home > 通信 >誰が?(R.スパイラ):『アセンション館通信』第940号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/04/24(第940号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.誰が?(R.スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.誰が?(R.スパイラ)
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今日は頼まれて

下の咲分けの剪定をしました。

後片付けもするとけっこうな仕事量でした。

いい季節なんだけど、

一日がすぎるのがとても速くて。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

「私は在る」。

私たちは少なくとも言葉の上では

このことを知っています。

そして「私」がそのことに満足するとき、

「私」にはそれ以上何も必要ないことも。

そして「私」がただ在ることに満足せず、

何として在るかを気にするとき、

「私」はありもしない夢を見ることになり、

自分が何であるかを忘れることも。

私たちはいつでも放心して、

見たい夢を見ることができます。

でも夢を見るためには、

自分が何であるかを忘れなくてはなりません。

忘れたからと言って、

「私」が「私」でなくなるわけではありませんが。

けれども

私たちがただ在ることで幸福であるという

その自然な幸福以外のものを求めるなら、

私たちは<いま>この瞬間に現存する幸福を

見かけのうえで喪失するのは避けられません。

そうなると私たちは間違いなく

架空の夢の中に幸福を探すことになる。

そのことを妨げるものは何もないのですから。

私たちはは好きなだけ、

架空の夢の中に幸福を探しつづけることができます。

<いま>この瞬間に

私たちがそうしているように。

そして私が幸福を探しているかぎり、

私は幸福ではありえないわけです。

自分が幸福でないからこそ、

その幸福を探し求めているわけですから。

幸福とは

自分が幸福であることを知っていることです。

その幸福は永遠に失われることがありません。

自分が幸福であることを忘れて、

私がどんな幸福を探し求めようと、

私の中にある幸福は心配しません。

「私」はただ

自らの存在の幸福の中で静まっているだけです。

私がどんな架空の夢を見ようとも、

それを許し、それを可能にしているのが

自らであることを知っているのですから。

「誰が?」そのことを本当に知っていて、

「誰が?」そこから彷徨いだすのでしょうか?

今回はルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の後半にある

【誰が?】

という章の二番目の質問の部分を

ご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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         ∞
 
 質問:
 人生の大部分は、そうと知ったうえで、
 もしくは、一見したところ
 何も知らずに多くの物事を行う
 意識からできているように思えます。
 しかし、ここで繰り広げられる問答を見ていると、
 意識は、自らが何も知らないことを
 明らかにしようとしています。
 実際、何らかの見かけの実体が
 (つまり、何も知らずに意識として)
 何も知らないことを明らかにし、
 それから完全に知ろうとしているように見えます。

 スパイラ:
 はい、
 意識は思考の姿をとり、
 思考は自らの一体性を、
 内側の自己と外側の世界に分割するように見えます。
 偉大な探求の旅に出るのは、
 この、思考だけでできている実体です。
 人としての冒険のすべて、
 人類の冒険のすべては、
 心(マインド)の中で起こります。
 では、
 心(マインド)は何からできているのでしょう?
 意識です。

 見かけ上の内側の自己として、
 故郷を去り、
 自分自身の王国から「遠く離れた国へと」
 旅に出るのはこの心(マインド)です。
 心(マインド)は、
 見かけ上の内側の自己として
 見かけ上の世界をさまよい
 状況の中に平安を探し求め、
 対象物の中に幸福を探し求め、
 関係性の中に愛を探し求めます。
 この冒険全体が、
 心(マインド)の中で創造され、
 上演されているのです。
 
 そして、
 心(マインド)が探求したり、
 達成したり、失敗したり、
 願ったり、恐れたり、
 考えたり、選んだり、
 何かをしているしたりしている間、
 私たちの自己である意識は、
 ただベッドの上で安らかに横になっています。
 つまり、
 意識はただそれ自身の中で、
 それ自身としてあり続けるのです。
 
 心(マインド)が究極的には
 意識からできているというのは事実です。
 しかし、
 冒険に出るのは心(マインド)で、
 意識ではありません。
 映画はスクリーンだけでできていますが、
 スクリーンは
 映画の中で演じられる冒険を行いません。
 
 このみたところ分離した自己は、
 冒険の旅で何を探すべきかを
 どうやって知るのでしょう?
 分離した自己は
 何を探すべきかを知っていますが、
 それは平安、幸福、愛が、
 それ自身の本質の中に
 もともと備わっているからです──
 分離した自己がその味を忘れることはありません。
 しかし、
 平安、幸福、愛は、
 分離した自己の探求によって
 まさに覆い隠されてしまうのです。
 
 私たちがときおり、
 郷愁をもって過去を振り返り、
 子供時代の幸福と自由を切望します。
 しかし、
 それはただのイメージです。
 私たちが恋焦がれる幸福は、
 時間の中の
 遠く離れたところにあるのではありません。
 それはすべての体験の中心に横たわっています。
 失われたように見える幸福への切望として、
 幸福そのものの現存(プレゼンス)が、
 まさに今この瞬間、
 私たちの体験の中で輝いています。
 幸福への切望のまさにその中で、
 幸福そのものの体験が、
 分離した自己の覆いを通して輝いているのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p254-256)
 
──────────────────

> 質問:
> 人生の大部分は、そうと知ったうえで、
> もしくは、一見したところ
> 何も知らずに多くの物事を行う
> 意識からできているように思えます。
> しかし、
> ここで繰り広げられる問答を見ていると、
> 意識は、自らが何も知らないことを
> 明らかにしようとしています。
> 実際、何らかの見かけの実体が
> (つまり、何も知らずに意識として)
> 何も知らないことを明らかにし、
> それから完全に知ろうとしているように見えます。

この質問者の問いかけは

こんな意味合いでしょうか。

すべては意識でできていると思うのですが、

あなたのお話を伺っていると、

意識は何も知らない見かけの実体として

まず自分の無知を明らかにして、

それから完全な知に向かおうとしているようです。

そういう理解でいいのですか? と。

> スパイラ:
> はい、
> 意識は思考の姿をとり、
> 思考は自らの一体性を、
> 内側の自己と外側の世界に分割するように見えます。
> 偉大な探求の旅に出るのは、
> この、思考だけでできている実体です。
> 人としての冒険のすべて、
> 人類の冒険のすべては、
> 心(マインド)の中で起こります。
> では、
> 心(マインド)は何からできているのでしょう?
> 意識です。

スパイラはこんなふうに答えます。

一体性である意識はまず思考の姿をとります。

そして思考となった意識は

自らの一体性を考えるために、

まず自らを内側の自己と外側の世界の

二つに分割するように見えます、と。

いわゆるスピリチュアルな

探究の旅に出るのはこの思考でできた実体ですと。

思考の集合をマインドと呼ぶなら、

人間の冒険のすべては

マインドの中で起こると言えます。

では、あらためて

マインドとは何でできているのかと言えば、

その材料はやはり意識なのです。

> 見かけ上の内側の自己として、
> 故郷を去り、
> 自分自身の王国から「遠く離れた国へと」
> 旅に出るのはこの心(マインド)です。
> 心(マインド)は、
> 見かけ上の内側の自己として
> 見かけ上の世界をさまよい
> 状況の中に平安を探し求め、
> 対象物の中に幸福を探し求め、
> 関係性の中に愛を探し求めます。
> この冒険全体が、
> 心(マインド)の中で創造され、
> 上演されているのです。

現象という【見かけ】のうえで

身体の中の内側の自己として

住み慣れた故郷を離れ、

「遠く離れた国へと」旅に出るのは

この意識の内容物であるマインドなのです。

> そして、
> 心(マインド)が探求したり、
> 達成したり、失敗したり、
> 願ったり、恐れたり、
> 考えたり、選んだり、
> 何かをしているしたりしている間、
> 私たちの自己である意識は、
> ただベッドの上で安らかに横になっています。
> つまり、
> 意識はただそれ自身の中で、
> それ自身としてあり続けるのです。

そうやって意識の内容物が

思考の姿をとって探究の旅をつづけ、

達成したり、失敗したり、

願ったり、恐れたり、

いろいろ試行錯誤しているあいだ、

<気づき>である意識は

実際はただベッドの上で安らかによこになっている。

<気づき>はただ本来の自分の中で

それ自身としてあり続けているのです。

> 心(マインド)が究極的には
> 意識からできているというのは事実です。
> しかし、
> 冒険に出るのは心(マインド)で、
> 意識ではありません。
> 映画はスクリーンだけでできていますが、
> スクリーンは
> 映画の中で演じられる冒険を行いません。

思考の集合体であるマインドが

煎じ詰めれば意識であるのは事実ですが、

ただし、

冒険の旅に出ているのは

意識の内容物である思考の集合体であって

<気づき>である意識ではありません。

> この見たところ分離した自己は、
> 冒険の旅で何を探すべきかを
> どうやって知るのでしょう?
> 分離した自己は
> 何を探すべきかを知っていますが、
> それは平安、幸福、愛が、
> それ自身の本質の中に
> もともと備わっているからです──
> 分離した自己がその味を忘れることはありません。
> しかし、
> 平安、幸福、愛は、
> 分離した自己の探求によって
> まさに覆い隠されてしまうのです。

では、

この分離した自己という思考の姿をとった実体は、

自分が冒険の旅ですべきことを

どうやって知るのでしょうか?

この“分離した自己”という思考でできた実体が

自分がすべきことを知っているのは確かです。

その理由は、

意識の内容物であるマインドにも

その本質として

平安、幸福、愛が備わっていて、

探究を続ける実体の“分離した自己”も

その味を忘れてはいないからです。

ただし、

“分離した自己”の探究行為自体によって

求められている平安、幸福、愛は

覆い隠されてしまうのです。

> 私たちがときおり、
> 郷愁をもって過去を振り返り、
> 子供時代の幸福と自由を切望します。
> しかし、
> それはただのイメージです。

“分離した自己”としての私たちは

ときおり過去を振り返って

子供時代の幸福と自由を切望することがあります。

しかしそこで切望されているのは

回想の中で化粧されたイメージにすぎません。

> 私たちが恋焦がれる幸福は、
> 時間の中の
> 遠く離れたところにあるのではありません。
> それはすべての体験の中心に横たわっています。

私たちがあれほど懐かしむ

子供のころの幸福は

実際は、時間の中の彼方である

遠い過去のなかにあるのではありません。

それは<いま>この瞬間に起こる

あらゆる体験の中心に横たわっているのです。

> 失われたように見える幸福への切望として、
> 幸福そのものの現存(プレゼンス)が、
> まさに今この瞬間、
> 私たちの体験の中で輝いています。
> 幸福への切望のまさにその中で、
> 幸福そのものの体験が、
> 分離した自己の覆いを通して輝いているのです。

<いま>この瞬間に

失われた幸福への切望が起こっているのなら、

まさにその切望の体験となって

“分離した自己”のメガネで偏光されながら

輝いているのは幸福の現存そのものなのです。

──────────────────
 平安、幸福、愛は本来、
 私たちの存在(ビーイング)を
 純粋に知ることの中に備わっています。
 それらは、
 私たち自身の存在を純粋に知ることであるのです。
 分離した実体は究極的には
 私たちの存在(ビーイング)だけでできているので
 ──分離への信念と感情によって、
   かすかに覆い隠されてはいますが──
 この平安、幸福、愛は、
 見かけ上の分離した自己の中でさえも輝いています。
 気づいている現存(プレゼンス)である
 私たち自身の存在(ビーイング)の光が
 凍らされることは、
 決してありません。
 
 幸福、平安、愛の探求を始めるのは、
 分離した自己ではありません。
 実際、
 この探究さえも、
 私たちの真の自己です。
 それは、
 見かけ上の分離した自己の中で、
 分離した自己を貫いて輝く意識であり、
 私たちの中の神の座です。
 遅かれ早かれ、
 意識は二元的な心(マインド)を投影するのをやめ、
 (つまり、
  見かけ上の内側の自己と、
  見かけ上の外側の世界を投影するのをやめ)
 それ自身に戻ります。
 そしてその瞬間、
 それ自身の本質を味わうのです。
 
 こうした会話や黙想は、
 私たちの自己、
 意識が投影をやめるためのひとつの手段です。
 言うなれば、
 このような会話や黙想によって、
 意識は再びそれ自身を味わうのです。
 会話や黙想は
 心(マインド)を通して表現されます。
 分離したように見える自己も
 心(マインド)からできているので、
 このような会話や黙想は、
 分離した自己に合わせて
 調整されることがあります。
 
 しかし、
 こうした会話や黙想の実質は、
 心(マインド)からできているのではありません
 ──それはその源である沈黙からできています。
 ですからそれらは、
 分離したように見える自己の
 核心に触れることはあるのです。
 分離した自己の本質もまた、
 この沈黙からできています。
 
 それらの源は、
 この静かなる現存(プレゼンス)です。
 そして、
 言葉の背後や中身、
 行間にあるこの現存(プレゼンス)が
 認識されるのです。
 では誰がこの現存(プレゼンス)を
 認識するのでしょう?
 現存(プレゼンス)だけが
 それ自身を認識できます。
 「そこ」にある現存(プレゼンス)が、
 「ここ」にある現存(プレゼンス)を
 認識するのではありません。
 現存(プレゼンス)だけが、
 ただひとつの現存(プレゼンス)だけがあり、
 それ自身の中で、
 それ自身によって、
 それ自身として、
 それ自身を認識しています。
 それは時と場を超えた、
 それ自身の存在(ビーイング)の場です。

 『プレゼンス―第2巻』(p256-257)
──────────────────

> 平安、幸福、愛は本来、
> 私たちの存在(ビーイング)を
> 純粋に知ることの中に備わっています。
> それらは、
> 私たち自身の存在を純粋に知ることであるのです。

平安、幸福、愛とは

もともとは

自分の存在を純粋に知ることの中にあります。

平安、幸福、愛とは

実際は、

私たち自身の存在を純粋に知ることなのです。

> 分離した実体は究極的には
> 私たちの存在(ビーイング)だけでできているので
> ──分離への信念と感情によって、
>   かすかに覆い隠されてはいますが──
> この平安、幸福、愛は、
> 見かけ上の分離した自己の中でさえも輝いています。

意識の内容物からなる

“分離した自己”という実体は、

煎じ詰めれば、

私たちの存在だけで構成されているので

平安、幸福、愛は、

見かけのうえの“分離した自己”の中でさえ

輝きを放っているのです。

> 気づいている現存(プレゼンス)である
> 私たち自身の存在(ビーイング)の光が
> 曇らされることは、
> 決してありません。

私たちの自己の本質、

「気づいている現存」の光が

“無知”の煙幕に覆い隠されることは

けっしてありません。

> 幸福、平安、愛の探求を始めるのは、
> 分離した自己ではありません。
> 実際、
> この探究さえも、
> 私たちの真の自己です。
> それは、
> 見かけ上の分離した自己の中で、
> 分離した自己を貫いて輝く意識であり、
> 私たちの中の神の座です。

突き詰めて言えば、

幸福、平安、愛の探求を始めるのは、

“分離した自己”ではないとも言えます。

そして実際、

この探究そのものさえも、

私たちの真の自己の姿なのです。

この見かけのうえの探究とは、

“分離した自己”という姿で

“分離した自己”を貫通して

意識そのものが輝きだしているのであり、

それは私たちの中の神の座と言えるものです。

> 遅かれ早かれ、
> 意識は二元的な心(マインド)を投影するのをやめ、
> (つまり、
>  見かけ上の内側の自己と、
>  見かけ上の外側の世界を投影するのをやめ)
> それ自身に戻ります。
> そしてその瞬間、
> それ自身の本質を味わうのです。

多少の遅い早いはあっても、

意識はいつかは

この見かけ上の“内側の自己”と

見かけ上の“外側の世界”を投影するという

二元的思考の投影をやめて

本来の自己に戻ることになります。

そしてその瞬間に

それ自身の本質を味わうのです。

> こうした会話や黙想は、
> 私たちの自己、
> 意識が投影をやめるためのひとつの手段です。
> 言うなれば、
> このような会話や黙想によって、
> 意識は再びそれ自身を味わうのです。

このような会話や黙想も、

私たちの本来の自己である意識が

投影をやめるひとつの手段なのでしょう。

つまり、

このような会話や黙想によって、

意識は自らを再び味わっているとも言えます。

> 会話や黙想は
> 心(マインド)を通して表現されます。
> 分離したように見える自己も
> 心(マインド)からできているので、
> このような会話や黙想は、
> 分離した自己に合わせて
> 調整されることがあります。

会話や黙想は

マインドを使って表現されます。

見かけのうえの“分離した自己”も

マインドで構成されているので、

このような会話や黙想も、

個々の“分離した自己”に合わせて

調整が起こりうるのです。

> しかし、
> こうした会話や黙想の実質は、
> 心(マインド)からできているのではありません
> ──それはその源である沈黙からできています。
> ですからそれらは、
> 分離したように見える自己の
> 核心に触れることはあるのです。
> 分離した自己の本質もまた、
> この沈黙からできています。

しかし、だからと言って、

このような会話や黙想の

実質を構成しているのが

意識の内容物だというわけではありません。

このような会話や黙想の

実質を構成しているのは意識の源である沈黙です。

> それらの源は、
> この静かなる現存(プレゼンス)です。
> そして、
> 言葉の背後や中身、
> 行間にあるこの現存(プレゼンス)が
> 認識されるのです。
> では誰がこの現存(プレゼンス)を
> 認識するのでしょう?
> 現存(プレゼンス)だけが
> それ自身を認識できます。

このような会話や黙想の源は、

この静かなる現存です。

だからこそ、

言葉の背後や中身やその行間に

この現存が認識されるのです。

では誰がこの現存を認識するのでしょう?

現存だけがそれ自身を認識できるのです。

> 「そこ」にある現存(プレゼンス)が、
> 「ここ」にある現存(プレゼンス)を
> 認識するのではありません。
> 現存(プレゼンス)だけが、
> ただひとつの現存(プレゼンス)だけがあり、
> それ自身の中で、
> それ自身によって、
> それ自身として、
> それ自身を認識しています。
> それは時と場を超えた、
> それ自身の存在(ビーイング)の場です。

あの現存がこの現存を

認識するというのではありません。

<いま・ここ>に在る現存、

このただひとつの現存だけが在ります。

このただひとつの現存が、

それ自身の中で、

それ自身によって、

それ自身として、

それ自身を認識しているのです。

それは時間と空間を超越した、

それ自身の存在の場なのです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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やりたい放題の

勝手なことをやっています。

バチを当てる者も存在しなければ、

バチを当てられる者もいない。

見かけの上で

起こるべきことが起こるだけです。

恵まれています。

ありがたいことです。(-||-)

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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