home > 通信 >気づきと意識:『アセンション館通信』第945号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/05/29(第945号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.気づきと意識

2.編集後記
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■ 1.気づきと意識
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けっこう、暑くなりましたね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ラメッシ・バルセカールが描く

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
(Pointers From Nisargadatta Maharaj:PFNM)

の最初のほうに

【5 気づきと意識】

というごく短い章があります。

この章には簡にして要を得た佇まいで

マハラジの指示はすべて

端的に書かれています。

マハラジの指示を仰ごうとする者は

ここを読めば充分とも言えます。

じつは以前にもそんなことを感じたのか

ご紹介したことがあります。

https://www.ascensionkan.com/mm/vol929.html#1

しかしどうやらこのときも、

自分でそれを受け取るのは回避するための

方便であったのかもしれません.

考えてみれば

“肝心なことはすべてそこに書いてある”

というような内容ばかりを、

ご紹介してきたかもしれません。

しかし、それはすべて、

自分ではそれを受とらないためであったか。

たとえば、

【5 気づきと意識】の後半は

このように締めくくられます。

──────────────────
 マハラジによれば、
 意識していることをまさに意識することが、
 すでに絶対に向かう運動であるということです。
 マインドはそのまさに性質によって、
 外向きで、
 物事の源泉を物事それ自身の
 内部に求める傾向があります。
 マインドが内なる源泉に向けられるとき、
 それはほとんど
 新しい生活の始まりのようなものです。
 絶対が意識にとって替わるのです。
 意識の中の一つの思考である
 「私は在る」が停止します。
 気づきの中においてはどんな思考もありません。
 気づきは意識の源泉です。
 マハラジは
 「静かに座って、
  マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
  素晴らしい霊的練習である」
 と私たちに提案します。
 私たちが思考と呼んでいるものは、
 水の表面のさざ波のようなものです。
 思考は常に一体化や非難へと導きます。
 それらは先入観念の産物であり、
 本当の理解を邪魔します。
 さざ波がないとき、
 水の表面は静かであるように、
 思考がなく受け身で、
 完全に受容的であるとき、
 マインドは静かです。
 
 マハラジは言います。
 「あなたのマインドの鏡に
  あらゆる種類の映像が現れて、
  しばらく止まり、
  そして、消えていく。
  静かにそれらが
  来ては去っていくのを眺めなさい。
  注意深くあり、
  しかし、
  決して何にも心惹かれたり、
  嫌悪感を抱いたりしないようにしなさい。
  こうした静かな観照は、
  歓迎されざるお客を無視するように、
  あらゆる無益な思考を
  しだいに追い払うという効果があることだろう。
  このように、
  公平な観照者として、
  介入することなく、
  批判することなく、
  自分自身の内側にいることによって、
  つまり、
  「私は在るという性質」の中にいることによって、
  「深い」未知が意識の表面に
  やってくることが促され、
  未使用のエネルギーを解放し、
  そのおかげであなたは
  生命の起源の神秘を理解するようになるのだ」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p43-44)
──────────────────

これほど親切な指示が

すべて示されているのです。

それをわたしは、

“自分”で受け取らないために

想像上の“他の方たち”に

ご紹介することに勤しんできた。

しかしそれは、

そのことに逆らうことができる

わたしがいるということでもありません。

ただそのように

「リーラ(神聖遊戯)」が起こっている

というだけです。

> マハラジによれば、
> 意識していることをまさに意識することが、
> すでに絶対に向かう運動であるということです。

すでに虎の口の中にいることに

安心するだけでいいのかもしれません。

> マインドはそのまさに性質によって、
> 外向きで、
> 物事の源泉を物事それ自身の
> 内部に求める傾向があります。

われわれは、ついつい

感覚が伝える知覚的現象が

それ自体で客観的に存在しているのだと

思ってしまう。

> マインドが内なる源泉に向けられるとき、
> それはほとんど
> 新しい生活の始まりのようなものです。

しかし感覚的現象はすべて

「私」が知覚しているからこそ

体験として起こっているということ、

すべての体験が「私」を思い出させるなら

それは体験のベクトルが

反転したとは言えるのでしょう。

> 絶対が意識にとって替わるのです。

意識の内容物(現象)は

それ自体が客観的に存在しているのではなく、

ただわたしが興味をもつがゆえに

わたしの体験の一場面として、

「私」に映し出されているにすぎない。

実在しているのは<気づき>、

「私」だけです。

> 意識の中の一つの思考である
> 「私は在る」が停止します。

その<気づき>の中では

 「私は在る」もまた
 
 ひとつの思考でしかない。

> 気づきの中においてはどんな思考もありません。
> 気づきは意識の源泉です。

<気づき>の中には

いかなる対象物も含まれていない。

その<気づき>から

すべての<意識>の内容物が

現れるのです。

> マハラジは
> 「静かに座って、
>  マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
>  素晴らしい霊的練習である」
> と私たちに提案します。

マハラジの提案はすべて

この単純な指示に凝縮されるようです。

この言葉が意味不明ということはありえないし、

難解ということもありえません。

ただ受け取る用意のあるマインド状態と、

そのことに興味のないマインド状態が

あるだけなのでしょう。

そしてマインドは

興味とは戦えないわけです。

> 私たちが思考と呼んでいるものは、
> 水の表面のさざ波のようなものです。
> 思考は常に一体化や非難へと導きます。

意識の表面にわいてくる思考は

常に次の思考を呼び出すための

誘引機能を具えているようです。

そのため思考は常に

対象物への一体化や非難へと

誘導しようとするようです。

> それらは先入観念の産物であり、
> 本当の理解を邪魔します。

思考はその機能的性質上

自らが信じる観念を否定するものを

受け容れたくはありません。

> さざ波がないとき、
> 水の表面は静かであるように、
> 思考がなく受け身で、
> 完全に受容的であるとき、
> マインドは静かです。

そこに思考がないとき、

マインドは静かで

先入観念によっても汚染されておらず、

受け身で完全に開いています。
 
> マハラジは言います。
> 「あなたのマインドの鏡に
>  あらゆる種類の映像が現れて、
>  しばらく止まり、
>  そして、消えていく。
>  静かにそれらが
>  来ては去っていくのを眺めなさい。

マハラジに指導を仰ぎたい

と望む者がもしいるのなら、

こうして今もその指導は

活きて存在しているわけです。

>  注意深くあり、
>  しかし、
>  決して何にも心惹かれたり、
>  嫌悪感を抱いたりしないようにしなさい。

ここまで具体的な注意を添えて。

>  こうした静かな観照は、
>  歓迎されざるお客を無視するように、
>  あらゆる無益な思考を
>  しだいに追い払うという効果があることだろう。

その具体的効果まで添えて。

>  このように、
>  公平な観照者として、
>  介入することなく、
>  批判することなく、
>  自分自身の内側にいることによって、
>  つまり、
>  「私は在るという性質」の中にいることによって、
>  「深い」未知が意識の表面に
>  やってくることが促され、
>  未使用のエネルギーを解放し、
>  そのおかげであなたは
>  生命の起源の神秘を理解するようになるのだ」

ラメッシ・バルセカールの著書

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』が

高木悠鼓さんの手で

日本語に翻訳上梓されたのは

2020年3月のことでした。

それは今からわずか

2年前のことともいえます。

ところで、

マハラジの『私は在る』が

福間巌さんの手で日本語に翻訳され

同じ出版社から出版されたのは

2006年6月のことです。

それからもう23年がすぎています。

この『私は在る』に

同じ「気づきと意識」という章があります。

その後半はこんな問答です。

──────────────────
 質問者
 あなたは「気づく」という言葉と
 「意識する」という言葉を使っていますが、
 それらは同じものではないのですか?
 
 マハラジ
 気づきは根本的なものだ。
 それは根元的状態であり、
 はじまりがなく、終わりもない。
 原因がなく、支えがなく、
 部分も、変化もない。
 意識は表層の反映と関連しており、
 二元的な状態だ。
 気づきなしに意識は在りえない。
 しかし深い眠りのように、
 意識がなくても気づきは存在しうる。
 気づきは絶対的だ。
 意識はつねに何かに属し、
 その内容との相関関係にある。
 意識は部分的であり、変化するもの。
 気づきは完全で、不変であり、
 静かで沈黙の内にある。
 そして、
 それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。
 
 質問者
 人はどのように意識を超え、
 気づきのなかに入っていくのでしょうか?
 
 マハラジ
 そもそも
 意識を起こさせるのは気づきであるため、
 あらゆる意識の状態には気づきがある。
 それゆえ意識が意識しているという
 意識そのものが、
 すでに気づきにおける動きなのだ。
 自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、
 あなたを気づきへと導く。
 それは何も新しい状態ではない。
 それが根元的な、
 生命そのものである基本的存在、
 そしてまた愛と喜びであ
 ることは直ちに認識されるだろう。
 
 質問者
 実在がつねに私たちとともに在るのなら、
 真我の実現は何によって
 成立するのでしょうか?
 
 マハラジ
 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、
 真我を非実在と見なすことが無知であり、
 悲しみの原因だ。
 真我が唯一の実在であり、
 そのほかすべては一時的な、
 はかないものと知ることが自由であり、
 平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、
 想像を通して見るのではなく、
 ただあるがままに見ることを学びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、
 あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、
 あなた自身の顔をも見せるだろう。
 「私は在る」という想いが、
 鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。
 
 『私は在る』(p49-50)
──────────────────

> 質問者
> あなたは「気づく」という言葉と
> 「意識する」という言葉を使っていますが、
> それらは同じものではないのですか?

質問者はマハラジの用語の

「気づき」と「意識」の違いを

確認しています。

> マハラジ
> 気づきは根本的なものだ。
> それは根元的状態であり、
> はじまりがなく、終わりもない。
> 原因がなく、支えがなく、
> 部分も、変化もない。
> 意識は表層の反映と関連しており、
> 二元的な状態だ。

これらの表現のどれほどが

マハラジの意図する表現であり、

どれほどが翻訳者モーリス・フリードマン

の解釈であるのかはわかりませんが、

少なくとも言葉の上では、

「意識」という言葉は

意識の内容物的側面を指しており、

「気づき」という言葉は

意識の内容物を存在させる

「気づき」の側面を指しているようです。

> 気づきなしに意識は在りえない。
> しかし深い眠りのように、
> 意識がなくても気づきは存在しうる。
> 気づきは絶対的だ。

そして、

現象に連動する「意識」は

「気づき」なしには

現れることができないが、

「気づき」自体は

意識現象がない場合でも

絶対的に存在していると、

定義上の区別が述べられています。

> 真我の実現は無知の反対にほかならない。
> この世界を実在と見なし、
> 真我を非実在と見なすことが無知であり、
> 悲しみの原因だ。

そして

真我の実現とは

無知が存在しないことの発見であり、

世界という意識現象が

神の娯楽であることの理解だと。

世界というドラマを

実在と見なすのが無知であり、

それが悲しみの原因なのだと。

> 真我が唯一の実在であり、
> そのほかすべては一時的な、
> はかないものと知ることが自由であり、
> 平和と喜びなのだ。

本当に実在しているのは

すべての意識現象を背後で支えている

気づきだけだ、と知っていることが

自由であり平和と喜びなのだと。

> それはとてもシンプルだ。
> ものごとを、
> 想像を通して見るのではなく、
> ただあるがままに見ることを学びなさい。
> すべてをあるがままに見るとき、
> あなたはあるがままの自分を見るだろう。

すべての現象を観念を通して

客観的に存在するかのように想像し、

解釈するのではなく、

すべての想像・解釈を排除して、

ただつかの間の見かけを

つかの間の見かけとして、

あるがままに見ることを学びなさい。

そうすれば、

あらゆる想像を排除した

あるがままの自分が残るだろう。

> それは鏡を磨くようなものだ。
> あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、
> あなた自身の顔をも見せるだろう。
> 「私は在る」という想いが、
> 鏡を磨く布なのだ。
> それを使いなさい。

それはすべてを映し出す

あなたという鏡から

一体化という汚れをすべて

拭き取るようなものだ。

姿をあらわすものはすべて

あなたではない。

あなたは顕れない。

あなたは在るだけだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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「私は在る」。

しかし

「私」は姿は現さない。

誰だって騙されますよね。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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