━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2021/12/05(第920号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「私」しかいない
2.編集後記
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■ 1.「私」しかいない
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今日もいい天気ですね。
このところ晴天が続きます。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
相変わらずウィークデイには
年齢の割には忙しく仕事をしています、
そして土曜日が来ると
こうしてもっともらしく
非二元噺に思いを巡らせたりするのですが、
やはり特に問題はないのです。
問題がないというと
なんかたいそうな感じもしますが、
わたしの場合は
何も求めていないということでもありません。
安楽を望む人並みの思いはわきます。
問題がないというのは
ただ文句がないという感じです。(*^_^*)
まあ、それくらい
長いこと文句があったんでしょうね。
溜まっていた文句を
こうして毎週土曜日が来るたびに、
いろいろ工夫して吐き出しているうちに、
気がついたらもう文句を紡ぎ出す言葉を
思いつけなくなっていたというだけです。
なんの問題もない……
という思考が起こってくるときも、
例によってその気分が「自分」のように
感じられていたりするかもしれませんが、
その場合は「自分」があるという
通奏低音みたいな気分が背景にあるのでしょうね。
でも実際は、
何かがその気分に気づいているわけです。
そしてまた実際に存在しているものと言えば
その「何か」しかないわけです。
でも、そうは言っても、
自分の前に展開しているのはこんな人生で、
全然別のタイプの人生もあるのは確からしい。
なぜそれはそうなっているのだろう?
という疑問がわかないともかぎりません。
しかしそういうことに根拠を求めたら、
どこまでも
物語の世界に入り込んでしまうのも確かです。
すると、いやいや自分はそんな
物語のなかで盥回しされたいわけじゃない、
という気分もわいてきます。
もっと実物の、
なぜこんなものがあるのか?
というそのまさに根拠を知りたいのだと。
でもまだその根拠を言葉の中に求めたいわけ?(^_-)
ああ、そうか。
そういうことになるよなぁ。(-_-;)
というわけで、
特に文句はないのであります。(*^_^*)
求める根拠が観念ではありえないことが
こんなにはっきりしているのに、
それでもまだ顕現する観念の中に
何かを求めるふりをしている。
実際には、
その顕現する観念に気づいている
背景しか実在していないというのに。
実際にはそれしか存在していないその背景、
その「何か」をもし「私」と呼ぶなら、
実際には「私」しかいないわけです。
ラメッシ・バルセカールが書いた
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』に
【「私」以外に何もない】という一節があります。
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「私たち」は、
「私」としては現象的には超越であり、
非現象的には内在であり、
それは私たちが自分をどう見るかによる。
「私」しかいないのであり、
どんな「自分」も「他者」もいない。
相対的顕現の中で、
現象が「自分」とそれぞれの対象物として
意識の中で観念化されて、
主体的アイデンティティを装い、
他の対象物を「他者」として認識する。
しかし、
非現象的にはどんな二元性もなく、
ただ主体的「私」があるだけだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p254)
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> 相対的顕現の中で、
> 現象が「自分」とそれぞれの対象物として
> 意識の中で観念化されて、
> 主体的アイデンティティを装い、
> 他の対象物を「他者」として認識する。
実際に存在するその「何か」が、
もし自分の存在を現象として確認したくなったら、
自分や自分が知覚するものすべてを
(意識の中で観念化することによって)
知覚の対象物として顕現させて、
その対象物のあるものに
「自分」という主体を装わせ、
それとは別の対象物を「他者」として
認識するというやり方以外に方法はないわけです。
> しかし、
> 非現象的にはどんな二元性もなく、
> ただ主体的「私」があるだけだ。
でもそれは実際に存在しているものではない。
なぜなら真実の<存在>とは
自分が存在することを
自分以外の何者にも依拠せずに
自前で【知っている】ということ自体であり、
それはけっして「何者か」として
存在しているわけではないからです。
そしてその
自らの存在を【知っている】ということすら、
一つの潜在可能性にすぎないわけです。
ラメッシ・バルセカールが描く
マハラジは言います。
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私でないものが観念にすぎず、
この観念が私たちの本質を求めている。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p161-163)
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すべて気づかれるものは観念にすぎない。
あらゆる顕現、
あらゆる対象物とは観念にすぎない。
そして観念は「私」ではない。
「私」とは観念の存在を可能にしているもの、
観念を映し出しているもの、
観念の存在に気づいているものです。
それはいかなる表現属性ももちません。
「私」とは非顕現であり、
絶対的主体性であるわけです。
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私たちの本質、非現象は
全現象としてのみ自分自身を顕現できることが
明確になるだろう。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p161-163)
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「私」であるその非顕現は、
全現象としてしか自らを顕現することはできない。
なぜなら、
あらゆる顕現、
あらゆる認識された対象物は
主体性ではありえないからです。
そしてこのような識別もまた、
単なる観念でしかありえませんが。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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今日はいい天気でしたね。
今日も小動物に対抗する
ネットづくりを楽しみました。
日が落ちると急に寒くなります。
いい日でした。
今日は晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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