━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/04/10(第938号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「嫌悪感」とは……
2.編集後記
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■ 1.「嫌悪感」とは……
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今日は一日とてもいい天気でした。
晴天で……温かくて。
朝から外に出て
だいぶ欅の枝の後片付けをしました。
木曜日にパン屋さんが来てくださって
懸案の枝を一挙に2本切ってくれたんです。
これでシャーラが心配していた枝は
すべて始末できました。
そのとき切った枝が残っていたので
午前中はチェーンソウを使って
その枝をシャーラと二人で小さくしました。
次パン屋さんが来てくれたときに
薪用に持っていってもらうつもりです。
だいぶ草臥れたんだけど、
午後は梯子に登って
欅の木の胴体をだいぶ磨いてやりました。
こんな蔦でかなり汚れていたので。(*^_^*)
https://bit.ly/3DVmcDU
このところ家まわりの仕事が
草臥れるけど楽しいです。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
やっぱり……このごろは、
自分の人生っていったい何だったのかな……
なんて思うことがありますね。
頭に浮かんでくる想念はすべて
自分の中に浮上してくる一場の風景、
ただの対象物にすぎない……
ということは了解しています。
でもその浮かんでくる想念が
嫌悪感ぽいものばかりだったりすると
やっぱり切ない感じもあります。
まあ……だからこそ、
すぐ本に手を出したりもするわけですが。
そして開くと……!(@_@) ⌒★?
何回も読んでいるのに、
マインドが防御して
浸透させなかったメッセージが、
またもやストレートに顕われたりするのです。
ルパート・スパイラの
『プレゼンス―第1巻』の中にある文章で
https://amzn.to/2PYQzlZ
じつは最初に引用した箇所があります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol814.html#1
この初回の引用箇所は
『プレゼンス―第1巻』のほぼ最後にある
【すべてを現存(プレゼンス)に委ねる】
という章です。
これがこの本のエッセンス中のエッセンス、
皮肉骨髄の「髄」にも当たる箇所でしょうか。
たとえば、こんな感じです。
──────────────────
これらの感情に対して
何かをする必要はありません。
私たちの自己、
気づいている現存は、
それらとの間に何の問題も抱えていません。
私たちの自己にとっては
何の問題もないのです。
それらを取り除きたいと願うのは、
架空の自己だけです。
実際、分離した自己を取り除きたい
という気持ちもまた、
分離した自己が自らを永続させようとする、
巧妙な手口です。
『プレゼンス―第1巻』(p273-274)
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> これらの感情に対して
> 何かをする必要はありません。
この「これらの感情」というのはどういう感情か?
それはここより少し前にある文章に
具体的に挙げられています。
それは、
【欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
不適切感、失望、絶望……】
といったような
普通は感じるのを避けたい「不快な感情」です。
わたしなどの場合は、
さしずめ、それに
【嫌悪感】
を当てるのが妥当かもしれません。
【欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
不適切感、失望、絶望……】
といったある意味で
“強い”不全感ではないかもしれません。
でも、朝、目が覚めると
かすかに何らかの【嫌悪感】が
浮上してくるのを否定はできません。
それは下垂体腫瘍の手術以後の
副腎皮質ホルモンの分泌不全症の
症状の一種なのかもしれません。
もちろん、お陰さまで
内分泌科のホルモン治療は受けています。
だからこそ
こんなに元気にしていられるのですから。
でも、ときどき気がつくと
「生きていること」に対する、
(というか、より正確に言うなら
「まだエゴをやっている」ことに対する)
【嫌悪感】を
感じていたりするようです。
(いったい何が何に、
嫌悪感を感じるているというのか?(-_-;) )
このことを誰にも否定しがたいほどに
明確に再確認させてくれるのが
ルパート・スパイラの次の言葉です。
> 私たちの自己、
> 気づいている現存は、
> それらとの間に何の問題も抱えていません。
「気づいている現存」は
「嫌悪感」に何の問題も抱えていない。
> 私たちの自己にとっては
> 何の問題もないのです。
本当の「自己」にとっては
「嫌悪感」に何の問題もないわけです。
だからこそ、
<いま・ここ>に
「嫌悪感」が
浮上しているわけですから。
> それらを取り除きたいと願うのは、
> 架空の自己だけです。
(*_*) ⌒★?
(-_-;)
「嫌悪感」に問題を抱えていて、
それを取り除きたいと願うのは、
架空の自己……しかありえない。
> 実際、分離した自己を取り除きたい
> という気持ちもまた、
> 分離した自己が自らを永続させようとする、
> 巧妙な手口です。
なんと……。(*-_-*)
“自分”は
「嫌悪感」を感じるべきではない、
という気持ち自体が、
【分離した自己が自らを永続させようとする、
巧妙な手口】
(-_-)
……だからその架空の自己は
「嫌悪感」を感じたくないわけですねぇ。
「嫌悪感」を感じるのを避けようとするわけです。
先程の「不快な感情」
【欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
不適切感、失望、絶望……】
が列挙されている箇所の前後は
こんなふうに続いています。
──────────────────
実際のところ、
あらゆる執着は、
思考への執着の延長線上にあるか、
もしくはその変形です。
過去や未来へと飛び回る連続的な思考が、
不快な感情、つまり、
欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
不適切感、失望、絶望を静める力を失うと、
こうした感情を直視しないようにするため、
私たちは物質や活動への執着のような、
より極端な手段を講じるのです。
不快感が生じるやいなや、
私たちは特定の物質や活動に手を伸ばします。
すると、
不快感は一時的に弱まり、
束の間の休息が訪れ、
私たちの本質である平安が少しの間輝き、
そのため
心と体における不安と緊張が和らぎます。
心(マインド)は、
この束の間の平安と満足を
物質や活動のおかげだと考え、
この習慣が次第に強化されます。
『プレゼンス―第1巻』(p272)
──────────────────
【こうした感情を直視しないようにするため、
私たちは物質や活動への執着のような、
より極端な手段を講じるのです。】
そういうことなんですねぇ……。
【不快感が生じるやいなや、
私たちは特定の物質や活動に手を伸ばします。】
たとえば、テレビをつける。
たとえば、本を読む。
それくらいでは収まらないときは、
たとえば、仕事に精を出すわけです。
【すると、
不快感は一時的に弱まり、
束の間の休息が訪れ、
私たちの本質である平安が少しの間輝き、
そのため
心と体における不安と緊張が和らぎます。】
たしかに、
少しの間その不快感を忘れていられる。
【心(マインド)は、
この束の間の平安と満足を
物質や活動のおかげだと考え、
この習慣が次第に強化されます。】
そうやって……、
これまで過ごしてきたわけですねぇ。
この章
【すべてを現存(プレゼンス)に委ねる】
の最後の方で、
ルパート・スパイラはこう言います。
──────────────────
私たちは、
悲しみは避けなければならない
と考えています。
実際はその逆です。
悲しみにとって耐えがたいのは、
抱きしめられることです。
物質や活動に逃げ込んだり、
霊的な完璧主義という
象牙の塔に逃げ込んだりしても、
悲しみが終わることはありません。
その状況を親しく抱きしめ、
抵抗する余地がまったくなくなることで、
悲しみは終わるのです。
抵抗なく完全に受け入れられると、
悲しみには何が起こるのでしょう?
抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
幸福や平安と呼ばれます、
悲しみを避けようとする
薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
悲しみです。
『プレゼンス―第1巻』(p278)
──────────────────
> 私たちは、
> 悲しみは避けなければならない
> と考えています。
わたしは
自分は嫌悪感を感じるべきではない
と考えていました。
だからふと気がついたら
「嫌悪感」が湧いているという状態でも、
そのことに気がついたら、
それ以上「嫌悪感」を感じていることを避けて、
何らかの思考に身を委ねたのです。
> 実際はその逆です。
> 悲しみにとって耐えがたいのは、
> 抱きしめられることです。
実際は逆だった。
「嫌悪感」にとって耐えがたいのは、
抱きしめられることだった。
> 物質や活動に逃げ込んだり、
> 霊的な完璧主義という
> 象牙の塔に逃げ込んだりしても、
> 悲しみが終わることはありません。
仕事に逃げ込んでも、
アドヴァイタ文献の言葉に眼を晒しても、
「嫌悪感」が終わることはありません。
こうしてそれがあたかも
生きるということの通奏低音でもあるかのように
続いてきているわけですから。
> その状況を親しく抱きしめ、
> 抵抗する余地がまったくなくなることで、
> 悲しみは終わるのです。
“自分”が「嫌悪感」を感じている
その状況をそのまま受け容れ、
その状況にまったく抵抗しなければ、
それで「嫌悪感」は終わるんですねぇ。
> 抵抗なく完全に受け入れられると、
> 悲しみには何が起こるのでしょう?
抵抗せずに完全に受け容れたら、
「嫌悪感」に何が起こるのか?
> 抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
> 幸福や平安と呼ばれます、
> 悲しみを避けようとする
> 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
> 悲しみです。
【抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
幸福や平安と呼ばれるます】
なんと!(@_@) ⌒★?
> 悲しみを避けようとする
> 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
> 悲しみです。
「嫌悪感」とは……
「嫌悪感」を避けようとする
薄いベールに覆われた
幸福と平安のことだったんですね。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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恵まれています。
ありがたいことです。(-||-)
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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