home > 通信 >中毒と非二元論(3)(R・スパイラ):『アセンション館通信』第949号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/07/03(第950号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.中毒と非二元論(3)(R・スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.中毒と非二元論(3)(R・スパイラ)
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暑さが止まりませんね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

現存である「私」の前に

わいてくる思考はすべて、

「あるがまま」とともに、

ただ在ることに堪えられず、

考えることに逃げ出そうとする

努力の現れであるとするなら、

思考そのものが

架空の「内側の自己」という

活動であるのは間違いありません。

考えるとは、

<いま>そのものの中にわいてきた

「あるがまま」への

抵抗ということでしょう。

身体が生きているということ、

この生きている身体にわく感覚が

この身体の“内部の自己”という

物語と結びついて

いかにも実体がありげな

“自分”という観念を

支えているのだと思います。

わいてくるあらゆる思考は、

「あるがまま」への抵抗なのですね。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の

最後近くに収録されている

【中毒と非二元論】という章には、

まだ最後の部分があります。

私たちのいわゆる普通の人生が、

いかにして「あるがまま」を回避するか、

という努力で成り立っているかが

よくわかる内容の文章です。

最後の箇所だけご紹介します。

──────────────────
 結局のところ、
 探究することで平安と理解が
 もたらされるわけではありません。
 平安と理解が、
 この調査と探求を花開かせるのです。
 そして、
 平安と理解は、
 分離したように見える自己と、
 その思考や感覚、
 行動のパターンをすべて
 ──たいてい場合、
   ゆっくりと──
 吸収し、
 それ自身へと戻すのです。

         ∞
 
 腰を落ち着けて、
 こうした思考が現れるのを許すとき、
 そして、
 もっと重要なことに、
 不快な感覚が現れるの許すとき、
 大切なことは、
 それらに対して、
 たとえわずかでも
 作戦を立てたりしないことです。
 「思考や感覚を取り除く」ために、
 「これをする」のはやめてください。
 それでは以前とまったく同じです。
 
 愛情深いけれど中立的な
 あなたの現存(プレゼンス)の中で、
 思考と感覚が勢揃いして
 現れるのに任せましょう。
 やがて、
 それらの凶暴さが静まり、
 分離した実体として考えたり感じたりする、
 より微妙な層が現れてきます。
 そして私たちは、
 小さくてほとんど無害な、
 背景にある思考に行き当たるのです。
 それに関しては、
 以前にもお話ししました、
 
 この背景にある思考は、
 分離の感覚、
 つまり「エゴ」ですが、
 見たところ穏やかそうで、
 最も感知されにくい形態かもしれません。
 これには十分注意を払ってください。
 巧妙な形の「ありのままからの逃避」に
 注意しましょう。
 それは、
 ふわふわとしてかわいらしい
 動物の赤ちゃんのようですが、
 のちにモンスターとなるのです!
 
 時が経つにつれ、
 私たちは増すます注意深く、
 敏感になります。
 「ありのまま」を避けるためにだけに、
 「これ」や「いま」を避けるためだけに、
 私たちがどれほど多くのことを考えたり
 感じたりするのか、
 そして、
 どれほど多くの行動を取っているのか、
 気づくようになるのです。
 
 心を開いて、
 判断したり避けたりせず、
 すべてのものを受け入れると、
 やがて「私」は気づきの中に
 本来の場を取り戻します。
 そして、
 私たちの真の自己として
 その中にあり続けると、
 その結果、
 思考、感情、活動が、
 真の自己に内在する平安と幸福に、
 穏やかに再統合されるのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p300)
──────────────────

> 結局のところ、
> 探究することで平安と理解が
> もたらされるわけではありません。
> 平安と理解が、
> この調査と探求を花開かせるのです。

「あるがまま」への抵抗である思考、

その思考の一つの活動形態である「探究」が

平安と理解をもたらすのではないと。

そうではなく、

「あるがまま」の平安と理解が

調査と探究が花開くように

誘っているのだと。

> そして、
> 平安と理解は、
> 分離したように見える自己と、
> その思考や感覚、
> 行動のパターンをすべて
> ──たいてい場合、ゆっくりと──
> 吸収し、
> それ自身へと戻すのです。

何事も思考や感覚や行動

といった努力の結果起こるのではなく、

「あるがまま」の平安と理解が、

“分離した自己”という観念を含め

すべての思考や感覚や行動パターンを

自らの中へ吸収するのだと。

> 腰を落ち着けて、
> こうした思考が現れるのを許すとき、
> そして、
> もっと重要なことに、
> 不快な感覚が現れるの許すとき、
> 大切なことは、
> それらに対して、
> たとえわずかでも
> 作戦を立てたりしないことです。
> 「思考や感覚を取り除く」ために、
> 「これをする」のはやめてください。
> それでは以前とまったく同じです。

思考そのものが

「私」である現存の中に現れる

「あるがまま」に対する

抵抗であることを知りながら、

不快な感覚が現れても、

それに対処しようとするのではなく、

ただ現れるままにしておく。

現れる感覚に対して

何かをしようとすることは、

「あるがまま」の中に

新たな現れを追加するだけのことで、

それではこれまでと同じこと。

> 愛情深いけれど中立的な
> あなたの現存(プレゼンス)の中で、
> 思考と感覚が勢揃いして
> 現れるのに任せましょう。

「あるがまま」の<いま>の中に

思考であれ感覚であれ

現れるものはすべて

現れるままにしておく。

> やがて、
> それらの凶暴さが静まり、
> 分離した実体として考えたり感じたりする、
> より微妙な層が現れてきます。

そうした態度をつづけていたら、

やがて現れる思考や感覚の

凶暴さが静まってきて、

“分離した自己”という

虚構のまわりに起こっている思考や感覚の

より微妙な層が現れてくる。

> そして私たちは、
> 小さくてほとんど無害な、
> 背景にある思考に行き当たるのです。
> それに関しては、
> 以前にもお話ししました、

それは通常の思考や感覚の

その背景にある

ほとんど無害に見える小さな思考だ。

> この背景にある思考は、
> 分離の感覚、
> つまり「エゴ」ですが、
> 見たところ穏やかそうで、
> 最も感知されにくい形態かもしれません。

この背景にある思考が

「エゴ」の本隊なのだが、

これは一見とても穏やかで

最も感知されにくい形態かもしれない。

> これには十分注意を払ってください。
> 巧妙な形の「ありのままからの逃避」に
> 注意しましょう。
> それは、
> ふわふわとしてかわいらしい
> 動物の赤ちゃんのようですが、
> のちにモンスターとなるのです!

この「エゴ」の本隊には

十分注意を払う必要がある。

それはごく無害に見える

巧妙な形の「ありのままからの逃避」

かもしれない。

動物の赤ん坊のような

何の邪神もないふわふわした

可愛らしい想念とも見えるかもしれないが、

これがのちに怪物となって暴れるのだ。

> 時が経つにつれ、
> 私たちは増すます注意深く、
> 敏感になります。

その背景の想念を

ただそのままにしておく力をつけたら、

私たちはますます力をつけ

注意深く、敏感になる。

> 「ありのまま」を避けるためにだけに、
> 「これ」や「いま」を避けるためだけに、
> 私たちがどれほど多くのことを考えたり
> 感じたりするのか、
> そして、
> どれほど多くの行動を取っているのか、
> 気づくようになるのです。

ただ「あるがまま」を避けるという

ただそれだけの目的のために、

どれほど多くの想念がわいてくるか、

どれほど多くの感覚がわいてくるか、

どれほど多くの行動を取っているのかに

気づくようになるのだ。

> 心を開いて、
> 判断したり避けたりせず、
> すべてのものを受け入れると、
> やがて「私」は気づきの中に
> 本来の場を取り戻します。
> そして、
> 私たちの真の自己として
> その中にあり続けると、
> その結果、
> 思考、感情、活動が、
> 真の自己に内在する平安と幸福に、
> 穏やかに再統合されるのです。

それらのことを

判断したり避けたりせずに

そのまま受け容れていると、

やがて「私」は

気づいている現存としての

本来の位置を取り戻すことになる。

そしてそのような

真の「私」としてあり続けると、

わいてくるすべての

思考、感情、滑動が、

気づいている現存に内在する

平安と幸福に、

穏やかに再統合されることになる。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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この時間になるとこの山里では

窓を開けていれば涼しい風が

部屋の中に吹き込んできます。

ありがたいことです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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