home > 通信 >「自己」と「現象世界」:『アセンション館通信』第953号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/07/24(第953号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「自己」と「現象世界」

2.編集後記
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■ 1.「自己」と「現象世界」
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今日もけっこう暑いですね。

夏だものなぁ。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

映画のスクリーンは

そこに投影されている映画の内容には

関心がないともいえます。

どんな物語が投影されていようと

それはすべて

スクリーンである自分の存在に拠って

現象できていることは間違いないのですから。

ところで、当然ですが、

どんなアナロジーにも

おのずから適用の限界があります。

なのでスクリーンと映画という比喩では、

非顕現である「自己」と

顕現である現象世界……を

とうてい写像できない面はあります。

「スクリーン」と「映画」の関係は、

語ることができるでしょう。

しかし、

非顕現である「自己」と

顕現である「現象世界」の

関係を語ることはできないでしょう。

なにしろそれは同じものなのですから。

しかし、

「アドヴァイタ(非二元論)」の

観念や用語を知ったわれわれは、

「自己」というと

すべてに浸透している永遠の不動、

つまり絶対的主体性をイメージする反面、

「現象世界」というと

個人が体験している多種多様な体験世界

をイメージしてしまうのも事実です。

この両者が“同じもの”だと言われても、

そこはなかなか腑に落ちない。

すべてに浸透している「自己」

……と言われれば、

ちょっと肩で風切る感じにもなりますが、(^_-)

“自分”が体験している現象世界

……と言われると、

なんかこう惨めな気分にもなる。(*^_^*)

この落差やいかに?

それが問題だ。(-_-;)

(*^_^*)

ところで

「スクリーン」と「映画」の比喩に戻ると、

「スクリーン」が自分の上に

投影されている「映画」に

興味をもっていないだろうことは

まず間違いないでしょう。

いちいち投影される映画に

興味をもっていたら身がもちません。

次の映画は休みたくなる。(^_-)

そして、

非顕現である「自己」が

顕現である「現象世界」に

興味をもっていないだろうことも

間違いありません。

鏡が映し出している世界に、

興味を持たないようなものです。

さてところで、

「スクリーン」は

自らの上に投影されている「映画」を

理解しているでしょうか?

いや、それはないでしょう。

「スクリーン」は

自分の上に投影されている「映画」に

興味がないだけでなく、

理解もしていないでしょう。

では、その辺は、

非顕現と顕現ではどうだろうか?

非顕現である永遠の不動が

顕現である「現象世界」に

興味がないことは間違いない。

ならば、

その永遠の不動の「自己」は

永遠の変化である「現象世界」を

理解していないのだろうか?

いや、それはありえない。

非顕現である「自己」は

顕現である「現象世界」の

ドタバタ活劇を理解している。

何が起こっているかを理解している、

しかし、

非顕現である「自己」は

顕現である「現象世界」に興味はない。

「自己」が

「現象世界」に興味はないのは、

それを理解していないからではなく、

それを理解しているからです。

では、

「自己」は「現象世界」に

興味がないにもかかわらず、

なぜ「現象世界」を映し出すのか?

興味がないなら、

「現象世界」を映し出すのなど

やめたらいいではないか。

それをなぜ映し出すのか?

それは

非顕現である「自己」が

顕現である「現象世界」を

愛しているからです。

顕現である「現象世界」は、

非顕現である「自己」の

表現なのです。

「存在」は、

自らの存在を愛しているだけでなく、

自らの表現も愛しているのです。

それをやめるには及ばない。

やめる理由もないのです。

ただし、

自らの表現に

興味があるわけではない。

それが何であるかを

「自己」は理解している。

永遠の不動である「自己」は、

永遠の変化である「現象世界」が

何であるかを知っている。

なぜならその永遠の変化の総和が

永遠の不動である「自己」であること、

じつは何も起こっていないことを

知っているからです。

永遠の変化である「現象世界」は

波動が織りなす多次元宇宙です。

そこにはさまざまの立場も包含関係もある。

しかし“立場”とは何か?

それは「観念」です。

そこに何らかの実体があるわけではない。

分離のないところに分離を想像し、

その虚構の分離の境界線によって

構想されたつかの間の虚構の観念でしかない。

想像の中で一瞬現れた虚構の観念は、

一瞬後には別の姿に変化してゆく

大空に浮かぶ雲の姿のようなものです。

ただしそのつかの間の姿に

入れ込む“立場”の意識は現象する。

それは観念構造である

“物語”の中に入れ込んだ

“立場”の意識です。

そこに何らかの実体が存在するわけではない。

実体は永遠の不動である

「自己」の中にしかない。

それにもかかわらず、

永遠の変化である「現象世界」は、

「自己」の表現でもあるのです。

だから、理解しているがゆえに、

「自己」はそれに興味をもたない。

ただ自らの「存在」を愛するように、

自らの「表現」も愛している。

だから

非顕現である「自己」は

顕現である「現象世界」を許し、

それを映し出してやまないのです。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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まだ暑いです。

西日にはなったけれど、

まだ昼の真っ盛りです。

今日は昼のうちに終わりました。

ではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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