在可能性としてはじめから在ったものだ。

かくてマハラジは

「全顕現宇宙は意識の中にのみ存在する」

と説明します。

「自分」とか「あなた」とか「彼」というのは、

顕現した意識の中に見かけにすぎず、

実際はすべてが根本的には「私」だというわけです。

だから意識の見かけの中のわたしたちは

誰もがこの全宇宙を「私のもの」と

言ってかまわないのだと。

──────────────────
 世界が存在しないということはありません。
 意識の中の見かけとして、
 世界は未知なるものの
 潜在可能性の中で知られている全体です。
 世界は現れるが、存在していない
 と言うことも可能でしょう。
 もちろん見かけの経過は、
 様々なとき間の階層に従って変わります。
 熟睡しているときは世界が消え、
 目覚めた状態で世界が再び現れる
 という事実を別にすれば、
 世界の現れの経過は
 それが割り当てられている寿命に従っています
 ──昆虫は数ヶ月、
   ブラフマ、ビシュヌ、
   マヘシワラの三位一体は永劫です!
 しかしながら、
 意識の中の見かけが何であれ、
 それは終わらなければならず、
 どんな現実ももつことができません。
 
 マハラジが
 これらの崇高な知識を披露する様子は、
 実にその局面の幅広さにおいて
 驚くべきものでありながら、
 その一方で
 中心的テーマはしっかり固定し続けています。
 彼は
 「気づきは絶対(アヴィヤクタ)から来ていて
  内なる自己(ヴィヤクタ)に浸透している」
 と言います。
 外側の自己(ヴィヤクティ)は
 自分の存在の一部ですが、
 人は自分の存在に気づいていません。
 ですから、
 人は意識していても
 (感覚のあるあらゆる存在は
  意識を持っています)、
 気づいていないことはありうるのです。
 言い換えるなら、
 外側の自己(ヴィヤクティ)は肉体によって、
 その一方
 内なる自己(ヴィヤクタ)は
 意識によって輪郭を描かれ、
 そして、
 純粋な気づきの中においてのみ
 至高(アヴィヤクタ)が触れられるのです。
 
 絶対の経験といったものが決してありえないのは、
 絶対については対象的なことが何もなく、
 それは純粋な主体性であるという
 単純な理由によるものです。
 すべての経験に対して経験の媒体であるのは、
 内なる自己意識なのです。
 絶対は経験のための潜在的能力を提供します。
 その一方、
 自己は現実感を提供するのです。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p38-40)
──────────────────
 
世界は意識の中の見かけとして存在している

と言えるようです。

それは絶対の潜在可能性の中の

既知なる部分の全体とも言えるでしょう。

ただしどんな意識の中の見かけも

現れるためには変化しなければならず、

それは不動ではありえません。

その意味ではそれは終わらなければならず、

そこに留まるものは何一つありません。

あるいは世界は現れるが、

存在していないとも言えるわけです。

絶対を経験するということはありえません。

現われとして経験できるものは

何らかの表現属性をもつ対象物でなければならず、

それ自体が純粋な主体性ではありえないからです。

あらゆる経験の根底にあるのは

意識の超個人的状態である内なる自己意識です。

つまり「私は在る」という存在の感覚です。

この存在の感覚があらゆる経験の媒体となります。

意識の非個人的状態である絶対は、

あらゆる経験のための潜在的能力を提供します。

そして意識の個人的状態である個人が

経験に現実感を提供するのです。

──────────────────
 個人が絶対の気づきに接触することは、
 マインドが
 いわば「断食」しているときのみ可能です。
 なぜなら、
 そのとき観念化のプロセスが止まるからです。
 マインドが静かなとき、
 それは現実を反映します。
 つまり、
 マインドが絶対的に不動であるとき、
 マインドは消滅し、
 ただ現実だけが残ります。
 だからマハラジは、
 「意識と一つであることが必要だ」
 と何度も何度も言うのです。
 マインドが大騒ぎをしているとき現実が消え、
 マインドが沈黙しているとき
 現実が入ってくるのです。
 
 「気づきは、
  それが対象物、
  肉体的形態と接触するとき、
  観照になる」
 とマハラジはさらに別のやり方でも指摘します。
 同時に、
 その対象物との自己一体化があるとき、
 そういった状態は「人」になります。
 しかし、
 現実にはたった一つの状態しかありません。
 自己一体化に堕落させられ、
 汚されるとき、
 それは人(ヴィヤクティ)と呼ばれることができます。
 それが存在の感覚に色づけられるとき、
 その結果は、
 意識が「観照」になります。
 それが汚れも色もついていない
 原初の純粋性に留まるとき、
 至高、絶対です。
 
 「それらの違いは観念的だが、
  絶対の気づきと
  宇宙がその中に現れる意識との違いについて
  明確であることは必要なことだ」と、
  マハラジは繰り返し私たちに警告します。
  片方は、
  もう片方の反映なのです。
  しかし、
  露の中の太陽の反映は太陽ではありません。
  熟睡しているときのように、
  対象化が不在のときには
  見かけの宇宙はありませんが、
  私たちは存在しています。
  これがそうなのは、
  私たちの本質は見かけの宇宙の本質であるからで、
  逆も同様です──
  存在においては二元的で、
  不在においては非二元的で、
  観念的には調停できないほど分離していて、
  観念化されていないときは
  神聖なほど融合しているのです。 
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p39-40)
──────────────────

個人(意識の個人的状態)が

絶対の気づき(意識の非個人的状態)に接触するには、

マインド(観念化機能)が停止していることが必要です。

マインドが静かなときそれは現実を反映します。

マインドが絶対的に不動であるとき、

マインドは消滅し、ただ現実だけが残ります。

マハラジが、

「意識と一つであることが必要だ」と言うのは

その意味です。

絶対の主体性である気づきが

肉体的形態と接触するときそれは観照になる、

とマハラジは言います。

言葉を覚える前の幼児がまわりを見ているのが

観照だと言えるでしょう。

その観照が対象物と一体化したとき、

そこに誕生するのが個人です。

しかし実際は

存在しているのは意識だけです。

あらゆる意識の見かけは、

意識が見ている夢の諸相だとも言えるでしょう。

もしあえてマインドの動きを追わなければ、

実際には何も起こっていないわけです。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はいい天気でしたね。

いい日でした。

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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