━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2021/12/26(第923号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.私とは…(トニー・パーソンズ)
2.編集後記
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■ 1.私とは…(トニー・パーソンズ)
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今日は曇り空でした。
ときどき日が射して、
そんなときは空気がとても温かくなります。
今日は高くなりすぎて懸案だった
敷地の西際に並んでいる杉の樹の
まず一本をついに伐採しました。
かなり大きくなってしまっていたので、
今回は安全楔も購入しておいたし、
ちょっと礼儀を正して木の根元にお酒をかけ
切らせてもらうことを伝えました。
杉の樹はこれまでも何度も切ったことはあるけれど、
今回ばかりは自己流をやめて
チェーンソウの研ぎ方から伐採の仕方まで
何度もネット空間で確認しました。
なるほどと思うことが多かった。
チェーンソウも自分では研いでいるつもりでも
これまでの自己流では
実際はあまり研げていなかったらしい。
今回は思いの外に切れ込みを入れるのが早かった。
狙っていた方向のメッシュの防護柵の内側に
見事にドンピシャで倒れてくれました。
切り倒すまでの何倍もの時間をかけて
杉の樹の上三分の一ほどに生えている
枝を切り落としました。
それなりに時間がかかったけど、
まずは怪我もなく一本伐採できました。
ありがたし。(-||-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
このところトニー・パーソンズの
『何でもないものが あらゆるものである』
http://goo.gl/f5mlKO
を開くことが多かったのですが、
その流れからか今朝は
同じくトニー・パーソンズの
『オープン・シークレット』に手が伸びました。
これには驚きましたね。
もう数回は読んでいるはずだけれど、
例によってまたもや
まるで初めて読んでいるみたい。(^_-)
ヒェ〜、
こんなことが書いてあったのか!(@_@) ⌒★?
と思って付箋を貼ったら、
なんとそれはブックカバーの上の
帯の部分に引用されている箇所だったりして。(*^_^*)
以前その帯を読んだときには、
それほど特別な印象も受けなかったのに。
いやいや、わからんもんです。
まあ、相変わらずそんなふうです。
「それ」は「ここ」では
そんな表現を楽しみたいのかもしれません。
早速、
ヒロさんが訳されたトニー・パーソンズの
『オープン・シークレット』から
引用させていただきます。
──────────────────
私でないものとは……
私でないものとは、
私の人生の物語、
心、
体、
気持ち、
痛みや喜びの経験、
苦闘、
成功や失敗だ。
私は
孤独でも、
静寂でも、
欲求不満でも、
慈愛でもない。
私は
自分の目的だと考えているものでも、
探求でも、
発見でも、
スピリチュアルな経験と呼ばれる
どのようなものでもない。
自分とは何であるかを妄想するときには、
こうした経験を神聖視し、
それを自分のものにして、
非常に意義深いものとして扱う。
そのような経験には意味があり、
その意味を理解することさえできれば
答えが与えられ、
公式が提供されるのだと信じる。
だがこういった見かけ上の経験は、
一体性(ワンネス)が
自らを隠したり現したりする
無意味なかくれんぼにすぎない。
『オープン・シークレット』(p58)
──────────────────
(-||-)
とても親切な一節ですね。
> 私でないものとは、
トニー・パーソンズはここで
まず何が「私」ではないかを確認してくれています。
> 私の人生の物語、
> 心、
> 体、
> 気持ち、
> 痛みや喜びの経験、
> 苦闘、
> 成功や失敗だ。
もしこういうものすべてが
これらに気づいている「私」ではないとすれば、
通常われわれが問題にしていることはすべて
それらすべてに気づいている「私」とは
まったく無関係だということです。
自分の人生という物語。
四六時中わいてくるマインド。
この身体。
この気分。
苦痛と快楽の経験。
何かを獲得するための苦闘。
その獲得に成功したり、
失敗すること。
それらすべてが
そのすべてに気づいている
「私」とはなんの関係もないというのです。
ありがたいことです。(-||-)
ただしトニー・パーソンズに
こう言われたからと言って、
ただちにそのメッセージへの信頼が
「ここ」で起こるわけでもありません。
しかしまた同時に、
その信頼が起こるかどうかが
「私」に何かを付け加えたり、
「私」から何かを奪ったりするわけでもない。
要するに、
見かけの上で何が起こるか、
どんな想念がわいてくるかは、
「私」とはなんの関係もないのでしょう。
> 私は
> 孤独でも、
> 静寂でも、
> 欲求不満でも、
> 慈愛でもない。
> 私は
> 自分の目的だと考えているものでも、
> 探求でも、
> 発見でも、
> スピリチュアルな経験と呼ばれる
> どのようなものでもない。
「私」とは、
目の前に展開するどんな属性ともまったく関係ない。
見かけの上でのスピリチュアルな探求において
価値あるものとされるような心境とも、
逆に無価値と見なされる経験とも
一切なんの関係もないのでしょう。
> 自分とは何であるかを妄想するときには、
> こうした経験を神聖視し、
> それを自分のものにして、
> 非常に意義深いものとして扱う。
> そのような経験には意味があり、
> その意味を理解することさえできれば
> 答えが与えられ、
> 公式が提供されるのだと信じる。
たしかに、
意識していたかどうかはいざ知らず、
長いことそういう信念を
抱えてきたのだろうと思われます。
> だがこういった見かけ上の経験は、
> 一体性(ワンネス)が
> 自らを隠したり現したりする
> 無意味なかくれんぼにすぎない。
そういう見かけ上の経験すべてが、
一体性(ワンネス)の
遊びの表現そのものだったのだと。
かくれんぼそのものを演じている
夢の登場人物としては
まるで騙しに遭ったような話だとしても、
でも騙している誰かがいるわけでもない。
呼び出し動画の設定をAIに任せた
「私」しか存在しないみたいなものかもしれません。
続いて、
その次の一節もご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
無断引用というよりは、本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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私とは……
私とは、
と言えるような私はない。
全体性の絶対的表現がすでにある。
加えたり取り去ったりする必要があるものは
何もない──まったく何も。
他のものより正当なもの、
神聖なものは何もない。
満たされなければならない条件はない。
無限なるものはどこか別の場所で
私たちが価値ある存在になるのを
待っているわけではなく、
それは存在するすべてだ。
「魂の暗夜」を経験したり、
明け渡したり、
浄化したりする必要はないし、
変化やプロセスを通り抜けたりする必要も一切ない。
実在しない分離した自己が、
それが実際しないことは明らかにするために
何かを実践できるということが、
どうしたらありえるだろうか?
深刻になったり、
正直になったり、
不正直になったり、
道徳的になったり、
非道徳的になったり、
上品になったり、
下品になったりする必要はない。
基準点は存在しない。
見かけの上で起こった人生の物語は、
それぞれの目覚めにとって
これ以上ないほど完璧に、
適切なものだ。
すべては今あるものとしてただある。
何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、
ただあるからあるのだ。
解放される必要のある人は
どこにもいないことに気づこう
という誘いは途切れることがない。
変容の瞬間を待つ必要も、
行為者の不在、
永続する至福、
エゴのない状態、
くつろいだ心の状態を探し求める必要もない。
恩寵の訪れを待つ必要はないが、
それは、
存在しているすべてがすでに恩寵だからだ。
『オープン・シークレット』(p59-60)
──────────────────
> 私とは、
> と言えるような私はない。
> 全体性の絶対的表現がすでにある。
【全体性の絶対的表現がすでにある】
「ここ」に現れるすべての表現が、
これ以上どう改善のしようも、
これ以上どう改悪のしようもない
全体性の絶対的表現だというのです。
> 加えたり取り去ったりする必要があるものは
> 何もない──まったく何も。
> 他のものより正当なもの、
> 神聖なものは何もない。
> 満たされなければならない条件はない。
> 無限なるものはどこか別の場所で
> 私たちが価値ある存在になるのを
> 待っているわけではなく、
> それは存在するすべてだ。
何をする必要もなければ、
また何をすることもできない。
それができるどんな誰も存在しない。
ただ在ることがあるだけ。
> 「魂の暗夜」を経験したり、
> 明け渡したり、
> 浄化したりする必要はないし、
> 変化やプロセスを通り抜けたりする必要も一切ない。
> 実在しない分離した自己が、
> それが実際しないことは明らかにするために
> 何かを実践できるということが、
> どうしたらありえるだろうか?
全体性の絶対的表現のなかに
見かけ上の分離感が含まれているだけ。
見かけの上で頑張っている感じがあったとしても
実際に頑張っている誰かがいるわけではない。
実際に存在してもいない誰かが
どうして頑張ることができるというのか?
> 深刻になったり、
> 正直になったり、
> 不正直になったり、
> 道徳的になったり、
> 非道徳的になったり、
> 上品になったり、
> 下品になったりする必要はない。
見かけの上で追求されるあらゆる高貴さや
見かけの上で忌避されるあらゆる愚劣さは
すべて全体性の絶対的表現。
> 基準点は存在しない。
> 見かけの上で起こった人生の物語は、
> それぞれの目覚めにとって
> これ以上ないほど完璧に、
> 適切なものだ。
> すべては今あるものとしてただある。
> 何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、
> ただあるからあるのだ。
追求すべきものもなければ、
忌避すべきものもない。
そもそもそのような判断が可能なような
基準点そのものが存在しない。
> 解放される必要のある人は
> どこにもいないことに気づこう
> という誘いは途切れることがない。
> 変容の瞬間を待つ必要も、
> 行為者の不在、
> 永続する至福、
> エゴのない状態、
> くつろいだ心の状態を探し求める必要もない。
解放されることを求めている
誰かが存在するわけではない。
ただかくれんぼを演じている「私」がいるだけ。
> 恩寵の訪れを待つ必要はないが、
> それは、
> 存在しているすべてがすでに恩寵だからだ。
「ここ」に現れているのは
すべて「私」が「私」にかけた恩寵の幻。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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今日もいい日でした。
今日は晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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