home > 通信 >存在は平安そのもの(R.スパイラ):『アセンション館通信』第935号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/03/20(第935号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.存在は平安そのもの(R.スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.存在は平安そのもの(R.スパイラ)
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今日はしっかり雨ですね。

眼前の障子を開けると

冬枯れの庭の景色が

薄明るい天霧の中に溶け込んでいます。

静かです。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

幸せを求めることだけが

<いま・ここ>にある幸せを

覆い隠すのですね。

この身体として誕生し、

この身体が自分なのだと学習して以来、

私たちはそれを信じ、

この現れの中で幸せの形を追い求めてきました。

幸せを追い求めざるをえなかったのは、

この世界の中で身体として生きることが

どうにも安らぐことのできない

居心地の悪い状況だったからです。

でも実際は

私たちはこの身体として誕生したわけでは

なかったようです。

たしかに、

この身体は誕生したかもしれません。

でもそのことを知っているのは

この身体ではありませんでした。

いまこの瞬間も

この身体を通じてこの言葉が現れてきています。

でもそのことを知っているのは

この身体ではありません。

なぜならこの身体は

この身体を通じて現れてきているこの言葉と同じく

現象の一部を構成している知覚の対象物だからです。

「知る者」と「知られるもの」を

あえて分けるなら……ということですが。

でも、

私たちが普段住んでいる世界では

“自分”と“他人”は別物であるとします。

“自分”は知覚の主体であり、

“他人”は自分が知覚する対象物であって

“自分”とは別の存在だというふうに。

もし「知覚の主体」と

「知覚の対象物」を分けるべきなのであれば、

この身体は間違いなく

「知覚の対象物」であって、

「知覚の主体」ではありえません。

私たちは毎日

「知覚の主体」と「知覚の対象物」は

別物であるという前提で生きているのですから。

明らかに「私」はこの身体を知覚しています。

このモニター画面に現れるテキストは

「私」の知覚の対象物です。

それは間違いありません。

その上「私」には

この眼前のモニター画面や

そこに出現しつつあるこのテキストが

見えるだけではなく、

その下にあるキーボードも、

そこでキーを打っている両手もその指も

全部見えているのです。

それらがすべて

「私」の知覚の対象物であることは間違いありません。

もしこの身体が知覚の対象物なら、

だったら「私」とは何なのか?

「私」はどこにいるのか?

という話題を“自分”に納得させるために、

こうして何年も

こんな話ばかり書いてきたのでした。

まことにご苦労さまなことです。

今回もまた

最近ぞっこんで入れ込んでいる

ルパート・スパイラの言葉を

ご紹介したいと思います。

『プレゼンス―第1巻』の中から

今回は比較的初めの方にある章

「私たちの存在は平安そのものである」

の全体を写経したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 私たちの存在(ビーイング)は平安そのものである。
 
 
 私たちの自己の本質は、
 いつもここにある存在(ビーイング)、
 気づいている現存(プレゼンス)であり、
 思考、感情、イメージ、記憶、感覚、
 知識を知り、
 体験するのであって、
 思考、感情、感覚などから
 できているのではありません。
 このため、
 空(くう)の存在と表現することもできます。
 実際には、
 対象物という存在と比較すると
 空であるということであって、
 現実においては、
 それは現存と気づきに満ちています。
 実際のところ、
 空間はあらわれに抵抗し、
 あらわれを否定する仕組みをもっていません。
 では、
 そうした傾向は何から生まれるのでしょうか?
 空(くう)の空間からではなく、
 そこにある対象物から生じるはずです。
 
 部屋という空間は、
 それを取り囲む壁によって
 規定されるように見えますが、
 壁ができる前も、
 壁が壊された後も、
 空間自体は損なわれずにそこにあります。
 空間の見かけ上の形や性質は、
 壁や家具、
 そこで行われる活動などによって
 付け足されていきますが、
 空間自体が
 これらの性質をもつことはありません。
 ただ、
 そのように見えるだけです。
 
 私たちの存在も同じで、
 それは体や心(マインド)の性質を
 帯びているように見えますが、
 現実にはそうではありません。
 体や心(マインド)があらわれる前、
 私たちの自己はすでに今の自己で「あった」し、
 体や心(マインド)が死ぬときもまた、
 同じ自己で「あるでしょう」。
 そして、
 「あった」も「あるでしょう」も、
 まさにこの今、
 存在する唯一の今なのです。
 
         ∞
 
 『プレゼンス―第1巻』(p75-76)
──────────────────

> 私たちの自己の本質は、
> いつもここにある存在(ビーイング)、
> 気づいている現存(プレゼンス)であり、
> 思考、感情、イメージ、記憶、感覚、
> 知識を知り、
> 体験するのであって、
> 思考、感情、感覚などから
> できているのではありません。

何度繰り返されても、

聴いていて気持ちのいい真実です。

「私」は

これらの思考、感情、イメージ、記憶、感覚、知識に

「気づいている現存」であって、

それらの思考、感情、イメージ、記憶、感覚、知識が

「私」であるわけではない。

> このため、
> 空(くう)の存在と表現することもできます。

「私」にはどんな内容物もないという意味では、

「私」は空なる存在だとも言えます。

> 実際には、
> 対象物という存在と比較すると
> 空であるということであって、
> 現実においては、
> それは現存と気づきに満ちています。

けれども、

では「私」は空っぽなのかと言えば、

実際は、その「私」だけが在って

すべての内容物の存在を支えているわけですから、

その意味では、

現存と気づきで充満しているとも言えます。

> 実際のところ、
> 空間はあらわれに抵抗し、
> あらわれを否定する仕組みをもっていません。

「私」の存在は、

物理次元の空間に喩えるとわかりやすいようです。

空間にはそもそも、

その空間を占有する内容物に抵抗したり

内容物を選択的に否定するような

そういう仕組がありません。

> では、
> そうした傾向は何から生まれるのでしょうか?
> 空(くう)の空間からではなく、
> そこにある対象物から生じるはずです。

ガーン!(@_@) ⌒★?

凄い……。(-_-;)

意識の内容物に抵抗したり

内容物を選択的に否定するような

そういう傾向はどこからくるのか?

その抵抗が

空間から来ていないのは明瞭です。

ならばそれはいったいどこから来られるのでしょうか?

空間を占拠している意識の内容物以外に

それを生じさせるものはありえないのです。

> 部屋という空間は、
> それを取り囲む壁によって
> 規定されるように見えますが、
> 壁ができる前も、
> 壁が壊された後も、
> 空間自体は損なわれずにそこにあります。

空間を占拠するどんな内容物も

空間自体を損傷させることはできません。

> 空間の見かけ上の形や性質は、
> 壁や家具、
> そこで行われる活動などによって
> 付け足されていきますが、
> 空間自体が
> これらの性質をもつことはありません。
> ただ、
> そのように見えるだけです。

空間を占める内容物によって

その空間の【見かけ】がどれほど変わっても、

空間自体はどんな属性にも染まらないのです。

> 私たちの存在も同じで、
> それは体や心(マインド)の性質を
> 帯びているように見えますが、
> 現実にはそうではありません。

それと同じように、

「気づいている現存」もまた、

いかなる対象物の属性にも染まることはありません。

> 体や心(マインド)があらわれる前、
> 私たちの自己はすでに今の自己で「あった」し、
> 体や心(マインド)が死ぬときもまた、
> 同じ自己で「あるでしょう」。

この私たちの身体やマインドが

現れる前も、現れている今も、

それらが消え去った後も、

「気づいている現存」は永遠にただ気づいているだけです。

> そして、
> 「あった」も「あるでしょう」も、
> まさにこの今、
> 存在する唯一の今なのです。

すべての過去も、すべての未来も、

唯一現存しているこの<いま・ここ>にあらわれている。

──────────────────
 私たちの自己は、
 開かれた空(くう)の空間、
 知り、気づいている空間であり、
 部屋の空間と同じように、
 抵抗とはそもそも無縁です。
 実際、私たちの自己は
 「抵抗」という言葉の意味を知りません。
 それはすべてのあらわれを大きく肯定しています。
 
 部屋の空間のように、
 私たちの自己も
 そこに現れる思考、感情、感覚、知覚といった
 対象物や活動からそもそも自由です。
 そして同時に、
 好きや嫌いや差別なく、
 それらのすべてを迎え入れています。
 
 思考、感覚、知覚は、
 時に乱れ、
 時に静まります。
 けれど、
 それらを知り、体験する、
 気づいている現存(プレゼンス)に
 こうした性質はありません。
 空間の中で何が起きようと起きまいと、
 空間そのものは決して動揺しないのと同じで、
 私たちは空(くう)の気づきの空間であって、
 体、心(マインド)、世界のあらわれに
 困惑することはありません。
 
 言い換えるなら、
 私たちの自己はそもそも安らかなのです。
 私たちの本質的な平安は、
 あらわれの性質や状態に左右されません。
 
 私たちの自己はさまざまな動揺を目撃しますが、
 それ自体が動揺することはありません。
 抵抗や動揺のない状態、
 それが平安の体験です。
 
 平安は、
 自己がもつ性質でも属性でもありません。
 平安が自己なのです。
 空間に本来備わる安らかな性質を
 空間から奪うことはできないのと同じで、
 自己から平安を切り離すことはできません。
 私たちは平安そのものです。
 
 心(マインド)、体、世界の安らかな状態は、
 あらわれては消えるかもしれません。
 静寂と動揺のサイクルを繰り返すのが
 それらの性質だからです。
 けれど、
 私たちの自己はいつもここにあり、
 本質的に安らかな現存(プレゼンス)で、
 そうした状態を知り、
 受け入れ、
 それらと親密にひとつであり
 けれど決してそれらから影響を受けません。
 
 空間と同じく、
 私たちの自己も何ものにも邪魔されません。
 この平安は、
 やってきては去っていく
 体や心(マインド)の状態ではなく、
 すべての思考、感情、感覚、知覚の背後に、
 そしてその内にいつも静かに佇み、
 開かれていて、
 あらゆる瞬間に触れることができ、
 そして、
 ただ認められることを待っています 。
 
 平安を求めるとき、
 私たちは、
 私たちの真の性質がもつ平安を願っています。
 けれど、
 時として私たちは、
 この私たちの本質である平安を、
 体、心(マインド)、世界の安らかな状態と
 勘違いしてしまいます。
 
 体、心(マインド)、世界の
 安らかな状態は長続きせず、
 また、
 私たちが真に求める深遠な平和を
 もたらさないということは、
 私たちの誰もが知っています。
 さまざまな活動や関係性を生じさせ
 維持させる渇望を癒すことができるのは、
 私たちの真の性質に本来備わっている平安だけです。
 
 実際のところ、
 平安への渇望は、
 「私−分離した内側にある自己」という
 考えや感情によって覆い隠されてしまった、
 私たちの真の性質である平安そのものなのです。
 
 この渇望が、
 時間、つまり、
 そこに架空の自己を投影するための
 過去や未来から自由になると、
 それは、
 いつも私たちの存在(ビーイング)の内にあり、
 体験の中心で静かに輝き、
 ただ認められることを待っている
 平安としての姿を現します。
 
 私たちの本質である平安と、
 体や心(マインド)の安らかな状態とを
 取り違えてしまうと、
 私たちの存在をそれそのものとして
 シンプルに知ることに本来備わっている
 平安に気づくことは遅くなってしまいます。
 
 どんな時であろうと、
 私たちの自己の内に常にある平安に触れると、
 体、心(マインド)、世界は深く触発され、
 やがてそれに満たされます。
 そして、
 私たちの真の性質である平安とともに
 輝き始めるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p76-79)
──────────────────

> 私たちの自己は、
> 開かれた空(くう)の空間、
> 知り、気づいている空間であり、
> 部屋の空間と同じように、
> 抵抗とはそもそも無縁です。

「私」は、

その気づいている空間にも喩えられる

いっさいの抵抗と無縁な存在です。

> 実際、私たちの自己は
> 「抵抗」という言葉の意味を知りません。
> それはすべてのあらわれを大きく肯定しています。

実際、

「私」である「気づいている現存」は、

「抵抗」が何を意味するかを知らない。

すべての現れを歓迎し、肯定するだけです。

> 部屋の空間のように、
> 私たちの自己も
> そこに現れる思考、感情、感覚、知覚といった
> 対象物や活動からそもそも自由です。

「私」である「気づいている現存」は、

思考、感情、感覚、知覚といった

あらゆる意識の内容物からも

それらの活動からも自由です。

> そして同時に、
> 好きや嫌いや差別なく、
> それらのすべてを迎え入れています。

それらすべての意識の内容物を

いかなる愛好も嫌悪もなく

無条件にすべて迎え入れています。

> 思考、感覚、知覚は、
> 時に乱れ、
> 時に静まります。
> けれど、
> それらを知り、体験する、
> 気づいている現存(プレゼンス)に
> こうした性質はありません。

【見かけ】の上で、

どんな変化が現れようとも

それを映し出す「気づいている現存」は

そのような性質に染まることはありません。

> 空間の中で何が起きようと起きまいと、
> 空間そのものは決して動揺しないのと同じで、
> 私たちは空(くう)の気づきの空間であって、
> 体、心(マインド)、世界のあらわれに
> 困惑することはありません。

疾風怒濤の映像が流れても、

スクリーンが濡れることなく、

火山の噴火や山火事の映像が流れても

スクリーンが燃えないのと同じです。

> 言い換えるなら、
> 私たちの自己はそもそも安らかなのです。
> 私たちの本質的な平安は、
> あらわれの性質や状態に左右されません。

「私」(気づいている現存)が

そもそも安らかなのです。

「私」という平安は

映し出される対象物の性質や状態に

左右されることありません。

> 私たちの自己はさまざまな動揺を目撃しますが、
> それ自体が動揺することはありません。
> 抵抗や動揺のない状態、
> それが平安の体験です。

「私」はさまざまな動揺を目撃して

それが現象することを支えますが、

「私」自体が動揺することはありません。

照らし出すいかなる対象物にも

抵抗したり動揺したりしないのが

「私」という平安の体験なのです。

> 平安は、
> 自己がもつ性質でも属性でもありません。
> 平安が自己なのです。

平安というのは、

「私」という「気づいている現存」の

性質でもなければ属性でもありません。

平安が「私」なのです。

> 空間に本来備わる安らかな性質を
> 空間から奪うことはできないのと同じで、
> 自己から平安を切り離すことはできません。
> 私たちは平安そのものです。

いっさいの内容物からの自由を

空間から奪うことができないように、

「私」と平安を切り離すことはできません。

> 心(マインド)、体、世界の安らかな状態は、
> あらわれては消えるかもしれません。
> 静寂と動揺のサイクルを繰り返すのが
> それらの性質だからです。

【見かけ】を形づくる意識の内容物は

たえず現れては消えてゆきます。

山と谷を繰り返すのが現れの性質ですから。

> けれど、
> 私たちの自己はいつもここにあり、
> 本質的に安らかな現存(プレゼンス)で、
> そうした状態を知り、
> 受け入れ、
> それらと親密にひとつであり
> けれど決してそれらから影響を受けません。

けれども

それらの【見かけ】を映し出す「私」、

「気づいている現存」はつねにここに在り、

永遠に安らいでいます。

すべての意識の内容物を知り、

歓迎し、受け容れ、照らし出しながら。

そしてけっしてそれには染まらない。

> 空間と同じく、
> 私たちの自己も何ものにも邪魔されません。
> この平安は、
> やってきては去っていく
> 体や心(マインド)の状態ではなく、
> すべての思考、感情、感覚、知覚の背後に、
> そしてその内にいつも静かに佇み、
> 開かれていて、
> あらゆる瞬間に触れることができ、
> そして、
> ただ認められることを待っています 。

意識の内容物を映し出すこの「平安」は、

つかの間の【見かけ】を構成する

意識の内容物としての安らぎの状態ではありません。

それはあらゆる

思考、感情、感覚、知覚の背後に

また内部に浸透している不可視の光です。

常に開かれ、常に歓迎し、主張しません。

ただ認められることを待っているだけです。

> 平安を求めるとき、
> 私たちは、
> 私たちの真の性質がもつ平安を願っています。
> けれど、
> 時として私たちは、
> この私たちの本質である平安を、
> 体、心(マインド)、世界の安らかな状態と
> 勘違いしてしまいます。

私たちが求める安らぎは、

本当はこの真の平安が意味する安らぎのことです。

ただややもすると私たちはそれを

意識の内容物である

思考や感情や感覚や知覚が与える

安らかな状態と勘違いしてしまうのです。

> 体、心(マインド)、世界の
> 安らかな状態は長続きせず、
> また、
> 私たちが真に求める深遠な平和を
> もたらさないということは、
> 私たちの誰もが知っています。

そういう身体や想念の状態としての安らぎが

けっして長続きするものでないことは

私たちは誰でも知っています。

> さまざまな活動や関係性を生じさせ
> 維持させる渇望を癒すことができるのは、
> 私たちの真の性質に本来備わっている平安だけです。

それは幸福探しが止まった瞬間、

一瞬あらわれる「気づいている現存」の平安です。

> 実際のところ、
> 平安への渇望は、
> 「私−分離した内側にある自己」という
> 考えや感情によって覆い隠されてしまった、
> 私たちの真の性質である平安そのものなのです。

実際は、

平安への渇望そのものが、

私たちの活動や関係性によって屈折した

「気づいている現存」の露出形態ともいえます。

> この渇望が、
> 時間、つまり、
> そこに架空の自己を投影するための
> 過去や未来から自由になると、
> それは、
> いつも私たちの存在(ビーイング)の内にあり、
> 体験の中心で静かに輝き、
> ただ認められることを待っている
> 平安としての姿を現します。

その安らぎへの渇望が

架空の時間の中での彷徨から解放されるとき、

「私」という「気づいている現存」が

体験の中心で静かに輝きだすのです。

> 私たちの本質である平安と、
> 体や心(マインド)の安らかな状態とを
> 取り違えてしまうと、
> 私たちの存在をそれそのものとして
> シンプルに知ることに本来備わっている
> 平安に気づくことは遅くなってしまいます。

その逆に、

【見かけ】の中での安らかな状態を

追い求め続けてしまうと、

「私」という「気づいている現存」に

本来備わっている平安に気づくのを

遅らせてしまうかもしれません。

> どんな時であろうと、
> 私たちの自己の内に常にある平安に触れると、
> 体、心(マインド)、世界は深く触発され、
> やがてそれに満たされます。

いつであろうと、

「気づいている現存」の平安に触れると、

私たちの【見かけ】の世界は、

その真の平安に深く触発されて、

やがてその光に満たされます。

> そして、
> 私たちの真の性質である平安とともに
> 輝き始めるのです。

そして

「私」という「気づいている現存」の

平安によって輝きはじめるのです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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土曜日はマインド無礼講!

思いっきりエネルギーを投入します。(*^_^*)

いいじゃないでしょうか。

まあまあ今日も楽しかった。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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