home > 通信 >私たちは何なのか本当に?:『アセンション館通信』第919号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/11/28(第919号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちは何なのか本当に?

2.編集後記
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■ 1.私たちは何なのか本当に?
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今日もいい天気でした。

昨日、中途半端に塞いでおいた

ハクビシンの侵入口が

今朝見ると見事に破られていました。

それで今日はちょっと

そこをネットで塞ぐ作業をしました。

じつは廃品になったサッカーの

ゴールネットの一部をもらったのです。

動物たちと棲み分けるために

敷地のまわりは金網やナイロンネットで

全面的に囲っています。

それでも小動物(たぶんハクビシンやテン)は

あちこちの弱点を突破して普通に入ってきます。

それに対抗して長年防衛しています。

じつは動物たちとの攻防はちょっと好きです。(^_-)

知的活動範囲が似てるのか、

マインドの振動帯域が近いのか知りませんが。

たぶんどっちかでしょう。

向こうはとても細かいのです。

こちらも同じように細かくなってやりあっています。

面白いです。(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

話はだんだん単純なところに

集約されてきている感じはあります。

普段いつの間にか思考が始まってしまうのは、

エネルギーがついつい思考に出口を求めるからです。

そのエネルギーの漏洩口がまだ止まっていない。

要するに、

思考は問題創造担当であって、

問題解消担当ではありえないことが

まだ本当に腑に落ちていないわけです。(^_-)

まあ、

そうあからさまにわかるのはせつない感じもありますが、

事実なので仕方がない。

ウィークデイはいつもデスクワークをしているので

まあ仕方ない、なんて言ってますが、

じつはそんなことが問題じゃありません。

マインドの引力圏から脱出できるだけの

理解が蓄積していないだけのことです。

まだまだマインド・エンタメの中毒症状が

抜けきらないんでしょうね。

“自分”を責める気もありません。

そんな気はだいぶ以前に失せました。

“自分”は全体のそういう道具だとも言えるし、

全体は<今・ここ>でこんな現われ方をしている

だけだとも言えます。

まあこれまでの生涯、

ひたすら概念化中毒状態で過ごしてきましたし。

まだまだ言葉を聞きたいのでしょう。

ラメッシ・バルセカールが描く

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』のちょうど真ん中くらいに

【25 私たちは何なのか本当に?】

という一節があります。

今回はこの一節を眺めてみたいと思います。

ちょっと長いので途中一部を省略してご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 25 私たちは何なのか本当に?
 
 
 マハラジの講話セッションのでは通常、
 彼が討論を始めるのを辛抱強く待つことが慣例です。
 ときには、
 彼がまず決まった話題について話すことから
 始めることもありますし、
 また彼が沈黙したまま目を閉じて座って、
 それからおそらく声に出して考えながら、
 静かにつぶやき始めることもあります。
 またときには、
 まさに最初から何か質問があるかどうかを
 訪問者たちに尋ねることもあります。
 たまに訪問者の中で特定の問題に関して、
 特に非常に熱心に
 質問したがっている人がいることもあります。
 マハラジはそんな訪問者の熱意を感じるようで、
 その訪問者が仮に一番後ろの列に座っているときでも、
 彼をまっすぐに見て、
 何か質問があるかどうかを尋ねるのです。
 
 ある朝、
 何か質問はあるかどうかマハラジが尋ねたとき、
 一人の訪問者が手を上げて、
 話し始めました。
 彼は言いました。
 「マハラジ、
  私を本当に困惑させている質問があり、
  私はもう限界にきています。
  私はアドヴァイタ哲学について
  かなり本を読んできて、
  その基本的見解に深く感銘してきました。
  そして、
  様々なマスターたちから、
  分離した自分の実体という観念を放棄しないかぎり、
  解放は達成されることができない
  と教わってきました。
  二元性の観念──自己と他者──を
  信じている人こそ束縛されているものである
  ということを、
  私は心から本当に受け入れています。
  しかしまた、
  あらゆる人はずっと常に自由である(!)ので、
  誰にとっても本当は『束縛』はありえない
  とも教えられています。
  この矛盾した立場は私には理解困難です。
  私は何も『する』ことができません。
  なぜなら、
  どんな『実体』も存在しない
  ことになっているからです。
  でもそれでは、
  私はどうやってこの世で世の中で
  やっていくことができるでしょうか?
  マハラジ、
  これは無意味な学問的質問ではないのです。
  私は深刻に考えていますし、
  この問題のせいで私の頭はおかしくなりそうです。
  私たちは何なのでしょうか、
  本当に?」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p157-158)
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>  二元性の観念──自己と他者──を
>  信じている人こそ束縛されているものである
>  ということを、
>  私は心から本当に受け入れています。
>  しかしまた、
>  あらゆる人はずっと常に自由である(!)ので、
>  誰にとっても本当は『束縛』はありえない
>  とも教えられています。
>  この矛盾した立場は私には理解困難です。

この方はじつにストレートなエネルギーですね。

「この矛盾した立場は私には理解困難です」

という言葉は文字通りの意味を担っています。

というのも、続いて

>  私は何も『する』ことができません。

と言っているからです。

わたしのように

器用に文字の意味を理解したつもりの人間は

こういう言葉は言えません。

>  なぜなら、
>  どんな『実体』も存在しない
>  ことになっているからです。
>  でもそれでは、
>  私はどうやってこの世で世の中で
>  やっていくことができるでしょうか?

こういう文字通りの理解の仕方も

あるんですねぇ。(-_-)

>  マハラジ、
>  これは無意味な学問的質問ではないのです。
>  私は深刻に考えていますし、
>  この問題のせいで私の頭はおかしくなりそうです。
>  私たちは何なのでしょうか、
>  本当に?」

ここまで切羽詰まれるとは……。

──────────────────
 マハラジはその聡明なまなざしで、
 すでに涙が溢れているその訪問者の目を見つめ、
 それから深呼吸をし、
 しばらく目を閉じて座っていました。
 マハラジの態度は質問者のハートの内部で
 平和の感覚を引き出したに違いありません。
 マハラジが目を開けたとき、
 訪問者は目を閉じて静かに座っていました。
 数瞬ののち、
 彼は目を開け、
 マハラジが彼に微笑みかけていることに気づきました。

 マハラジが
 「さて、今ほんの数瞬の間、
  あなたは何を考えていたかね?」
 と尋ねると、その答えは、
 「何も」でした。
 するとマハラジはこう言いました──
 それが答えである
 ──何も──
 あなたが「何も」と言ったとき、
 それは正確には何を意味していたのだろうか?
 あなたは言わんとしたことは、
 意識の中で常に進行している観念化が、
 熟睡しているときのように一時的に停止した、
 ということではなかっただろうか?
 それゆえ、
 すべての観念化の源泉である意識こそが
 容疑者であることが、
 あなたに思い当たるのではないだろうか?
 問題は意識の中で創造され、
 認識されるということ、
 そして、
 自分自身の本質を理解しようとしているのは
 意識それ自身であることが、
 あなたに思い当たるのではないだろうか?
 それゆえ、
 自分の本当に何なのかを観念的に理解することは
 実質的に不可能だということが、
 あなたに思い当たるのではないだろうか? 
 
 ……
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p158-159)
──────────────────

> マハラジはその聡明なまなざしで、
> すでに涙が溢れているその訪問者の目を見つめ、
> それから深呼吸をし、
> しばらく目を閉じて座っていました。

マハラジはこういう質問者をこそ

待っているのでしょうね。

> マハラジが
> 「さて、今ほんの数瞬の間、
>  あなたは何を考えていたかね?」
> と尋ねると、その答えは、
> 「何も」でした。

ありったけの質問を

信頼する覚者の前に吐き出した質問者に

もうどんな思いも残っていなかっただろうことは

容易に推測されることです。

> するとマハラジはこう言いました──
> それが答えである
> ──何も──

その状態こそが答えなのだと。

> あなたが「何も」と言ったとき、
> それは正確には何を意味していたのだろうか?
> あなたは言わんとしたことは、
> 意識の中で常に進行している観念化が、
> 熟睡しているときのように一時的に停止した、
> ということではなかっただろうか?

まさに。

【意識の中で常に進行している観念化が、
 熟睡しているときのように一時的に停止した、】

これこそがわれわれが求めているものなのだと。

> それゆえ、
> すべての観念化の源泉である意識こそが
> 容疑者であることが、
> あなたに思い当たるのではないだろうか?

頭がおかしくなりそうなほど

あなたを追い詰めていたのが意識の中の観念化であり、

すべての観念化の源泉である意識こそが

その犯人であるのがわかるのではないか、と。

> 問題は意識の中で創造され、
> 認識されるということ、
> そして、
> 自分自身の本質を理解しようとしているのは
> 意識それ自身であることが、
> あなたに思い当たるのではないだろうか?

あなたを追い詰めている問題は

すべて意識の中で創造され、認識されている。

頭がおかしくなりそうなほど

追い詰められているあなたとは、

自分自身の本質を理解しようとしている

意識それ自身であることがわからないだろうか?

> それゆえ、
> 自分が本当に何なのかを観念的に理解することは
> 実質的に不可能だということが、
> あなたに思い当たるのではないだろうか? 

意識がすべての問題を創造し、認識して、

気が狂いそうなほど自らを追い詰めているのに、

その意識の観念化に

あなたが本当は何なのかの確認を委ねて、

当面する問題の解消を依頼しても、

それが無理な相談なのがわからないだろうか?

その意識はあなたに起こったのだ。

あなたは意識の観念化が

起こる前から存在している。

あなたが本当は何なのかを知ることは

その意識の能力を超えているのだ。

……

(以後、3ページほどにわたって

 マハラジの解説が続きますが、
 
 ここでは省略します。)

──────────────────
 
 ここでマハラジは訪問者に尋ねました。
 「あなたは自分の質問への答えを
  受け取っただろうか?」
 
 まるで催眠にかかったかのように
 うっとりと聞きほれていたその訪問者は、
 マハラジが自分に質問していることに
 突然気付きました。
 彼は自分に授与されたことにあまりに圧倒されて、
 しばらくの間一言も話すことができませんでした。
 彼は言葉を回避する
 純粋な傾聴に包まれていたようでした。
 彼はマハラジと調和していたのです。

 マハラジは続けます──
 もしあなたが私の言ったことを
 直感的に理解したなら、
 いわゆる束縛がどうやってどこで起こるのか、
 誰が傷つくのか、
 正確に言うことができるだろう。
 次のことを明確に理解しなさい。
 現象の顕現は
 意識の機能のプロセスに他ならず、
 そこには個人的実体というどんな問題もない。
 すべてのものは対象物であり、
 それぞれが
 役割において機能している夢−人物である。
 対象化のプロセスで、
 私たちが自分の本質を
 主体−認識者の要素と一体化し、
 それぞれの自分の夢−役割を
 自分自身として「受け取る」ことによって、
 責任を引き受けるというただそのせいで、
 私たちのみじめさが起こるのだ。
 幻想的個人に対する「束縛」と
 その結果生じるすべてのみじめさの原因は、
 この幻想的で完全に不必要な一体化である。
 
 もう一度まとめよう。
 私でないものが観念にすぎず、
 この観念が私たちの本質を求めている。
 条件付け──誤解は、
 私が何であって、
 何でないのかを正しく理解することによってのみ
 取り除かれることができる。
 そのとき、
 「束縛」とそれによって苦しむ個人は
 両方とも単なる観念にすぎず、
 私たちの本質、
 非現象は
 全現象としてのみ自分自身を顕現できることが
 明確になるだろう。
 探求しているものと
 探求されているものは違っていない。
 というまさに単純な理由によって、
 私たちが探し求めているものは見つけられない
 という直感的理解があるとき、
 あなたは平和を発見することだろう──
 というより、
 むしろ平和が自らを発見することだろう。
 
 その訪問者は
 手を組んで目を閉じたまま座り続けていました。
 彼のほほには涙が流れていました。
 彼は言葉よりも饒舌な歓喜の沈黙状態にあったのです。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p161-163)
──────────────────

> 現象の顕現は
> 意識の機能のプロセスに他ならず、
> そこには個人的実体というどんな問題もない。
> すべてのものは対象物であり、
> それぞれが
> 役割において機能している夢−人物である。

認識されるすべては対象物であり、

夢見られている劇の中の役割を演じている

夢の登場人物に他ならない。

> 対象化のプロセスで、
> 私たちが自分の本質を
> 主体−認識者の要素と一体化し、
> それぞれの自分の夢−役割を
> 自分自身として「受け取る」ことによって、
> 責任を引き受けるというただそのせいで、
> 私たちのみじめさが起こるのだ。
> 幻想的個人に対する「束縛」と
> その結果生じるすべてのみじめさの原因は、
> この幻想的で完全に不必要な一体化である。

ただあなたが自分の本質を

その夢の登場人物と一体化して、

その夢の劇の中の役割を「受け取り」、

無用に責任を引き受けるために

すべてのみじめさが起こっているだけなのだ。

> もう一度まとめよう。
> 私でないものが観念にすぎず、
> この観念が私たちの本質を求めている。

再度確認しておこう。

あなたの本質は観念ではない。

その観念があなたの本質を

自らの中で定義しようともがいているのだ。

> 条件付け──誤解は、
> 私が何であって、
> 何でないのかを正しく
> 理解することによってのみ
> 取り除かれることができる。

あなたは観念ではないこと、

あなたは観念が生じる前にも、

観念が生じているときにも、

観念が消えた後にも存在していることを理解しなさい。

あなたはすべての観念化による誤解を

可能にし、映し出し、

観照している永遠不動の背景だ。

あなたがそれを知っているとき、

あなたは観念という誤解の毒を

免れることができる。

> そのとき、
> 「束縛」とそれによって苦しむ個人は
> 両方とも単なる観念にすぎず、
> 私たちの本質、
> 非現象は
> 全現象としてのみ自分自身を顕現できることが
> 明確になるだろう。
> 探求しているものと
> 探求されているものは違っていない。

あなたがそれを知っているとき、

束縛とそれを苦しむ個人が

観念化が捏造した誤解にすぎないことは自明だ。

あなたという非顕現は、

全現象としてしか自分を顕現できない。

あなたは非顕現であり全現象だ。

あなたが

全現象の中で探している自分自身とは、

全現象として顕現している

非顕現であるあなた自身なのだ。

あなたはすでに探求されている当人だ。

探求者であるあなたとは、

探求されているあなたなのだ。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はいい天気でしたね。

日が落ちると急に寒くなります。

いい日でした。

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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