home > 通信 >つなぎ目のない体験(R.スパイラ):『アセンション館通信』第939号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/04/17(第939号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.つなぎ目のない体験(R.スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.つなぎ目のない体験(R.スパイラ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

一年中でここは今が一番華やかな季節。

正面の黄色のレンギョウは

終わりかけていますが、

その上の濃いピンクの花桃はいまが満開。

この状態がしばらく続きます。

それから今年は

目の前の赤紫の三つ葉ツヅジが

これまでで一番多くの花を咲かせています。

もうこの木は枯れてゆくのかもと

思っていたんですけどね。

左手東側の桜もまだまだ咲いています。

今年はチューリップも

球根を入れたので咲いています。

左手前の白いアマリリス……だったかな、

植物の名前は一向に覚えられません。

いい季節なんだけど、

一日がすぎるのがとても速くなって。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

何もしなくても一日が終わりますよね。

どうしてこんなに

一日が早くすぎるのか。(*^_^*)

「光陰矢の如し」なんて、

子供の頃に聞いたときは

なにか深い意味のある言葉なのかと

思っていたけれど、

今となってみれば

何ということもないただの実感です。

ルパート・スパイラという方は、

ご自分が伝える真理について

特に仕切りみたいなものを

何も感じさせない方ですね。

彼の言葉をしっかり聴いて(読んで)、

その意味合いをしっかり感じたら、

少しずつそれが

自分の実感にもなってくるようです。

自分はわかっていない、

なんて思う必要はないんじゃないかしら。

今回はルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻』の後半にある

【つなぎ目のない体験はいつもここにある】

という章の二番目の質問の部分を

ご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
         ∞
 
 質問:
 気づきは
 対象物があらわれるための背景ではなく、
 その要素でもあると言っていますね?
 気づきとそこにあらわれる対象物が
 ひとつで同じだと考えることができません。
 何を見逃しているのでしょう?
 
 スパイラ:
 何も見逃してはいません。
 体験はそれとして完結しています。
 むしろあなたは、
 体験に概念を付け足し、
 体験そのものではなく概念が正しいと信じ、
 それゆえにそう感じています。
 
 必要なのは、
 ありのままの体験の上に
 概念を重ね合わせるのをやめることです。
 そうすれば、
 体験は純粋な気づきとして輝きます。
 
 もしこれが難しいのなら、
 何かの体験を深く探ってみるとよいでしょう。
 テーブルの上に手をのせてみてください。
 「手」や「テーブル」という抽象概念を捨てて、
 ありのままの体験にフォーカスします。
 これが初めての体験で、
 体験を比べたりまとめたりする
 記憶や情報をもっていないと想像してみます。
 結局のところ、
 記憶や参照は思考です。
 テーブルの上にのせた体験は
 思考ではありません。
 それはありのままの感覚、
 知覚です。
 
 思考による解釈を壊す必要はありません。
 もともとそうであったように、
 それをしばらく脇に置いて、
 参照しないようにします。
 思考がつくり出すラベルから自由になり、
 ありのままの感覚、
 知覚を存分に感じるために、
 必要なだけ時間をとりましょう。
 
 ありのままの感覚は、
 形のない、
 チクチクとした波動ではないでしょうか?
 それすら言いすぎかもしれません。
 そこに、
 輪郭、形、密度、重さ、位置、サイズ、
 色、履歴、年齢、価値、機能、
 値段はあるでしょうか?
 「手」や「テーブル」といったラベルが
 貼られているでしょうか? 
 「私」、「私以外」というラベルが
 貼られているでしょうか?
 その感覚、
 知覚はふたつでしょうか、
 それともひとつでしょうか?
 
 それらは思考によって
 ありのままの体験に貼り付けられたラベル、
 後知恵であることをはっきりと理解しましょう。
 こうしたラベルに
 実用性がないと言っているのではありません。
 「手」や「テーブル」といったラベルは、
 体験そのものが本来もっていたものではない
 ということ、
 そして「体」、「世界」、
 「私」、「私以外」というラベルもまた、
 思考が体験の現実に重ね合わせた
 後知恵でしかないということを
 言っているだけです。
 
 言い換えるなら、
 私たちが、
 手、テーブル、体、心(マインド)、
 世界、他者、私、私以外を
 実際に体験することはありません。
 思考が体験に重ね合わせる
 これらのラベルを剥がすと、
 そこに残るのは気づき、
 つまり、
 体験のつなぎ目のない全体性だけです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p183-184)
──────────────────
 
> 質問:
> 気づきは
> 対象物があらわれるための背景ではなく、
> その要素でもあると言っていますね?
> 気づきとそこにあらわれる対象物が
> ひとつで同じだと考えることができません。
> 何を見逃しているのでしょう?

以前【マハラジの三段階】

という記事を書いたことがあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol915.html#1

すなわち、

第一段階:現象の中にあなたはいない

第二段階:現象しているものはすべてあなただ

第三段階:世界は存在しない

という理解の三段階でした。

最初っから

「世界は存在しない」と言われても

そのまま納得する人はまずいません。

でも、第一段階の

「現象の中にあなたはいない」

という言葉の内容は、

ていねいに説明されれば

どうしても理解したい状態の人には

これは理解可能なわけです。

現象が顕現だとすれば、

現象に気づいている者は

非顕現であらざるをえないわけですから。

ルパート・スパイラにこの質問をした方は、

マハラジの三段階に即して言うなら、

第一段階:現象の中にあなたはいない

は自分は納得できるけれど、

第二段階:現象しているものはすべてあなただ

はちょっと納得できません、

とおっしゃっているわけですよね。

自分はいったい

「何を見逃しているのでしょう?」

というわけです。

それに対してスパイラは答えます。

> 何も見逃してはいません。
> 体験はそれとして完結しています。
> むしろあなたは、
> 体験に概念を付け足し、
> 体験そのものではなく概念が正しいと信じ、
> それゆえにそう感じています。

あなたがそのように感じるのは、

あなたが何かを見逃しているからではなく、

ただ実際の体験に

教え込まれた習慣的な概念を

付け足しているからなのだと。

> 必要なのは、
> ありのままの体験の上に
> 概念を重ね合わせるのをやめることです。
> そうすれば、
> 体験は純粋な気づきとして輝きます。

社会が教えるその習慣的概念を

実際の体験に重ね合わせるのをやめれば、

それだけで体験は

純粋な気づきとして輝きだすのだと。

> もしこれが難しいのなら、
> 何かの体験を深く探ってみるとよいでしょう。

そしてスパイラは

ここで具体的な方法にまで言及します。

> テーブルの上に手をのせてみてください。
> 「手」や「テーブル」という抽象概念を捨てて、
> ありのままの体験にフォーカスします。
> これが初めての体験で、
> 体験を比べたりまとめたりする
> 記憶や情報をもっていないと想像してみます。
> 結局のところ、
> 記憶や参照は思考です。
> テーブルの上にのせた体験は
> 思考ではありません。
> それはありのままの感覚、
> 知覚です。

こういう実験は

われわれはややもすると

自分はどうせ実感できないだろう……などと

けっこう決めつけていたりするものです。

でも、

スパイラはそんなに難しいことを

要求しているわけではありません。

たとえば、

テーブルの上に両手を乗せて、

目を閉じてみるだけでもいいです。

すると、実際に

われわれは身体の範囲も

その境界面も、内側も外側も

体験していないのは明らかです。

ですよね。(^_-)

あなた、自分の身体の境界面を

実際に感じることができますか?

できないでしょ。(*^_^*)

「わからない」という気がするのは

ただ思考がそう主張しているだけで、

実際は、目を開けなければ、

具体的な体験の中では

われわれは身体の内側と外側の区別どころか、

皮膚の存在すら感じてはいません。

目を開けて視覚的な情報を確認して、

その上で身体を動かして

いわゆる皮膚に触ってみたりして、

その感覚的刺激を組み合わせて

世界像として構成しているだけなんです。

> 思考による解釈を壊す必要はありません。
> もともとそうであったように、
> それをしばらく脇に置いて、
> 参照しないようにします。
> 思考がつくり出すラベルから自由になり、
> ありのままの感覚、
> 知覚を存分に感じるために、
> 必要なだけ時間をとりましょう。

これ、ちょっと時間を取って

やってみるといいです。

そしてあまり

完璧主義になることもありません。

そういうのは全部、

マインドの目くらましですから。

> ありのままの感覚は、
> 形のない、
> チクチクとした波動ではないでしょうか?
> それすら言いすぎかもしれません。
> そこに、
> 輪郭、形、密度、重さ、位置、サイズ、
> 色、履歴、年齢、価値、機能、
> 値段はあるでしょうか?

そんなもん、

実際の体験の中には

全然、現れてきませんよね。

そういうものはすべて観念的想像、

思考が捏造したラベルであるのは明らかです。

> 「手」や「テーブル」といったラベルが
> 貼られているでしょうか? 
> 「私」、「私以外」というラベルが
> 貼られているでしょうか?
> その感覚、
> 知覚はふたつでしょうか、
> それともひとつでしょうか?

目をつぶったときのその体験の中に、

「手」とか「テーブル」とかいうラベルが

付いていないのは明らかです。

これ、全然、特別な話じゃなくて、

目をつぶっただけで

誰でもすぐ納得できることです。

> それらは思考によって
> ありのままの体験に貼り付けられたラベル、
> 後知恵であることをはっきりと理解しましょう。

ほんとに、

それだけのことなんですよねぇ。

> こうしたラベルに
> 実用性がないと言っているのではありません。

まったくです。

いわゆる人生を生きるためには

必要です。

> 「手」や「テーブル」といったラベルは、
> 体験そのものが本来もっていたものではない
> ということ、
> そして「体」、「世界」、
> 「私」、「私以外」というラベルもまた、
> 思考が体験の現実に重ね合わせた
> 後知恵でしかないということを
> 言っているだけです。

ただそういうものはすべて、

人生ゲームに入ってくるための

ゲームの規則というか、

単なる約束事だということですよね。

実際に存在しているものじゃないのです。

> 言い換えるなら、
> 私たちが、
> 手、テーブル、体、心(マインド)、
> 世界、他者、私、私以外を
> 実際に体験することはありません。

実際の体験の中には

そういうものは全然ありません。

われわれはそういうものを

実際には体験していないんです。

> 思考が体験に重ね合わせる
> これらのラベルを剥がすと、
> そこに残るのは気づき、
> つまり、
> 体験のつなぎ目のない全体性だけです。

どこにも切れ目のない

ある単一の感覚体験があるだけです。

たとえば、

オーケストラによる交響曲も、

単一の波動(一本の波動曲線)によって

表現されているようなものです。

──────────────────
 あらためて、
 「手」と「テーブル」、
 もしくは、
 体と世界の体験の何でも構いません、
 その体験に戻ってください。
 体験は気づきに浸され、
 気づきに満ちてはいないでしょうか?
 気づきと
 ひとつではない部分があるでしょうか?
 体験に気づき以外の要素があるでしょうか?
 
 思考、イメージ、感覚、知覚など、
 どんな体験でもいいですから、
 同じように探ってみましょう。
 固い、柔らかい、うるさい、静か、
 近い、遠い、快、不快、
 「私」とされているもの、
 「私以外」とされているもの、
 内側にあるもの、外側にあるもの、
 美しいもの、醜いもの、
 何でもいいので
 同じように探ってみましょう。
 
 体験をしっかりと探れば探るほど、
 それらが一見したところ
 どれほど「近く」ても、「遠く」ても、
 どれほど「私」、「私以外」とされていても、
 すべての体験は
 実際には気づきと親密にひとつであることが
 よりいっそう明らかとなります。
 
 私たちの実際の体験においては、
 気づきは体験を目撃するだけでなく、
 その要素でもあることがわかります。
 現実には、
 体験には気づき以外の要素は何もありません。
 
 見かけ上の対象物、他者、
 世界の目撃者となるのは、
 気づきを体や心(マインド)とだけ同一する
 思考の押しつけから気づきを解放するための
 価値あるプロセスです。
 けれど、
 そこからさらに進んで体験を深く探ると、
 目撃している主体も、
 目撃されている対象も、
 それがいかに捉えがたくとも、
 思考によって
 体験に押しつけられたものであることが
 わかるのです。
 
 この押しつけから自由になると、
 体験はあるがままの姿、
 純粋な気づきとしての姿を現します。
 体験の探求によってそうなるのではありません。
 すでにそうであったものが、
 そこにあらわれるだけです。
 
 この本がそうしているように、
 質問や状況に答えるために
 知的な用語で語られるとしても、 
 ここで起こるのは知的な理解ではありません。
 それは、
 親密に私たち自身のものであり、
 ふるい落とされたり、
 奪い去られたりすることのない、
 体験的な知です。 
 
 このように体験を探ると、
 体験的な確信は深まり、
 それはそのまま
 私たちの損なわれることのない
 親密な体験になります。
 私たちはそれを生きるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p184-186)
──────────────────

> あらためて、
> 「手」と「テーブル」、
> もしくは、
> 体と世界の体験の何でも構いません、
> その体験に戻ってください。
> 体験は気づきに浸され、
> 気づきに満ちてはいないでしょうか?
> 気づきと
> ひとつではない部分があるでしょうか?
> 体験に気づき以外の要素があるでしょうか?

ここであらためて、

目をつぶったこの瞬間の体験に

戻ってみます。

毎回「目をつぶって」と付け加えているのは、

目を開けて視覚的刺激を入れてしまうと、

日常の圧倒的な習慣的連想野が

起動してしまうからです。

そうするとそれだけで、

ここでスパイラが伝えようとしている

メッセージが希釈されてしまいます。

スパイラが何を言っているのかは、

目をつぶった体験で感じることで

まったく問題なく理解できることです。

スパイラは、

われわれが何かを見逃していると

言っているのではなく、

ただ単に

われわれが実際の体験に

余計なラベルを付け足しているだけだと

言っているわけですから。

目を閉じて感じられる音の感覚も、

距離感も、

皮膚から感じられる温度感覚も、

すべてつなぎ目のない

ひとつの気づきの感覚です。

それらは<いま>この瞬間の

気づきそのものの感覚のことです。

すべての形に気づきが行き渡っていて、

<いま>この瞬間の体験に

気づき以外の要素など何ひとつありません。

> 思考、イメージ、感覚、知覚など、
> どんな体験でもいいですから、
> 同じように探ってみましょう。

思いついたら、その瞬間に

その時起こっている体験を

目を閉じて同じように試してみるといいです。

わたしは土曜日にこうやって、

【している】わけです。(*^_^*)

> 固い、柔らかい、うるさい、静か、
> 近い、遠い、快、不快、
> 「私」とされているもの、
> 「私以外」とされているもの、
> 内側にあるもの、外側にあるもの、
> 美しいもの、醜いもの、
> 何でもいいので
> 同じように探ってみましょう。

これまで体験に付与していた

いろいろなラベルを、

その時の実際の体験の中で

自分が本当に感覚しているのかどうか

確認してみることです。

> 体験をしっかりと探れば探るほど、
> それらが一見したところ
> どれほど「近く」ても、「遠く」ても、
> どれほど「私」、「私以外」とされていても、
> すべての体験は
> 実際には気づきと親密にひとつであることが
> よりいっそう明らかとなります。

目を閉じて感じられるその時の体験は、

けっして「近く」も「遠く」もなく、

「私」と「私以外」に区別されてもおらず、

すべての体験は実際には

ひとつの単一の気づきであることが

わかるはずです。

> 私たちの実際の体験においては、
> 気づきは体験を目撃するだけでなく、
> その要素でもあることがわかります。
> 現実には、
> 体験には気づき以外の要素は何もありません。

実際の体験に即してみると、

体験には気づき以外の要素などありません。

> 見かけ上の対象物、他者、
> 世界の目撃者となるのは、
> 気づきを体や心(マインド)とだけ同一する
> 思考の押しつけから気づきを解放するための
> 価値あるプロセスです。

たしかに、

丘の上の見張りとなって、

すべての現象の目撃者となるのは

対象物への自己同化から

気づきを解放するための

有効なプロセスでしょう。

> けれど、
> そこからさらに進んで体験を深く探ると、
> 目撃している主体も、
> 目撃されている対象も、
> それがいかに捉えがたくとも、
> 思考によって
> 体験に押しつけられたものであることが
> わかるのです。

しかしよくよく考えれば、

目撃している主体も、

目撃されている対象も、

両方とも思考が押しつけた

観念にすぎないことは明らかです。

> この押しつけから自由になると、
> 体験はあるがままの姿、
> 純粋な気づきとしての姿を現します。

その思考が想像したラベルを手放すと、

体験はもともとの

純粋な気づきとしての姿を現します。

> 体験の探求によってそうなるのではありません。
> すでにそうであったものが、
> そこにあらわれるだけです。

探究したからそうなったのではなく、

もともとのあるがままが

あらわれてきただけです。

> この本がそうしているように、
> 質問や状況に答えるために
> 知的な用語で語られるとしても、 
> ここで起こるのは知的な理解ではありません。

こういう問には、

知的な用語で答えるしかない面があります。

しかしそこで起こるのは

けっして知的な理解ではありません。

> それは、
> 親密に私たち自身のものであり、
> ふるい落とされたり、
> 奪い去られたりすることのない、
> 体験的な知です。 

そこで顕れるのは

けっして抜け落ちることも

奪い去られることもありえない、

体験的に「知る」ということです。

> このように体験を探ると、
> 体験的な確信は深まり、
> それはそのまま
> 私たちの損なわれることのない
> 親密な体験になります。
> 私たちはそれを生きるのです。

このようにして探っていけば、

体験的な確信が深まっていきます。

そうすればそれはそのまま、

実際の親密な体験となって、

それを生きることがはじまります。

──────────────────
 この理解は、
 初めは断続的かもしれないし、
 分離した実体の
 古くからの思考や感情の癖によって、
 時おり闇に隠れてしまったかのように
 見えるかもしれません。
 しかし、
 探究が深まり、
 思考、想像、感覚、知覚といった
 体験のすべての領域を覆うべく広がると、
 私たちの確信も深まり、
 それとともに
 体験的な理解も安定していきます。

 すると、
 これまで慣れ親しんできた、
 人を中心に
 体験を理解する見方とはまったく異なる
 この体験的理解が、
 悟りでも特別な理解でも
 なくなる時がやってきて、
 それは自然で
 努力のいらない普通の状態になります。
 
 実際、
 この開かれた、体験的な知、
 気づいている現存(プレゼンス)では
 なくなろうとするのことの方が
 努力を要するようになります。
 これまで、
 この努力が、
 私たちを現存(プレゼンス)以外の
 何者かであるように見せ、
 それが見かけ上の
 分離した実体を定義していました。
 これは単なる二元的思考のプロセスであり、
 これによって、
 つなぎ目のない、
 いつもここにある体験は、
 見たところ複数の対象物や
 実体に分割され、
 そのうちのひとつが「私」、
 それ以外のすべてが、
 「私以外」と見なされていたのです。
 
 現存(プレゼンス)そのものであることを知り、
 ただひたすら
 現存(プレゼンス)そのものであると、
 それは、
 体験の中立的な背景、
 要素であるだけでなく、
 平安、愛、幸福と
 同じであることが明らかとなります。

 『プレゼンス―第1巻』(p186-187)
──────────────────

> この理解は、
> 初めは断続的かもしれないし、
> 分離した実体の
> 古くからの思考や感情の癖によって、
> 時おり闇に隠れてしまったかのように
> 見えるかもしれません。

この理解は、

最初は断片的なものかもしれないし、

消えてしまうように見えることも

あるかもしれません。

> しかし、
> 探究が深まり、
> 思考、想像、感覚、知覚といった
> 体験のすべての領域を覆うべく広がると、
> 私たちの確信も深まり、
> それとともに
> 体験的な理解も安定していきます。

でもその体験的探究が深まれば、

それはすべての体験領域を覆うようになり、

それとともに確信も深まり、

体験的理解も安定していきます。

> すると、
> これまで慣れ親しんできた、
> 人を中心に
> 体験を理解する見方とはまったく異なる
> この体験的理解が、
> 悟りでも特別な理解でも
> なくなる時がやってきて、
> それは自然で
> 努力のいらない普通の状態になります。

すると、

これまで慣れ親しんできた

利己的な見方や判断ととまったく異なる

この体験的理解が、

ぜんぜん特別な理解ではなく、

ただの自然で普通の状態になります。

> 実際、
> この開かれた、体験的な知、
> 気づいている現存(プレゼンス)では
> なくなろうとするのことの方が
> 努力を要するようになります。

かえって、

以前の普通に戻ることのほうが

努力を要するようになります。

> これまで、
> この努力が、
> 私たちを現存(プレゼンス)以外の
> 何者かであるように見せ、
> それが見かけ上の
> 分離した実体を定義していました。

以前はそのような

架空の実体であろうとする努力が

見かけ上の分離した実体を

定義していたわけです。

> これは単なる二元的思考のプロセスであり、
> これによって、
> つなぎ目のない、
> いつもここにある体験は、
> 見たところ複数の対象物や
> 実体に分割され、
> そのうちのひとつが「私」、
> それ以外のすべてが、
> 「私以外」と見なされていたのです。

それはただ二元的思考という

虚構のプロセスでした。

その虚構の二元的思考によって

この境目のないひとつの体験が、

見かけ上の複数の対象物や

実体に分割されて、

「私」とか「私以外」などと

見なされていただけです。

> 現存(プレゼンス)そのものであることを知り、
> ただひたすら
> 現存(プレゼンス)そのものであると、
> それは、
> 体験の中立的な背景、
> 要素であるだけでなく、
> 平安、愛、幸福と
> 同じであることが明らかとなります。

存在するのが<いま>という

「気づいている現存」だけだと知り、

ただひたすら

「気づいている現存」であれば、

それが体験の背景であり、

体験の要素であるだけでなく、

それが平安、愛、幸福と

同じものなのだとわかります。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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恵まれています。

ありがたいことです。(-||-)

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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