━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/03/06(第933号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.現存はそれ自体で輝いている
2.編集後記
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■ 1.現存はそれ自体で輝いている
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今日はご近所の人と一緒に
敷地を土留めしている3メートルほどの
コンクリート擁壁の上下に分かれて、
お互いチェーンソーを使って
5、6本の木を切り落としました。
道路側に斜めに傾いている木を
わたしは主に上から切り落とすだけ。
彼は落ちた木を下の道路上でバラします。
見張りを兼ねてシャーラも
彼から借りた道具で小枝を切り落としました。
まだ下の道路側からは見ていないけど
見違えるほどスッキリしたそうです。
身体が動くのはありがたいですね。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
最近のメッセージで
ミナミAアシュタールはこう言っています。
──────────────────
誰かに言われてしたと思っていることでも
あなたが了承しなければ現実にならないのです。
どんなにひどい状況だと思うことでも
あなたが創造しているのです。
これが理解できれば、あなたはあなたの現実を
いくらでも好きなものに出来るということです。
……
ハートもマインドもあなたです。
どちらもあなたなのです。
あなたの中でケンカをしないでください。
ハートの声をしっかりと受け止め
マインドでそれを現実にするにはどうしたらいいか
を考えてください。
ハートの声を否定するのではなく、
ハートの声を現実にするにはどうしたらいいかを
マインドで考えてください。
そうすればハートとマインドは仲良くなり
とてもステキな現実を創造することが出来ます。
http://5am5.blog.fc2.com/blog-date-20220304.html
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どんなに(マインドが)ひどい(と思う)状況も
じつは“自分(ハート)”が創造している。
これが理解できれば、
人は“自分(ハート)”が望む現実を
(マインドを使って)
好きなように創造できるようになる。
……と。
こういう言い方も
わかるような気がしています。
(もちろん、
“自分”が望む現実を
好きなように創造できている、
という意味じゃありませんよ。(*^_^*) )
でも、理屈屋の本屋の息子は
それならなんでそんな
ハートとマインドがケンカをするような
体験を創造しなきゃならないの?
最初っから、
ハートとマインドが仲良くして
ステキな現実を創造したらいいじゃない!(@_@)
なんて思いも湧いてきます。(^_-)
そしてそういう理屈屋を鎮めるには
けっきょく、
じつは何も起こっていない、
というアドヴァイタの先生方の
登場を待つしかなかったわけです。
今回は、そういう先生方の中でも、
一見とても穏やかで穏当な表現のなかに
ひときわ稀有な説明能力を証明されている
ルパート・スパイラの言葉を
またご紹介したいと思います。
『プレゼンス―第1巻』の中から
https://amzn.to/2PYQzlZ
今回は
「現存(プレゼンス)はそれ自体で輝いている」
という章をご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
現存(プレゼンス)はそれ自体で輝いている
心(マインド)、体、世界における対象物は
私たちの自己によって知られ、
体験されます。
私たちの自己、
つまり気づいている現存(プレゼンス)なくしては、
知られ、体験されることは何もありません。
言い換えるなら、
すべては自己によって知られる、
つまり、光を与えられるのです。
太陽の光によってさまざまな対象物が
見えるようになるように、
現実においては、
私たちの自己の光によって、
すべての体験が知られるようになります。
私たちの自己は、
知の光とともにすべての体験を輝かせます。
知は本質的に私たちの内にあり、
自己から切り離すことはできません。
知は自己なのです。
知、
つまり自己の光なくしては、
どのような体験もありえません。
言い換えるなら、
すべての対象物が太陽の光とともに輝くように、
知られ、
体験されるすべては、
自己の光とともに輝きます。
体験は、
その客観的な性質についてではなく、
まず、
それによって体験が知られることになる、
現存(プレゼンス)の光について語ります。
太陽の光がすべての対象物において輝くように、
この光は、
すべての体験において輝いています。
目に見えるあらゆる対象物を
知られるようにするのは私たちの自己の光ですが、
では、
私たちの自己は何によって知られるのでしょう?
私たちの存在(ビーイング)は、
どのような光によって知られるのでしょうか?
体、心(マインド)、世界は
自己の光によって知られますが、
私たちの自己もまた、
自己自身の光によって知られます。
私たちは体験を通じ、
自己が自己自身を知る光は、
自己自身の光であることを知ります。
私たちの存在は、
それ自身の光とともに輝いています。
それは他の何ものでもなく、
それ自身によって知られています
それはそれによって、
それだけを通じて、
それ自身を知っています。
知られるために、
心(マインド)や体は必要ありません。
それ自身で知り、
それ自身で輝き、
それ自身で明らかなのです。
∞
『プレゼンス―第1巻』(p62-63)
──────────────────
ルパート・スパイラの言葉は
とても穏やかなんですけど
同時にとても綿密なんです。
今になってみると、
わたしはたぶん最初読んだときは
言い古された決り文句ばかりが並んでいる
とさえ感じたかもしれない。
……という思いもわきます。
ところがだいぶ時期をずらして
また読んでみると、
これほど明瞭な事実が書かれていたのか!(@_@)
と驚くほかはない。
ここでルパート・スパイラは
われわれが確実に知っているのは、
自分は「気づいている(知っている)」
ということだけだ、といいます。
ところで以下の文章には
「知」という言葉が頻出します。
怠惰なことに
英文テキストを入手していないので
断言もできませんが、
「知」は「knowing」の訳語だと思います。
つまり、
「知る」ということ、
「知っている」ということです。
「知」という言葉を
「知識」「叡智」「知性」
といったニュアンスで理解しないほうが
いいと思います。
「知」とあれば「knowing」、
「知る」「知っている」というそのこと、
あるいは「気づいている」ということ、
そのこと自体を指すと思ってください。
> 心(マインド)、体、世界における対象物は
> 私たちの自己によって知られ、
> 体験されます。
ルパート・スパイラは、まず
われわれは
思考や身体を体験するけれども、
思考も身体も知覚の対象物であって、
それらは自前で存在しているわけではない、
という大前提から語りはじめます。
思考や身体を体験しているのが
われわれであることは間違いありません。
しかし、
その思考や身体を体験しているのは
明らかに、
知覚の対象物である思考や身体ではない。
知覚の対象物を知り、体験しているのは
「私たちの自己」だと。
> 私たちの自己、
> つまり気づいている現存(プレゼンス)なくしては、
> 知られ、体験されることは何もありません。
この「私たちの自己」が存在しなかったら、
知られる対象物、
体験される対象物は
何ひとつ存在できません。
そこで、
その「私たちの自己」というのを
もう少し別の描写的な言葉で指すなら、
「気づいている現存(プレゼンス)」と表現できる。
溝口あゆかさんの「監修者による序文」のなかに
ルパート・スパイラの言葉の使い方
についての説明があって、
──────────────────
現存(presence)→今ここにある
気づいている現存(aware presence)
→今ここにある気づきの意識。
常にここにある「私がある」と
わかっている意識。
私たちが毎日知っている最も身近な意識。
他に consciousness、awareness、Knowing
という言葉も同意で使われることが多い。
──────────────────
と書かれています。
この「気づいている現存」は、
それがなくては何ひとつ存在できない
という意味で、
絶対の主体性を指す言葉とも言えるのでしょう。
> 言い換えるなら、
> すべては自己によって知られる、
> つまり、光を与えられるのです。
だから、
すべてはこの「私たちの自己」によって
知られている。
それは言葉を換えるなら、
「気づいている現存」によって
光を与えられているとも言えます。
> 太陽の光によってさまざまな対象物が
> 見えるようになるように、
> 現実においては、
> 私たちの自己の光によって、
> すべての体験が知られるようになります。
現象世界の対象物が目に見えるのは、
すべて太陽の光という透明な白色光が
見る者と見られる物との関係性の中で
色彩現象として現れることであるように、
われわれが体験するすべての現実は、
体験の世界での太陽である
「気づいている現存」の光の中で
すべての対象物が知覚され、
すべての体験が知られるようになるのだと。
> 私たちの自己は、
> 知の光とともにすべての体験を輝かせます。
> 知は本質的に私たちの内にあり、
> 自己から切り離すことはできません。
> 知は自己なのです。
私たちの自己である
「気づいている現存」は、
その「知る(knowing)」という光によって
すべての体験を輝かせている。
「知る(knowing)」ということは
本質的に私たちの内にあり、
「知る(knowing)」ということを
私たちの自己から切り離すことはできない。
「知る(knowing)」ということが
私たちの自己なのだ。
> 知、
> つまり自己の光なくしては、
> どのような体験もありえません。
「知る(knowing)」という
自己の光が存在しなかったら、
いかなる体験もありえない。
> 言い換えるなら、
> すべての対象物が太陽の光とともに輝くように、
> 知られ、
> 体験されるすべては、
> 自己の光とともに輝きます。
つまり、
あらゆる知覚の対象物が
太陽の光という透明な光の中に
色彩現象として顕現して知覚されるように、
体験の世界で知られ
体験されるすべては、
自己の「知る(knowing)」という光の中で
その「知る(knowing)」という光を受けて
体験として輝くのだ。
> 体験は、
> その客観的な性質についてではなく、
> まず、
> それによって体験が知られることになる、
> 現存(プレゼンス)の光について語ります。
> 太陽の光がすべての対象物において輝くように、
> この光は、
> すべての体験において輝いています。
体験が語っているのは
その体験の客観的な性質ではなく、
何よりもまず、
体験がそれによって知覚可能になった
「気づいている現存」の存在、
すべての対象物の存在を可能にする
「気づいている現存」の光についてだ。
現象世界で知覚されるすべての対象物が
太陽の透明な光の色彩的顕現であるように、
すべての体験において輝いているのは
実際はこの「知る」という光なのだ。
> 目に見えるあらゆる対象物を
> 知られるようにするのは私たちの自己の光ですが、
> では、
> 私たちの自己は何によって知られるのでしょう?
> 私たちの存在(ビーイング)は、
> どのような光によって知られるのでしょうか?
目に見えるすべての対象物が
知覚可能になっているのは
われわれの自己という
「気づいている現存」の光によってだが、
では、
われわれの自己である「気づいている現存」は、
何によって知られているのか?
「気づいている現存」が存在すること自体は、
どのような光によって知られるのか?
> 体、心(マインド)、世界は
> 自己の光によって知られますが、
> 私たちの自己もまた、
> 自己自身の光によって知られます。
身体や思考や世界が知られるのは
「気づいている現存」の光によるが、
「気づいている現存」の存在自体も
「気づいている現存」の光によって知られる。
> 私たちは体験を通じ、
> 自己が自己自身を知る光は、
> 自己自身の光であることを知ります。
われわれは自らの体験を通じて、
自分が存在していることを
他の何ものにも依存せずに知っている。
自分が「気づいている」こと、
自分が「気づいている現存」を
「知る光」そのものであることを
「知っている」。
> 私たちの存在は、
> それ自身の光とともに輝いています。
われわれである「気づいている現存」は、
それ自体の光によって輝いている。
> それは他の何ものでもなく、
> それ自身によって知られています。
> それはそれによって、
> それだけを通じて、
> それ自身を知っています。
> 知られるために、
> 心(マインド)や体は必要ありません。
> それ自身で知り、
> それ自身で輝き、
> それ自身で明らかなのです。
「気づいている現存」は、
他の何ものにも依存することなく、
自ら自分が現存していることを知っている。
「気づいている現存」は
「現存」自身によって知られている。
> それはそれによって、
> それだけを通じて、
> それ自身を知っています。
「気づいている現存」は、
「気づいていること」自体によって、
「気づいていること」自体をつうじて
「気づいていること」自体を知っている。
> 知られるために、
> 心(マインド)や体は必要ありません。
> それ自身で知り、
> それ自身で輝き、
> それ自身で明らかなのです。
「知る」ということのために、
思考や身体は必要ない。
「知ること」は、
「知ること」自体で知り、
「知ること」自体で輝き、
「知ること」自体で自明なのだ。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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今回はルパート・スパイラの
「現存はそれ自体で輝いている」
の章を最後までご紹介するつもりでした。
でも、
ちょっと時間が足りなすぎ。(*^_^*)
今回はここまでにしておきます。
もしかしたら、
また後半をご紹介するかもしれません。
わかりませんが。
まあまあ今日も楽しかった。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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