home > 通信 >「まるで」選択があるかのように:『アセンション館通信』第930号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/02/13(第930号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.「まるで」選択があるかのように

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.「まるで」選択があるかのように
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今日は晴れましたね。

日中は外に出てもそれほど寒くなかった。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

“聖なる催眠”が解けたわけでもないですから、

心配したり嫌悪感を感じたりしながら

普通に夢の中で生活しています。

(こんなこと

 いちいち断るまでもないか。(-_-) )

とはいえ、若いころのように

それをギリギリ思い詰めるような

そんなエネルギーもありません。

そんなつもりもないのでしょう

そういう思いはまったく湧いてきません。

ただ起こってくる事態に対して、

“自分”が対応している感じの中で

生きているだけです。

そして同時に、

知的にではあっても

いつもこれが「夢」だという感じもある。

まあ、

だいたいすべてのことは仕方がない

と思って生きているという感じ。

ただですね、

朝起きがけにベッドの中で本を読むなら

トニー・パーソンズの

『何でもないものが あらゆるものである』

がいいかもしれません。(^_-)

これはメチャメチャわかります。

ぜんぜん違和感がないです。(*^_^*)

朝、そうやって一日を始めるのも

いいかもです。

そして、こうして土曜日が来ると

やっぱりPCに向かって

こうして文字を綴る気持ちになる。

そういう登場人物なんでしょうね。

それで今日はしばらくぶりに

ラメッシ・バルセカールの

『誰がかまうもんか?!』を

開いてみる気になりました。

目次を見ていると、

「エゴは神ではない、探求者であったこともない」

という文字が目に入ってきました。

え、エゴって、強いて言うなら

神が演じさせているんじゃないの?(?_?)

と思って、

その一節を開いて見ました。

──────────────────
 
 エゴは神ではない、探求者であったこともない
 
 
 ミラバイ
 それでは、エゴもまた神なんですか?
 エゴも神ではないんですか?
 
 ラメッシ
 エゴは神ではありません。
 なぜならエゴは存在しないからです!
 でも、
 エゴは源泉というか神以外の
 どこから来ることができただろうか
 とお尋ねなら、
 はい、そうです、
 神はエゴを創造しました。
 神は、
 私が聖なる催眠と呼んでいるものを通じて
 エゴを創造しました。
 神はエゴを創造し、
 そしてまた、
 エゴを破壊しています──
 どれもすべてというわけではありませんが、
 探求ということが起こっている場合に。
 だから私は探求者に言うのです。
 「探求者が理解すべき最も重要なことは、
  『誰も』探求者であったことがなかった
  ということです」。
 そして私は、
 探求は、
 悟りというものを、
 この世のどんなものよりも
 その人に幸福を与えてくれる何かとして、
 探求者が求めることから始まる、
 といつも言っています。
 こうして始まるのです。
 
 エディ
 存在していると思い、
 探求していると思うのは、
 エゴそのものなんですか?
 
 ラメッシ
 もちろんです! もちろんです!
 それゆえエゴは、
 「私」が物事をやっている、
 「私」が人生をコントロールしている、
 というのです。
 
       * * *
 
 『誰がかまうもんか?!』 (p183-184)
──────────────────

> ミラバイ
> それでは、エゴもまた神なんですか?
> エゴも神ではないんですか?

ですよね。(?_?)

> ラメッシ
> エゴは神ではありません。
> なぜならエゴは存在しないからです!

あーあ。(@_@) ⌒★?

なるほど、たしかに。

> でも、
> エゴは源泉というか神以外の
> どこから来ることができただろうか
> とお尋ねなら、
> はい、そうです、
> 神はエゴを創造しました。

了解です。(^^)/

> 神は、
> 私が聖なる催眠と呼んでいるものを通じて
> エゴを創造しました。

それで、こうして

pariというエゴも体験を苦しんでいます。

> 神はエゴを創造し、
> そしてまた、
> エゴを破壊しています──
> どれもすべてというわけではありませんが、
> 探求ということが起こっている場合に。

なるほど。

夢の中の探求という形態において、

神はエゴを破壊している……と。

> だから私は探求者に言うのです。
> 「探求者が理解すべき最も重要なことは、
>  『誰も』探求者であったことがなかった
>  ということです」。

「誰か」は神が夢見ている

夢の中にしか存在しないから。

> そして私は、
> 探求は、
> 悟りというものを、
> この世のどんなものよりも
> その人に幸福を与えてくれる何かとして、
> 探求者が求めることから始まる、
> といつも言っています。
> こうして始まるのです。

夢の中でそういう場面が始まったら、

その役柄の登場人物の

夢の中での消滅過程が始まっているのだと。

> エディ
> 存在していると思い、
> 探求していると思うのは、
> エゴそのものなんですか?

じゃ、

探求していると思っている当人は、

登場人物としてのエゴ本人なんですね?

> ラメッシ
> もちろんです! もちろんです!

了解です。

エゴはつらいわけだ。(^_-)

> それゆえエゴは、
> 「私」が物事をやっている、
> 「私」が人生をコントロールしている、
> というのです。

なるほどなぁ。(-_-;)

そしたら、

“自分”が夢の中の登場人物だと

(知的にもせよ)理解しながら、

なおかつこうして

夢の中の登場人物として

そうせざるをえないというふうに

エゴを演じ続けなければならないこの状況を、

再度ラメッシ・バルセカールに

解説してもらいたくなりました。

『意識は語る』( https://amzn.to/3gsVHcj )

の「第八章 選択と意志」の中に

【「まるで」選択があるかのように生きる】

という一節があります。

──────────────────
 
 「まるで」選択があるかのように生きる
 
 
 質問:
 あなたは今までクンダリーニの覚醒を
 経験したことがありますか?
 
 ラメッシ:
 いいえ。
 私はクンダリーニの覚醒という言葉以外、
 それについては何も知りません。
 私はその経験がまったく何もありません。 
 
 質問:
 現象は幻想であるという考え方全体は、
 ある種の罠となることもありえませんか?
 
 ラメッシ:
 はい。
 それゆえ人生においては、
 自分は行為者でないと知りながら、
 まるで自分が行為者であるかのように
 生きなければならないということです。
 人間は虚構によって生きています。
 たとえば人間は、
 太陽が静止していて、
 運動しているのは地球だということを知っていますが、
 それにもかかわらず、
 日常生活では太陽が昇っては沈む
 という虚構を受け入れています。 
 
 ですからその理解は、
 これは幻想で、
 人は自由意志をもっていないというものですが、
 しかし人生では、
 あなたはまるで自由意志があるかのように
 行動しなければならないのです。
 
 私はラーマクリシュナ
 (インドの宗教家、1836〜86)が
 「個人としてのあなたは行為者ではないが、
  しかし人生では、
  自分がまるで行為者であるかのように
  機能しなければならない」
 と言っているのを読んで驚いたことがあります。
 
 質問:
 なぜあなたが驚いたのか、よく分かりません。
 
 ラメッシ:
 私が驚いたのは、
 ラーマクリシュナはバクタだったからです。 
 注意してもらいたいことは、
 ラーマクリシュナは英語使ったわけではないので、
 それを翻訳した人が「まるで」(as if)
 という言葉を使ったのです。 
 これはドイツの哲学者、
 ハンス・ファイヒンガー(1852〜1933)が、
 自分の「かのようにの哲学(as if)」の中で
 使ったのと同じ言葉です。
 「人間は虚構によって生きるしか選択がない。
  人間は徳のある行為に報酬を与え、
  不正な行為には罰を与える神が
  まるでいるかのように、
  感覚の幻想世界がまるで現実であるかのように、
  自分には自分の行動に責任をもたせる自由意志が
  まるであるかのように、
  人間はまるで
  死刑宣告を受けていないかのように
  行動しなければならない。
  こういった虚構のおかげでのみ
  個人は自分の正気を保つことができる」。
 ですから、
 「まるで」の意味は非常に明確です。
 あなたは行動しなければならない
 と彼は言います。
 事実、
 あなたは行動しないでいることはできません。
 肉体精神機構は
 ある出来事に反応しなければなりません。
 あなたは決定しなければならず、
 あなたはそれらがまるで
 自分自身の決定であるかのように、
 決定しなければならないのです。 
 
 質問:
 私たちがこういう物事を
 議論しているときに沸き起こる混乱は、
 それらは
 私が人生をどう生きるべきかという
 処方箋のように聞こえてしまうことです。
 
 ラメッシ:
 それらは処方箋ではありません!
 それらは目覚めが怒るときの、
 あるがままの現実の描写にすぎません。 
 
 『意識は語る』(p579-581)
──────────────────

> 質問:
> 現象は幻想であるという考え方全体は、
> ある種の罠となることもありえませんか?

ルパート・スパイラも

このことについてはよく言及しますね。

> ラメッシ:
> はい。
> それゆえ人生においては、
> 自分は行為者でないと知りながら、
> まるで自分が行為者であるかのように
> 生きなければならないということです。

そうかぁ。(-_-;)

夢の中の登場人物というのは、

まるで自分が行為者であるかのように

生きなければならない状況なんだ。

> 人間は虚構によって生きています。
> たとえば人間は、
> 太陽が静止していて、
> 運動しているのは地球だということを
> 知っていますが、
> それにもかかわらず、
> 日常生活では太陽が昇っては沈む
> という虚構を受け入れています。 

たしかに。

> ですからその理解は、
> これは幻想で、
> 人は自由意志をもっていないというものですが、
> しかし人生では、
> あなたはまるで自由意志があるかのように
> 行動しなければならないのです。

どうやっても、

したいことをしたいようにするしか

生きようはないということ。(*^_^*)

あたかもそれが

“自分”の選択であるかのように。

> 私はラーマクリシュナ
> (インドの宗教家、1836〜86)が
> 「個人としてのあなたは行為者ではないが、
>  しかし人生では、
>  自分がまるで行為者であるかのように
>  機能しなければならない」
> と言っているのを読んで驚いたことがあります。

へえ、そうなんだ。

(-||-)

> 質問:
> なぜあなたが驚いたのか、よく分かりません。

たしかに。

> ラメッシ:
> 私が驚いたのは、
> ラーマクリシュナはバクタだったからです。 

そうか。

ジニャーニ・タイプでない覚者が

そういう言い方をしたことに驚いたんだ。

> 注意してもらいたいことは、
> ラーマクリシュナは英語使ったわけではないので、
> それを翻訳した人が「まるで」(as if)
> という言葉を使ったのです。

はい。

> これはドイツの哲学者、
> ハンス・ファイヒンガー(1852〜1933)が、
> 自分の「かのようにの哲学(as if)」の中で
> 使ったのと同じ言葉です。
> 「人間は虚構によって生きるしか選択がない。
>  人間は徳のある行為に報酬を与え、
>  不正な行為には罰を与える神が
>  まるでいるかのように、
>  感覚の幻想世界がまるで現実であるかのように、
>  自分には自分の行動に責任をもたせる自由意志が
>  まるであるかのように、
>  人間はまるで
>  死刑宣告を受けていないかのように
>  行動しなければならない。
>  こういった虚構のおかげでのみ
>  個人は自分の正気を保つことができる」。

へえ。

哲学者でこういう結論に達する方も

いるんですねぇ。

> ですから、
> 「まるで」の意味は非常に明確です。
> あなたは行動しなければならない
> と彼は言います。

行動せざるをえない。

他にやりようはない、という意味ですよね。

> 事実、
> あなたは行動しないでいることはできません。

はい。

『Living Reality』の中で

ボブの奥さんがバラした

こんな逸話が思い出されますね。

──────────────────
 バーバラ 
 オーストラリアで、
 電話ボックスからボブと
 非二元について話した人がいたの。
 でボブが言うことを聞いて彼は
 「もしどんなことにも何の意味もなく、
  すべてが幻想だというなら、
  私は何もしない」
 と言ったの。
 そしたらボブが
 「これから三十年
  その電話ボックスにいてごらんなさい」
 って。[みんな笑う]
──────────────────

プ。(>_<)
  
これはひどい。(*^_^*)

> 肉体精神機構は
> 出来事に反応しなければなりません。
> あなたは決定しなければならず、
> あなたはそれらがまるで
> 自分自身の決定であるかのように、
> 決定しなければならないのです。 

これはもう疑問の余地なしです。

自明と言っていいですよね。

> 質問:
> 私たちがこういう物事を
> 議論しているときに沸き起こる混乱は、
> それらは
> 私が人生をどう生きるべきかという
> 処方箋のように聞こえてしまうことです。

そうなんですよね。

ラメッシ・バルセカールも、

マハラジに「ただ在りなさい」と言われて、

六ヶ月間地獄の苦しみだった、

と言っていましたね。

たとえば、

「あなたは静かにならなければならない」

と言われても、同じことですね。

マハラジは

相手が自分だと想像している個人に

静になるように指示しているのではなく、

「静になる」ということが起こらないかぎり

実際は何も起こらない

という状況を説明しているだけなのでしょう。

> ラメッシ:
> それらは処方箋ではありません!
> それらは目覚めが起こるときの、
> あるがままの現実の描写にすぎません。 

了解いたしました。

(-||-)

──────────────────
 質問:
 目覚めていないとき、
 自分の人生を生きるための
 何千という様々な道があり、
 ほとんどあらゆることについて
 何千という様々な考え方があります。 
 私はそれらの中から
 どう選んだらいいのでしょうか?
 
 ラメッシ:
 普通の人にとっては、
 それは適切な問題です。 
 「私は自分が行為者ではないことを
  理解しますが、
  でも私はどうやって
  普通の人生を生きることができますか?」
 
 その質問は答えられる必要があります。
 その答えとは、
 「『自分はその行為者ではない』ことを
  知的に理解しながら、
  まるで自分が行為者であるかのように
  機能し続けてください」
 ということです。
 時間がたつにつれて、
 「自分はその行為者ではない」
 という知的理解がより深くなり、
 起こるすべての行為は「あなた」の行為ではなく、
 自然発生的な行為だと
 認識されるようになるでしょう。
 
 『意識は語る』(p581-582)
──────────────────

> 質問:
> 目覚めていないとき、
> 自分の人生を生きるための
> 何千という様々な道があり、
> ほとんどあらゆることについて
> 何千という様々な考え方があります。 
> 私はそれらの中から
> どう選んだらいいのでしょうか?

あれ?

直前のコメントをした人と

まるで別人みたいな感じですね。(?_?)

> ラメッシ:
> 普通の人にとっては、
> それは適切な問題です。

この質問をした人が

いわゆる普通の人なら

まったく問題のない質問ですが。
 
> 「私は自分が行為者ではないことを
>  理解しますが、
>  でも私はどうやって
>  普通の人生を生きることができますか?」

ああ、

ここではラメッシ・バルセカールは、

この問をこのような問として

回答しようとしたのですね。

> その質問は答えられる必要があります。

はい、お願いします。

> その答えとは、
> 「『自分はその行為者ではない』ことを
>  知的に理解しながら、
>  まるで自分が行為者であるかのように
>  機能し続けてください」
> ということです。

わかりました。(-||-)

実際、

それ以外やりようがないですものね。

> 時間がたつにつれて、
> 「自分はその行為者ではない」
> という知的理解がより深くなり、
> 起こるすべての行為は「あなた」の行為ではなく、
> 自然発生的な行為だと
> 認識されるようになるでしょう。

ああ……。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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夢の中では、

ミナミAアシュタールの教えに従って

あたかも“自分”が望むような

現実化を実現できるかのように

生きるしかないのでしょう。

まあまあ今日も楽しかった。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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