home > 通信 >幸福は体と心の状態ではない:『アセンション館通信』第936号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/03/27(第936号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.幸福は体と心の状態ではない

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.幸福は体と心の状態ではない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日も雨です。

心なしかこのところ

土日は雨になることが多いような。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

幸せを求めることだけが

<いま・ここ>にある幸せを覆い隠す。

これまでマハラジからも

こんな言葉を聞いていました。

──────────────────
 あなたはつねに快楽を求め、
 苦痛を避けている。
 いつも幸福と平和を追い続けているのだ。
 あなたの幸福への探求自体が、
 あなたを惨めに感じさせているのが
 わからないだろうか?
 
 『私は在る』(p258)
──────────────────

そしてこの言葉が気になったのか、

それとも気に入ったのか、

これまで何度も引用したりもしています。

でもこういう表現が、

幸せや平安を求めることが

<いま・ここ>にある幸せや平安をを覆い隠す、

という端的な事実を指しているのだとは

わかりませんでした。

身体に充満している理解が

そういうものだったのでしょう。

今回はこの単純な真実を

ルパート・スパイラの言葉で

語っていただきたいと思います。

『プレゼンス―第1巻』の中から
https://amzn.to/2PYQzlZ

比較的初めの方にある短い章

「平安と幸福は体と心(マインド)の状態ではない」

の全体を写経したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 平安と幸福は体と心(マインド)の状態ではない
 
 
 平安と幸福は、
 体や心(マインド)の状態ではありません。
 体や心(マインド)の状態はすべて、
 どれだけ心地よいものであっても、
 気づきの中にあらわれては消えていきます。

 平安は、
 動揺や抵抗のない状態、
 幸福は、
 欠乏感のない状態と捉えることができます。
 
 動揺、抵抗、欠乏感がないのは、
 私たちの自然な状態です。
 気づいている現存(プレゼンス)に
 本来備わる真の性質です。
 
 抵抗や欠乏感が募ると、
 私たちの内に自然にある平安と幸福は闇に隠れ、
 自己は見たところ分離した実体へと
 収縮してしまいます。
 
 この架空の実体は、
 今を否定し、
 現状を否定し、
 未来に平安と幸福を求めるもの
 として定義することができます。
 実際のところ、
 分離した自己は実体ではありません。
 拒み、求める、活動そのものです。
 
 抵抗と欠乏感は、
 架空の内側にある自己にとって不可欠な要素です。
 
 抵抗することで私たちは過去に惹きつけられ、
 抵抗を感じることで
 私たちは現状ではない何かを求め、
 未来へと駆り立てられます。
 
 このように、
 抵抗と模索は、
 分離した自己にとっての不可欠な形態であり、
 それは今を拒絶することで生まれます。
 
 今を拒絶するためには、
 「今以外」の何かを想像する必要があります。
 それが時間です。
 分離した内側にある自己は、
 時間の生みの親でもあります。
 
         ∞
 
 『プレゼンス―第1巻』(p118-119)
──────────────────

じつに簡明・明晰・洗練の極み

といった表現ですね。

不明確なところがどこにもありません。

簡明かつ理解可能です。

マインドで逆らう余地がない。

しかし、

語られていることの全体は

じつに大変なことです。

> 平安と幸福は、
> 体や心(マインド)の状態ではありません。

言葉では何度も聴いたことがありますが、

でもこれまで実際に求めてきたのは

体や心(マインド)の状態でした。

> 体や心(マインド)の状態はすべて、
> どれだけ心地よいものであっても、
> 気づきの中にあらわれては消えていきます。

おっしゃるとおりですし、

ある意味では「わかっている」ことです。

でもその「わかっている」程度は、

架空の“内側の自己”が許容する範囲内であって、

“内側の自己”を押し流すものではなかった。

> 平安は、
> 動揺や抵抗のない状態、
> 幸福は、
> 欠乏感のない状態と捉えることができます。

平安とは

現在起こっていることに対する

動揺や抵抗がない状態のこと。

幸福とは、

欠乏感のない状態のことだと。

> 動揺、抵抗、欠乏感がないのは、
> 私たちの自然な状態です。
> 気づいている現存(プレゼンス)に
> 本来備わる真の性質です。

その動揺、抵抗、欠乏感がない状態が

「気づいている現存」の自然な状態だと。

「自然な状態」と言えば、

マハルシもよくその言葉を使いましたね。

──────────────────
 その自然な状態が明らかになるまで、
 何らかの形の努力はつづくだろう。
 ……
 その状態が実現されるまで、
 努力は必要となる。
 ……
 ひとたびその平和の至福を味わったなら、
 誰もそこから出て何か他の活動に
 従事しょうなど願うこともなくなるだろう。
 
 『あるがままに』(p182)
──────────────────

いちどもその平和の至福を味わったことがないから

こうして言葉を求めるわけです。

まだ言葉での納得を求める

架空の“内側にある自己”が健在だからです。

> 抵抗や欠乏感が募ると、
> 私たちの内に自然にある平安と幸福は闇に隠れ、
> 自己は見たところ分離した実体へと
> 収縮してしまいます。

そういう状態にいるわけですね。(;_;)

> この架空の実体は、
> 今を否定し、
> 現状を否定し、
> 未来に平安と幸福を求めるもの
> として定義することができます。

【今を否定し、現状を否定し、
 未来に平安と幸福を求めるもの】

この架空のアイデンティティ……。

わたしがいま一体化しているもの。

> 実際のところ、
> 分離した自己は実体ではありません。
> 拒み、求める、活動そのものです。

わたしという実体があるわけではなく、

<いま・ここ>のあるがままを拒絶し、

架空の未来に幸福と平安を模索する活動が

習慣的に起動する状態にあるのだと。

> 抵抗と欠乏感は、
> 架空の内側にある自己にとって不可欠な要素です。

架空の“内側にある自己”は

その存続を賭けて

この“抵抗と欠乏感”を求めているのだと。

> 抵抗することで私たちは過去に惹きつけられ、
> 抵抗を感じることで
> 私たちは現状ではない何かを求め、
> 未来へと駆り立てられます。

抵抗することで過去を実体化し、

抵抗を感じることで

現状以外の何かを求めて

それを実現するための未来へ駆り立てられる。

> このように、
> 抵抗と模索は、
> 分離した自己にとっての不可欠な形態であり、
> それは今を拒絶することで生まれます。

この抵抗と模索は

架空の“内側にある自己”が

存続するための不可欠の存在形態である。

それは<いま・ここ>のあるがままを

拒絶する態度によって再生産される。

> 今を拒絶するためには、
> 「今以外」の何かを想像する必要があります。
> それが時間です。

<いま>のあるがままを否定するには

「今以外」の何かを想像する必要があり、

その何かの入れ物として「時間」が発明された。

> 分離した内側にある自己は、
> 時間の生みの親でもあります。

架空の“内側にある自己”が

“自分”用の活動空間として捏造したのが

“時間”といえる。

──────────────────
 体と心(マインド)の肯定的な状態ではなく、
 動揺と欠乏感がないことこそが
 平安であり幸福であると捉えると、
 それらが対象化されることはなくなります。
 すると平安と幸福は、
 心(マインド)、体、世界の領域において
 探求される対象物ではなくなり、
 体、心(マインド)、世界の状態がどうであれ、
 いつもここにある
 私たちの存在(ビーイング)をあるがままに、
 シンプルに知ることと同じになります。
 
 思考が引き起こす抵抗と模索によって、
 私たちの本来の状態である
 平安と幸福が闇に隠れると、
 体は大きな影響を受けます。
 実際、
 体は心(マインド)の活動を反映します。
 
 そしてそれは、
 分離の感覚を孕む体に
 緊張の網となって広がっていき、
 確かに、
 分離した内側にある自己を人格化するのです。
 
 長年にわたって緊張状態は慢性化し、
 体のあらゆる層に広がり、
 姿勢、身ぶり、動き、活動、人間関係などに
 現れるようになります。
 
 特定の状況、物、人間関係を手にすることで、
 思考が抵抗と模索を一時的にでもやめると、
 分離した内側にある自己は溶け、
 常に背後にありながら気づかれずにいた
 私たちの真の性質である平安と幸福が、
 時間を超えた瞬間に姿を現します。
 
 このように溶け去ることで、
 分離した内側にある自己の抵抗と模索を
 表現していた体と心(マインド)は、
 緊張からほんのしばらく解き放たれ、
 その結果、
 解放と弛緩の感覚が
 体と心(マインド)に広がります。
 
 これは、
 見かけ上分離した自己の特徴である,
 抵抗と模索の慢性的な活動が
 やむことの余韻にすぎません。
 
 しかし往々にして、
 この余韻は平安と幸福そのものであると
 誤解されます。
 そのため、
 私たちの真の性質である無条件の平安と幸福は、
 体と心(マインド)にとっての
 対象物となってしまうのです。
 
 体と心(マインド)にとっての対象物は
 すべて一時的なものですが、
 私たちが求めているのは永遠の平安と幸福です。
 けれど、
 人類のほとんどが永遠の平安と幸福を、
 一時的な対象物、
 つまり、
 体と心(マインド)の状態に求めてしまっています。
 だからこそ、
 平安と幸福を探し求めることは、
 仮にそれがスピリチュアルな探求であったとしても、
 同じことが少し洗練されているだけのことで、
 はじめから
 失敗することが運命づけられているのです。
 
 このように、
 私たちの多くは常に不安を抱えた状態にあって、
 認識されているような形では
 決して見つかることのない何かを求めており、
 このため、
 時おり一休みしながらも、
 終わることのない不満のサイクルで
 さまようことを余儀なくされています。
 
 しかし、
 この一休みが
 体と心(マインド)における状態であると
 誤解されているため、
 サイクルは際限なく続きます。
 結果、
 程度の差はあれ多くの人々が、
 友情や親密な人間関係として、
 物や活動への執着として、
 ひいては人類全体や地球への
 脅威となる活動としてあらわれる
 葛藤の状態を生きているのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p119-121)
──────────────────

> 体と心(マインド)の肯定的な状態ではなく、
> 動揺と欠乏感がないことこそが
> 平安であり幸福であると捉えると、
> それらが対象化されることはなくなります。

求められている平安と幸福が

“時間”の中で獲得される状態(対象物)ではなく、

動揺と欠乏感の不在なのだとはっきりわかると、

平安と幸福を対象物として求めることは終わる。

> すると平安と幸福は、
> 心(マインド)、体、世界の領域において
> 探求される対象物ではなくなり、
> 体、心(マインド)、世界の状態がどうであれ、
> いつもここにある
> 私たちの存在(ビーイング)をあるがままに、
> シンプルに知ることと同じになります。

すると平安と幸福は、

起こっている事象やその解釈とは無関係になり、

<いま・ここ>のあるがままに

ただ気づいていることと同じになる。

> 思考が引き起こす抵抗と模索によって、
> 私たちの本来の状態である
> 平安と幸福が闇に隠れると、
> 体は大きな影響を受けます。
> 実際、
> 体は心(マインド)の活動を反映します。

しかし、

<いま・ここ>のあるがままに抵抗して

未来における幸福や平安の構築を模索すると、

マインドの活動が舞い上げる煙幕の中で

<いま・ここ>の平安と幸福は見えなくなり、

身体はその影響を大きく受けて緊張する。

> そしてそれは、
> 分離の感覚を孕む体に
> 緊張の網となって広がっていき、
> 確かに、
> 分離した内側にある自己を人格化するのです。

そのマインドの模索(活動)過程で

マインドが創出した緊張が

網の目のように身体の中に広がっていき、

架空の“内側にある自己”を実体化してゆく。

> 長年にわたって緊張状態は慢性化し、
> 体のあらゆる層に広がり、
> 姿勢、身ぶり、動き、活動、人間関係などに
> 現れるようになります。

その緊張状態は慢性化して、

身体のあらゆる層に広がってゆき、

その不自然な緊張が身体表現として

姿勢、身ぶり、動き、活動、人間関係などに

現れるようになる。

> 特定の状況、物、人間関係を手にすることで、
> 思考が抵抗と模索を一時的にでもやめると、
> 分離した内側にある自己は溶け、
> 常に背後にありながら気づかれずにいた
> 私たちの真の性質である平安と幸福が、
> 時間を超えた瞬間に姿を現します。

しかしそのような慢性化した緊張も、

現象の中でつかの間の良好状態が獲得されると、

<いま・ここ>のあるがままに対する

マインドの抵抗や模索が休止し、

架空の“内側の自己”が溶けはじめる。

すると活動の煙幕の陰に隠れていた

「気づいている現存」の平安と幸福が姿をあらわす。

> このように溶け去ることで、
> 分離した内側にある自己の抵抗と模索を
> 表現していた体と心(マインド)は、
> 緊張からほんのしばらく解き放たれ、
> その結果、
> 解放と弛緩の感覚が
> 体と心(マインド)に広がります。

するとしばらくのあいだ、

身体とマインドが緊張から解き放たれて

緩んだ感覚が身体とマインドに広がる。

> これは、
> 見かけ上分離した自己の特徴である、
> 抵抗と模索の慢性的な活動が
> やむことの余韻にすぎません。

この緩んだ感覚は、

【見かけ】上の現象的成功によるものではなく、

単に慢性的な抵抗と模索(活動)が休止したことの

余韻にすぎない。

> しかし往々にして、
> この余韻は平安と幸福そのものであると
> 誤解されます。
> そのため、
> 私たちの真の性質である無条件の平安と幸福は、
> 体と心(マインド)にとっての
> 対象物となってしまうのです。

ところがややもすると、

この心身の活動休止の余韻は

平安と幸福そのものだと誤解されてしまう。

その結果、

その(余韻である)“平安と幸福”が

抵抗と模索(活動)によって得られたと誤解されて、

“平安と幸福”が

思考と活動の対象物として認識されてしまう。

> 体と心(マインド)にとっての対象物は
> すべて一時的なものですが、
> 私たちが求めているのは永遠の平安と幸福です。

しかし、

思考と活動が目的にできる対象物は

すべてつかの間の状態でしかありえない。

私たちが求めているものは

本当は永遠の平安と幸福であるのに。

> けれど、
> 人類のほとんどが永遠の平安と幸福を、
> 一時的な対象物、
> つまり、
> 体と心(マインド)の状態に求めてしまっています。

この勘違いの結果、

人類のほとんどが、

本当は永遠の平安と幸福を求めながら、

現実には一時的な対象物、

つかの間の心身の状態を求めてしまう

という悪循環の虜になってしまっている。

> だからこそ、
> 平安と幸福を探し求めることは、
> 仮にそれがスピリチュアルな探求であったとしても、
> 同じことが少し洗練されているだけのことで、
> はじめから
> 失敗することが運命づけられているのです。

それゆえ

いわゆる“平安と幸福の探求”は

たとえスピリチュアルな探求を意図していても

現象的な平安と幸福の探求の洗練版にすぎず、

最初から失敗が運命づけられている。

> このように、
> 私たちの多くは常に不安を抱えた状態にあって、
> 認識されているような形では
> 決して見つかることのない何かを求めており、
> このため、
> 時おり一休みしながらも、
> 終わることのない不満のサイクルで
> さまようことを余儀なくされています。

かくて私たちの多くは

常に不安を抱えながら、

客観的対象物としては見つかるはずもないものを

現象世界の状況の中に求めて、

終わりのない不満のサイクルをたどり、

ほんの時たま

小休止の余韻を味わうことになる。

> しかし、
> この一休みが
> 体と心(マインド)における状態であると
> 誤解されているため、
> サイクルは際限なく続きます。
> 結果、
> 程度の差はあれ多くの人々が、
> 友情や親密な人間関係として、
> 物や活動への執着として、
> ひいては人類全体や地球への
> 脅威となる活動としてあらわれる
> 葛藤の状態を生きているのです。

しかもその小休止の余韻を

マインドと身体の状態と誤解しているために、

その不満のサイクルが際限なく続くことになる。

その結果、

大部分の人々が“望ましい状態”を求めて

拒絶と模索の活動に巻き込まれつづけて

葛藤の状態を生きることになる。

その結果が人類全体や

ひいては地球への無用な脅威を再生産しつづけている。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

この身体はいま地上で生きていますが、

それは地上で幸福で平和な生の形を

創出するためではなくて、

ただ平安と幸福は

「気づいている現存」の永遠の本質として

すでに自らの自然な状態であることを

思い出すためなのでしょう。

ありがたいことです。(-||-)

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2022 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡