home > 通信 >「人生で最も大切なものは?」:『アセンション館通信』第931号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/02/20(第931号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「人生で最も大切なものは?」

2.編集後記
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■ 1.「人生で最も大切なものは?」
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今日はときどき晴れ間もあるのですが、

なにしろ寒々しい。

ちょっと外に出る気がしません。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ほかにどうしようもなくて、

こんなふうに夢の中の登場人物としての

役割を演じさせられています。

あたかも自分がそれを望んでいるかのように。

そして土曜日が来るとこうして

またもや状況を整理したくなるのです。

知的に、論理的に、明確に理解すれば、

直感的理解が訪れるかのように。

でも、

夢の中の登場人物の“理解”とか“行為”が

夢のシナリオの動向を左右する……

などということは起こった試しがない。

というのも登場人物の選択そのものが

夢の中での彼の役割なのですから。

そもそも登場人物は現象の中、

意識の【見かけ】の中にしかいません。

「私」とは

その意識の【見かけ】に気づいている主体、

「気づき」そのものにほかなりません。

こんなこと、

何度繰り返しても同じこと。(^_-)

【見かけ】に「気づいている」のは

現状ですでに「気づいている『私』」です。

そして現状ですでに、

その「気づいている『私』」しか

実在してはいないわけです。

でも“夢の中の登場人物”という

仮初のアイデンティティは、

“自分”の住み処である全現実が

崩壊することをけっして望んでいません。

むしろ全エネルギーで

それを阻止しようとしているでしょう。

そして【見かけ】という夢の中で

仮初の安全を構築することで

つかの間の幸福に浸ろうとするのです。

そのあいだ「私」は、

夢のドラマの背景として永遠に待っている。

「私」は永遠に待つことができます。

「私」は少しも急いでいない。

急いでいる役割を演じるのは

“夢の中の登場人物”という

仮初のアイデンティティのほうです。

スクリーン上に投影される映画の中では、

たしかに一つのドラマが展開されている。

そのドラマの文脈の中では

あらゆる瞬間に“意味”があります。

けれどもその映画の文脈を離れれば、

光が点滅するパターン自体に

どんな意味もあるはずがありません。

またそのドラマの文脈自体も

かなりいい加減なものなのかもしれません。

気がつかなければどんどん駒落ちしたり、

途中で適当なCMが流れたりもするかもしれない。

夢の中の話ですから、

文句を言う登場人物もいないはずです。

このいわゆる現実世界と同じですね。

そしてこうして、

「安寿恋しや ほうやれほ
 
 厨子王恋しや ほうやれほ
 
 鳥も生あるものなれば
 
 疾う疾う逃げよ 追わずとも」

などと嘆きの歌を歌いつづけるのです。

すべてはつかの間の意識の【見かけ】です。

一瞬あとにはもう消えている。

このつかの間の意識の【見かけ】に

安らぎを求めること自体が無理な相談なのです。

そんなやるせない思いから

なぜか今回本棚に手が伸びたのは

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻』でした。
https://amzn.to/2PYQzlZ

試しに「まえがき」を読んでみました。

これがまたじつに素晴らしい!(@_@) ⌒★?

今回はこの「まえがき」を

ご紹介することにします。

ちょっとDJがレコードをかけるみたい。(^_-)

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 まえがき
 
 
 この地球に暮らす六十億の人に
 「人生で最も大切なものは?」と尋ねたら、
 そのほとんどが「幸福」と答えるでしょう。
 具体的に大切なパートナー、家族、お金と
 答える人もいるかもしれません。
 そうだとしても、
 人々が求めるのはそれらがもたらす幸福のはずです。
 実際、ほとんどの行動は
 幸福を手に入れるためのものです。
 
 多くの場合、
 幸福探しの旅は、
 体、心(マインド)、世界といった場所を
 舞台にします。
 幼い頃、
 欲しいものを手に入れることが幸福につながる
 と学んだ私たちは、
 いつのまにか、
 物や活動、人間関係に
 幸福な体験を結びつけることを
 生きることの基本としています。
 
 しかしながら、
 物理的な物、人間関係、
 何らかの活動や精神状態など、
 その形態はどうであろうと、
 望んでいたものはまだ手元にあるのに、
 それがもたらしたはずの幸福の体験が
 消え去ってしまうことがあります。
 このことは、
 幸福とは、
 物、人間関係、状態を手に入れることには
 ないのだと伝えるのに十分でしょう。
 もしも幸福と物とが結びついているのなら、
 それが手元にあるかぎり、
 幸福も消えないはずです。
 
 私たちは
 このシンプルなメッセージを受け取る代わりに、
 かつて幸福をもたらしたのかのように見えたものを
 別の何かと置き換え、
 消えた幸福を再び手に入れようと試みます。
 こうして次から次へと対象を変え、
 幸福、平安、愛を手にしようと
 さまよい続けることは、
 多くの人々の人生において
 お決まりのパターンになっています。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p15-16)
──────────────────

> この地球に暮らす六十億の人に
> 「人生で最も大切なものは?」と尋ねたら、
> そのほとんどが「幸福」と答えるでしょう。
> 具体的に大切なパートナー、家族、お金と
> 答える人もいるかもしれません。
> そうだとしても、
> 人々が求めるのはそれらがもたらす幸福のはずです。
> 実際、ほとんどの行動は
> 幸福を手に入れるためのものです。

誰ひとり異議を唱えるないでしょう。

> 多くの場合、
> 幸福探しの旅は、
> 体、心(マインド)、世界といった場所を
> 舞台にします。
> 幼い頃、
> 欲しいものを手に入れることが幸福につながる
> と学んだ私たちは、
> いつのまにか、
> 物や活動、人間関係に
> 幸福な体験を結びつけることを
> 生きることの基本としています。

じつに簡明かつ的確な言葉。

わたしたちがしていることといえば

まずこれ意外にはないでしょう。

> しかしながら、
> 物理的な物、人間関係、
> 何らかの活動や精神状態など、
> その形態はどうであろうと、
> 望んでいたものはまだ手元にあるのに、
> それがもたらしたはずの幸福の体験が
> 消え去ってしまうことがあります。

あ…!(@_@)

たしかにそうですね。(-_-;)

> このことは、
> 幸福とは、
> 物、人間関係、状態を手に入れることには
> ないのだと伝えるのに十分でしょう。

間違いないです。

> もしも幸福と物とが結びついているのなら、
> それが手元にあるかぎり、
> 幸福も消えないはずです。

【もしも幸福と物とが結びついているのなら、
 それが手元にあるかぎり、
 幸福も消えないはずです。】

たしかに。

> 私たちは
> このシンプルなメッセージを受け取る代わりに、
> かつて幸福をもたらしたのかのように見えたものを
> 別の何かと置き換え、
> 消えた幸福を再び手に入れようと試みます。

いまだにこれをやっている。(;_;)

> こうして次から次へと対象を変え、
> 幸福、平安、愛を手にしようと
> さまよい続けることは、
> 多くの人々の人生において
> お決まりのパターンになっています。

そしてその元々の意図が

達成されることはけっしてない。(;_;)

──────────────────
 ものに幸福を生じせようとする試みに
 幾度となく失敗した後、
 私たちは他のやり方はないかとあたりを見渡します。 
 仕事、お金、食べ物、薬物、セックス、
 人間関係などにのめり込み、
 それなしではいられなくなり、
 中毒の域に達する人もいるでしょう。
 一方で、
 いつものやり方から視点を変え、
 スピリチュアルな探求を始める人もいるはずです。 
 
 スピリチュアルの探求は、
 ありきたりなやり方で
 幸福、平安、愛を追い求め、
 失敗したことをきっかけに始まることが多いはずです。
 束の間の一瞬にあるように見える
 幸福を求める代わりに、
 ずっと続く目覚めを探そうとするのでしょう。
 けれど実際のところ、
 こうして目覚めを求めることは、
 よくある幸福探しが
 その名前を変えただけにすぎません。
 
 スピリチュアルな探求において私たちは、
 体験の新たな領域に足を踏み入れ、
 物や関係性を手にするのでなく、
 心(マインド)の状態を
 手に入れようとする傾向にあります。
 そして、
 物や関係性を手にしてホッとし、
 束の間の幸福を感じたときのように、
 新たな心(マインド)の状態を得たことで
 スピリチュアルな探求もひとまず終わりを迎え、
 束の間の幸福を感じ、
 これを目覚めと呼んでみます。
 けれど、
 物や関係性を手にすることで
 幸福になれると勘違いしたあの日のように、
 私たちは、
 この新たな心(マインド)の状態を
 目覚めと勘違いしています。
 
 物や関係性に見出した幸福の欠片のように、
 この目覚めのようなものもやがて、
 幸福、平安、愛を、
 物、関係性、状態に見つけようとする
 いつものパターンの闇に覆われてしまいます。
 そしてまた、
 失敗の二文字が濃い影を落とすのです。
 探求が壁にぶつかった今、
 次に進む道もありません。
 幸福を求め、
 遠くの国まで冒険の旅に出て、
 可能のかぎりを尽くし、
 そして今、
 呆然と立ち尽くしているのです。
 
 これを危機的状況や絶望の時として
 体験する人もいるでしょう。
 これ以上進む道はなく、
 けれど満足できる答えにも出会っていません。
 模索をやめるため、
 せめて心地の悪さを紛らわすため、
 薬物や特定の活動、
 人間関係に没頭し、
 ちょっとした瞑想に耽ってみます。
 一時的に気は逸れますが、
 探求の二文字は
 私たちのハートの真ん中で燃え続けています。
 探すあてはありません。
 けれど、
 探し続けなければなりません。 

 『プレゼンス―第1巻』(p16-17)
──────────────────

> ものに幸福を生じせようとする試みに
> 幾度となく失敗した後、
> 私たちは他のやり方はないかとあたりを見渡します。 

たしかに。

> 仕事、お金、食べ物、薬物、セックス、
> 人間関係などにのめり込み、
> それなしではいられなくなり、
> 中毒の域に達する人もいるでしょう。

この身体はその能力は低かった。(-_-;)

> 一方で、
> いつものやり方から視点を変え、
> スピリチュアルな探求を始める人もいるはずです。 

わたしもその口でした。

> スピリチュアルの探求は、
> ありきたりなやり方で
> 幸福、平安、愛を追い求め、
> 失敗したことをきっかけに始まることが多いはずです。

たしかに。

失敗と挫折の連続からの出発……。

> 束の間の一瞬にあるように見える
> 幸福を求める代わりに、
> ずっと続く目覚めを探そうとするのでしょう。

そういうものがあるはずだと

思ったのでした。

> けれど実際のところ、
> こうして目覚めを求めることは、
> よくある幸福探しが
> その名前を変えただけにすぎません。

わかります。

> スピリチュアルな探求において私たちは、
> 体験の新たな領域に足を踏み入れ、
> 物や関係性を手にするのでなく、
> 心(マインド)の状態を
> 手に入れようとする傾向にあります。

まさに。

> そして、
> 物や関係性を手にしてホッとし、
> 束の間の幸福を感じたときのように、
> 新たな心(マインド)の状態を得たことで
> スピリチュアルな探求もひとまず終わりを迎え、
> 束の間の幸福を感じ、
> これを目覚めと呼んでみます。

目覚めと呼ぶほどの体験には至りませんでしたが、

ある種のハイな時期を過ごしたことは

たしかにありました。(-_-)

> けれど、
> 物や関係性を手にすることで
> 幸福になれると勘違いしたあの日のように、
> 私たちは、
> この新たな心(マインド)の状態を
> 目覚めと勘違いしています。

まったくです。

それもまた過ぎ去る

ひとつの体験にすぎませんから。

> 物や関係性に見出した幸福の欠片のように、
> この目覚めのようなものもやがて、
> 幸福、平安、愛を、
> 物、関係性、状態に見つけようとする
> いつものパターンの闇に覆われてしまいます。

はい。

どんな状態も通り過ぎてゆくのに、

まだ“自分”は何かを求めている。

> そしてまた、
> 失敗の二文字が濃い影を落とすのです。

(;_;)

> 探求が壁にぶつかった今、
> 次に進む道もありません。
> 幸福を求め、
> 遠くの国まで冒険の旅に出て、
> 可能のかぎりを尽くし、
> そして今、
> 呆然と立ち尽くしているのです。

おっしゃるとおりです。

> これを危機的状況や絶望の時として
> 体験する人もいるでしょう。

絶望の時というには長すぎました。

絶望が恥ずかしげに消えてしまった。(*^_^*)

> これ以上進む道はなく、
> けれど満足できる答えにも出会っていません。

満足できる答えにさえ出会いました。(^_-)

> 模索をやめるため、
> せめて心地の悪さを紛らわすため、
> 薬物や特定の活動、
> 人間関係に没頭し、
> ちょっとした瞑想に耽ってみます。

それはあまりやったことがないかも。

ぜんぜん無いこともないか……。

> 一時的に気は逸れますが、
> 探求の二文字は
> 私たちのハートの真ん中で燃え続けています。
> 探すあてはありません。
> けれど、
> 探し続けなければなりません。 

【探すあてはない。
 けれど、
 探し続けなければならない。】

まったくなぁ。

──────────────────
 誰もがここまで
 自分を追い詰めるべきだという意味ではありません。
 絶望よりも知性によって、
 私たちが真に求めるものは、
 体、心(マインド)、世界にはないということを
 理解することもあるはずです。
 実際のところ、
 これらを動かしているのは
 私たちに本来備わっている知性です。
 生きることの中心を揺さぶるため、
 知性は時に危機としてあらわれ、
 また、
 時により整然とした姿であらわれるのです。
 
 しかしながら、
 どちらの場合においても、
 ここで新たな扉が開かれます。
 まだ歩いていない道がその先に伸びているのです。
 幸福を貪欲に求め続ける
 この自己とはいったい誰なのでしょう?
 そして、
 そもそもこの幸福とはいったい何なのでしょう?
 私たちはここでくるりと向きを変えます。
 この方向転換がこの本の出発点、
 私たちの自己と幸福についての深遠なる探求の旅は、
 ここから始まるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p18)
──────────────────

> 誰もがここまで
> 自分を追い詰めるべきだという意味ではありません。

そりゃそうですよね。

探求というのも

起こることになっている身体で

起こるだけでしょうから。

> 絶望よりも知性によって、
> 私たちが真に求めるものは、
> 体、心(マインド)、世界にはないということを
> 理解することもあるはずです。

自分が本当に求めているものは、

身体、思考・感情、世界といった

現象する意識の【見かけ】の中にはない。

……と理解するのが知性であると。

> 実際のところ、
> これらを動かしているのは
> 私たちに本来備わっている知性です。

実際は、

そうような物語にまで突入させるものこそ

すべてを通貫する知性であると。

ふと……

自分が存在していることに気づいた<存在>は、

自分しか存在していないことも知っている。

それが<存在>に本来備わっている知性。

だから時空という意識の概念装置を使って

どれほど無限の多様性を幻想しようとも、

実際は自分しか存在していないことは

絶対に覆ることのない真実。

> 生きることの中心を揺さぶるため、
> 知性は時に危機としてあらわれ、
> また、
> 時により整然とした姿であらわれるのです。

だからこそ

時空という意識の概念装置のなかで

どれほど荒唐無稽な

天国や地獄が展開されようとも、

その意識的想像伽藍を

根底から支える<存在>は、

そんなことを気にしない。

ただ虚構の想像が膨らみすぎた

意識の【見かけ】のなかで、

生きることの中心を揺さぶるような危機が

自然の流れとして演じられるだけ。

> しかしながら、
> どちらの場合においても、
> ここで新たな扉が開かれます。
> まだ歩いていない道がその先に伸びているのです。

そして意識の【見かけ】のなかで夢見られる

夢の登場人物の前にも

そのとき新たな扉が開かれる。

まだ歩いていない道がその先に伸びている

かのように……。

> 幸福を貪欲に求め続ける
> この自己とはいったい誰なのでしょう?

この意識の【見かけ】として夢見られた劇の中で

かくも貪欲に幸福を求め続ける

この自己とはいったい誰なのか?

> そして、
> そもそもこの幸福とはいったい何なのでしょう?

そしてそもそも

ここで求められている幸福とはいったい何なのか?

> 私たちはここでくるりと向きを変えます。
> この方向転換がこの本の出発点、
> 私たちの自己と幸福についての深遠なる探求の旅は、
> ここから始まるのです。

ここにいたって

夢見られた夢の登場人物はぐるりと向きを変える。

この方向転換がルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻』の出発点です。

なんと周到な「まえがき」でしょうか。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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いろいろな個性がありますね。

ニサルガダッタも、

トニー・パーソンズも、

ルパート・スパイラも、

それぞれ他に代えがたい個性であって

固有の輝きを発していますね。

何かを求めているということ……。

これは思考の動きの先端にすぎません。

この無意識の動きが

不幸を作り出しているのだけれど、

その思考の先端の動きをそのままに任せて、

それを追いかけないことは難しいです。

ふだん思考の動きを

追うことばかりをしているのだから。(^_-)

まあ、仕方ないです。

起こることになっていることしか起こらない。

無理を言ってもしょうがない。

今日は土曜日だから

マインド無礼講です。

まあまあ今日も楽しかった。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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