home > 通信 >中毒と非二元論(2)(R・スパイラ):『アセンション館通信』第949号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/06/26(第949号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.中毒と非二元論(2)(R・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.中毒と非二元論(2)(R・スパイラ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日も暑い日でしたね。

ここは山懐なので

街から来られる方は

「5度は低い」と言われます。

それでも

デッキで工作じみたことをしていると

汗をかきました。

工作道具がすべて熱くなってしまって、

最後には家の中に入らざるをえませんでした。

暑かった。

でも面白かった。

できることを工夫しながらやるって、

面白いですよね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』を
眺めていますが、

前回少しだけご紹介した

【中毒と非二元論】という章は、

あれだけでご紹介をやめるのは

ちょっともったいないです。

あの続きをこそ

ご紹介したい感じです。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

前回の引用に続く箇所です。

──────────────────
 あなたのように、
 私たちも自らの体験を正直に見つめれば、
 この思考を必ず見つけ出すでしょう。
 そしてその片割れが、
 もっと奥深い感覚の中に
 身体レベルで存在していることにも
 気づくでしょう。
 それは、
 後に続く中毒の下、
 もしくは背後にあるものです。
 
 それはすべて、
 「体である私」から始まります。
 それがすべての苦しみの源です。
 私たちは中毒行為で
 その苦しみを和らげようとしているのです。
 
 もし社会が、
 ある中毒は他の中毒よりも悪いと非難すれば、
 どんな理由であれ、
 私たちはそれに納得し、
 ある中毒から他の中毒へと
 移行するかもしれません。
 しかし、
 心の中では、
 不快感、逃避、拒絶の炎が燃え続けるでしょう。
 そして、
 それに付き物の幸福の探求
 (それも中毒のまたの名にすぎません)
 も続くでしょう。
 問題の根源にたどり着くまで、
 真に安らぐことはできません。
 
 問題の根源にたどり着くとは、
 分離したように見える「私」の
 根源に向かうということです。
 分離した「私」という信念に向かうだけでなく、
 分離した「私」という感覚にも
 向かうことが重要です。
 
 分離したように見える自己のメカニズムを、
 わかりにくいところもすべて
 はっきり理解したときはじめて、
 私たちはそれから自由になることができます。
 つまり、
 気づきである「私」が意識的に、
 それ自身の中で、
 それ自身として存在し、
 分離の信念や感覚で
 見かけ上覆い隠されることは
 もうないということです。
 
 あなたもお気づきのように、
 信念と感覚の上に重ねられた、
 「すべては等しく気づきの表現なのだから、
  何も問題はない」
 というごまかしを洗い流すだけでは不十分です。
 この種の表面的な思考は、
 見かけ上の分離した自己にとって、
 とても安全な避難所のひとつです。
 
 分離の感覚は、
 自己正当化のためなら
 何でも上手く使いこなします。
 そして、
 うわべだけのスピリチュアリティは、
 分離の感覚が使う道具の中でも
 見破られにくいもののひとつです。
 かくして、
 非二元論という新しい宗教が生まれます。
 しかし、
 これはあなたには当てはまりません。
 
 あなたははっきりと正直に、
 自分の中毒行為が
 ──この場合、
   ポルノグラフィへの中毒──
 もっと深刻でわかりにくい不安の症状、
 つまり、
 分離した自己の症状であることを
 理解しています。
 
 説得力があり、
 完璧に見える非二元的な論法を用いて、
 心(マインド)は
 この行いを正当化しようとします。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p323-324)
──────────────────

> あなたのように、
> 私たちも自らの体験を正直に見つめれば、
> この思考を必ず見つけ出すでしょう。

「この思考」というのは

【それらは根本的な逃避の変化形
 ──分離した「私」
   という考えを中心に回転する、
   絶え間ない思考──
 にすぎないのです。】

要するに、

身体に中にいる“自分”を前提にした

われわれの通常の思考のことです。

> そしてその片割れが、
> もっと奥深い感覚の中に
> 身体レベルで存在していることにも
> 気づくでしょう。
> それは、
> 後に続く中毒の下、
> もしくは背後にあるものです。

この“自分”という観念は

単独の思考ではなく、

身体の奥深くに隠れている

身体化された感情という仲間によって

感覚的に補強されていると。

> それはすべて、
> 「体である私」から始まります。
> それがすべての苦しみの源です。
> 私たちは中毒行為で
> その苦しみを和らげようとしているのです。

この身体化された感情こそが

「体である私」の本体のようなもので、

すべての苦しみの源なのだと

ルパート・スパイラは言います。

そして

分離した自己という架空の観念は、

裸のままでじっくり

調べられたりしないように、

常に表面的な別の話題をもちだしては。

注意の矛先を逸らそうとするわけです。

その結果起こるのが

われわれの思考中毒であると。

> もし社会が、
> ある中毒は他の中毒よりも悪いと非難すれば、
> どんな理由であれ、
> 私たちはそれに納得し、
> ある中毒から他の中毒へと
> 移行するかもしれません。

「その考えは間違っている、

 本来はこう考えるべきだ……」
 
なんてのはわれわれの全員の

常習的な論理展開ですよね。

> しかし、
> 心の中では、
> 不快感、逃避、拒絶の炎が燃え続けるでしょう。

相手にはそう言いながらも、

言っている当人は

穏やかに静まっているわけではなく、

「あるがまま」に対する

絶えざる拒絶で落ち着かないのです。

> そして、
> それに付き物の幸福の探求
> (それも中毒のまたの名にすぎません)
> も続くでしょう。
> 問題の根源にたどり着くまで、
> 真に安らぐことはできません。

これがいわゆる

求道(幸福の探求)というもので

これは中毒症状の言い換えにすぎない。

この中毒の根本原因にたどり着いて

その誤解を見抜くまでは

本当に安らぐことはできない。

> 問題の根源にたどり着くとは、
> 分離したように見える「私」の
> 根源に向かうということです。
> 分離した「私」という信念に向かうだけでなく、
> 分離した「私」という感覚にも
> 向かうことが重要です。

中毒の根本原因にたどり着くとは、

身体の中にいるとされる

分離した自己の根源に向かうこと。

ただしそれを

単に知的に理解するだけではなく。

身体化された感覚・感情レベルで

見抜くことが重要なのだと。

> 分離したように見える自己のメカニズムを、
> わかりにくいところもすべて
> はっきり理解したときはじめて、
> 私たちはそれから自由になることができます。

分離した内部の自己という

虚構のメカニズムを、

隅から隅まで論理的にも理解し、

感覚的体験としても見届けてはじめて、

われわれはその内部の自己から

解放されるのだと。

> つまり、
> 気づきである「私」が意識的に、
> それ自身の中で、
> それ自身として存在し、
> 分離の信念や感覚で
> 見かけ上覆い隠されることは
> もうないということです。

そうしてはじめて、

われわれは「気づき」として

意識的に「気づき」のままでいる

ことができるようになる。

> あなたもお気づきのように、
> 信念と感覚の上に重ねられた、
> 「すべては等しく気づきの表現なのだから、
> 何も問題はない」
> というごまかしを洗い流すだけでは不十分です。

「気づき以外には何も存在しない以上、
 
 すべては気づきの表現なのだから
 
 何も問題はない」

と単に知的なドグマとして語るのは

誤魔化しだ……

というだけでは不十分なのだと。

(……ここ、

 ルパート・スパイラの話し言葉でしょうか。
 
 ちょっと論理がダブっているか、
 
 あるいは過剰なような。)

> この種の表面的な思考は、
> 見かけ上の分離した自己にとって、
> とても安全な避難所のひとつです。

こういう非二元論的ドグマは、

分離した内側の自己にとって

とても安全な隠れ家になる。

> 分離の感覚は、
> 自己正当化のためなら
> 何でも上手く使いこなします。

このあたりに関しては、

マイケル・ラングフォードも

2つの章を割いて

とても詳細に語ってしますね。

> そして、
> うわべだけのスピリチュアリティは、
> 分離の感覚が使う道具の中でも
> 見破られにくいもののひとつです。

このあたりはもう、

pariには何も言えません。(*-_-*)

> かくして、
> 非二元論という新しい宗教が生まれます。

最後の奥の院「アドヴァイタ」さえも、

宗教になってしまう。

ルパート・スパイラが

ここで「宗教」という言葉を

肯定的なニュアンスで使っていないことは

言うまでもありません。

> しかし、
> これはあなたには当てはまりません。

しかし、

質問者のあなたは

この轍にハマってはいません。

> あなたははっきりと正直に、
> 自分の中毒行為が
> ──この場合、
>   ポルノグラフィへの中毒──
> もっと深刻でわかりにくい不安の症状、
> つまり、
> 分離した自己の症状であることを
> 理解しています。

あなたは自分のポルノへの耽溺が

「内側の自己」の症状であることを

はっきりと理解している。

> 説得力があり、
> 完璧に見える非二元的な論法を用いて、
> 心(マインド)は
> この行いを正当化しようとします。

というのも、

「内側の自己」なら、

説得力に満ちた完璧に見える

非二元的な論法を用いて

このポルノ中毒を正当化することは

たやすいはずなので。

──────────────────
 しかし、
 あなたは、
 それが真の理解の表現ではなく、
 心(マインド)が非二元的な教えを利用して
 自らの信念システムを正当化しているにすぎない
 ということを見抜きました。
 これは私たちの時代における、
 スピリチュアルなエゴの主な特徴のひとつです。
 
 この点において、
 心(マインド)の偽のロジックに関する
 あなたの分析は的を射ています。
 衝動、行動、罪悪感、
 正当化のプロセスに関して、
 あなたが気づいたことも然りです。
 では、
 どうしたらよいのでしょうか?
 
 問題の中心
 ──見かけ上の分離した自己、
   つまり、
   気づきが覆い隠されたように見えること──
 に向かいましょう。
 このふたつは同じです。
 
 心(マインド)のレベルで
 それを調べてみましょう。
 つまり、
 分離した自己の存在を正当化するように見える
 私たちの信念を調べてみましょう。
 あなたの体験を調べ、
 自分自身の結論を見出します。
 そのような信念には、
 何の体験的根拠もない
 ということに気づいてください。
 
 このことを確信すれば、
 感覚のレベルで、
 分離感をより深く調べることができます。
 そこが、
 見かけ上の自己の本当の住処です。
 
 このように、
 より深い探求を行わないと、
 非二元論はたいてい
 単なる信念で終わってしまいます。
 結果として、
 非二元論の真の体験的理解に
 本来備わっているはずの平安と幸福は
 依然として
 とらえどころがないままとなります。
 すると、
 さらなる模索は避けられません。

 しかし、
 ポルノ中毒のよいところは、
 アルコールやたばこ、
 ドラッグと違って、
 主に思考、
 感覚レベルのものなので、
 体に持続的な影響を及ぼさないという点です。
 飲酒や喫煙、
 ドラッグはしばしば
 取り返しのつかない影響を及ぼしますし、
 少なくとも、
 それらへの衝動が治った後も
 ずっと影響が残ります。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p325-326)
──────────────────

> しかし、
> あなたは、
> それが真の理解の表現ではなく、
> 心(マインド)が非二元的な教えを利用して
> 自らの信念システムを正当化しているにすぎない
> ということを見抜きました。

しかし質問者のあなたは、

そのような表面的な論理展開が

「内側の自己」の狡猾な防衛策であり、

「内側の自己」の正当化に

すぎないことを見抜きました。

> これは私たちの時代における、
> スピリチュアルなエゴの主な特徴のひとつです。

この宗教としての非二元論というのは、

現代における霊的エゴがまとう

代表的な衣装のひとつです。

> この点において、
> 心(マインド)の偽のロジックに関する
> あなたの分析は的を射ています。
> 衝動、行動、罪悪感、
> 正当化のプロセスに関して、
> あなたが気づいたことも然りです。

あなたはエゴが展開する

この偽りのロジックを見抜き、

それを的確に分析してます。

そして衝動、行動、罪悪感、

正当化のプロセスに関しても

あなたの理解は妥当です。

> では、
> どうしたらよいのでしょうか?

ではどうしたらいいか?

> 問題の中心
> ──見かけ上の分離した自己、
>   つまり、
>   気づきが覆い隠されたように見えること──
> に向かいましょう。
> このふたつは同じです。
> 心(マインド)のレベルで
> それを調べてみましょう。

問題の中心に向かうことです。

いわゆる「内側の自己」を

調べることです。

言葉を換えると

「気づき」が覆い隠されて

見えなくなっていると思えることを

調べるということです。

この2つは同じことです。

まずマインドのレベルで

それを調べてみるのです。

> つまり、
> 分離した自己の存在を正当化するように見える
> 私たちの信念を調べてみましょう。
> あなたの体験を調べ、
> 自分自身の結論を見出します。
> そのような信念には、
> 何の体験的根拠もない
> ということに気づいてください。

身体の内側に自己が存在する

という観念を正当化するように見える

世間的な一般通念を徹底的に調べて、

あなた自身の結論を見つけてください。

身体の内側に自己がいるという

一般常識的な信念に

実際は何の体験的根拠もないことに

自分で気づいてください。

> このことを確信すれば、
> 感覚のレベルで、
> 分離感をより深く調べることができます。
> そこが、
> 見かけ上の自己の本当の住処です。

まず知的に

身体の内側に分離した自己など

存在しないことが確信できたら、

今度は感覚レベルで

身体化された分離感を調べるのです。

内側の自己の本体はそこにいます。

> このように、
> より深い探求を行わないと、
> 非二元論はたいてい
> 単なる信念で終わってしまいます。

そのように

感覚レベルでの探究を行わないと、

非二元論は単なるドグマで

終わってしまいます。

> 結果として、
> 非二元論の真の体験的理解に
> 本来備わっているはずの平安と幸福は
> 依然として
> とらえどころがないままとなります。
> すると、
> さらなる模索は避けられません。

ドグマ的理解のままの非二元論は、

現代の分離した自己にとっての

格好の隠れ家となってしまい、

本来もたらしうるはずの

平安と幸福をもたらすことはありません。

つまりは

探究は終わらないということです。

> しかし、
> ポルノ中毒のよいところは、
> アルコールやたばこ、
> ドラッグと違って、
> 主に思考、
> 感覚レベルのものなので、
> 体に持続的な影響を及ぼさないという点です。

けれどもポルノ中毒には

アルコール・たばこ・ドラッグ

といった他の中毒に比べて

良い点があります。

それはポルノはあくまでも

思考・感覚レベルのものなので、

肉体に持続的な影響を及ぼさないのです。

> 飲酒や喫煙、
> ドラッグはしばしば
> 取り返しのつかない影響を及ぼしますし、
> 少なくとも、
> それらへの衝動が治った後も
> ずっと影響が残ります。

その点、

飲酒・喫煙・ドラッグは

しばしば取り返しのつかない

影響を及ぼします。

中毒症状が治った後も

長く影響が残るからです。

(今回はここまでにしておきます)

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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この太陽系第三惑星という夢は、

かなり特殊なのかもしれませんね。

だからこそ、

アドヴァイタ(非二元論)のような

かなり極端な解毒剤が

ありえたのかもしれません。

標準的なニューエイジの

教えではなさそうですものね。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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