━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2021/12/19(第922号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「飛沫」に湧く探求(観念)
2.編集後記
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■ 1.「飛沫」に湧く探求(観念)
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今日もいい天気でした。
天気は良かったけれど
外に出るととても寒かった。
敷地のまわりの小動物避けの網を繕いながら
久しぶりに指が「かじかむ」体験をしました。
子供の頃に経験して以来なのか、
指先をかじかませながら
昔、絵を描いていたときの記憶が蘇ってきた。
寒いけど夢中になって楽しかった。(^^)/
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
身体があって意識が活性化していれば
いろいろな体験が起こります。
しかもそれが人間の身体となれば
どうしてもそれは“自分”の体験としか思えない。
そんな魔法(=催眠)がかかることになります。
それをどうにかできる“自分”がいるわけではないのに、
でも“自分”がそれをしている
という感覚からは免れません。
“自分”という個人的観点からは、
それは嬉しいことに感じられたり、
あるいは忌々しいことに感じられたり、
あるいはまた
あってはならないことに感じられたりもします。
起こることには正しいことや、
間違っていることがあるように思われます。
場合によると、
「どうして?」とか「なぜ?」とかいう
想念もわき起こってきます。
「どうして自分がこんな目に遭うのか?」とか
ちょっと気取って
「どうしてこんなことがありうるのか?」とか。
もしそういう疑問がありうるのだとすれば、
そんな“Why?”の問に対しては
(ラメッシ・バルセカールが言うように)
完璧に応答している絶対に妥当な解答があります。
“Why not?”
「どうしてあっちゃいけないの?」(?_?)
ははは。
これには参ります。(*^_^*)
「どうしてこんなことがありうるのか?」と
本当に問うたことがあるなら、
これが完璧な答えであることがわかります。
それが駄洒落にしか聞こえないなら、
その疑問は本当には起こっていなかった。
要するに、
そういうことが起こることには
なんの問題もないわけです。
なので、
「それは問題だ」という想念が起こることにも、
なんの問題もないわけです。
すべて見かけの中で
そういうことが起こっているだけですから。
そういう想念(意識の見かけ)は
誰かに起こっているわけではないし、
そういう想念を起こしている
誰かがいるわけでもありません。
ただ、
(トニー・パーソンズふうの用語を使うなら)
Being(存在・在ること)の中で
Being(存在・在ること)の見かけとして
そういう想念が起こっているというだけです。
木悠鼓さんが翻訳された
トニー・パーソンズの
『何でもないものが あらゆるものである』から
引用します。
──────────────────
∽∽∽∽
Q:
トニー、あなたは
エネルギー的転換についてお話しされました。
私は何らかの種類のエネルギー的転換の
可能性を想像しているのですが、
そのおかげで
ここにいるこの見かけの肉体−精神が……
トニー:
いえいえ、
絶対的にそういうものはありません。
なぜなら、
何かをもっている人は誰もいないからです。
何かをもっている人は誰もいないゆえに、
何かを誰かに与える人誰もいないのです。
そして、
他の人は誰もいないので、
そもそもそれを与えるべき人もいません。
ある人から別の人へのエネルギーや
悟りの伝授という考え全体が、
個人的悟りという間違った概念にもとづいています。
つまり、
悟りと呼ばれる分離した何かがあって、
それは大量のキャンディのように、
何かの方法で所有されたり、
誰か他の人に渡したり
与えることができるという考えです。
『何でもないものが あらゆるものである』(p172)
──────────────────
> Q:
> トニー、あなたは
> エネルギー的転換についてお話しされました。
> 私は何らかの種類のエネルギー的転換の
> 可能性を想像しているのですが、
> そのおかげで
> ここにいるこの見かけの肉体−精神が……
“エネルギー的転換”という言葉には
そういうニュアンスが包含されていますよね。
トニー・パーソンズから流れ出す
認識は明白です。
> トニー:
> いえいえ、
> 絶対的にそういうものはありません。
“そのおかげで”とか
そういう物語的なことは絶対にありえないと。
> なぜなら、
> 何かをもっている人は誰もいないからです。
> 何かをもっている人は誰もいないゆえに、
> 何かを誰かに与える人誰もいないのです。
> そして、
> 他の人は誰もいないので、
> そもそもそれを与えるべき人もいません。
まったく疑問の余地もありません。
> ある人から別の人へのエネルギーや
> 悟りの伝授という考え全体が、
> 個人的悟りという間違った概念にもとづいています。
> つまり、
> 悟りと呼ばれる分離した何かがあって、
> それは大量のキャンディのように、
> 何かの方法で所有されたり、
> 誰か他の人に渡したり
> 与えることができるという考えです。
こういう観念の中で
分離した個人が生き延びるわけでしょうね。
見かけの上でのことですが。
ではいったい、あなたが言う
エネルギー的なものとは何なのですか?
と質問者は尋ねます。
──────────────────
Q:
エネルギー的なものとは何ですか?
トニー:
存在は無限です。
ただ無限性だけがあります。
ただ存在だけがあり、
それ以外に他の何もありません。
存在でない何かを見つけようとしてごらんなさい。
ただ存在だけがあり、
それについて驚くべきことは、
その存在の中に、
存在はないという考え……
一人の自分がいて、
悟りを探し求めているという考えが
わき起こるということです。
これは絶対的に完全な全体であり、
その完全な全体の中で、
それは完全な全体ではないという考えが
わき起こるのです。
でもそれも考えにすぎません。
それはエネルギー的に固定されています。
探求者はエネルギー的に
「自分」にしがみついています。
「私はこの肉体の中にいて、
向こうにあるものから分離している!」。
自分にしがみつくことは、
恐怖と生き延び必要性からくるエネルギー的収縮です。
その見かけの収縮は
無限性の中へと消滅することが可能です。
エネルギー的転換は分離の欠如から見かけで起こり、
それゆえ誰かに起こるわけではありません。
∽∽∽∽
『何でもないものが あらゆるものである』(p173-174)
──────────────────
> 存在は無限です。
> ただ無限性だけがあります。
> ただ存在だけがあり、
> それ以外に他の何もありません。
美しいですね。
> これは絶対的に完全な全体であり、
> その完全な全体の中で、
> それは完全な全体ではないという考えが
> わき起こるのです。
> でもそれも考えにすぎません。
はい。
> エネルギー的転換は
> 分離の欠如から見かけで起こり、
> それゆえ誰かに起こるわけではありません。
エネルギー的転換というのは
分離がないとき見かけの上で起こることで、
それは誰かに起こっているわけではないと。
とても平明な見解です。
この引用部分の直前の部分も
とても面白いので引用してみたいと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
∽∽∽∽
Q:
未来もなく過去もないことについて
何か言っていただけますか?
なぜかと言うと、
そのあたりの記憶が曖昧な感じなのです。
もし過去もなく未来もないことが見られ、
知られるとしたら、
それはある意味ては
目覚めと同等ということではありませんか?
トニー:
いいえ、
違います。
目覚めは不在です。
それは何もないことです。
分離の終わりが目覚めです。
分離しているという夢からの目覚めのあるとき、
ただ存在だけがあります。
でもその存在の中で、
先週起こった何かについての
見かけの記憶がわき起こる可能性があります。
でも記憶とは存在するこれなのです。
もしあなたが記憶を眺めれば、
それはただこれの中にだけ起こります。
記憶が起こる[手を叩く]。
それももう一つの生の感覚です。
何か思い出すことが生の感覚です。
でもだからといって、
それは先週が存在したことを
意味しているわけではありません。
Q:
はい、意味していません。
でも、時間、場所、人に囚われている
という感覚が現実に思えるのです。
トニー:
はい。
夢の中のあらゆることが、
それが現実であると
夢見る人に完全に確信させてくれます。
今の中のあらゆることが、
彼らは時間の中にある世界の個人であり、
人生が彼らに起こり、
それには意味と目的があると
夢見る人に確信させます。
Q:
でも、
それに対する解毒剤は絶対的に何もないのですか?
トニー:
夢見る人が消滅することを除いては。
目覚める以外に、
夢を見ることへの解毒剤はありません。
Q:
はい。
ということは、
そもそもそこにあるものに対する救済策も、
何もないということですか?
トニー:
救済策は必要ありません。
なぜなら、
それに関して何も悪いことはないからです。
Q:
何について悪いことが何もないのですか?
トニー:
夢見ること、分離です。
それは存在の表現です。
分離の中には不安感があり、
そのために探求者には
喪失感と苦しみの感覚が生まれるので、
彼らは苦痛からの逃避や、
その解消へと駆り立てられるのです。
探求者にとっての問題は、
彼らはそれから逃避もできないし、
その解消もできないことです。
なぜなら、
その努力そのものが分離感に油を注ぐからです。
Q:
そういった苦痛は、ただ存在の中にいるときにも
起こるのではありませんか?
トニー:
はい。
ただ存在だけがあります。
存在に中にいるときやいないときに苦痛が起こる、
ということではないのです。
ただ存在だけがあり、
探求が存在の中でわき起こります。
Q:
だから、救済方法ないのです。
なぜなら、人は自分を止められないからですか?
トニー:
はい、
そうする必要がありません。
なぜなら、
苦痛、喪失、探求に
何も悪いことはないからです。
それはただあるがままです。
Q:
ということは、
この問題を理解する明晰さは
何の役にも立たないのですか?
トニー:
はい。
Q:
つまり、これを機に来ていることには、
絶対的に何の意味もないのですか?
トニー:
はい、まったく何の意味もありません。
Q:
しかし、本当にないのですが?
トニー:
はい。
でもあなたは来ることをやめるでしょうか?
Q:
私は来ることをやめることはできません。
トニー:
なぜなら、
どちらかを選択できる人は誰もいないからです。
どれほどの概念、
どれほどの言葉や考えも、
人の目を開かせることはありません。
それはただ言葉にすぎません。
『何でもないものが あらゆるものである』(p169-172)
──────────────────
じつに清々しいですね。
(-||-)
質問者は
過去も未来も存在しないことが
はっきりわかったら、
それは目覚めと同じことかと問います。
するとトニーは
目覚めというのは
分離の夢の終わりのことだと言います。
そして分離の夢の中では
その中のあらゆるものが現実に思えるのだと。
> 今の中のあらゆることが、
> 彼らは時間の中にある世界の個人であり、
> 人生が彼らに起こり、
> それには意味と目的があると
> 夢見る人に確信させます。
質問者は
その催眠への解毒剤は夢の中には
本当に何もないのか、と尋ねます。
トニー・パーソンズは
> 目覚める以外に、
> 夢を見ることへの解毒剤はありません。
と答えます。
こう言われた質問者(つまりわれわれ)は
では夢の中にはどんな救済策もないのか?
と聞きます。
するとトニーは、
> 救済策は必要ありません。
> なぜなら、
> それに関して何も悪いことはないからです。
プ!(>_<)
これはひどい。(*^_^*)
そう聞かされても
個人の立場を取ろうとする質問者は
面白くありません。
いったい、何が悪くないのかと。
するとトニーは
夢見ること、つまり分離には
悪いことは何もない、と言います。
「それは存在の表現」なのだと。
そして
分離の中では
不安感、喪失感、苦しみの感覚が生まれ、
そのため探求者は苦痛からの逃避や、
解消へと駆り立てられるのだと。
しかし、その努力は
分離感に油を注ぐだけなので、
探求者は苦痛から逃避もできなければ、
苦痛を解消することもできないのだと。
要するに、
質問者は個人である探求者として
救済策を求めているわけですが、
トニーはあくまでも
ただ存在だけがあり、
探求者というのは存在の表現なのだから
それで何も悪いことはないのだ
という立場です。
質問者が
苦痛、喪失、探求からの
救済策を求めているのに対して、
トニーは別に救済の必要はない、
> 苦痛、喪失、探求に
> 何も悪いことはないからです。
> それはただあるがままです。
と答えるわけです。
さて、
ここからが面白い。(*^_^*)
> Q:
> ということは、
> この問題を理解する明晰さは
> 何の役にも立たないのですか?
>
> トニー:
> はい。
>
> Q:
> つまり、これを聞きに来ていることには、
> 絶対的に何の意味もないのですか?
>
> トニー:
> はい、まったく何の意味もありません。
>
> Q:
> しかし、本当にないのですか?
>
> トニー:
> はい。
> でもあなたは来ることをやめるでしょうか?
>
> Q:
> 私は来ることをやめることはできません。
>
> トニー:
> なぜなら、
> どちらかを選択できる人は誰もいないからです。
> どれほどの概念、
> どれほどの言葉や考えも、
> 人の目を開かせることはありません。
> それはただ言葉にすぎません。
いやー、すばらしい!
【どれほどの概念、
どれほどの言葉や考えも、
人の目を開かせることはありません。
それはただ言葉にすぎません。】
\(^O^)/
こう聞いて、
あるイメージが浮かびました。
海の波しぶきのイメージです。
当然のことですが、
海の波は海全体の都合のなかで
見かけの上で起こっていることで
個々の波の意志で
起こっているわけではありません。
その波の尖端の飛沫は
いわば存在の中で
分離の夢を担当している部分とも
見なせるかもしれません。
「飛沫」にわき起こっているのは
自分で懸命に探求しているという観念です。
しかし「飛沫」が「飛沫」として
飛んでいるあいだは
その観念がどのように起こっても、
(言い換えると
その観念がどうあがいても)
「飛沫」の分離の夢は終わりません。
しかし「飛沫」が波に飲み込まれて
海の中に消えたら、
否でも応でも分離の夢は終わります。
そしてそれはもちろん
別にその「飛沫」の探求(観念)の
手柄ではありません。(^_-)
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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■ 2.編集後記:
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今日もいい天気でしたね。
いい日でした。
今日は晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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