━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/02/27(第932号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在493名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.本質的な存在(ビーイング)の忘却
2.編集後記
──────────────────
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■ 1.本質的な存在(ビーイング)の忘却
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今日は頼まれていたこともあって、
かなり外仕事をしました。
身体を動かすのはいいですね。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
何か不幸な気分があるときは、
間違いなく何か考えてますよね。
何かの思考が起こっていて、
意識がその思考に焦点を合わせている。
これはもう間違いないです。
なんの思いもないのに、
ただ不幸が起こっている……なんて
そんなことあるわけないです。(*^_^*)
そこまでわかっていても、
それでも考えることをやめられない。
いや……それともやっぱり、
それが直感的に統覚され
ゲシュタルトが変容していないから、
考えることをやめられない……ということか。
偽りの幸福も、偽りの不幸も、
ただ思考ゆえに現れています。
だったら
不幸を望まないのなら
思考に焦点をあわせるのをやめればいい。
この単純な真実を
一生かけて追いかけながら、
しかも生涯理解することがない……。
──────────────────
あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたはその興味と
闘うことはできないのだ。
『私は在る』(p475)
──────────────────
なにしろ思考は“自分”が
不幸になる思考のほうに惹かれるからなぁ。
……このごろ時間のあるときは
たいていルパート・スパイラの
『プレゼンス―第1巻』を読んでいます。
https://amzn.to/2PYQzlZ
まさに類稀な表現力で、
わたしたちが本当は何であるのかを
語ってくださっています。
どの章も素晴らしいのだけれど、
今回は「本質的な存在(ビーイング)の忘却」
というところをご紹介したいです。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
本質的な存在(ビーイング)の忘却
私たちの存在(ビーイング)を
あるがままにシンプルに知ることを忘れ、
それは体と心(マインド)の中に、
体と心(マインド)としてあると考えることで、
私たちは、
私たちの自己、
つまり気づいている現存(プレゼンス)は、
思考、感情、イメージ、感覚と
同じ性質をもつと思い込むようになります。
私たちは思考、感情、イメージ、感覚に
気づく者であるのに、
それを忘れ、
かわりに、
私たちは思考、感情、イメージ、
感覚であると信じ、
さらに重要なことに、
そう感じるようになるのです。
悲しい気分があらわれれば、
私は悲しいと感じる。
鏡を見て顔が老けたと感じたなら、
私は老けたと考える。
思考が「私は四十歳だ」と言うと、
私が四十歳なのだと考える。
イライラする考えが浮かんだのなら、
私はイライラしていると感じる。
空腹感が起こったのなら、
私はお腹が空いたと感じる。
学校の成績が悪かったら、
私は失敗したと考える。
成績が良ければ、
私はよくやったと感じる。
まわりに友だちがいなければ、
私は孤独だと感じる。
体が病気で、
死に向かっているとすれば、
私は病気で、
死にかけていると感じる。
もし現状に不満があり、
何かを変えたいと望んでいるとすれば、
私は不幸だと感じる。
このゲームはどこまでも続きます。
私たちの自己に対する理解は、
何を信じ、
感じるかに根ざしていると言ってよいでしょう。
私たちはこれまで、
限界のある体、
心(マインド)に私たちの存在を預けてきました。
ちょうど、
映し出される映像に
スクリーンそのものが覆い隠されてしまうように、
私たちの本質的な存在は、
体と心(マインド)の性質に
覆い隠されてしまったかのように見えます。
スクリーンに青空が映れば、
スクリーンは青くなったように見えます。
けれど、
青は一時的にスクリーンを彩るだけで、
その青さはスクリーンの本質とは
何ら関係ありません。
私たちの存在も同じように、
心(マインド)と体の性質に色づけされてしまい、
その性質に実際になってしまったかのように
思われるほどです。
スクリーン自体は無色で、
だからこそ、
何色にも染まることなく、
さまざまな色を受け入れることができます。
同じように、
私たちの本質的な存在は、
客体をもたす、
透明で、
開かれた、
空(くう)の、
気づいている現存(プレゼンス)であり、
体や心(マインド)に属する
客観的な性質はもち合わせていません。」
まさにそうであるからこそ、
私たちは思考、感情、知覚になることなく、
あらゆる思考、
感情、知覚を受け入れることができるのです。
どんな映像でも
スクリーンの光によって輝くように、
思考、感情、知覚は、
それらの特徴に関係なく、
私たちの本質の光によって照らされ、
つまり知られ、
何よりもまずその光とともに輝いています。
映画の上映が始まると、
私たちはスクリーンの存在を忘れ、
映画に集中します。
実際、
スクリーンは映像になったように見えます。
私たちの本質的な存在にも
これと同じことが起こります。
思考、感情、イメージが
存在を持ったとかのように見え、
それらとの区別ができなくなってしまうのです。
このように
思考、感情、イメージ、感覚の集合体と
自己との混同が深く根を下ろし、
文化や教育がそれを後押しすると、
こうした思考、感情、イメージ、感覚の
コラージュこそが自己なのだと考え、
さらに問題なことに、
そう感じることが当たり前になります。
私たちは、
純粋な気づきの存在としての
本質的なアイデンティティを忘れ、
それを、
体や心(マインド)を定義する特徴や性質と
混同してきました。
大部分の人々は、
多くの時間をこの記憶喪失の状態で過ごし、
この単純な忘却を
人生に反映させてしまっています。
∝
『プレゼンス―第1巻』(p42-44)
──────────────────
どの一文をとっても
理解できないところもないし、
納得できないところもない。
しかも余計なことは何も書かれていなくて
肝心要、必要不可欠の最小限の真実が
語られていることも明らかです。
それなのに……
間違いなくわれわれは
> 私たちの存在(ビーイング)を
> あるがままにシンプルに知ることを忘れ、
> それは体と心(マインド)の中に、
> 体と心(マインド)としてあると考えることで、
> 私たちは、
> 私たちの自己、
> つまり気づいている現存(プレゼンス)は、
> 思考、感情、イメージ、感覚と
> 同じ性質をもつと思い込むようになります。
という轍にハマったままでいるわけです。
ルパート・スパイラはここより前の部分で
「私」、つまり
われわれの「真の自己」とは、
「体と心(マインド)」ではなく、
「気づいている現存(プレゼンス)」である
ということが懇切丁寧に説明されています。
つまり、
われわれが知覚できること、
起こってくるさまざまな出来事は
すべて知覚の対象物であって、
それらを体験しているわれわれは
その知覚の対象物を「知る」側であること。
それゆえ
いかなる客観的属性ももつことのない、
あらゆる属性から自由な存在であることを
説明しています。
ただ自分が「気づいている現存」
永遠の<いま・ここ>だということを忘れて、
起こっているすべてを
「気づいている現存」の立場からではなく、
誤って「気づかれている対象物」の立場で
体験しているのだと。
われわれ自身は
ただ
<いま・ここ>に【自分が存在する】
ことを知っているだけであること、
そしてその永遠の<いま・ここ>だけが
【起こっていることに気づいている】
のであることが説明されています。
そして幸福とは
【自分が存在することを知っている】という
その中にあると説明されたのでした。
でも、われわれは、
起こっていることの中に
幸福を求めるという轍に
ハマってしまっているわけです。
> 私たちは思考、感情、イメージ、感覚に
> 気づく者であるのに、
> それを忘れ、
> かわりに、
> 私たちは思考、感情、イメージ、
> 感覚であると信じ、
> さらに重要なことに、
> そう感じるようになるのです。
まさにそのとおりです。
> 悲しい気分があらわれれば、
> 私は悲しいと感じる。
> 鏡を見て顔が老けたと感じたなら、
> 私は老けたと考える。
> 思考が「私は四十歳だ」と言うと、
> 私が四十歳なのだと考える。
> イライラする考えが浮かんだのなら、
> 私はイライラしていると感じる。
> 空腹感が起こったのなら、
> 私はお腹が空いたと感じる。
(;_;)
> 学校の成績が悪かったら、
> 私は失敗したと考える。
(/_;)
> 成績が良ければ、
> 私はよくやったと感じる。
\(^O^)/
> まわりに友だちがいなければ、
> 私は孤独だと感じる。
> 体が病気で、
> 死に向かっているとすれば、
> 私は病気で、
> 死にかけていると感じる。
(-_-;)
> もし現状に不満があり、
> 何かを変えたいと望んでいるとすれば、
> 私は不幸だと感じる。
> このゲームはどこまでも続きます。
まさに、わたしたちの日常そのものです。
ほんとうに、
これだけのことなんですねぇ。
> 私たちの自己に対する理解は、
> 何を信じ、
> 感じるかに根ざしていると言ってよいでしょう。
たしかに。
> 私たちはこれまで、
> 限界のある体、
> 心(マインド)に私たちの存在を預けてきました。
この身体が生まれてこの方、
やってきているのはこれだけです。
> ちょうど、
> 映し出される映像に
> スクリーンそのものが覆い隠されてしまうように、
> 私たちの本質的な存在は、
> 体と心(マインド)の性質に
> 覆い隠されてしまったかのように見えます。
いつの間にか
身体のことマインドのことばかり
心配している存在に落ちぶれてしまった。
> スクリーン自体は無色で、
> だからこそ、
> 何色にも染まることなく、
> さまざまな色を受け入れることができます。
わかります。
> 青は一時的にスクリーンを彩るだけで、
> その青さはスクリーンの本質とは
> 何ら関係ありません。
そんなことは
わかりきっているはずなのに。
> 私たちの存在も同じように、
> 心(マインド)と体の性質に色づけされてしまい、
> その性質に実際になってしまったかのように
> 思われるほどです。
まるで「気づいている現存」など
存在しないかのように。
> スクリーン自体は無色で、
> だからこそ、
> 何色にも染まることなく、
> さまざまな色を受け入れることができます。
マハラジは
──────────────────
あなたのものとは映画のスクリーン、
光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
──────────────────
こう言っていましたね。
> 同じように、
> 私たちの本質的な存在は、
> 客体をもたず、
> 透明で、
> 開かれた、
> 空(くう)の、
> 気づいている現存(プレゼンス)であり、
> 体や心(マインド)に属する
> 客観的な性質はもち合わせていません。」
すべてに気づいているのは
われわれの本質である
「気づいている現存」であって、
個人の運命を演じなければならない
この身体が出来事に気づいているわけでは
ないんですよね。
> まさにそうであるからこそ、
> 私たちは思考、感情、知覚になることなく、
> あらゆる思考、
> 感情、知覚を受け入れることができるのです。
だからこそ、
「気づいている現存」、
<いま・ここ>はすべての意識の内容を
映し出すことができる。
> どんな映像でも
> スクリーンの光によって輝くように、
> 思考、感情、知覚は、
> それらの特徴に関係なく、
> 私たちの本質の光によって照らされ、
> つまり知られ、
> 何よりもまずその光とともに輝いています。
出来事はわれわれの本質によって、
「私−気づいている現存」の光によって
照らされ、知られ、輝いている。
> 映画の上映が始まると、
> 私たちはスクリーンの存在を忘れ、
> 映画に集中します。
> 実際、
> スクリーンは映像になったように見えます。
はい。(*-_-*)
> 私たちの本質的な存在にも
> これと同じことが起こります。
> 思考、感情、イメージが
> 存在を持ったとかのように見え、
> それらとの区別ができなくなってしまうのです。
そうなんですよねぇ。
> このように
> 思考、感情、イメージ、感覚の集合体と
> 自己との混同が深く根を下ろし、
> 文化や教育がそれを後押しすると、
> こうした思考、感情、イメージ、感覚の
> コラージュこそが自己なのだと考え、
> さらに問題なことに、
> そう感じることが当たり前になります。
そうやって
「私−気づいている現存」の光の中に
“自分”という迷子が登場した。
> 私たちは、
> 純粋な気づきの存在としての
> 本質的なアイデンティティを忘れ、
> それを、
> 体や心(マインド)を定義する特徴や性質と
> 混同してきました。
> 大部分の人々は、
> 多くの時間をこの記憶喪失の状態で過ごし、
> この単純な忘却を
> 人生に反映させてしまっています。
われわれは
本当の自分が何であるか、
その「気づいている現存」としての自己を
忘れてしまった。
そして記憶喪失の状態のまま
迷子の人生を生きている。(;_;)
──────────────────
ではいったい、
誰が忘れ去っているのでしょう?
私たちの自己はそこに思考があろうとなかろうと、
思考よりもまず先に、
思考に依存することなく、
いつもそれ自体として存在しています。
私たちの自己が
気づきのスイッチをオンにしたり
オフにしたりすることはありません。
気づきは自己の本質です。
それはいつもそこにあって、
気づいており、
つまり定義上、
いつもそれ自身に気づいています。
スクリーンそのものが
映像によって消し去られることは、
仮にそのように見えたとしても
決してないのと同じで、
この自己による気づき、
気づきによるそれ自体の知は、
思考や感情の登場によって
覆い隠されることはあっても、
消されることはありません。
私たちの本質的な存在を忘れ、
それが闇に覆われることで
私たちがたどり着く自己は、
架空の存在です。
それは実体でも、
自己でもなく、
単なる思考で、
この思考が、
体と心(マインド)という対象物と
自己とを一対一で結びつけたのです。
この思考が、
私たちの本質的な存在を、
体や心(マインド)がもつ特徴と
同等のものと捉え、
同一視し、
そしてそれらから、
体の内に宿る、
分離し独立した実体、
自己と見なされるものを作り上げます。
この思考が、
本質的な存在の内に、
それとしてある気づきを、
限界を抱える
体と心(マインド)の性質と混ぜ合わせ、
その結果、
体と心(マインド)の中に住む、
架空の、
限界を抱えた分離した自己が
生み落とされるのです。
気づきのある私たちの自己と、
体と心(マインド)という限界を抱えた性質は、
ひとつの実体、
ひとつの自己になったかのように
見えるかもしれません。
しかし、
この見たところ分離した内側にある自己は、
あくまで、
そのように考えた思考が
生み出したものにすぎません。
それは、
酢と油を混ぜ合わせて
ドレッシングを作るようなものです。
混ぜ終えると沈殿が始まり、
酢と油は分かれてしまいます。
その時私たちは、
それらは同化したように見えただけだった
ことを知るのです。
ここで私たちが行っているような、
体験を黙想的に調べ探究することも、
混ぜ合わさったふたつの要素、
つまり
私たちの本質的な存在として本来あるものと
体や心(マインド)という
あらわれに属するものとを分ける作業です。
「私とは、分離した内側にある自己である」
と想像し、
こうした考えを巡らすことは、
脆く儚い単純な思考を、
重苦しく複雑な実体のようなものに
変えることでしかなく、
結果として
さまざまな副産物を生み出すことになります。
本質的な自己の真の性質を忘れるこの体験は、
実際の自己の体験ではありません。
これは常にただの思考です。
言い換えるなら、
私たちの自己、
つまり存在する唯一真の自己は、
それ自身の視点、
つまり存在する唯一本物の視点において、
自己自身を忘れることは決してありません。
本質の忘却は思考のゆえであって、
自己のゆえではありません。
このため、
「分離した内側にある自己としての私」
という思考から派生する
さまざまな思考や感情もまた、
思考が自分であると想像する、
分離した内側にある自己のゆえにあるのであって、
私たちの真の自己のゆえにあるのではありません。
後ほど、
すべての心理的苦痛は
「分離した内側にある自己としての私」
という思考が生み出しており、
それゆえ苦痛は架空の自己によるものであって、
私たちが常にそうである、
唯一真の自己によるものではない
ということを見てい
くことにします。
現実においては、
真の自己は、
悲しまず、
年齢もなく、
イライラせず、
お腹も空かず、
孤独でなく、
病気でもなく、
死にかけてもいません。
そういった信念や感情があったとしても、
自己はそれらから完全に自由です。
私たちの自己はそういった性質を知り、
体験する側にあるのであって、
それらでできているのではありません。
一方、
スクリーンと映像が
一体化しているように見えるのと同じで、
そうした思考や感情があらわれると、
自己と親密にひとつになります。
自己は、
思考や感情を知る側にあり、
もともと自由であり独立しながら、
同時に、
思考や感情と親密にひとつになっています。
体験のこの親密さが、
愛です。
だからこそ、
真の親密さ、
真の愛は、
いつも自由とともにあるのです。
テレビが映像に支配されることはないように、
私たちの本質的な存在が
これらの思考や感情に曇らされることはありません。
ですから、
私たちの存在の真の性質を探すのではなく、
それを認識することが大切なのです。
体や心(マインド)の現れと
私たちの本質的な存在とが
排他的に混ざり合うという
このたったひとつの出来事が、
この見かけ上の実体の、
思考、感情、状況、関係性を規定します。
けれど、
これは過去に起こった出来事ではなく、
今に刻まれていることです。
それは、
あらゆる瞬間、
繰り返し起こっています。
ゆえに、
私たちが本当は何者であるかを
シンプルに認識することで、
常に手放すことができるのです。
『プレゼンス―第1巻』(p45-48)
──────────────────
> ではいったい、
> 誰が忘れ去っているのでしょう?
誰が忘れ去っているのですか?
> 私たちの自己はそこに思考があろうとなかろうと、
> 思考よりもまず先に、
> 思考に依存することなく、
> いつもそれ自体として存在しています。
はい。(@_@)
> 私たちの自己が
> 気づきのスイッチをオンにしたり
> オフにしたりすることはありません。
あ、わかります。
> 気づきは自己の本質です。
> それはいつもそこにあって、
> 気づいており、
> つまり定義上、
> いつもそれ自身に気づいています。
はい。(@_@)
> スクリーンそのものが
> 映像によって消し去られることは、
> 仮にそのように見えたとしても
> 決してないのと同じで、
> この自己による気づき、
> 気づきによるそれ自体の知は、
> 思考や感情の登場によって
> 覆い隠されることはあっても、
> 消されることはありません。
(-_-)
映画が映っていても、
実際に行ってその映像に触ってみれば、
そこにはスクリーンしか存在していない。
そのスクリーンがなければ、
映画は現れることすらできない。
実際に存在するのはスクリーンだけ。
行って触ってみればわかる。
映像は見えているだけ。
存在してはいない。
> 私たちの本質的な存在を忘れ、
> それが闇に覆われることで
> 私たちがたどり着く自己は、
> 架空の存在です。
映像の中に見つかる自分は
実際は存在しない点滅する絵の中に
想像された架空の存在。
> それは実体でも、
> 自己でもなく、
> 単なる思考で、
> この思考が、
> 体と心(マインド)という対象物と
> 自己とを一対一で結びつけたのです。
スクリーンに投影された
映像の中に自己を求めるのは、
点滅する映像の中に想像された
架空の物語のなかに自分を探すこと。
それを探しているのは単なる思考。
真の自己を忘れているのは
その単なる思考で、
その思考が
「気づいている現存」を
身体とかマインドという知覚の対象物と
一対一で結びつけた。
> この思考が、
> 私たちの本質的な存在を、
> 体や心(マインド)がもつ特徴と
> 同等のものと捉え、
> 同一視し、
> そしてそれらから、
> 体の内に宿る、
> 分離し独立した実体、
> 自己と見なされるものを作り上げます。
知覚の対象物であるその思考が、
身体やマインドを真の自己と同一視して、
身体の中に分離し独立した実体という
虚構の“自己”を捏造した。
> この思考が、
> 本質的な存在の内に、
> それとしてある気づきを、
> 限界を抱える
> 体と心(マインド)の性質と混ぜ合わせ、
> その結果、
> 体と心(マインド)の中に住む、
> 架空の、
> 限界を抱えた分離した自己が
> 生み落とされるのです。
この思考が編みだす観念の中で、
苦しみの根源である
限界を抱えた分離した自己が生まれた。
思考に助けを求めるのは、
詐欺師に助けを求めるのと同じこと。
> 気づきのある私たちの自己と、
> 体と心(マインド)という限界を抱えた性質は、
> ひとつの実体、
> ひとつの自己になったかのように
> 見えるかもしれません。
この身体が自分であるかのように。
> しかし、
> この見たところ分離した内側にある自己は、
> あくまで、
> そのように考えた思考が
> 生み出したものにすぎません。
でも実際は、
身体が自分だと主張しているのは
ただの思考にすぎない。
> それは、
> 酢と油を混ぜ合わせて
> ドレッシングを作るようなものです。
> 混ぜ終えると沈殿が始まり、
> 酢と油は分かれてしまいます。
> その時私たちは、
> それらは同化したように見えただけだった
> ことを知るのです。
でも酢と油は分かれるまでは
静かに待っていなければならない。
> ここで私たちが行っているような、
> 体験を黙想的に調べ探究することも、
> 混ぜ合わさったふたつの要素、
> つまり
> 私たちの本質的な存在として本来あるものと
> 体や心(マインド)という
> あらわれに属するものとを分ける作業です。
わかります。
> 「私とは、分離した内側にある自己である」
> と想像し、
> こうした考えを巡らすことは、
> 脆く儚い単純な思考を、
> 重苦しく複雑な実体のようなものに
> 変えることでしかなく、
> 結果として
> さまざまな副産物を生み出すことになります。
思考が描き出す物語を
追いつづけていると、
やがては脆く儚い単純な思考も
重苦しく複雑な実体のような副産物を
生み出すことになってしまう。
そしてわれわれはその副産物の物語の中で
迷子の人生を送らなければならなくなる。
> 本質的な自己の真の性質を忘れるこの体験は、
> 実際の自己の体験ではありません。
それは「気づいている現存」の体験ではない。
> これは常にただの思考です。
それは常にただの思考。
> 言い換えるなら、
> 私たちの自己、
> つまり存在する唯一真の自己は、
> それ自身の視点、
> つまり存在する唯一本物の視点において、
> 自己自身を忘れることは決してありません。
「気づいている現存」が
自己自身を忘れるということは
絶対にない。
> 本質の忘却は思考のゆえであって、
> 自己のゆえではありません。
ただの思考が「気づいている現存」を
忘れているだけであって、
「気づいている現存」自身が
自己を忘れることはけっしてない。
> このため、
> 「分離した内側にある自己としての私」
> という思考から派生する
> さまざまな思考や感情もまた、
> 思考が自分であると想像する、
> 分離した内側にある自己のゆえにあるのであって、
> 私たちの真の自己のゆえにあるのではありません。
苦しみはすべて
思考による捏造のせいであって、
「気づいている現存」のせいで
起こっているわけではない。
> 後ほど、
> すべての心理的苦痛は
> 「分離した内側にある自己としての私」
> という思考が生み出しており、
> それゆえ苦痛は架空の自己によるものであって、
> 私たちが常にそうである、
> 唯一真の自己によるものではない
> ということを見てい
> くことにします。
お願いします。m(_ _)m
> 現実においては、
> 真の自己は、
> 悲しまず、
> 年齢もなく、
> イライラせず、
> お腹も空かず、
> 孤独でなく、
> 病気でもなく、
> 死にかけてもいません。
「気づいている現存」は
いかなる客観的属性からも解放されている。
> そういった信念や感情があったとしても、
> 自己はそれらから完全に自由です。
「気づいている現存」は
いかなる信念や感情からも完全に自由……。
そうか……、
信念や感情を掴みたがっているのは、
思考なんだ。
> 私たちの自己はそういった性質を知り、
> 体験する側にあるのであって、
> それらでできているのではありません。
わたしは何を掴みたがっているか?
> 一方、
> スクリーンと映像が
> 一体化しているように見えるのと同じで、
> そうした思考や感情があらわれると、
> 自己と親密にひとつになります。
真の自己はどんな思考も感情も
拒否することなく受け容れる。
それと親密にひとつになる。
> 自己は、
> 思考や感情を知る側にあり、
> もともと自由であり独立しながら、
> 同時に、
> 思考や感情と親密にひとつになっています。
そういうことか。
> 体験のこの親密さが、
> 愛です。
もともと自由であり独立しながら、
同時に、
思考や感情と親密にひとつになることが、
愛。
> だからこそ、
> 真の親密さ、
> 真の愛は、
> いつも自由とともにあるのです。
【真の愛はいつも自由とともにある】
(-||-)
> テレビが映像に支配されることはないように、
> 私たちの本質的な存在が
> これらの思考や感情に曇らされることはありません。
> ですから、
> 私たちの存在の真の性質を探すのではなく、
> それを認識することが大切なのです。
本当は自分が誰であるかを探すのではなく、
「気づいている現存」が自分であると
認識するのが大切なんだ。
> 体や心(マインド)の現れと
> 私たちの本質的な存在とが
> 排他的に混ざり合うという
> このたったひとつの出来事が、
> この見かけ上の実体の、
> 思考、感情、状況、関係性を規定します。
「排他的に混ざり合う」……。
けっして一体化しえないものが
混ざり合うことなのか。
> けれど、
> これは過去に起こった出来事ではなく、
> 今に刻まれていることです。
いま、この瞬間に起こっていること。
> それは、
> あらゆる瞬間、
> 繰り返し起こっています。
繰り返し繰り返し起こっていること。
> ゆえに、
> 私たちが本当は何者であるかを
> シンプルに認識することで、
> 常に手放すことができるのです。
まただからこそ、
「気づいている現存」が自分であると
シンプルに認識することで、
その誤解は常に手放すことができる。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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一瞬一瞬、
思考は何かを求めて湧いてくるので、
不幸は常習的に湧いてきて
「気づいている現存」を巻き込もうとする。
あらゆる瞬間が手放すチャンス。(^_-)
不幸だなと思ったら、
その瞬間がチャンスなのか。
“自分=思考”がその不幸に執着しているんだ。
そんなこと言ったら、
執着ばっかじゃん。(*@_@*)
(*^_^*)
まあまあ今日も楽しかった。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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