home > 通信 >存在の認識(R.スパイラ):『アセンション館通信』第946号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/06/05(第946号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.存在の認識(R.スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.存在の認識(R.スパイラ)
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今日は穏やかな曇天。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

新聞を読んでソファに横になったら

気がついたら寝てました。(*^_^*)

ま、そんな感じで

だんだん人生が希薄になる。

酔生夢死……。

そんな感じでしょうか。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』

に【存在(ビーイング)の認識】

という章があります。

なんというか、

とても安心できる言葉です。

もし安心でないマインドに

フォーカスしているのであれば……。

何を理解していようが

理解していなかろうが、

ただ安心していればそれでいいような。

──────────────────
 
 存在(ビーイング)の認識
 
 
 質問:
 思考は私たちの本質を認識する際の
 障害となりますか?
 
 スパイラ:
 思考を除外する必要はありません。
 なぜなら、
 私たちの本質は、
 思考が現れているときも、
 そうでないときも、
 現存しているからです。
 思考については、
 移り変わる天気について考えるときのように
 考えてください──
 思考はあなたの自己に
 何の変化ももたらしません。
 ただ思考が流れていくに任せて、
 あなたはあなたの自己であり続けましょう。
 
 思考を変えたり取り除いたりしても、
 私たちの自己には何の変化もありません。
 それは、
 天気が変わっても、
 ソファの上で安らかにくつろいでいるあなたには
 何の変化もないのと同じことです。
 私たちの自己、
 気づいている現存(プレゼンス)は、
 いつでも安らかに
 ソファでくつろいでいるのです!
 
 知られるべき自己と、
 知る自己は、
 違うものなのでしょうか?
 いいえ!
 自己が知られるために唯一必要なのは、
 私たちの自己という現存(プレゼンス)だけであり、
 私たちはすでにいつでもそうなのです。
 この自己は思考に先立って存在します。
 それは思考を知っています。
 それはここで話されている言葉を知っており、
 体験しています。

 天気の変化と同様、
 心(マインド)の変化も、
 真の自己を知ること、
 真の自己であることに何の影響も及ぼしません。
 
 しかし、
 自己であるために、
 もしくは自己を知るために、
 考える必要はありません。
 思考にできるのはせいぜい
 思考を終わらせることくらいです。
 思考は体験の根本的な現実を知らないだけでなく、
 知ることもできません。
 思考が探究を行って発見できることは、
 それくらいです。
 「私は自分が何も知らないことを知っている」。
 これが思考の限界です!
 
 しかし、
 このことを理解するには
 (もし、
  この理解がピンとくるけれど、
  まだ信念として受け入れられていないならば)、
 まずは、
 それ自身の存在を知る私たちの自己を、
 非客観的に、
 時を超えて体験しなければなりません。
 
 つまり、
 探求が終わることで、
 一連の思考が止むのですが、
 この思考の停止は、
 私たちの本質を体験することからもたらされます。
 そちらに向かうのではありません。
  
 このことを理解すると、
 探求する思考は自然に、
 何の苦もなく終わりを迎えます。
 訓練や努力、
 抑圧、否定、
 何かを信じることによって終わるのではなく、
 理解することによって終わるのです。
 それはどこにも行きません。
 それはただ、
 静かにくつろいでいます。
 
 ですから、
 繰り返しになりますが、
 私たち自身の存在を純粋に知ること
 ──それがそれ自身を知ること──を、
 非客観的に、
 時を越えて体験することで、
 思考が溶けて消えていくのです。
 思考によって私たち自身の
 存在(ビーイング)を知るのではありません。
 
 しかし、
 このように思考が停止しようがしまいが、
 あなたが知っている現存(プレゼンス)、
 体験する現存(プレゼンス)であることを
 しっかりと理解してください。
 それは、
 心(マインド)、体、世界といった
 すべての現象を貫いて
 変化することなく流れています
 
 
『プレゼンス―第2巻』(p245-247)
──────────────────

> 存在(ビーイング)の認識

このタイトルは

存在している者が

自らが存在していることを認識する

という意味でしょうか?

自分が存在していることを

自分で知っているなら、

ただ知っていればいい。

もしそれに気づいていななら

それはただ

気づかれているものになっているだけ。

> 質問:
> 思考は私たちの本質を認識する際の
> 障害となりますか?

たしかに、

思考が止まっていない者としては

その思考にフォーカスしているかぎり、

その思考が

自らの本質を認識する障害になる……

ような気はしますよね。

> スパイラ:
> 思考を除外する必要はありません。

思考があってはならないと

考える必要はありません。

> なぜなら、
> 私たちの本質は、
> 思考が現れているときも、
> そうでないときも、
> 現存しているからです。

思考が現れていようと

思考が消えていようと、

私たちの本質である気づきは

同じように現存していますから。

> 思考については、
> 移り変わる天気について考えるときのように
> 考えてください──
> 思考はあなたの自己に
> 何の変化ももたらしません。
> ただ思考が流れていくに任せて、
> あなたはあなたの自己であり続けましょう。

わいてくる思考については、

移り変わる空模様のようなものだと

考えればいいです。

雲が流れていようと、

雨が降っていようと、

そこに空がないということはありません。

それと同じように

思考があろうとなかろうと

あなたという自己が

存在しないということはありません。

ですから、

もしそうすることができるなら、

わいてきた思考はそのままにして、

あなたはただ自己であり続けたらいいのです。

> 思考を変えたり取り除いたりしても、
> 私たちの自己には何の変化もありません。
> それは、
> 天気が変わっても、
> ソファの上で安らかにくつろいでいるあなたには
> 何の変化もないのと同じことです。
> 私たちの自己、
> 気づいている現存(プレゼンス)は、
> いつでも安らかに
> ソファでくつろいでいるのです!

思考を追って次の思考を呼び出したり、

思考を排除したりしても、

そのことであなたが

気づいている現存でなくなることはありません。

夢の中であなたが

どれほど遠くまで行こうとも、

夢見るあなたがソファの上で

横になっているだけであるように。

> 知られるべき自己と、
> 知る自己は、
> 違うものなのでしょうか?
> いいえ!
> 自己が知られるために唯一必要なのは、
> 私たちの自己という現存(プレゼンス)だけであり、
> 私たちはすでにいつでもそうなのです。

私たちが気づいているというとき、

気づいている自己と、

気づかれているそれは

別のものなのでしょうか?

そんなことはありません。

あなたが夢から覚めたとき、

あなたが観ていた夢の内容が、

あなた以外ではないことが自明なように、

あなたが気づいているものすべては、

あなた以外ではありえないのです。

思考がわいていようと、

なんの思いもわいていなかろうと、

あなたはいつでも自己を知っています。

自己が知られるために必要なのは、

唯一気づいている現存だけです。

そして私たちはすでにそれなのです。

> この自己は思考に先立って存在します。
> それは思考を知っています。
> それはここで話されている言葉を知っており、
> 体験しています。

思考がわいてくるためには、

その思考に先立って

その思考に気づく者が存在している必要があります。

そして私たちはすでにそれなのです。

だから私たち自己は思考を知っています。

私たち自己は

ここで話されている言葉を知っています。

私たちはそれを体験しています。

> 天気の変化と同様、
> 心(マインド)の変化も、
> 真の自己を知ること、
> 真の自己であることに何の影響も及ぼしません。

空模様の変化が

大空の存在になんの影響も及ぼさないように、

意識の表面に起こる変化は

気づきである現存になんの影響も及ぼさず、

また私たちが真の自己を知ることにも

なんの影響も及ぼしません。

> しかし、
> 自己であるために、
> もしくは自己を知るために、
> 考える必要はありません。
> 思考にできるのはせいぜい
> 思考を終わらせることくらいです。

そして

気づいている現存であるために、

あるいは

自分が気づいている現存であると知るためにも、

考える必要はありません。

ありがたいことに、

それは思考の奮闘に委ねられていません。

思考にできるのはせいぜい、

そんなことはとうてい思考には無理だと理解して、

考えるのがとまることくらいです。

> 思考は体験の根本的な現実を知らないだけでなく、
> 知ることもできません。
> 思考が探究を行って発見できることは、
> それくらいです。
> 「私は自分が何も知らないことを知っている」。
> これが思考の限界です!

夢の中の一画面に、

夢の根本的現実を知ることなどできないように、

思考に体験の根本的現実を知ることはできません。

もし思考が了解きることがあるとすれば、

「自分が何かを知ることなどありえない」

と納得することくらいでしょう。

> しかし、
> このことを理解するには
> (もし、
>  この理解がピンとくるけれど、
>  まだ信念として受け入れられていないならば)、
> まずは、
> それ自身の存在を知る私たちの自己を、
> 非客観的に、
> 時を超えて体験しなければなりません。

しかしこのことを理解するには、

まず言葉の上の論理からではなく、

非客観的な直接の体験で

気づいている現存という自己を

直接体験しなければなりません。

> つまり、
> 探求が終わることで、
> 一連の思考が止むのですが、
> この思考の停止は、
> 私たちの本質を体験することからもたらされます。
> そちらに向かうのではありません。

つまり、

探究が終わらなければ

一連の思考が止むことはありまえんが、

その思考の停止は、

自分が気づいている現存であることを

実際の体験をとおして知ることでしか

もたらされないということです。

それは探究という

時間的営為が到達できることではなく、

時間の外で起こる非客観的直接体験の結果、

探究の終焉が起こるということです。

> このことを理解すると、
> 探求する思考は自然に、
> 何の苦もなく終わりを迎えます。

その直感的理解が起こったら、

放っておいても思考は終わります。

> 訓練や努力、
> 抑圧、否定、
> 何かを信じることによって終わるのではなく、
> 理解することによって終わるのです。
> それはどこにも行きません。
> それはただ、
> 静かにくつろいでいます。

ありがたいことに、

それは時間的営為である、

訓練や努力、抑圧や否定、

何らかの信念によるものではありません。

直感的理解の自然な結果として

それは終わるのです。

私たちの自己、

気づいている現存はどこにも行きません。

それはただ

静かにくつろいでいます。

> ですから、
> 繰り返しになりますが、
> 私たち自身の存在を純粋に知ること
> ──それがそれ自身を知ること──を、
> 非客観的に、
> 時を越えて体験することで、
> 思考が溶けて消えていくのです。
> 思考によって私たち自身の
> 存在(ビーイング)を知るのではありません。

ですから、

自分自身の存在を純粋に知ること、

対象物としてではなく、

ただそれ自身で在ることをつうじて

自己を体験することで、

思考が役割を終えるのです。

思考が私たちの自己、

気づいている現存を知るのではありません。

> しかし、
> このように思考が停止しようがしまいが、
> あなたが知っている現存(プレゼンス)、
> 体験する現存(プレゼンス)であることを
> しっかりと理解してください。
> それは、
> 心(マインド)、体、世界といった
> すべての現象を貫いて
> 変化することなく流れています

しかし、

たとえこのように思考が停止していなくても、

自分が気づいている現存であること、

体験する現存であることを

しっかり理解することは意味があります。

なぜなら、

あなたという気づいている現存は、

マインド、身体、世界といった

あらゆる現象、森羅万象を貫いて

変化することなく流れているからです。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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自分自身の存在を純粋に知ること。

対象物としてではなく、

ただそれ自身で在ることをつうじて

自己を体験すること。

意味があるのはこれだけ……ですね。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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