home > 通信 >問題はない(R・スパイラ):『アセンション館通信』第941号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/05/01(第941号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.問題はない(R・スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.問題はない(R・スパイラ)
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昨夜の雨の後、

今日(土曜日)は晴れましたね。

昨日は草刈りをしたけれど、

今日は屋根に登ったり、

下の畑用地を少し整えたり……。

一日がすぎるのがとても速くて。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

すべてのあらわれ、

すべての【見かけ】は

気づかれることによって存在しています。

当たり前のことです。

しかし、ということは、

<気づき>の外側に、

<気づき>とは無関係に、

(つまり、気づかれることなく、)

客観的に存在しているものは何もありません。

たとえ、そのようなものが

何か存在していたとしても、

その存在を知る者が誰もいません。

自分が知りようがないものを

誰が問題にするというのでしょうか?

知られる可能性のない存在は、

存在していないのと同じだということです。

「存在」とは、

自分が存在していることを

自ら「知っている」ということです。

その意味では、

「気づき」と「存在」は

同じことを意味しているとも言えるでしょう。

「意識」という言葉は、

多彩な意味合いで使われる言葉ですが、

一般的には、

あらゆる現象の背景にあって、

それらの現象に気づいている

「純粋な意識」の側面と、

気づかれている意識の内容物(諸現象)の側面の

両方を含んだ表現として使われるようです

この両者を含んだ意味合いで

「意識」という言葉を使うなら、

存在するのは「意識」だけだと言えます。

この「意識」の両側面を、

仮に

“絶対的主体性”と“現象的対象物”

と呼ぶなら、

なんとなく暗黙のうちに、

“現象的対象物”は複数であることが

“絶対的主体性”は単数であることが

含意されているように思われます。

たしかに、

もし「意識」がわずかでも属性をもったら、

それはただちに意識の内容物となって、

“絶対的主体性”の座からは

滑り落ちてしまうことになるでしょう。

“絶対的主体性”は

あらゆる現象に「気づいている」という

その機能だけを厳密に含意し、

それ自体はけっして現象にはなりえません。

その“絶対的主体性”を

ここで「気づき」と呼ぶなら

その「気づき」は

あらゆる現象に「気づいている」だけでなく

自分が気づいていること、

自分が存在していることを

自分で知っています。

いっさいの属性をもたずに存在しているのは

この“絶対的主体性”である

「気づき」だけだと言えるでしょう。

かくて、

「気づき」は絶対的に唯一無二です。

すべての意識の内容物に気づいているのは、

この絶対的に唯一無二の「気づき」です。

ということは、

実際に諸現象に気づいているのは、

同じ「気づき」だということです。

すべての意識の内容物に気づいているのは、

同じ唯一無二の「気づき」です。

それ以外に「気づき」は存在しません。

ということは、

(今更ですが、(*^_^*) )

あなたが見ているものも、

私が見ているものも、

実際は、同じ絶対的に唯一無二の

この「気づき」が見ているわけです。

同じ「気づき」が見ている

同じ意識の内容物だということです。

実際に存在しているものは、

それ以外には何もないわけです。

私たちはみんな、

自分自身が「気づき」だという意味では、

同じ絶対的に唯一無二の「気づき」であり、

自分を一人の対象物だと自覚するなら、

同じ絶対的に唯一無二の「気づき」の

内容物だということになります。

同じ唯一無二の「気づき」の内容物が

それ自身の内容物を

夢想しているようなものかもしれません。

もしこの自覚が確立すれば、

いかなる問題もありえないでしょうね。(*^_^*)

今回はルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の後半にある

【問題はない】

という短い章をご紹介したいと思います。

ルパート・スパイラの口から出てくる

イメージの喚起力に長けた言葉の

卓越した説明能力を堪能してください。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
  問題はない


 部屋の空間がそこに現れるものに対して
 何の問題も抱えていないのと同じで、
 気づいている現存(プレゼンス)であるあなたも、
 何の問題も抱えていません。
 
 何かがそこにあらわれているということは、
 気づいている現存(プレゼンス)であるあなたが、
 それに対してすでに
 「イエス」と言ったということです。
 言い換えるなら、
 真の問題は存在しません。
 問題は、
 思考が私たちとはそういうものであると想像する
 自己のためのものであって、
 気づいている現存(プレゼンス)である
 私たちの真の自己のためのものではありません。
 
 部屋の端から端へボールを投げているところを
 想像してみてください。
 空間にとってボールは問題ではありません。
 実際、
 空間にはボールに抵抗する仕組みがありません。
 空間に何か別の物体があらわれば、
 ボールに抵抗することができます。
 
 分離した自己も同じです。
 私たちの自己という空間に
 思考や感情が立ち上がり、
 現状に抵抗します。
 この抵抗が、
 中庸の状態を問題へと変えてしまいます。
 この抵抗が、
 私たちの自己を分離した実体に変え、
 世界を問題へと変えるのです。
 
 この抵抗がなければ、
 そこには体験のつなぎ目のない親密さと
 即時性があるだけです。
 そこには「私」、「他者」、
 「対象物」のための時間も場所もありません。

 純粋な体験とは、
 部分、個人、対象物、他者などが
 互いに戦っている状態ではありません。
 体験につなぎ目はなく、
 体験は親密です。
 そこにはつなぎ目のない全体があるだけです。 

 問題とは、
 他のものと格闘している架空の部分、
 架空の対象物です。
 けれど、
 体験には分離した部分、
 自己、対象物、他者はありません。
 
 問題は常に思考のためにあり、
 思考が思考と格闘し、
 感情が状況に抵抗するためのものです。
 これらの思考はすべて
 私たちの自己の内にあらわれますが、
 私たちの自己のためではありません。
 
 抵抗する思考や感情ですら、
 私たちの自己にとっては問題ではありません。
 抵抗する思考や感情もまた、
 空間を飛んでゆくボールのようなものです。
 架空の自己をつくる、
 抵抗する思考や感情は、
 架空の自己にとって問題となるだけです。
 
 分離した自己だけが、
 分離した自己を排除しようとします。
 実際、
 分離した自己を見つめるのは、
 分離した自己だけです。
 
 実のところ、
 分離した自己は何かを見ることはできません。
 それは見られています。
 言い換えるなら、
 分離と、
 それに伴う問題は、
 分離という架空の視点からしか見えません。
 現実には、
 そうした視点は存在しません。
 分離や、
 さまざまな問題といった、
 分離から生じるものはすべて、
 常に架空のものなのです。
 
 私たちの身の自己は分離を知らず、
 分離を見ません。
 分離した自己も、
 分離した外側の世界も知りません、
 それは、
 部分、分離、個人、対象物、
 他者性のない、
 純粋な体験の
 即時性と親密さだけを知っています。
 つまり、
 愛だけを知っているのです。
 
 
          ∞ 
 
 
 『プレゼンス―第2巻』(p279-280)
──────────────────

> 部屋の空間がそこに現れるものに対して
> 何の問題も抱えていないのと同じで、
> 気づいている現存(プレゼンス)であるあなたも、
> 何の問題も抱えていません。

部屋の空間と

その中に現れる家具や道具や人……。

すべての内容物を容れて

何の問題も感じない部屋の空間。

スパイラのイメージは明確です。

> 何かがそこにあらわれているということは、
> 気づいている現存(プレゼンス)であるあなたが、
> それに対してすでに
> 「イエス」と言ったということです。

私たちが何かに気づくということは、

絶対的主体性である<気づき>が

その何かに

「イエス」と言ったということだと。

> 言い換えるなら、
> 真の問題は存在しません。

すでに<気づき>である自分が

その何かに「イエス」と言ったのだから、

真の問題は何も存在しない。

> 問題は、
> 思考が私たちとはそういうものであると想像する
> 自己のためのものであって、
> 気づいている現存(プレゼンス)である
> 私たちの真の自己のためのものではありません。

問題は

想像上の架空の“自己”にとって

存在するだけで、

実際にそれに気づいている現存にとっては

何の問題も存在していない。

> 部屋の端から端へボールを投げているところを
> 想像してみてください。
> 空間にとってボールは問題ではありません。
> 実際、
> 空間にはボールに抵抗する仕組みがありません。
> 空間に何か別の物体があらわれば、
> ボールに抵抗することができます。

部屋の中でボール投げが起こっている。

【空間にはボールに抵抗する仕組みがありません】

ボールに対する抵抗は、

そのボールと同じくその空間内にある

別の物体にのみ生じることができる。

> 分離した自己も同じです。
> 私たちの自己という空間に
> 思考や感情が立ち上がり、
> 現状に抵抗します。
> この抵抗が、
> 中庸の状態を問題へと変えてしまいます。
> この抵抗が、
> 私たちの自己を分離した実体に変え、
> 世界を問題へと変えるのです。

“分離した自己”というのは

真の自己という空間内に

思考や感情がが立ち上がった状態であり、

それが現状に抵抗している。

その抵抗が、

何の問題もない空間内に

問題を発生させている。

その抵抗によって

“分離した自己”という空想が実体化して、

世界が問題に変化する。

> この抵抗がなければ、
> そこには体験のつなぎ目のない親密さと
> 即時性があるだけです。
> そこには「私」、「他者」、
> 「対象物」のための時間も場所もありません。

もしこの抵抗が起こらなければ、

そこには親密で即時的な

体験が起こっているだけ。

自分や他人、

またその両者の間に葛藤が起こるべき

時間も場所も存在しない。

> 純粋な体験とは、
> 部分、個人、対象物、他者などが
> 互いに戦っている状態ではありません。
> 体験につなぎ目はなく、
> 体験は親密です。
> そこにはつなぎ目のない全体があるだけです。 

もともと

起こっている体験の親密さの中には

つなぎ目もなければ、

自分や他人を分ける境界線も存在しない。

> 問題とは、
> 他のものと格闘している架空の部分、
> 架空の対象物です。
> けれど、
> 体験には分離した部分、
> 自己、対象物、他者はありません。

問題というのは、

気づいている部屋の空間と、

その部屋の中の対象物のあいだで

起こっているのではなく、

部屋の中の架空の対象物の視点からの

想像が起こっているだけ。

実際の体験の中に、

分離した部分が存在するわけではない。

> 問題は常に思考のためにあり、
> 思考が思考と格闘し、
> 感情が状況に抵抗するためのものです。
> これらの思考はすべて
> 私たちの自己の内にあらわれますが、
> 私たちの自己のためではありません。

問題は常に思考のゆえに

思考に対してのみ起こっている。

思考同士の間で葛藤が起こり、

感情が状況に抵抗しているだけ。

そういう思考はすべて

真の自己である<気づき>の中に現れるが、

それらは<気づき>のゆえに

<気づき>に対して現れているのではない。

> 抵抗する思考や感情ですら、
> 私たちの自己にとっては問題ではありません。
> 抵抗する思考や感情もまた、
> 空間を飛んでゆくボールのようなものです。
> 架空の自己をつくる、
> 抵抗する思考や感情は、
> 架空の自己にとって問題となるだけです。

そのように抵抗している思考や感情もまた、

真の自己である

<気づき>にとっての問題ではない。

そのような抵抗する思考や感情も、

部屋の空間を飛んでゆくボールのようなもの。

部屋の中の別の存在物にとっては

抵抗の問題を起こしえても、

部屋の空間には何の問題にもなりえない。

> 分離した自己だけが、
> 分離した自己を排除しようとします。
> 実際、
> 分離した自己を見つめるのは、
> 分離した自己だけです。

部屋の中の別の対象物だけが

部屋の中を飛んでくるボールを

排除しようとする抵抗を起こす。

実際、

部屋の中を飛んでくるボールに

注意を払うのは、

部屋の中の別の対象物だけ。

> 実のところ、
> 分離した自己は何かを見ることはできません。
> それは見られています。
> 言い換えるなら、
> 分離と、
> それに伴う問題は、
> 分離という架空の視点からしか見えません。
> 現実には、
> そうした視点は存在しません。
> 分離や、
> さまざまな問題といった、
> 分離から生じるものはすべて、
> 常に架空のものなのです。

本当のことを言えば、

部屋の中の対象物には

他の対象物を見る能力はない。

対象物はただ見られているだけ。

言い方を換えると、

対象物のあいだの葛藤という問題は、

対象物の視点からしか現れない。

それは想像上の架空の視点なので

現実には存在しない。

実際に対象物に気づいているのは

ただひとつの<気づき>なので、

分離とそれに伴うさまざまの問題は、

その想像上の架空の視点に立った

常に架空の思考でしかありえない。

> 私たちの真の自己は分離を知らず、
> 分離を見ません。
> 分離した自己も、
> 分離した外側の世界も知りません、
> それは、
> 部分、分離、個人、対象物、
> 他者性のない、
> 純粋な体験の
> 即時性と親密さだけを知っています。
> つまり、
> 愛だけを知っているのです。

実際に気づいている私たち、

つまり真の自己は分離を知らない。

分離を見ていない。

実際に気づいている真の自己は

分離した自己も、

分離した外側の世界も知らない。

実際に気づいている<気づき>は、

すでに気づいている対象物を

すべて無条件に受け容れている。

実際に気づいている<気づき>は、

すでにすべてを愛している。

──────────────────
 
          ∞ 
 
 
 スクリーンがすべての映像に浸透するように、
 私たちの自己はすべての体験に浸透します。
 ですが実際のところ、
 スクリーンは映像に浸透しません。
 スクリーンがなければ、
 そこには映像もないのです。

 「映像」は、
 スクリーンがそれ以外の何かに見えたとき、
 そこに与えられる名前です。
 これと同じで、
 「部分」、「分離」、「個人」、
 「対象物」、「他者」は、
 体験が、
 私たちの自己、
 気づいている現存(プレゼンス)、
 純粋な親密さ以外の
 何かであるように見えたとき、
 それに与えられる名前です。
 
 私たちの真の自己には
 そのような分離は見えませんから、
 分離の感覚を取り除きたいとも思いません。
 問題を見て、
 それを取り除きたいと考えているのは誰でしょう?
 それは架空の自己です。
 
 中庸の状態を
 解決されるべき問題へと変えるのは、
 架空の自己という見せかけの現存です。
 
 存在しない問題に対応することなど不可能です。
 対応することで、
 私たちはそれを現実として受け止めます。
 問題は、
 私たちが注意を向けることによって育ちます。
 実際、
 問題は私たちが向ける注意からできているのです。
 
 存在するものに抵抗し、
 存在しないものを求めることがなくなると、
 つまり分離した自己という活動がなくなると、
 つなぎ目のない要素として
 現状はシンプルに存在し、
 体や心(マインド)に
 必要とされることは何であれ、
 全体のための全体によって
 調整されるようになります。
 
 緊急事態があれば、
 体や心(マインド)はエネルギーを使って
 対応しなければならないでしょう。
 しかし、
 そこに架空の自己はいないので、
 結果、
 これまで体験がそれを通して見られていた
 分離という歪んだレンズを用いて
 対応することはなくなります。
 
 こうした状況では、
 体と心(マインド)は
 その状況で果たすべき役割を果たし、
 必要とされることは何であれ、
 効率よく、
 正確に行います。
 緊急事態が過ぎ去れば、
 体と心(マインド)は
 いかなる余韻や痕跡も残さずに、
 開かれた、
 透明で、
 リラックスした自然の状態に戻ります。
 
 こうして体と心(マインド)は、
 分離という感覚の逃げ場にならず、
 その自然な繊細さは無傷のままに保たれます。
 
 同じように、
 世界もまた、遠く離れ、分離した、
 不活性の対象物であることをやめます。
 世界は振動し、活力に満ち、親密で、
 私たちの活動は常にそれと軌を一にします、
 なぜなら、
 私たちの活動は世界の内部で発生し、
 架空の外部から押しつけられてはいないからです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p281-283)
──────────────────

> スクリーンがすべての映像に浸透するように、
> 私たちの自己はすべての体験に浸透します。
> ですが実際のところ、
> スクリーンは映像に浸透しません。
> スクリーンがなければ、
> そこには映像もないのです。

映画の画面すべてに

スクリーンが浸透しているように、

すべての体験に

私たちの自己が浸透している。

しかし本当のことを言えば、

スクリーンが

映像に浸透しているわけではない。

なぜなら、

スクリーンがなかったら

初めから映像自体が存在していないから。

> 「映像」は、
> スクリーンがそれ以外の何かに見えたとき、
> そこに与えられる名前です。
> これと同じで、
> 「部分」、「分離」、「個人」、
> 「対象物」、「他者」は、
> 体験が、
> 私たちの自己、
> 気づいている現存(プレゼンス)、
> 純粋な親密さ以外の
> 何かであるように見えたとき、
> それに与えられる名前です。

「映像」という言葉は、

スクリーンが

スクリーン以外の何かに見えたときに

スクリーンに与えられる名前。

私たちの体験に現れる

部分、分離、個人、対象物、他者、

と言った言葉もそれと同じで、

体験が

私たちの真の自己以外の何か、

気づいている現存以外の何か、

実際に起こっている

つなぎ目のない親密さ以外の何か

であるように見えたときに

その体験に与えられる名前のこと。

> 私たちの真の自己には
> そのような分離は見えませんから、
> 分離の感覚を取り除きたいとも思いません。
> 問題を見て、
> それを取り除きたいと考えているのは誰でしょう?
> それは架空の自己です。

実際の<気づき>、

気づいている私たちの真の自己には

そのような分離は見えない。

だから<気づき>は

分離の感覚を取り除きたいとも思わない。

では問題の存在を感じて、

それを取り除きたいと考えているのは

いったい誰なのか?

それは想像上の架空の自己だ。

つまり

虚構にもとづき

架空の視点から想像された

思考や感情でしかありえない。

> 中庸の状態を
> 解決されるべき問題へと変えるのは、
> 架空の自己という見せかけの現存です。

何の問題もない調和した状態を、

解決しなければならない

問題へと仕立て上げるのは、

その偽物の現存である架空の自己だ。

> 存在しない問題に対応することなど不可能です。
> 対応することで、
> 私たちはそれを現実として受け止めます。
> 問題は、
> 私たちが注意を向けることによって育ちます。
> 実際、
> 問題は私たちが向ける注意からできているのです。

もちろん、

存在しない問題を解決するのは不可能だ。

なんとか対処しようとすることで、

私たちはその仮想の問題を現実にする。

問題は私たちの注意を栄養にして育つ。

問題とは、

実際は私たちの問題意識の集合体のこと。

> 存在するものに抵抗し、
> 存在しないものを求めることがなくなると、
> つまり分離した自己という活動がなくなると、
> つなぎ目のない要素として
> 現状はシンプルに存在し、
> 体や心(マインド)に
> 必要とされることは何であれ、
> 全体のための全体によって
> 調整されるようになります。

偽物の自己の虚構の視点からの

あるがままの現実に対する抵抗や、

現在存在しないものへの追求がなくなると、

それだけで、

あるがままの現実が

ただ自然にそこにあるだけ。

身体やマインドにとって

必要なことがすべて自然に起こるように、

全体のバランスの観点からの

自然な調整機能が働くことになる。

> 緊急事態があれば、
> 体や心(マインド)はエネルギーを使って
> 対応しなければならないでしょう。
> しかし、
> そこに架空の自己はいないので、
> 結果、
> これまで体験がそれを通して見られていた
> 分離という歪んだレンズを用いて
> 対応することはなくなります。

もちろん何か緊急事態があれば

身体や思考エネルギーを使って

対応しなければならないこともある。

しかし、

そこにいたずらな問題を見出す

架空の自己はいないので、

分離した自己という観点からの

歪んだ対応は起こらなくなる。

> こうした状況では、
> 体と心(マインド)は
> その状況で果たすべき役割を果たし、
> 必要とされることは何であれ、
> 効率よく、
> 正確に行います。
> 緊急事態が過ぎ去れば、
> 体と心(マインド)は
> いかなる余韻や痕跡も残さずに、
> 開かれた、
> 透明で、
> リラックスした自然の状態に戻ります。

身体とマインドは

効率的に事態に対応して、

そこで必要とされる機能を果たし、

それ以上に無用な反応は起こさずに、

くつろいだ自然な状態に戻る。

> こうして体と心(マインド)は、
> 分離という感覚の逃げ場にならず、
> その自然な繊細さは無傷のままに保たれます。

そうすることで

身体やマインドに

分離感覚による無用な緊張が蓄積せず、

自然な繊細さが保たれることになる。

> 同じように、
> 世界もまた、遠く離れ、分離した、
> 不活性の対象物であることをやめます。
> 世界は振動し、活力に満ち、親密で、
> 私たちの活動は常にそれと軌を一にします、
> なぜなら、
> 私たちの活動は世界の内部で発生し、
> 架空の外部から押しつけられてはいないからです。

同じような意味で、

世界もよそよそしい

不活性な対象物の集合体ではなくなる。

世界は親密で、活力に満ちた、

ひとつの調和的な振動体になり、

私たちはそれと協調して

自然発生的な動きをするようになる。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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相変わらず

まあ、かなり自然発生的に

勝手なことをやっています。(*^_^*)

見かけの上で

起こるべきことが起こっているだけです。

ありがたいことです。(-||-)

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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