home > 通信 >注意を自分の真我に集中する:『アセンション館通信』第943号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/05/15(第943号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.注意を自分の真我に集中する

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.注意を自分の真我に集中する
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下の畑に降りて

畝の通路を作っていると

汗ばむほどの季節になりましたね。

今日は来客がありました。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

今回は久しぶりに『アセ通』に

合いの手の質問を入れてくださる方があって、

配達人としては元気が出ます。

こうして読んでくださっている方がいると、

実感できるのは嬉しいですよね。\(^O^)/

前号の記事に関連して

カエルさんという方からご質門をいただきました。

カエルさん、ありがとうございました。

せっかくいただいた真摯なテーマなので、

お便り欄ではなく、

今回の号のテーマにさせていただきますね。

では早速ご紹介します。

【件名】:注意を自分の真我に集中するということ
──────────────────
 パリさん、こんにちは
 毎週日曜日を楽しみにしています。
 
 さて令和4年5月8日(942号))のマルマガで
 以下のような言葉が出てきます。
 
 > 注意を自分の真我に集中しなさい。
 
 どういう意味なのでしょう? 
 真我は、おそらくは文脈上真の自己、
 つまり主体のことを表すと思われます。
 すると、
 我々が何かに注意を集中する場合、
 対象に注意を集中することが通常ですから、
 真我に注意を集中するとは、
 主体を対象化してしまうようにも思われます。
 おそらくは、ここでは、
 主体を対象化せよといわれているのでは
 ないようには思うのですが、
 そうであれば、
 主体そのものに注意を集中するとは、
 具体的には、
 何をどのようにすることなのでしょうか?
──────────────────

> パリさん、こんにちは

カエルさん

ご質問、ありがとうございます。

とても嬉しかったです。(^^)/

> 毎週日曜日を楽しみにしています。

そう言っていただいて

正直嬉しいです。

読んでくださっている方が

実際にいるのかいないのか

わからない状態で

いつも書いていますから。(*^_^*)

たまにこうして

合いの手を入れてくださる方がいると、

とても元気が出ます。

特に今回カエルさんが

ご質問くださったことは、

実際にまともに考えたら

疑問になるはずのことですよね。

> さて令和4年5月8日(942号))のマルマガで
> 以下のような言葉が出てきます。
> 
> > 注意を自分の真我に集中しなさい。
> 
> どういう意味なのでしょう? 

このマハラジの言葉、

よく考えると、本当にそのとおりですよね。

> 真我は、おそらくは文脈上真の自己、
> つまり主体のことを表すと思われます。

はい、間違いなく。

> すると、
> 我々が何かに注意を集中する場合、
> 対象に注意を集中することが通常ですから、
> 真我に注意を集中するとは、
> 主体を対象化してしまうようにも思われます。

まさに。

> おそらくは、ここでは、
> 主体を対象化せよといわれているのでは
> ないようには思うのですが、
> そうであれば、
> 主体そのものに注意を集中するとは、
> 具体的には、
> 何をどのようにすることなのでしょうか?

じつに正鵠を射た疑問だと思います。

というか

これほど的確な疑問をもつこと自体、

ほとんど驚くべきことです。(@_@)

わたしが初めて

「注意を自分の真我に集中しなさい」

という言葉に接したときのことを思えば、

そのような明確な疑問など

思いつきもしなかったことでしょう。

ただ、

具体的にはどうするのだろう?

という感じはあったと思いますが。

しかし、マハラジは方法については

あまり語らないグルですよね。

むしろ、こういう言い方をします。

──────────────────
 方法について語ってはならない。
 方法などないのだ。
 偽りとして見られたものは消え去る。
 調べることによって消え去るのが
 幻想の本性そのものなのだ。
 調べなさい。
 ただそれだけでいい。
 偽りを破壊することはできない。
 なぜなら、あなたは
 偽りをつねにつくりつづけているからだ。
 それから手を引き、無視し、
 それを超えていきなさい。
 そうすれば、
 偽りはなくなるだろう。
 
 『私は在る』(p474)
──────────────────

> 方法について語ってはならない。
> 方法などないのだ。
> 偽りとして見られたものは消え去る。
> 調べることによって消え去るのが
> 幻想の本性そのものなのだ。

誰かが「真我を求める」というとき、

それがどういう意味合いでの話なのか?

という前提がまず先にあるのでしょう。

マハラジのこの

【方法などないのだ】という言葉は、

「方法などない」と言っても

その言葉が意味をもつたぐいの

真我の探求者を前提にしている、

と言うことになるのだろうと思います。

そのレベルで真我を求めている人は

「偽りとして見られたものは消え去る」

ということを知ったら、

その消え去るものへの興味を失う、

というそれだけの成熟度に達しているはずだ

と前提しているわけでしょう。

その人が求めているのは

「真我」であって

幻想ではないわけですから。

まあ、大上段に振りかざすなら

> 方法などないのだ。

とは、そういう相手に向けて

語られた言葉ともいえます。

そして聞き手がそのたぐいの

真我を求めている人なら、

マハラジの以下の言葉は

充分に意味をもって響くのでしょう。

> 調べなさい。
> ただそれだけでいい。

実際に調べてみれば、

それが観照の吟味に耐えられる

真我なのかどうかはわかる。

その過程で消えてしまうものなら

問題にする必要もないの。

それがただのマインド、

ただの幻想であることは

自明なのだから、と。

その上で、

マハラジはこうも念を押します。

> 偽りを破壊することはできない。
> なぜなら、あなたは
> 偽りをつねにつくりつづけているからだ。

身体が誕生してからというもの、

マインドはたえず

幻想を生みだしつづけている。

だから幻想を直接破壊する

ということは不可能だ。

> それから手を引き、無視し、
> それを超えていきなさい。
> そうすれば、
> 偽りはなくなるだろう。

生じてくるマインドから注意をそらし

それを無視するだけでいい。

それをつづけていれば、

やがて幻想は生じてこなくなる。

マハラジは

ここではそう言っているようです。

ですが、実際は

いわゆる「真我を求めている」人の

一万人に一人も

そういう意味合いで

真我を求めてなどいないわけです。

ラマナ・マハルシという方の場合は、

人に伝えるつもりなど

まったくなかったようです。

それどころか、

その状況に身をおくことを

避けに避けたようです。

言葉で人に伝える類のことでは

なかったのでしょう。

マハラジの場合は

独悟のグルではありません。

グルから伝えられることによって

真我を悟るに至った方です。

そのためかどうかはわかりませんが、

ある時期から人に伝えようすることが

起こったようです。

信者相手のグル稼業もしましたし、

「真我」を求める相手には

自らを分かち合おうとしました。

ですが、その場合も

「真我」に至る方法を問う者には、

【方法について語ってはならない。
 方法などないのだ。】

という伝え方になるグルでした。

別なところで、

「学ぶ用意がある」と語る人に

こんなふうに語っています。

──────────────────
 質問者 私には学ぶ用意があります。
 
 マハラジ
 言葉を学ぶだけでは充分ではない。
 あなたは理論を知っているかもしれない。
 だが非個人として、
 存在の無条件の中心、
 愛と至福としてのあなた自身による
 実際の体験なしには、
 単なる言語上の知識は不毛なのだ。
 
 質問者 それでは、
     どうすればいいのでしょうか?
 
 マハラジ
 在ることを試みなさい。
 ただ在りなさい。
 重要な言葉は「試みること」だ。
 一日のなかで、
 充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
 ただ人格と、
 その耽溺(たんでき)や妄想を
 超えていくように試みなさい。
 どのようにするかを尋ねてはならない。
 それは説明できないのだ。
 ただ、成功するまで試みなさい。
 もっとも重要なことは誠実さ、
 真剣さだ。
 あなたはあなただと思いこんでいる
 個人として在ることに、
 本当にうんざりしていなければならないのだ。
 そしてこのひと束の記憶と習慣との
 無用な自己同一化から自由となる
 緊急の必要性を見なさい。
 この無用な自己同一化に対する
 揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
 
 結局、
 人生のあらゆる瞬間において
 あなたはあるがままのあなたなのだ。
 だが、
 けっしてそれを意識したことがなかった。
 おそらく
 眠りから目覚める瞬間を除いては。
 あなたに必要なことは
 存在に気づくことだけなのだ。
 言葉としての表明ではなく、
 ひとつの常在の事実として。
 本来のあなたである気づきが、
 あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。
 それはとてもシンプルなことだ。
 最初にあなた自身との
 絶え間ない接触を確立しなさい。
 すべての祝福は
 自己覚醒のなかへと注がれる。
 観察の中心として在ることからはじめなさい。
 あなたの認識範囲を熟考し、
 そして行為における愛の中心へと
 成長していきなさい。
 「私は在る」はまったく自然に、
 努力の跡もなく偉大な樹へと
 生長する小さな種子なのだ。
 
 『私は在る』(p528-529)
──────────────────

> 質問者 それでは、
>     どうすればいいのでしょうか?

この質問者もここで方法を問います。

ただしこのときは、

マハラジの口から

ある種の方法を語る言葉が流れます。

> マハラジ
> 在ることを試みなさい。
> ただ在りなさい。
> 重要な言葉は「試みること」だ。
> 一日のなかで、
> 充分な時間を静かに座ることに当てなさい。

何もせずに、

ただ【在る】ことを試みなさい。

ただ【在る】だけの時間を設けなさい。

【一日のなかで、充分な時間を

 静かに座ることに当てなさい。】

と。

これはとても「具体的な方法」の指示

とさえ言えそうです。

ただしその場合も、

その試みがある種の意図に

裏打ちされている必要があるようです。

> ただ人格と、
> その耽溺(たんでき)や妄想を
> 超えていくように試みなさい。

自分が人間だという妄想から

抜け出したいという意図が

そこになくてはならない。

> どのようにするかを尋ねてはならない。
> それは説明できないのだ。
> ただ、成功するまで試みなさい。
> もっとも重要なことは誠実さ、
> 真剣さだ。

そしてここでも、

妄想から抜け出すための

「方法」を尋ねてはならない、

という念が押されます。

ということは、

ここで語られている

一見指示と思われる言葉も、

妄想から抜け出すための

「方法」ではないわけです。

それはただ

妄想から抜け出し、真我を得たい

という熱意が取る姿だ、

と伝えているかのようです。

だからこそ

もっとも重要なのは

誠実さ、真剣さなのでしょう。

成功を確約しているのは

誠実さ、真剣さだからです。

要するに、

> あなたはあなただと思いこんでいる
> 個人として在ることに、
> 本当にうんざりしていなければならないのだ。

というわけです。

さすがに、ここで

「うんざりしていなければならない」

というマハラジの言葉を

「あなたは人生にうんざりするように

 頑張らなければならない」

という意味だと受け取る人は

いないと思います。

そんなことは、

まったく余計なお世話だからです。(*^_^*)

ただ、

本当に人生にうんざりしている人には

その指示は意味をもちうるわけです。

まあ、自分が本当に

「真我」を求めているかどうかは、

マインドの想像の中にはなく、

ハートだけが知っている。

ということになるでしょうか。

> そしてこのひと束の記憶と習慣との
> 無用な自己同一化から自由となる
> 緊急の必要性を見なさい。
> この無用な自己同一化に対する
> 揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。

この長い長いマインドの娯楽に

ホトホト飽き果てていなければならない。

自分が真我であることが

本当に自明になるかどうかの鍵は、

この無用な現象への一体化から

今すぐ抜け出したいという願いの

本気度の中にしかない、と。

> 結局、
> 人生のあらゆる瞬間において
> あなたはあるがままのあなたなのだ。
> だが、
> けっしてそれを意識したことがなかった。
> おそらく
> 眠りから目覚める瞬間を除いては。

実際は、

「真我」以外には何も実在していない。

だがあなたはこれまで一度も

それを意識したことがなかった。

おそらく

眠りから目覚めるその瞬間以外は。

> あなたに必要なことは
> 存在に気づくことだけなのだ。

自分が「真我」であることを

知るために必要なことは、

自分とは「存在している」ということ

それ自体なのだと気づくことだけだ。

> 言葉としての表明ではなく、
> ひとつの常在の事実として。
> 本来のあなたである気づきが、
> あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。
> それはとてもシンプルなことだ。

ただし、

それは単に言葉として知っていても

用をなさない。

自分が真我であることを

常在の事実として体験している

のでなければならない。

実際、たとえば、

自分がpariであるのか、

存在であるのかは、

まったく自明のことで、

それを誤魔化せるような者は

どこにもいないわけです。(*^_^*)

自分がいまpariであるのなら、

それはそういうことだし、

自分がいま存在であるなら、

それはそういうことです。

事態はそれくらいシンプルなのでしょう。

> 最初にあなた自身との
> 絶え間ない接触を確立しなさい。
> すべての祝福は
> 自己覚醒のなかへと注がれる。

あなたはpariで在りたいのか?

それともただ在りたいのか?

もしあなたが

自分がただの「存在」であることを

確証したいというのなら、

そのためには

まず起こるがままのマインドを観ている

自己との絶え間ない接触を

確立することが起こるだろう。

そうすればすべての祝福が

その「気づいている現存」へと

流れ込むことだろう。

> 観察の中心として在ることからはじめなさい。
> あなたの認識範囲を熟考し、
> そして行為における愛の中心へと
> 成長していきなさい。

まず観察の中心として在る

ことから起こりはじめるだろう。

自分の具体的な認識範囲を

つねに自覚することが起こり、

行為が起こるときには

その行為の愛の中心へと

成長することが起こるだろう。

> 「私は在る」はまったく自然に、
> 努力の跡もなく偉大な樹へと
> 生長する小さな種子なのだ。

その「存在の感覚」こそが

自然に何の努力も要せずに

大木へと生長してゆく

小さな種子なのだ。

(-||-)


カエルさん、

こんなところがマハラジが説く

「注意を自分の真我に集中する」ための

【方法】のようです。

それは“方法”とも言えますが、

その“方法”の実際の成功の鍵は

その“方法”を裏打ちしている

熱意、誠実であるようです。


カエルさんもご存知のように、

ラマナ・マハルシや

ニサルガダッタ・マハラジ、

そしてマハラジの弟子の

ラメッシ・バルセカールも、

ヒンドゥー伝統のグルたちです。

この方たちは実際は

個人的実体の存在を認めていません。

なので個人の努力というもの

(つまり努力できるような個人の存在)を

認めていないわけです。

ですから、マハラジが

> ただ、成功するまで試みなさい。
> もっとも重要なことは誠実さ、
> 真剣さだ。

と言ったとしても、

それは

「成功するまで頑張りなさい」

とか

「誠実で、真剣でありなさい」と

努力を奨励しているのではありません。

むしろ、本意は

「誠実で、真剣」に、

「成功するまで試みる」ことが

自然に起こらないようなら、

成功することは起こらないだろう、

という身も蓋もない意味です。(*^_^*)


そして、そういう意味では

ここに少し風変わりな覚者がいます。

ラマナ・マハルシに心酔し、

またニサルガダッタ・マハラジの

「私は在る」に導きを求めて、

しかも長くその真意を計りかねた

米国人求道者(現在は覚者)、

マイケル・ラングフォードという方がいます。

この方が覚醒後に書かれた本に

『The Most Direct Means to Eternal Bliss』

という本があります。

一時期このメルマガ上で

翻訳・連載したことがあります。

この方はアメリカ人なので

インド人のグルたちとは

条件づけがまったく違いますから、

個人の努力の可能性を信じて

いらっしゃるようです。

そういうわけで覚醒後

「私は在る」という指示の

具体的マニュアル化を意図されました。

その意図のもとに生み出されたのが

この上述した

『The Most Direct Means to Eternal Bliss』

という本です。

この本全体が

徹底的に霊的マニュアルとして

作成されています。

この本ではカエルさんが質問された

「注意を自分の真我に集中するということ」

まさにそのこと自体について、

その疑団から解決に至るまでを

状況説明も加えて詳細に解明されています。

自分で翻訳を意図したくらいですから、

わたしもこのマニュアルの

指示に従おうとしました。

結論から言うと、

「誠実で、真剣」に、

「成功するまで試みる」ことが

自然に起こらないようなら、

成功することは起こらないだろう、

という身も蓋もない真実を

再確認することになりました。(*^_^*)

そこにある実際の意識エネルギーが

意図していることしか起こりません。

そしてそれでいいわけです。

何が間違っているわけでも、

誰が悪いわけでもありません。

そもそも誰もいないわけですから。

その身体が誕生時に担ってきた

思考エネルギーが打ち上げられ

放物線軌道を描いて発現するだけです。

ミナミAアシュタールが伝えるように

絶対無限の存在の分身であるわたしたちが

自ら選んできたツールを

自ら発揮させてこの人生を生きている

のかもしれませんし、

あるいは、

ラメッシ・バルセカールが言うように、

何かを行為できる実体としての個人は

存在しないのかもしれません。

あるいは両者の言葉は、

単に同じことを表現している

二種類の概念にすぎないのかもしれません。


カエルさん

今回いただいたあなたの真摯な問い

──────────────────
 主体そのものに注意を集中するとは、
 具体的には、
 何をどのようにすることなのでしょうか?
──────────────────

について、

マハラジが語っていることのあらましは

上に書いたようなことかと思います。

ただ

【具体的には、
 何をどのようにすることなのか?】

について同じ問を悩んだことのある

覚者がマニュアル化した指示という意味で、

最後にマイケル・ラングフォードの

『The Most Direct Means to Eternal Bliss』から

「気づきを見まもる気づき法 実習指示」

の最初の部分をご紹介して終わりにします。

(探求者のマインドのタイプに応じて

 複数の「実習指示」が記述されていて、
 
 全部試すように指示されていますが、
 
 最初の部分で十分見当が付きます。)

────────────────── 
 74. 記述A:目を閉じなさい。
   あなたの気づきに注目しなさい。
   あなたの気づきを観察しなさい。
   あなたの注意を世界や身体や思考からそらして、気づきを見
   守る気づきのほうに振り向けなさい。
   自分が考えていることに気づくたびに、あなたの注意を思考
   からそらし、気づきを見守る気づきのほうに戻しなさい。
   あなたの思考ではなく、あなたの気づきを見守りなさい。
 
 75. 記述B:部屋を見て、あなたの気づきが自分の目を通して外
   を見ていることに注目しなさい。
   今度は両目を閉じて、一瞬前外側の部屋を見ていたその同じ
   あなたの気づきがまだそこに在ることに注目しなさい。
   その気づきを観察しなさい。
   もし思考に気づいたら、その思考を無視して、あなたの注意
   を思考からそらして、気づきを観察している気づきのほうに
   向けなさい。
 
 76. 記述C:目を閉じなさい。
   あなたが意識していることに注目しなさい。
   その意識を見守りなさい。
   思考に気づくたびに、あなたの注意をその思考からそらして、
   あなたの意識を見守りつづけなさい。
   あなたの思考を見守るのではなく、あなたの意識を見守りな
   さい。
   意識を見守っている意識。
   意識を意識している意識だ。
 
 77. 記述D:目を閉じなさい。
   あなたが注意を思考からそらして、その見守る者を見守りな
   さい
──────────────────

こんな感じです。

これで具体的に、

何をどのようにすることなのか?、

おわかりになったことと思います。

今回はご質問いただいて、

とても元気をいただきました。

そしてこの問を展開するために、

投稿欄ではなく、

今回の号の全体テーマとして

採用させていただきました。

お陰さまでいろいろ整理もできました。

ありがとうございました。m(_ _)m

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

相変わらず

自然現象の一部を

演じさせられています。

見かけの上で

起こるべきことが起こっているだけです。

ありがたいことですが、

今日はずいぶん晩くなりました。(^_-)

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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