━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/01/30(第928号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.宇宙的夢(R・バルセカール)
2.編集後記
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■ 1.宇宙的夢(R・バルセカール)
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今日は薄曇りで
けっこう寒々しかった。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
夢見られた登場人物のわたしにとって、
夢の中の光景や物語は
すべてあまりにもリアルです。
実際のところ、
とても夢とは思えません。(*^_^*)
ですから
“聖なる催眠”が懸かった状態にいながら
この現実を「夢」だと言うことは
ちょっと越権では……という思いもあります。
実際、
そんな言葉を四六時中聞かせられている
身近な登場人物の身になったら
堪ったものではないでしょう。
だからそんな言葉は一切口にしないか、
あるいはむしろ、もし可能なら
いちど真剣に
「自分はこの身体だ」という思いに
全身で浸ってみるべきなのかもしれません。
しかしラマナ・マハルシが語った
結婚式に現れたあの見知らぬ客のように、
エゴは状況に応じて姿を晦まします。
むろん、捕まるはずもないのです。
もともとどんな(有形の)実体も
存在しないわけですから。
とはいえ、
自分が存在することを疑う必要もありません。
「私がいる」ことは間違いない。
ただし何かとして存在するわけではない。
この身体が生きているあいだ、
<意識>は【見かけ】に気づいている。
それだけです。
敢えて区別するなら、
この“身体”や“思考”や“気分”、
すべて現れているものは夢見られています。
そういうものは<意識>の内容、
対象物です。
変化することで現象している「変化の相」、
<意識>の【見かけ】です。
では何が夢見ているのか?
もちろん同じ<意識>です。
<意識>しか存在しないのですから。
それを敢えて
<意識>の内容と区別して、
形態を映し出す背景、
音を包み込む沈黙、
「不動の相」「空」「非顕現」「気づき」
などと呼ぶこともできるかもしれません。
「私」が「現象=夢」を夢見ているのです。
こういう言葉をいくらなぞっても、
“聖なる催眠”が解けることはありません。
どんな<意識>の【見かけ】も、
<意識>の【見かけ】の解体を
起動することはできませんから。
<意識>の【見かけ】を構成する
マインドにできるのはせいぜい、
ある【見かけ】に一体化して、
別の【見かけ】に期待を寄せることを
やめることまでだそうですから。(*^_^*)
つまりは、
こういった言葉をマインドでなぞるのを
やめなさいということかもしれません。(;_;)
しかしそう聞いたからと言って、
この現実が夢だという話を、
またもや聴きたくなってしまうのです。
実際は
何も起こっていないというのは本当なのか?
そういうことを何度も何度も
確認してほしくなるのです。
マインドが聞き飽きるまで
またそんな言葉が聴きたくなってしまうのです。
ラメッシ・バルセカールの『意識は語る』に
「宇宙的夢──聖なる演劇」
という一節があります。
今回はこの一節を写経しましょう。
──────────────────
◇ ◆ ◇
宇宙的夢──聖なる演劇
質問:
ラメッシ、あなたは誕生もなければ死もない
と言った何人かの異なる人たちの言葉を引用しました。
どれくらいがあなたの経験から来ているものですか?
ラメッシ:
百パーセントです!
ほら、実際は経験という問題はないのです。
それは確信の問題で、
まさにそういうことで、
可能なかぎり最深の確信です。
質問:
経験的レベル、それとも知的レベルでしょうか?
ラメッシ:
いいえ、
それは知的レベルよりもずっと深いものです。
でも、
私は「経験的」という言葉を使うことに躊躇します。
なぜなら、
その言葉は誤解を招く可能性があるからです。
でも、
それは私が今生きている、
私が今ここに存在しているのと同じだけの確信です。
私は誰かに私が生きているか、
私が存在しているかを尋ねる必要がありません。
さて、
それを人が経験と呼ぶのかどうかは
私にはわかりません。
何の経験でしょうか?
ただ存在だけです。
正直に言えば、
私はそれを経験とは呼ばないでしょう。
『意識は語る』(p99)
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> 質問:
> ラメッシ、あなたは誕生もなければ死もない
> と言った何人かの異なる人たちの言葉を引用しました。
> どれくらいがあなたの経験から来ているものですか?
とても理知的に見えるラメッシ・バルセカールに
こう訊きたくなった方の気持ちもわかります。
何も起こらなかったというのは
あなたが体験的に知った確信なのか?
その幾分かは知的な理解ではないのかと。
しかし、
ラメッシの解答はとても心強いものです。
> ラメッシ:
> 百パーセントです!
それは論理的推論ではありません。
疑いの余地が一切ありえない自明の確信です。
> ほら、実際は経験という問題はないのです。
> それは確信の問題で、
> まさにそういうことで、
> 可能なかぎり最深の確信です。
現象がすべて夢であるということについて
疑問の余地はまったくありません。
それは百パーセント確実なことです。
そして実際、
それは確信の問題であって
経験の問題ではないのです。
それはありうるかぎり最深の確信です。
> 質問:
> 経験的レベル、それとも知的レベルでしょうか?
その確信の深さというのは
経験的なものですか?
それとも知的なものでしょうか?
> ラメッシ:
> いいえ、
> それは知的レベルよりもずっと深いものです。
いいえ、
その確信は知的なものではありません。
それよりずっと深いものです。
> でも、
> 私は「経験的」という言葉を使うことに躊躇します。
> なぜなら、
> その言葉は誤解を招く可能性があるからです。
とはいえ、
それを「経験的」確信と言うのも
誤解を招く可能性があります。
なぜなら経験とは常に誰かの経験だからです。
> でも、
> それは私が今生きている、
> 私が今ここに存在しているのと同じだけの確信です。
> 私は誰かに私が生きているか、
> 私が存在しているかを尋ねる必要がありません。
> さて、
> それを人が経験と呼ぶのかどうかは
> 私にはわかりません。
> 何の経験でしょうか?
> ただ存在だけです。
> 正直に言えば、
> 私はそれを経験とは呼ばないでしょう。
私は自分が生きているかどうかを
他の誰にも尋ねる必要がありません。
自分で知っているからです。
その自分がいることを
私は経験していると言うでしょうか?
いや、おそらくそれを経験とは言わないでしょう。
それは自明の事実に対する確信です。
この私たちが経験している人生が
実際は存在しない幻想であるというのは
経験上の事実というよりは、
私の存在と同じレベルの自明の確信なのです。
──────────────────
その存在の中で、
在るという非個人的な感覚の中で、
「自分」は必要はありません。
そして、
もしどんな「自分」も必要ないなら、
経験の必要もないわけです。
わかりますか?
質問:
究極的な真実とは
何も起こったことがないということだ
とあなたが言うとき、
この虚構が起こらなかったことも真実なのですか?
ラメッシ:
起こらなかったことが
私たちには起こったように見えるのです。
この現象は意識の中の単なる見かけにすぎず、
私の個人的な夢と何ら変わることがありません。
蜃気楼は起こりました 。
でも、
それにもかかわらず、
それは本当には起こりませんでした。
質問:
ということは、これも起こっていないのですか?
ラメッシ:
起こったことは、
ただこの目覚めて見る夢です。
そして個人的な夢の中では、
この人生が私たちにとっては非常に現実であるように、
あらゆるものが非常に現実です。
しかし、
いったん私たちが目覚めたら、
夢の中の死にかけている友人がどうなるのかは
気にしません!
起こることは、
自分たちの個人的夢から目覚めて、
生きているこの夢に入ることです。
質問:
あなたが「どんなこと」も起きていないというとき、
この夢は出来事のように思えるわけです。
ですから、
あなたがこの究極の真実について、
どれほど厳密であったのかと私は思っているのです。
ラメッシ:
これが究極の真実です。
私たちが夢として見ている出来事は幻想です。
ですから、
もし幻想が起こったということを
あなたが意味するなら、
つまり、
もしあなたが「幻想」という言葉を
「起こった」といっしょに使うことができるなら、
けっこうですよ、
それでいいと思います。
しかし、
その幻想が現実でないという程度において、
このことは起こっていないのです。
悟りというか理解があるとき、
現象は意識の中の見かけとして見られます。
あなたはそれが夢であることに気づきます。
そして夢見られている登場人物として、
あなたは自分の役がどれくらい長く続くかは
気にしません。
あなたがすることになっていることが何であれ、
あなたがしている役割が何であれ、
すべては夢の一部です。
◇ ◆ ◇
『意識は語る』(p100-101)
──────────────────
> その存在の中で、
> 在るという非個人的な感覚の中で、
> 「自分」は必要はありません。
> そして、
> もしどんな「自分」も必要ないなら、
> 経験の必要もないわけです。
> わかりますか?
自分が存在することを知っているのは
非個人的感覚です。
あなたは何処かの誰かに成る以前に、
自分が存在することを知っています。
その存在の感覚に
経験の主体である個人は必要ありません。
もしこの<存在感>に
経験主体の「自分」が必要ないなら、
この存在を知るのに経験が不要なことは
理解できるのではありませんか?
> 質問:
> 究極的な真実とは
> 何も起こったことがないということだ
> とあなたが言うとき、
> この虚構が起こらなかったことも真実なのですか?
究極的な真実とは何も起こっていないことだ、
という言葉の意味の包含には、
虚構が起こらなかったことは真実だ
ということが含まれているのですか?
> ラメッシ:
> 起こらなかったことが
> 私たちには起こったように見えるのです。
起こっていないことが
起こっているように見えるのが
夢だということです。
> この現象は意識の中の単なる見かけにすぎず、
> 私の個人的な夢と何ら変わることがありません。
> 蜃気楼は起こりました 。
> でも、
> それにもかかわらず、
> それは本当には起こりませんでした。
毎朝、目が覚めるとき、
私たちはそれまで見ていた夢の世界が
じつは何処にも存在しておらず、
夢の中の文脈で起こっていたことはすべて
実際は何ひとつ起こっていなかったことを知ります。
意識はただ放心して
単なる【見かけ】を追っていただけでした。
そこで起こっていたことは
個人的な夢という蜃気楼です。
それが蜃気楼だったと気づいたとき、
実際には何も起こっていなかったことが
明らかになったわけです。
> 質問:
> ということは、これも起こっていないのですか?
というと、
この今の対話も起こっていないのですか?
> ラメッシ:
> 起こったことは、
> ただこの目覚めて見る夢です。
この目覚めて見る夢が今起こっているのです。
> そして個人的な夢の中では、
> この人生が私たちにとっては非常に現実であるように、
> あらゆるものが非常に現実です。
そして夜眠って見る夢の中では
あらゆる文脈が非常に現実的に見えるように、
この目覚めて見る夢の中でも
この人生は非常に現実に見えるわけです。
> しかし、
> いったん私たちが目覚めたら、
> 夢の中の死にかけている友人がどうなるのかは
> 気にしません!
でも、
朝、眠りから目覚めたら、
あなたはもう
夢の中で死にかけていた友人の心配はしません。
それが実際は起こっていないことを
あなたは知っているからです。
> 起こることは、
> 自分たちの個人的夢から目覚めて、
> 生きているこの夢に入ることです。
起こっているのは、
私たちは毎朝目覚めるとき
夜の眠りの中の個人的夢から覚めて、
この目覚めて見る夢の中に入るということです。
> 質問:
> あなたが「どんなこと」も起きていないというとき、
> この夢は出来事のように思えるわけです。
> ですから、
> あなたがこの究極の真実について、
> どれほど厳密であったのかと私は思っているのです。
あなたが「何ひとつ起こらなかった」と言うとき、
それがどれくらい比喩的なのか
どれくらい厳密な話なのかと思っていたのです。
> ラメッシ:
> これが究極の真実です。
何ひとつ起こっていない。
これが究極の真実です。
> 私たちが夢として見ている出来事は幻想です。
私たちが夜寝ているときに見る夢も、
目覚めて見るこの人生もすべては幻想です。
> ですから、
> もし幻想が起こったということを
> あなたが意味するなら、
> つまり、
> もしあなたが「幻想」という言葉を
> 「起こった」といっしょに使うことができるなら、
> けっこうですよ、
> それでいいと思います。
> しかし、
> その幻想が現実でないという程度において、
> このことは起こっていないのです。
ですから、
もしあなたが単なる「幻想」について
その「幻想」は「起こった」と表現したいのなら、
それはそれでかまいません。
ただ、それらの幻想の出来事は
現実ではない蜃気楼だったという意味では、
それらのことは起こっていないわけです。
> 悟りというか理解があるとき、
> 現象は意識の中の見かけとして見られます。
存在するのが唯一<意識>であり、
自分こそが気づいている唯一の存在だという
理解、あるいは悟りがあるとき、
あらゆる現象は
唯一の実在である<意識>が
自らの存在に気づいて夢見る
<意識>の中の【見かけ】にすぎないもの
として見られます。
> あなたはそれが夢であることに気づきます。
その【見かけ】の中に
知覚され想像された文脈や物語はすべて、
夢見られた虚構の娯楽であることが知られているのです。
> そして夢見られている登場人物として、
> あなたは自分の役がどれくらい長く続くかは
> 気にしません。
そしてその夢の中の登場人物(身体)の役柄が
どれくらい続くのかは気にしません。
> あなたがすることになっていることが何であれ、
> あなたがしている役割が何であれ、
> すべては夢の一部です。
なんであれその夢の中の役柄を
夢見られたように最後まで演じるだけです。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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土曜日はいつもこんなふうに、
独りよがりの中でかなりハイになって
終えられるのがありがたいです。
まあまあ、今日も楽しかった。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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