━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/03/13(第934号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.私とは誰なのか、何なのか(R.スパイラ)
2.編集後記
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■ 1.私とは誰なのか、何なのか(R.スパイラ)
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今日も頼まれて外仕事をしました。
日が長くなりましたね。
ちょっと前ならとおに暗くなっていたけれど、
風呂上がりにこうして窓の外を見ると、
まだ明るい。
いいですねぇ。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
求めるものは何もないわけです。
求められているのは
自らの現状そのものなのですから。
そして求めている者も
実際には誰もいない。
ただ架空の誰かが、
もう少し油を売っていたい
と駄々をこねているだけです。
土曜日になるとこうして、
えらく鼻息が荒いのです。(*^_^*)
でも……、
自分が存在していることは、
これはもう紛れもない事実です。
そして自分が存在しているとに、
いまこの瞬間自分が「いる」と知っている
……という以外の証拠などありえません。
そして実際、
「私」はいま自分がいることに気づいている。
そしてその他のあらゆること、
つまり私が気づいているすべてのことは
私が気づいているから存在している。
これもまた疑いないです。
私が気づいているすべては
私がいるから、
そして気づいているから存在している。
これはもう間違いない。
だから、たとえば、
不安とか心配があったとしても、
それは自分がそれに気づいているから、
自分がその不安や心配に
注意を向けたからに他ならない。
これはもう間違いないです。
「その不安とか心配って何?」といえば、
一言で言うなら、
この身体にまつわる物語の中で
窮地に陥りたくないということです。
身体として登場している“自分”には
それなりの実体がある……という立場です。
もっと言えば、
その物語に登場する“自分”は
この身体の中にいて、
外側のすべてを知覚している主体だ
という立場でしょう。
でも実際は、
そもそもこの身体は、
「私」が気づいているから在るのです。
この身体は属性を帯びた知覚の対象物です。
知覚の対象物であるこの身体が、
他の対象物や出来事を知覚している
主体ではありえません。
いや主体はこの身体ではなく、
この身体の中にいる“私”だと言うなら、
その“私”は何が悲しゅうて
知覚の対象物であるこの身体の中に
閉じ込められなくちゃならないの?(?_?)
ということになります。
この身体自体も
他のすべての対象物と同じ対象物なんですから。
そして実際、
それが「私」の実情です。
絶対の主体性という側面に焦点を合わせれば、
「私」には現象的属性はありえません。
現象的属性を付着させたら
そのとたんに、
「私」は現象の中の架空の「誰か」や「何か」に
なってしまって、
それに「気づいている『私』」では
なくなってしまいます。
もし「気づいている『私』」がいなかったら、
実際は、
現象の中の「誰か」や「何か」は
存在することすらできない。
属性を帯びた知覚の対象物は
知覚されずの存在することはできません。
もし現象の中の「誰か」がいるのなら、
それは、その「誰か」に
「私」が気づいているということです。
もしかしてその「私」は
忘れられているかもしれないけれど。
そのとき、
この身体の中に閉じ込められていると
想像した架空の“私”は、
もちろん
「気づいている『私』」の座からは
滑り落ちているわけです。
そして現象の中で
架空の物語に登場する「誰か」になっている。
架空の物語で「誰か」を演じているのに、
その物語に「気づいている」ことなど
できません。
もし本当に、その物語に
「気づいている『私』」がいなかったら、
もともとその架空の物語も
そこに登場する「誰か」や「何か」も、
存在してなどいないわけです。
「気づいている『私』」がいるから、
存在しているわけですから。
これホント。
インディアン嘘つかない。(*^_^*)
ただ残念なことに、
pariはこの単純な事実を
土曜日にしか思い出しません。(^_-)
なので、
四六時中「私」になってしまった方、
というか
「私」以外のすべての属性を喪失した方、
(そこに「誰か」はいませんが(^_-) )
ルパート・スパイラの言葉を
またご紹介したいと思います。
『プレゼンス―第1巻』の中から
https://amzn.to/2PYQzlZ
今回は最初の章
「私とは誰なのか、何なのか」
の全体を写経したいと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
私とは誰なのか、何なのか
「心(心(マインド))、体、世界について
何を知っているのだろう?」
と考えたとき、
私たちが唯一確信できることは、
それは自らの体験からしか知り得ない、
ということです。
体験は完全に私たちの自己という現存(プレゼンス)
(今ここにいること。臨在、現前とも訳される)
に委ねられており、
自己が存在することなしに、
体、心(マインド)、世界を
体験することはできません。
すべての体験は、
私たちの自己によってしか捉えることはできず、
したがって、
体、心(マインド)、世界を知ることは
自己を知ることと無関係ではいられません。
詩人で画家のウィリアム・ブレイクは、
「その人が見るものはその人自身である」
と言いました。
これは、
その人が自分自身をどう知り理解するかが、
その人が物、他者、世界を
どのように理解するかを決めるという意味です。
ですから、
私たちの自己から始めることにしましょう。
すべては自己に委ねられています。
『プレゼンス―第1巻』(p21)
──────────────────
> 詩人で画家のウィリアム・ブレイクは、
> 「その人が見るものはその人自身である」
> と言いました。
ウィリアム・ブレイク……。
埴谷雄高さんが好きな方でしたね。
この詩人の名前をはじめて知ったのは
埴谷雄高さんの本からでした。
> これは、
> その人が自分自身をどう知り理解するかが、
> その人が物、他者、世界を
> どのように理解するかを決めるという意味です。
そういう意味だったんですね。
> ですから、
> 私たちの自己から始めることにしましょう。
よろしくお願いいたします。(-||-)
──────────────────
けれど、
この自己について、
私たちはいったいどれほど確かなことを
知っているのでしょうか?
それを知るためには、
まず、
他者や私たちが属している文化が貼り付けた
自己のレッテルを剥がし、
次に私たちの親密で直接的な体験に
集中する必要があります。
体験とはつまり、
現実を試すことでなければなりません。
私たちが確かなこととしてまず知っているのは、
「私は在る(I am)」ということです。
あまりに単純で明白であるため、
時に見過ごされてしまいますが、
これは誰にでも理解できる貴重な知識です。
自分が何ものなのかわからなくても、
「私は在る」ことは知っています。
自分自身を否定するのであっても、
私たちはまずそこに在る必要があるのですから、
誰も自分の存在(ビーイング)そのものを
否定することはできません。
また、
親にそう言われたから、
もしくは本で読んだから、
「私は在る」と主張する人もいないでしょう。
私たちが存在しているという事実は、
最も直接的で馴染みのある親密な体験です。
そこに疑いの余地はありません。
言い換えれば、
存在あるいは現存(プレゼンス)は
私たちの自己の本質であって、
自己についてこれ以上確かなことはないのです 。
『プレゼンス―第1巻』(p22)
──────────────────
> 自分が何ものなのかわからなくても、
> 「私は在る」ことは知っています。
> 自分自身を否定するのであっても、
> 私たちはまずそこに在る必要があるのですから、
> 誰も自分の存在(ビーイング)そのものを
> 否定することはできません。
マハラジも言っていましたね。
【どのような理論や想像による努力によっても、
「私は在る」を
「私はいない」に変えることはできない。
あなたの存在を否定すること自体が、
あなたの存在を主張している。】(『私は在る』(p218))
> また、
> 親にそう言われたから、
> もしくは本で読んだから、
> 「私は在る」と主張する人もいないでしょう。
プ!(>_<)
> 私たちが存在しているという事実は、
> 最も直接的で馴染みのある親密な体験です。
> そこに疑いの余地はありません。
疑いの余地はありません。
> 自己についてこれ以上確かなことはないのです 。
たしかに。(-||-)
──────────────────
私たちの自己が何であろうと、
それは「私(I)」と呼ばれます。
「私は在る」と宣言するためには、
「私は在る」ことを知り、
それに気づいていなければなりません。
これは、
確固として主張することのできる
数少ない真実のひとつです。
言い換えると、
自分自身の存在に確かでいられるのは、
それを直に体験して知っているからです。
存在を確かめるために、
自分以外の情報源に頼り、
過去の情報を参照する必要はありません。
今この瞬間、
私たちの存在、
現存(プレゼンス)は明らかなのです。
では、
私たちの存在を知り、
それに気づいているのは誰なのでしょう?
「私」が「私は在る」と知っているのでしょうか、
もしくは、
自分以外の何か、
誰かが「私」の存在に気づいているのでしょうか?
「私」が「私は在る」と知っているのは明らかです。
言い換えるなら、
存在している「私」と、
存在することを知り、
それに気づいている「私」は、
同じなのだとわかります。
言い換えるなら、
気づき、知ることは、
私たちの自己が本来持っている性質で、
自己つまり「私」は、
ここにありながら、
それに気づいていることを知っています。
現存し、
気づいていると知るために、
私たちの自己が何か特別なことを
する必要はありません。
気づき、
知ることは自己の自然な性質であり、
自己は自己であるだけで、
自己を知っています。
現存していると気づくために
特別なことをする必要、
たとえば、
考える必要もありません。
自分自身の存在を知ることは、
体験における最も明らかでシンプルな事実です。
思考、感情、知覚に先立つものなのです。
もし誰かが
「あなたは現存していますか?」
と尋ねたなら、
私たちは少し間を置いて、
「はい」と答えるでしょう。
間を置きながら、
私たちは自己の親密で直接的な体験を確認し、
その体験から、
「はい」と答えることができます。
思考、感情、知覚にではなく、
私たちの自己に直接確認します。
自己は自己自身を参照するのです。
言い換えるなら、
私たちの自己は、
自己だけを通じ、
自己だけによって、
それが現存していることに気づいています。
そこに、
心(マインド)や体は必要ありません。
気づいている現存(プレゼンス)を
確証してくれる外的な何かも、
もちろん必要ありません。
自己は自己自身を直に知っています。
このように、
親密で直接的な体験から、
「私」はただ現存するだけでなく、
気づいているのだということが
はっきりとわかります。
このため、
私たちの自己は時に気づきと表現されるのです。
現存しているそれは、
気づいている、
という意味です。
「気づき」という言葉は、
私たちが親密に、
自己がそれであると知っている存在、
それがそれ自体であると知っている存在は、
そもそも現像しながらにして
気づいていることを示しています。
この本では自己を、
「気づいている現存(プレゼンス)」、
またはシンプルに
「現存(プレゼンス)」と表現することもあります。
「意識」、
「存在」と呼ばれることもありますが、
気づいている現存(プレゼンス)の
最もシンプルな表現は「私」でしょう。
呼び方はどうであれ、
存在することの親密さ、
つまり、
気づきがそれ自体に気づいていることは、
私たちの誰もがもつ最も明らかで馴染みのある、
直接的な知識なのです。
他のすべてを知る前に、
私たちは自身の存在を知っています。
存在は、
それ自体を知っています。
私たちが親密に、
直接的にそれであると知っている、
この気づいている現存(プレゼンス)は、
気づき、
そして現存することを知っています。
存在することをシンプルに知ることに、
「私」という名前が与えられています。
私たち自身の存在を知ることは、
あまりにシンプルで、
明白で、
重要ではなさそうに見えるため、
往々にして見過ごされてしまいます。
最も親密な存在を忘れ、
見落とすということは、
表面的には些細なことかもしれませんが、
これがきっかけとなって、
ほとんどの思考、感情、行動、関係性などが生まれ、
それらはやがて不幸の種となるのです。
『プレゼンス―第1巻』(p23-25)
──────────────────
> では、
> 私たちの存在を知り、
> それに気づいているのは誰なのでしょう?
ここで念を押してくれています。
> 自分以外の何か、
> 誰かが「私」の存在に気づいているのでしょうか?
ありえません。
> 「私」が「私は在る」と知っているのは明らかです。
疑問の余地なし。
> 言い換えるなら、
> 存在している「私」と、
> 存在することを知り、
> それに気づいている「私」は、
> 同じなのだとわかります。
同意します。(-||-)
> 現存し、
> 気づいていると知るために、
> 私たちの自己が何か特別なことを
> する必要はありません。
はい。
> 気づき、
> 知ることは自己の自然な性質であり、
> 自己は自己であるだけで、
> 自己を知っています。
同意します。
> 現存していると気づくために
> 特別なことをする必要、
> たとえば、
> 考える必要もありません。
はい。
> 自分自身の存在を知ることは、
> 体験における最も明らかでシンプルな事実です。
> 思考、感情、知覚に先立つものなのです。
間違いないのです。
> 私たちの自己は、
> 自己だけを通じ、
> 自己だけによって、
> それが現存していることに気づいています。
はい。
> そこに、
> 心(マインド)や体は必要ありません。
> 気づいている現存(プレゼンス)を
> 確証してくれる外的な何かも、
> もちろん必要ありません。
> 自己は自己自身を直に知っています。
同意します。
> このように、
> 親密で直接的な体験から、
> 「私」はただ現存するだけでなく、
> 気づいているのだということが
> はっきりとわかります。
はい。
> このため、
> 私たちの自己は時に気づきと表現されるのです。
はい。
> 現存しているそれは、
> 気づいている、
> という意味です。
「現存している」と「気づいている」は
同じことを指しているんですね。
> 気づいている現存(プレゼンス)の
> 最もシンプルな表現は「私」でしょう。
はい。
> 他のすべてを知る前に、
> 私たちは自身の存在を知っています。
> 存在は、
> それ自体を知っています。
同意します。
> 私たち自身の存在を知ることは、
> あまりにシンプルで、
> 明白で、
> 重要ではなさそうに見えるため、
> 往々にして見過ごされてしまいます。
間違いありません。
> 最も親密な存在を忘れ、
> 見落とすということは、
> 表面的には些細なことかもしれませんが、
> これがきっかけとなって、
> ほとんどの思考、感情、行動、関係性などが生まれ、
> それらはやがて不幸の種となるのです。
自分が「気づいている現存」
であることを忘れることが、
やがて不幸の種となる。(;_;)
──────────────────
ではなぜ、
私たちは、
存在、気づきがそれ自体を知っていることを忘れ、
見過ごしてしまうのでしょう?
存在することを知ること、
それは、
私たちがすることではなく、
私たちそのものです。
私たちの存在がそれ自体を忘れたり、
見過ごしたりすることはあり得ません。
実際のところ、
存在をシンプルに知ることを曇らせるのは思考です。
思考によって、
私たちの自己は
気づきの現存(プレゼンス)ではないように見えます。
この思考はやがて感情が絡まり、
自己を真に知ること、
それがそれ自体を真に知ることは、
覆い隠され、
損なわれ、
私たちは気づいている現存(プレゼンス)以外の
何ものかであると信じ、
感じるようになるのです。
個人における、
そして人類全体における私たちの歴史とは、
真のアイデンティティの喪失と
再獲得の物語であると言えます。
『プレゼンス―第1巻』(p25-26)
──────────────────
> ではなぜ、
> 私たちは、
> 存在、気づきがそれ自体を知っていることを忘れ、
> 見過ごしてしまうのでしょう?
なぜ気づきは
自分が気づきであること、
すべてに気づいているのが自分であることを
忘れるのか?
> 存在することを知ること、
> それは、
> 私たちがすることではなく、
> 私たちそのものです。
存在することを知っていることは
私たち存在自体の本性であって、
私たちが「する」ことではない。
> 私たちの存在がそれ自体を忘れたり、
> 見過ごしたりすることはあり得ません。
ゆえに、
私たち自身が存在することを忘れたり、
見過ごしたりすることはあり得ない。
> 実際のところ、
> 存在をシンプルに知ることを曇らせるのは思考です。
存在することを知っている
存在自体の本性を曇らせるのは思考。
> 思考によって、
> 私たちの自己は
> 気づきの現存(プレゼンス)ではないように見えます。
思考のせいで
自己が「気づきの現存」ではない
ように見える幻想が起こる。
> この思考はやがて感情が絡まり、
> 自己を真に知ること、
> それがそれ自体を真に知ることは、
> 覆い隠され、
> 損なわれ、
> 私たちは気づいている現存(プレゼンス)以外の
> 何ものかであると信じ、
> 感じるようになるのです。
その思考にやがて感情が絡まり、
あたかも自分が
「気づいている現存」以外の何ものか
であるかのように信じ、
またそのように感じるようになる。
> 個人における、
> そして人類全体における私たちの歴史とは、
> 真のアイデンティティの喪失と
> 再獲得の物語であると言えます。
人類全体が陷っている
この人生という物語は、
本来の自己を忘却し喪失して、
そして再獲得する物語であると言える。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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土曜日はいつもハイ!(*^_^*)
いいじゃないでしょうか。
まあまあ今日も楽しかった。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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