━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/07/10(第951号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.旧友へのメール
2.編集後記
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■ 1.旧友へのメール
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びっくりするようなことが起こりますね。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
今回外国に住んでいる
古い友人からメールをいただき、
その前にいただいたメールとの関連で、
ちょっと長いご返事を書きました。
このメルマガにも流用しようと
思ってのことでした。
彼女は英語と日本語で
対訳の詩を書く詩人で、
本国でも日本でも詩人の賞を
受賞されています。
わたしは彼女が表現者であって
探求者というのとは違うと
思っていたのですが、
かなりスピリチュアルな探究にも
関心をおもちのようなので、
今回、わたしがこの20年間で
学んだことを簡単にシェアしたいと
思ったのでした。
それは現段階での自分の理解を
自分なりに見晴らしてみる
ひとつの試みでもありました。
自分が書いた部分だけを、
ここでもシェアしたいと思います。
と言っても、
いつも書いているようなことだけですが。
………○………○………○………
わたしの今の状態というのは、
おわかりだと思いますが、
「脱落」というのは起こっていません。
つまり、
まだ思考が湧いてくるということです。
「思考」というのは何かというと、
「あるがまま」以外の何かを望んでいる状態、
といったらいいでしょうか。
つまり、
「あるがまま」に対する
「抵抗」があるということです。
起こるべき「あるがまま」が
そのまま起こってしまったら困る、
できることなら
自分にとって都合がいいような事態が
起こって欲しい、という状態です。
なぜこの「あるがまま」に対する
「抵抗」があるのかというと、
この身体に対する自己同化があるからです。
つまり、
この身体が自分だと思っているので、
身体が崩壊すると
自分も存在できなくなってしまう、
という誤解がそこにあるわけです。
だから「あるがまま」が
そのまま起こることを、
なんとか回避したいという感覚があるわけです。
その「あるがまま」を回避する傾向の
もっとも素直な現れ方が、
湧いてくる思考に注目することです。
わたしたちが体験することは、
すべてわたしたちが知覚したり、
感覚したりする内容から構成されています。
それで、
物心ついてからのわたしたちは、
この身体が自分だと思いこんでいる、
つまり身体と自分の一体化が完了しているので、
自分はこの身体の内部にいる
という感覚が染み込んでいるのです。
●【内部の自己】
これを【内部の自己】と呼ぶことにします。
そしてわたしたちが普段、
知覚したり感覚したりしていること
(つまり知覚情報や感覚情報)は、
この【内部の自己】を中心にして、
その周囲で起こっているように思われるわけです。
しかし、実際の体験で、
この【内部の自己】が知覚されたり、
感覚されたりすることはありません。
実際の知覚体験、感覚体験では、
この【内部の自己】は確認できないのです。
それは、ちょっと目を閉じてみれば、
簡単に実験することができます。
試しに、
今ちょっと目を閉じてみてください。
この目を閉じた状態の中で
「自分が意識している」こと、
あるいは「自分が気づいている」こと、
あるいは「自分が存在している」ことは
わかりますね?
目を開けて前を見てください。
すると、なんであれ、
目の前にあるものが見えます。
今その眼前にある光景に気づいているのが、
さっき目を閉じていたときに、
そこに「存在していた自分」、
「気づいていた自分」と同じものだ、
ということはわかると思います。
では、もう一度、目を閉じてください。
目を閉じたときのその中の
どこに【内部の自己】がいるかわかりますか?
どこかに【内部の自己】を知覚できますか?
あるいは【内部の自己】を感覚できますか?
よく【内部の自己】は首より上に
いるような気がする、と言われます。
そしてもう少し場所を狭めると、
眉間の中央の少し後ろ側にいるような気がする
とも言われます。
それは眉間のあたりの
身体感覚からくる判断のようです。
しかし、自分というのは
それに「気づいている者」ですよね。
気づかれている眉間の辺の感覚は、
気づいている自分とは
違うのではありませんか?
気づかれている感覚は自分ではなく、
気づいている自分の
知覚の対象物ではないでしょうか?
いま遠くと思われるところから
聞こえてくる何かの物音があるとします。
すると、
それに気づいているその同じ「気づき」が、
眉間の後ろあたりのその感覚にも気づいている
ということがわかるのではないでしょうか?
その「気づき」はどこにいるんでしょう?
自分の身体の中にいると思いますか?
身体が「気づき」を所有していると思いますか?
それとも、もしかすると、
「気づき」の中に
身体が現れているんじゃないでしょうか?
こう言われたからといって、
無理に納得する必要はまったくありません。
自分で納得するまで
調べてみられるといいと思います。
たぶん、
どこにも【内部の自己】は知覚されないことが
納得されるだろうと思います。
【内部の自己】というのは
ただの空想された虚構の観念で、
実際には存在していないのです。
そして人間の苦しみの根本原因は、
この存在しない【内部の自己】との
想像上の一体化にあるのです。
●【探究】
「探究」(or「求道(ぐどう)」)とは、
この存在しない【内部の自己】が
苦しみのあまり、
その苦しみからの脱出口を探し求め、
ついには「悟り」を開いて
あらゆる苦しみを解脱する
という観念です。
この観念遊戯は
えんえんと続けることができます。
つまり、
えんえんと「悟り」ゲームを演じ続け、
「悟り」を遠方に押しやることができる
ということです。
しかし実際には
【内部の自己】というのは
単なる想像上の虚構の観念なので、
それに相当する実体は存在しません。
実際には存在すらしていない
【内部の自己】が
悟りを達成できる可能性など
最初からあるはずもありません。
「悟り」というのは、
悟らなければならないような、
あるいは悟ることができるような、
どんな【内部の自己】も
最初から存在していなかった、
ということが直感的にわかることなのです。
「探究」とはただの先延ばしゲームです。
何を先延ばししているのか?
自分がすでに
想像しうる最高のゴール地点にいる、
自分こそが至高の存在だという真実を
認識することを先延ばししているのです。
なぜ、そんなことをするのか?
ひとつには、Why not?
どうしてそうしていけない理由がある?
という言い方もできます。
もうひとつには、
それはなかなか楽しいことでもある。
とも言えます。
●【神聖遊戯(リーラ)】
この【内部の自己】というのは
現在わたしたちが体験しているような
人生というものを現実化するためには、
とても巧みにできた仕掛けなのです。
自分で何かを体験するためには、
自分で何かに成って、
しかもその何かに成った自分を
自分で認識できなければならない、
ということはおわかりになると思います。
その状態を
あえて二元的な表現で描写するなら、
自分で何かに成るということは、
自分がすべてであっては不可能なのです。
つまり、
自分はこういう者だと宣言して、
自分が何かであることを表現するためには、
自分以外のものも存在するということを
前提する以外に方法がありません。
つまり、
自分はこうだと言うためには、
自分以外の他者が存在する必要があるのです。
そのため、
自分が何であるかを表現するためには、
自分が認識できる対象物として、
自分と自分以外の他人と
その背景としての環境(世界)が
存在しなければならない、
ということになります。
これ以外のやり方で
自分(が何であるか)を表現する
方法はありません。
わたしのメルマガの趣旨として
巻頭に次のような言葉を掲げています。
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〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
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「自己」が自分を表現しようと思えば、
それ以外の方法はないのです。
なぜなら、存在しているのは
<意識=気づき=存在=私=自己>だけで、
それ以外には何も存在していないからです。
つまり森羅万象(現象全体)というのは
<気づき>に認識されて
初めて存在できるのであって、
<気づき>とは別個に
あるいは<気づき>とは無関係に
客観的に存在しているものではないのです。
【神聖遊戯(リーラ)】とは、
現れているものはすべて神の遊び、
すべての芝居は神の姿、という意味です。
すべての現れは
神の前に夢のように現れているのです。
つまり、
この夢を観ている者こそ「神」であり、
取りも直さず「私」だということです。
で、
こういう話を聞いて、
たちまち「神」の自覚に確立するような
タイプの方もいます。
ただし、めったにはいません。
たぶん、
大宇宙という夢が崩壊しないように、
一種の「大数の法則」が
働いているのでしょう。
●【覚醒】
では。覚醒する、
目覚めるとはどういうことを言うのか?
一番簡単に「目覚める」という言葉の
イメージを理解するには、
夜眠っているときに見る個人的な夢から
朝になって「目覚める」場合から
類推するのが一番簡単です。
朝になって、寝覚め間際まで観ていた
夢から目が覚めたときのことを
思い出してみてください。
ついさっきまで夢を観ていたとしても、
一旦目が覚めてみれば、
その夢の世界が自分の記憶の中にある
データベースから想像された架空の世界であって、
実際はどこにも存在していなかったと
ただちに理解が起こります。
今ここに目覚めている人間は、
さっきまで見ていた夢が創造した人間だ、
と思う人などいないはずです。
これが「覚醒」です。
さっきまで夢見ていた世界は
実際にはどこにも存在していない、
ということが自明にわかるのが
「目覚め」というものです。
そこには一厘の疑いもありません。
ただ、
朝起きて個人的な夢から目覚めても、
それは本当に目覚めたのではなく、
日常というより大きな夢の中に
入ったにすぎないということはあります。
そして、いわゆる
「悟り」という言葉が意味しているのは、
今まで現実世界だと思っていたこの世界は、
実際は、<意識>が観ている夢にすぎなかった。
それは時間と空間という
観念装置の中で組み立てられた
観念が織りなす想像にすぎなかった、
という理解です。
そのとき、
存在しているのは
<気づき>だけであり、
今まで日常の現実の中にいる人たちは、
自分も含めてすべてが
夢の中の登場人物にすぎなかったことが
明々白々に成るわけです。
●【興味・こだわり・執着=現実世界】
では探究に熱心だった人たちが
こんな話を聞いたとして
誰もが納得して夢から覚めるでしょうか?
むろん、
なかには目覚める人もいると思います。
しかし、大部分の人たちは
たとえ長年の探求者であったとしても、
その人なりの現実感を抱えているものです。
その人にとって
ちょうどよい頃合いの現実感に
フォーカスするものなのです。
わたしがもう何年も読んでいる
ニサルガダッタ・マハラジという覚者は、
そのことを次のような言葉で語ります
──────────────────
解放への道には
何も立ちはだかっていない。
そしそしてそれは今ここで
起こることができる。
だが、
あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたは
その興味と闘うことはできないのだ。
あなたはそれとともに行き、
それを見抜き、
それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
それ自体が自ら暴くのを
見守らなければならないのだ。
『私は在る』(p475)
──────────────────
(-||-)
もう、
充分に長過ぎるほど書きました。
興味が惹かれないところは
どうぞ飛ばしてくださいね。
ここまで読んでくださって、
ありがとうございました。
m(_ _)m
paritosho
………○………○………○………
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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………○…………○…………○………
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
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■ 2.編集後記:
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世の中は
別の話題でもちきりですね。
それなのにこの人は、
こんな話ばかり書き続けて。(*^_^*)
でも、
多次元宇宙とは
そういうところなんでしょうね。
この時間になるとこの山里では
窓を開けていれば涼しい風が
部屋の中に吹き込んできます。
ありがたいことです。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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