home > 通信 >神のたくさんの名前(R・スパイラ):『アセンション館通信』第947号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/06/12(第947号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.神のたくさんの名前(R・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.神のたくさんの名前(R・スパイラ)
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今日もまた穏やかな曇天。

ときどき思い出したように

小雨が降ったりしています。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

どうも土曜日というと

ソファに横になったら

いつの間にか寝ているようです。

土曜日はお昼はパン屋さんが来て

近所の何人かがわが家の前に集まるので

小窓を開けて待っていたのに、

ピンポーンという玄関の音に起こされました。

出てこないものだからご近所が親切に

呼び鈴を押してくれたみたい。(*^_^*)

いやはや。

ま、そんな感じで

だんだん人生が希薄になる。

酔生夢死……。

そんな感じですね。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』(https://amzn.to/2EpkHU4)

この本はどこを開いても素晴らしい。

アドヴァイタに関わる言語表現の

ひとつの絶頂ではないでしょうか。

たとえば、この本の前半に

【神のたくさんの名前】

という章があります。

言葉を使った比喩表現ではあります。

でも、言葉を使って

こんなことまで表現できてしまうのか

とも思われてきます。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 神のたくさんの名前
 
 
 質問:
 私はあなたの本、
 The Transparency of Thingsに出てくる、
 文字が書かれた紙のたとえが気に入っています。 
 文字が書かれている紙に注意を向けると、
 紙に気がつきます。
 紙に注意を向ける前、
 私はそれに気づいていなかったのですが、
 紙は常にそこにあったし、
 それがなければ文字も存在できません。
 しかし今、
 私は文字と紙の両方を見ています。
 それと同じように、
 この世界の物事も、
 すべてのものの基盤がなければ存在できません。
 
 スパイラ:
 そうです。
 実際のところ、
 文字が書かれた紙を指差されたときに
 私たちが気づくのは、
 紙ではなく、
 私たちがいつでも紙に気づいている
 という事実です。
 
 私たちは以前、
 文字にだけ気づいていて、
 紙には気づいていないと思っていました。
 しかし今、
 私たちは、
 実際には紙にずっと気づいていたことを
 理解するのです。

 『プレゼンス―第2巻』(p102)
 https://amzn.to/2EpkHU4
──────────────────
 
> 質問:
> 私はあなたの本、
> The Transparency of Thingsに出てくる、
> 文字が書かれた紙のたとえが気に入っています。 
> 文字が書かれている紙に注意を向けると、
> 紙に気がつきます。
> 紙に注意を向ける前、
> 私はそれに気づいていなかったのですが、
> 紙は常にそこにあったし、
> それがなければ文字も存在できません。
> しかし今、
> 私は文字と紙の両方を見ています。
> それと同じように、
> この世界の物事も、
> すべてのものの基盤がなければ存在できません。

この『The Transparency of Things』という本、

翻訳があれば読むのですが。

(おそらくはこの本で、

 「ありのまま」の退屈に耐えて
 
 思考中毒に逃げないことの重要性が
 
 綿密に語られているのかもしれません。)
 
この本に「文字が書かれた紙のたとえ」が

書かれているんですね。

> スパイラ:
> そうです。
> 実際のところ、
> 文字が書かれた紙を指差されたときに
> 私たちが気づくのは、
> 紙ではなく、
> 私たちがいつでも紙に気づいている
> という事実です。

文字が書かれた紙の存在を指摘されて

われわれが気づくのは、

そこに紙があったことではなく、

これまでもいつも

自分が紙に気づいていたという事実だと。

> 私たちは以前、
> 文字にだけ気づいていて、
> 紙には気づいていないと思っていました。
> しかし今、
> 私たちは、
> 実際には紙にずっと気づいていたことを
> 理解するのです。

微妙な0.5ミリの差みたいな。

その0.5ミリの差がじつは大きい。

その差が先々でどんな花を咲かすのか?

──────────────────
 しかし、
 最初に紙に気づくとき、
 私たちは自分が突然、
 文字と紙に気づいていたのだと考えがちです。
 それは真実ですが、
 半分だけの真実です!
 
 実際のところ、
 文字などというものは存在しません。
 つまり、
 文字は文字として、
 紙から独立して存在しているわけではないのです。
 「紙」に対抗して、
 「文字」という独自のラベルを持って
 存在しているわけでもありません。
 実際には、
 紙だけが存在しています。
 紙は文字によって色づけられ、
 文字の姿をとりますが、
 紙以外のものになることは決してありません。

 つまり、
 「文字」という名前は紙の別名にすぎません。
 紙が紙以外の何かになったように見えるとき、
 そう呼ばれるのです。
 
 同じように、
 「人」、「他者」、「世界」といった呼び名も、
 思考が気づきにつけたものです。
 体験が気づき以外の何かであると
 思考が想像するとき、
 そのような名前を付けるのです。
 この想像の結果、
 「人」、「他者」、「世界」は
 気づきとは別個の対象物になったように見えます。
 (文字が紙とは異なると見なされるように)。
 そして、
 気づきは制限され、
 位置づけられた主体になったように見えるのです。
 
 さらに、
 対象物を体験することで、
 気づきを体験することが
 できなくなるように見えます。
 つまり、
 気づきがそれ自身を知り、
 それ自身であることが
 できなくなるように見えるのです。
 これは、
 私たちが文字を見るとき、
 最初は、
 紙に気づいていないように見えるのと
 同じことです。
 
 しかし、
 文字について調べていくと、
 紙が常にあること、
 文字は紙からできているにすぎないことが
 わかります。
 これで同じように、
 心(マインド)、体、世界といった
 見かけ上のあらゆる対象物の体験を
 詳しく調べていくと、
 それらはすべて
 気づきだけでできていることがわかります。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p103-104)
──────────────────

> しかし、
> 最初に紙に気づくとき、
> 私たちは自分が突然、
> 文字と紙に気づいていたのだと考えがちです。
> それは真実ですが、
> 半分だけの真実です!

「そうか、ここには紙があったんだ!」(@_@)

と気づくのは真実の半分にすぎないと。

> 実際のところ、
> 文字などというものは存在しません。

ここで、

ルパート・スパイラは飛躍します。

もし、

これまで読んでいた文章が

文字ではなく紙の表面の化粧の姿だと

わかったのなら、

そこでわかったことは、

文字などというものは存在しない

ということなのだと。

いったい、

これはどういうことなのか?(?_?)

> つまり、
> 文字は文字として、
> 紙から独立して存在しているわけではないのです。

文字という紙と別個の存在物が

あったわけではない。

> 「紙」に対抗して、
> 「文字」という独自のラベルを持って
> 存在しているわけでもありません。

「紙」の好敵手として

「文字」というラベルを付けた

独自の相手がいるわけではない。

> 実際には、
> 紙だけが存在しています。

実際に存在しているのは

紙だけであることがわかったのだと。

> 紙は文字によって色づけられ、
> 文字の姿をとりますが、
> 紙以外のものになることは決してありません。

文字というのは

紙が化粧した姿であって、

紙が文字という姿をとったからと言って、

紙が紙でなくなるわけではない。

そこに存在するのは紙であって、

文字が存在するわけではない。

> つまり、
> 「文字」という名前は紙の別名にすぎません。
> 紙が紙以外の何かになったように見えるとき、
> そう呼ばれるのです。

「文字」という名前は

紙が文字をまとったときの別名で、

紙が文字を装ったときに

「文字」と呼ばれるにすぎないと。

> 同じように、
> 「人」、「他者」、「世界」といった呼び名も、
> 思考が気づきにつけたものです。

それと同じく、

 「人」「他者」「世界」という名前も、
 
 気づきがまとったそれぞれの装いに
 
 思考が付けた(気づきの)別名にすぎない。

> 体験が気づき以外の何かであると
> 思考が想像するとき、
> そのような名前を付けるのです。

気づきがまとったその姿を見て、

気づき以外の何かを体験していると

思考が想像したとき、

その想像に合わせて

思考が気づきをその別名で呼ぶのだと。

> この想像の結果、
> 「人」、「他者」、「世界」は
> 気づきとは別個の対象物になったように見えます。
> (文字が紙とは異なると見なされるように)。

思考は自分でそのように

想像しておきながら、

自分でつけた別名の

 「人」「他者」「世界」が

気づきとは別個に存在する対象物のように

思いこんでしまうのだと。

> そして、
> 気づきは制限され、
> 位置づけられた主体になったように見えるのです。

そしてその思考の想像の中で

気づきは制限されて、

対象物として存在する(と想像された)

「人」や「他者」 

(という気づきの装い) に閉じ込められた
 
主体になったように見えるのだと。 
 
> さらに、
> 対象物を体験することで、
> 気づきを体験することが
> できなくなるように見えます。

またそのような

架空の対象物を体験することで

気づき自体を体験することが

できなくなるように見えてくる。

> つまり、
> 気づきがそれ自身を知り、
> それ自身であることが
> できなくなるように見えるのです。

主体が対象物を体験するという

体験の枠組みが前提されることで、

気づきが気づき自身でありながら、

気づき自身を体験するということが

できなくなるように見えてくる。

> これは、
> 私たちが文字を見るとき、
> 最初は、
> 紙に気づいていないように見えるのと
> 同じことです。

これは文字を読んでいるうちに、

紙に気づかなくなっているように見えるのと

同じことだと。

> しかし、
> 文字について調べていくと、
> 紙が常にあること、
> 文字は紙からできているにすぎないことが
> わかります。

しかし、

文字をよく調べてみると

そこに常に紙があり、

文字とは紙の装いにすぎないことがわかる。

> これと同じように、
> 心(マインド)、体、世界といった
> 見かけ上のあらゆる対象物の体験を
> 詳しく調べていくと、
> それらはすべて
> 気づきだけでできていることがわかります。

それと同じく、

心(マインド)、体、世界といった

思考が想像した

あらゆる対象物の体験も

詳しく調べていくと、

それらの対象物もすべて

実際は気づきがまとった装いに

思考がつけた別名だったとわかる。

──────────────────
 ですから、
 心(マインド)、体、世界といった
 見かけ上の対象物が
 すべて気づきだけでできているなら、
 それらの対象物について話をすることは、
 もはや意味を成しません。
 なぜなら、
 気づき以外の実質というものは
 存在しないからです。
 つまり、
 私たちはもはや、
 対象物から出発して
 気づきへと後戻りする必要はありません。
 現実においては気づきしかないこと、
 対象物というものは気づきの一部、
 もしくは気づきを曲解したものにすぎない
 ということがわかっているのです。
 
 唯一本物の視点である気づきの視点から見ると
 (もちろん、
  それは実際には視点ではありませんが)、
 対象物は存在しません。
 体験があると言うことすらできません。
 なぜなら、
 体験があると言うにはまず、
 体験から一歩下がって、
 もしくは体験から抜け出て、
 それをある「視点」から
 見なければならないからです。
 この視点が架空の内側の自己です。
 この視点が不在のとき、
 そこにあるのはただ、
 名付けることができない、
 純粋な、
 つなぎ目のない親密さです。
 
 対象物、他者、世界は、
 私たちが主体という架空の視点をとるときに、
 見かけ上の存在として現れるにすぎません。
 しかし、
 主体、
 つまり分離した内側にある自己の視点は
 架空の視点です。
 ですから、
 主体が知り、
 理解しているように見える対象物も、
 架空のものにすぎません。
 
 言葉を換えると、
 対象物を知っているように見えるのは
 心(マインド)です。
 気づきは気づきだけを知っています。
 
 私たちはまず、
 対象物だけがあると考えます。
 つまり、
 体、心(マインド)、世界だけが
 あると考えるのです。
 それから私たちは、
 実際の対象物そのものの体験ではなく、
 対象物を知ることだけがあるのだと理解します。
 しかし、
 対象物を知ることだけがあるのならば、
 私たちは対象物を
 対象物として知っているとは言えません。
 言えるのは、
 知ることだけを知っている、
 ということです。
 では、
 知ることを知っているものとは何でしょうか?
 知ることです!
 知ることとは気づきです。
 それ以外ではありません。
 ですから、
 知られているすべてのものは、
 それ自身を知る気づきなのです。
 
 気づきから出発するとき、
 私たちに言えることは、
 心(マインド)、体、世界といった
 見かけ上の対象物はすべて、
 思考が気づきの上に貼り付けた
 名前や形態だということです。
 
 もしも私たちが今、
 気づきとしてあり続ければ、
 心(マインド)、体、世界といった
 見かけ上の対象物はすべて溶け去り、
 ただ、
 気づきとして現れます。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p104-105)
──────────────────

> ですから、
> 心(マインド)、体、世界といった
> 見かけ上の対象物が
> すべて気づきだけでできているなら、
> それらの対象物について話をすることは、
> もはや意味を成しません。

心(マインド)、体、世界といった

日常的に対象物として語られるものが、

実質は気づきであることが明らかなら、

それらがあたかも

客観的対象物であるかのように扱うのは

もはや意味をなさない。

> なぜなら、
> 気づき以外の実質というものは
> 存在しないからです。

というのも、実際のところ

確かに、

気づき以外に客観的に存在するものなど

何ひとつないからだ。

> つまり、
> 私たちはもはや、
> 対象物から出発して
> 気づきへと後戻りする必要はありません。
> 現実においては気づきしかないこと、
> 対象物というものは気づきの一部、
> もしくは気づきを曲解したものにすぎない
> ということがわかっているのです。

ということは。

われわれはもはや、

いちいち対象物から始めて

気づきへと後退するという

論理的手続きを踏む必要はないのだ。

実際に、あらゆる体験は

感覚と知覚から構成されており、

それらが気づきに他ならない以上、

体験できるものはすべて気づきであり、

対象物とは気づきの一部のこと、

あるいは曲解された気づきにすぎない。

体験するものも、体験されるものも

すべてが気づきにほかならないのだ。

> 唯一本物の視点である気づきの視点から見ると
> (もちろん、
>  それは実際には視点ではありませんが)、
> 対象物は存在しません。

つまり、

端的に言うと、

対象物というものは存在していない。

> 体験があると言うことすらできません。

体験があるとすら言えない。

なぜか?

> なぜなら、
> 体験があると言うにはまず、
> 体験から一歩下がって、
> もしくは体験から抜け出て、
> それをある「視点」から
> 見なければならないからです。

なぜなら、

体験というものが存在すると

断言するためには、

体験の外側に出て、

体験の存在を外から確認する

ある種の視点から見なければならない。

> この視点が架空の内側の自己です。

そしてこの視点を提供するのが

架空の“内側の自己”というわけだ。

> この視点が不在のとき、
> そこにあるのはただ、
> 名付けることができない、
> 純粋な、
> つなぎ目のない親密さです。

実際は、

こういう視点は存在できないので、

実際に存在しているのは

どんなラベルも貼ることのできない

純粋な、つなぎ目のない

親密さ。

> 対象物、他者、世界は、
> 私たちが主体という架空の視点をとるときに、
> 見かけ上の存在として現れるにすぎません。
> しかし、
> 主体、
> つまり分離した内側にある自己の視点は
> 架空の視点です。
> ですから、
> 主体が知り、
> 理解しているように見える対象物も、
> 架空のものにすぎません。

対象物、他者、世界は、

実際には存在していない。

主体という架空の視点から

(見たかのように)

想像したときにだけ現れる

架空のラベルにすぎない。

実際は、

主体(分離した内側にある自己)が

存在しない架空の視点である以上、

主体が知り理解するという

すべての対象物も

架空の視点からの思考の想像にすぎず、

実際は存在していない。

> 言葉を換えると、
> 対象物を知っているように見えるのは
> 心(マインド)です。
> 気づきは気づきだけを知っています。

つまり、

対象物について語っているのは

マインド(思考)だけだということ。

気づきは気づきしか知らない。

> 私たちはまず、
> 対象物だけがあると考えます。
> つまり、
> 体、心(マインド)、世界だけが
> あると考えるのです。
> それから私たちは、
> 実際の対象物そのものの体験ではなく、
> 対象物を知ることだけがあるのだと理解します。

私たちは普通、

対象物だけがあると考えている。

体、マインド、世界といったものが

客観的に存在すると考えている。

そのように考えている状態から、

私たちは、

「いや、私たちは

 対象物そのものを実際に体験してはいない。

 実際にあるのは、

 (対象物を)「知る」ということだけだ」

という理解に進む。

> しかし、
> 対象物を知ることだけがあるのならば、
> 私たちは対象物を
> 対象物として知っているとは言えません。
> 言えるのは、
> 知ることだけを知っている、
> ということです。

しかし、

もし(対象物を)「知る」

ということだけがあるのだとしたら、

それは(客観的に存在する)

対象物というものを

(その客観的存在を確認するという意味で)

知っているとは言えない。

そこで言えるのは、

知ることを知っているだけだ。

> では、
> 知ることを知っているものとは何でしょうか?
> 知ることです!
> 知ることとは気づきです。
> それ以外ではありません。
> ですから、
> 知られているすべてのものは、
> それ自身を知る気づきなのです。

では

何がその知ることを知っているのか?

その「知ること」自体が知っている。

知ることとは、

つまり気づき。

それ以外ではない。

だから、

知られているものはすべて

気づきが気づき自身を知るその内容だ。

> 気づきから出発するとき、
> 私たちに言えることは、
> 心(マインド)、体、世界といった
> 見かけ上の対象物はすべて、
> 思考が気づきの上に貼り付けた
> 名前や形態だということです。

こうして

実際に存在する気づきから

吟味を進めると、

心(マインド)、体、世界といった

見かけ上の対象物はすべて、

気づきがまとった装いに

思考が想像した名前を貼り付けたもの、

いわば(思考が気づきに貼り付けた)

気づきの別名にすぎないのだ。

> もしも私たちが今、
> 気づきとしてあり続ければ、
> 心(マインド)、体、世界といった
> 見かけ上の対象物はすべて溶け去り、
> ただ、
> 気づきとして現れます。

もし私たちが

気づきの立場を取りつづけるなら

心(マインド)、体、世界といった

見かけ上の対象物は

すべて溶け去ることになる。

そしてそれらはすべて

ただ気づきとして現れる。

こうして気づきになった方の

言葉をなぞっていると、

それがごく自然なことにも

思われてきます。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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いま、音を立てて

雨が降り出しました。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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