━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/08/14(第956号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.誰がショーを見ているのか?(L・ハートン)
2.編集後記
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■ 1.誰がショーを見ているのか?(L・ハートン)
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先程まで一時的に強い雨が降りましたが、
いまはもう台風も通り過ぎてます。
涼しいのはありがたい。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
相変わらず夜寝る前に
ベッド脇に本を置く癖は直りませんが、
このごろは寝床の中で
本を読むことはなくなりました。
その代わり朝目が醒めたときに
床の中でグズグズしながら
本を眺めるのを楽しんでいます。
何度も読んでいるのに、
朝のその状態だと新鮮なんです。
レオ・ハートンの『夢へと目覚める』のなかに
「11 誰がショーを見ているのか?」
という章があります。
今あなたの人生というショーを見ているのが、
あるいは体験しているのが自分であることを
あなたは否定しないだろうと思います。
あなたのその人生が
あなたにしか起こっていないことは
間違いないわけですから。
あるいは
少し言い方を換えるなら、
今あなたの人生というショーを
体験しているのが自分であることは間違いない。
しかしその自分の人生を
見ているのが自分であるかどうかは確信がない
といったところかもしれません。
というのも我々は
実際は自分が注意を向けたものしか
体験していないからです。
レオ・ハートンは
その「11 誰がショーを見ているのか?」の前半で
〈意識〉と「注意」の違いについて、
こんなふうに書いています。
──────────────────
11 誰がショーを見ているのか?
学校で教師が黒板に「私」と書き、
何が見えるか生徒に尋ねたとしたら、
生徒の大半は「私」という文字が見えます
と答えるだろう。
「私」という文字が書かれた黒板が見えます
と答える生徒はまずいない。
ひとつの文字が注目され、
それよりも巨大な黒板が無視されるのと
ちょうど同じように、
あらゆる現象の永遠の背景である〈意識〉を
我々は無視している。
映画が映されているスクリーンの存在を
忘れているのと同じで、
〈意識〉には見向きもしない傾向がある。
スクリーンはあらゆる映画における普遍の性質だが、
それ自体として映画に絡むことは決してない。
映画は海や曲がりくねった長い道や
殺人や山火事を映し出すかもしれないが、
スクリーンが湿ったり移動したり
血を流したり燃えたりはしない。
同様に、
〈意識〉もその内容に影響されず
純粋であり続ける。
〈意識〉はあらゆる経験の内にあり
背後にある一貫した性質だが、
我々の注意を非常に容易にすり抜けるものでもある。
注意は〈意識〉と同じものではない。
人間の脳は、
何かに注意を向けると自動的に
それ以外のものを無視するように作られている。
星を見れば空間を無視し、
この文章を読めばページを無視し、
映画を観ればスクリーンを無視する。
けれども、
無視された空間やページやスクリーンが、
我々の注意をつかんでいる
星や文章や映画と同じくらい
我々の観察の土台を成しているのは明らかだ。
これは重要なポイントだが、
それは注意の仕組みが
〈意識〉と混同されることが多いからだ。
注意は、
無視されているものと対比において
何かに気づくことを通じて作用するが、
〈意識〉は気づかれているものと
無視されているものの両方を
維持している非二元的空間だ。
注意には努力を要するかもしれないが、
〈意識〉はただある。
現れるあらゆるものはこの〈意識〉の中にあり
〈意識〉に抱かれていて、
「向こう側」で知覚されるもの
(岩、車、ほかの生き物)も
「こちら側」で経験される経験や思考や気持ちも
そこに含まれている。
この意味において、
心身が〈意識〉の中にあるのと同じように
〈意識〉は心身のなかにある。
植木鉢に喩えると、
植木鉢のなかには空間があり、
それと同時に植木鉢は空間のなかにある。
鉢を壊しても、
その空間に影響することはない。
同様に、
心身機構が死ぬとき、
〈意識〉には何も起こらない。
自分がこの〈意識〉であるとわかるのは、
自分が一度も生まれておらず、
一度も生きておらず、
決して死なないとわかることだ。
あなたは生きている〈意識〉そのものであり、
それはあなたの心身や個人としての
感覚を含むあらゆるものがそのなかで、
そしてそこから生じる透明で開かれた空間だ。
注意のスポットライトをどこに向けても、
〈意識〉の投光照明はすでにそこにある。
それはすべてに気づいている──
呼吸の出入りにも、
突然の物音にも、
光にも、
地球の裏側のツバメの降下にも。
〈純粋意識〉は条件付けられておらず属性も持たない。
それは始まりも終わりもなくただ存在し、
あなたのどんな努力も必要としない。
あなたがもし努力をすれば、
〈意識〉は努力なくそれに気付いている。
生じるすべては〈意識〉の内容だが、
それは鏡がそこに映るものに影響されないと同様に、
〈意識〉には影響しない。
鏡と同じで、
〈意識〉は何かを受け入れようとも拒もうともしない。
判断もせず、
どんな立場もとらないが、
それは〈意識〉は
ありとあらゆる立場を含んでいるからだ。
『夢へと目覚める』(p87-89)
──────────────────
> 学校で教師が黒板に「私」と書き、
> 何が見えるか生徒に尋ねたとしたら、
> 生徒の大半は「私」という文字が見えます
> と答えるだろう。
間違いなく。
> 「私」という文字が書かれた黒板が見えます
> と答える生徒はまずいない。
> ひとつの文字が注目され、
> それよりも巨大な黒板が無視されるのと
> ちょうど同じように、
> あらゆる現象の永遠の背景である〈意識〉を
> 我々は無視している。
はい。
> 映画が映されているスクリーンの存在を
> 忘れているのと同じで、
> 〈意識〉には見向きもしない傾向がある。
対象物に焦点を合わせるつづけることで、
我々は対象物と一体化するわけですよね。
> スクリーンはあらゆる映画における普遍の性質だが、
> それ自体として映画に絡むことは決してない。
> 映画は海や曲がりくねった長い道や
> 殺人や山火事を映し出すかもしれないが、
> スクリーンが湿ったり移動したり血を流したり
> 燃えたりはしない。
スクリーンは自らの上に投影された
画像には汚染されない。
また同時に
そのスクリーンが忘れられることで
映画が成立している。
> 同様に、
> 〈意識〉もその内容に影響されず
> 純粋であり続ける。
映画におけるスクリーンの立場と同じように、
人生における〈意識〉も
そのなかに映し出される
人生の内容には影響されることなく、
純粋でありつづける。
> 〈意識〉はあらゆる経験の内にあり
> 背後にある一貫した性質だが、
> 我々の注意を非常に容易にすり抜けるものでもある。
映画におけるスクリーンと同じように、
人生における〈意識〉も
あらゆる人生体験の内にある
必須の前提でありながら、
人生の登場人物と一体化している
我々の注意からはすり抜けている。
> 注意は〈意識〉と同じものではない。
我々が対象物に選択的に向ける注意と
すべてを無差別に映し出している〈意識〉は
同じものではない。
> 人間の脳は、
> 何かに注意を向けると自動的に
> それ以外のものを無視するように作られている。
バイオロボットとしての人間の脳は、
我々が何かに注意を向けたとき、
自動的にそれ以外のものを捨象することによって
人間の現実を創造するように作られている。
> 星を見れば空間を無視し、
> この文章を読めばページを無視し、
> 映画を観ればスクリーンを無視する。
> けれども、
> 無視された空間やページやスクリーンが、
> 我々の注意をつかんでいる
> 星や文章や映画と同じくらい
> 我々の観察の土台を成しているのは明らかだ。
我々が注意を向けたもの以外の森羅万象も
いつ我々がそれに注意を向けてもいいように
スタンバイしているのは明らかだが
我々が体験する世界からは消えている。
> これは重要なポイントだが、
> それは注意の仕組みが
> 〈意識〉と混同されることが多いからだ。
ここでわざわざこのことに注目しておくのは、
この「注意」と
〈意識〉が混同されることが多いからだ。
> 注意は、
> 無視されているものと対比において
> 何かに気づくことを通じて作用するが、
> 〈意識〉は気づかれているものと
> 無視されているものの両方を
> 維持している非二元的空間だ。
注意という機能は、
注意を向けた対象物以外を捨象することで
注意を向けた対象物に気づく機能だが、
〈意識〉は
注意を向けて気づかれている対象物も
無視されて忘れられている対象物も
無差別にすべてに投光照明することで
その両方を維持している非二元的空間だ。
> 注意には努力を要するかもしれないが、
> 〈意識〉はただある。
注意を向けるという選択的気づきには
努力が必要かもしれないが、
すべての対象物を無差別に照らし出している
〈意識〉はただある。
> 現れるあらゆるものはこの〈意識〉の中にあり
> 〈意識〉に抱かれていて、
> 「向こう側」で知覚されるもの
> (岩、車、ほかの生き物)も
> 「こちら側」で経験される経験や思考や気持ちも
> そこに含まれている。
現象するあらゆるものはこの〈意識〉の中にある。
いわゆる外界の対象物として知られる
岩、車、ほかの生き物なども、
いわゆる内面として経験される
経験や思考や気持ちも
すべてこの〈意識〉のなかに現れている。
> この意味において、
> 心身が〈意識〉の中にあるのと同じように
> 〈意識〉は心身のなかにある。
> 植木鉢に喩えると、
> 植木鉢のなかには空間があり、
> それと同時に植木鉢は空間のなかにある。
> 鉢を壊しても、
> その空間に影響することはない。
すべては〈意識〉の内容だという意味では、
心身機構が〈意識〉の中にあるように
〈意識〉が心身機構のなかに、
知覚のなかにあるとも言える。
これを植木鉢で喩えるなら、
植木鉢のなかには空間があるが、
同時に植木鉢は空間のなかにある。
そして現象している植木鉢を壊しても、
その現象が起こっている
空間に影響することはない。
> 同様に、
> 心身機構が死ぬとき、
> 〈意識〉には何も起こらない。
それと同じように、
感覚・知覚機能で〈意識〉の内容物を顕現させる
触手としての心身機構が壊れても
〈意識〉そのものには何も起こらない。
> 自分がこの〈意識〉であるとわかるのは、
> 自分が一度も生まれておらず、
> 一度も生きておらず、
> 決して死なないとわかることだ。
この人生というショーを体験しているのが
自分であることを否定しないとして、
心身機構が提供する注意機能は
いわば人生プロットの作成に関わる機能だ。
その機能によって人生体験が創造されるのだから、
その人生体験に一体化した思考や感情もまた
その人生体験という対象物の
構成要素にすぎないことは明らかだ。
本当にその人生というショーを見ている、
つまり投光照明しているのは、
けっしてそれに一体化しない〈意識〉だ。
実際は自分はその〈意識〉だったとわかれば、
自分が一度も生まれておらず、
また一度も生きておらず、
決して死なないこともわかる。
> あなたは生きている〈意識〉そのものであり、
> それはあなたの心身や個人としての
> 感覚を含むあらゆるものがそのなかで、
> そしてそこから生じる透明で開かれた空間だ。
我々は実際は生きている〈意識〉そのものだ。
個々の人間としての我々は
その〈意識〉のなかに現れる
形態としての心身機構であったり、
思考や感情であったりするけれども、
それはあくまでも
現象としての人間体験の構成要素であり、
〈意識〉のなかに現れる内容の一瞬の姿にすぎない。
我々自身は、
実際はそれらの内容物を無遍光で照らし出している
透明で開かれた〈意識〉の空間だ。
> 注意のスポットライトをどこに向けても、
> 〈意識〉の投光照明はすでにそこにある。
> それはすべてに気づいている──
> 呼吸の出入りにも、
> 突然の物音にも、
> 光にも、
> 地球の裏側のツバメの降下にも。
無遍光のなかで人生体験を創造し体験する
触手である人間が注意をどこに向けても、
その対象物はすでに〈意識〉の無遍光のなかで
そこに照らし出されている。
〈意識〉はすべてに気づいている。
呼吸の出入りにも、
突然の物音にも、
光にも、
地球の裏側のツバメの降下にも。
ただし〈意識〉は何かの内容物に
選択的な注意を向けることはない。
> 〈純粋意識〉は条件付けられておらず属性も持たない。
絶対的主体性という〈意識〉の純粋な側面は、
いかなる条件づけとも属性とも無縁だ。
> それは始まりも終わりもなくただ存在し、
> あなたのどんな努力も必要としない。
〈意識〉は無始無終で永遠にただ存在するだけ。
我々が〈意識〉であることに
どんな努力も必要ない。
> あなたがもし努力をすれば、
> 〈意識〉は努力なくそれに気付いている。
我々がもし努力をすれば、
〈意識〉は努力なくそれに気づいている。
> 生じるすべては〈意識〉の内容だが、
> それは鏡がそこに映るものに影響されないと同様に、
> 〈意識〉には影響しない。
姿を持って現れるものはすべて
〈意識〉の内容だ。
しかし鏡が映るものに影響されないように、
現れるものは〈意識〉には影響しない。
> 鏡と同じで、
> 〈意識〉は何かを受け入れようとも拒もうともしない。
> 判断もせず、
> どんな立場もとらないが、
> それは〈意識〉は
> ありとあらゆる立場を含んでいるからだ。
鏡と同じで、
〈意識〉は何かを選択的に受け容れたり
何かを選択的に拒否したりすることはない。
〈意識〉はどんな立場も取らない。
なぜなら、
どんな姿が現れても、
どんな立場が現れても
それはすべて〈意識〉の内容だからだ。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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すっかり晩くなりました。
もう雨も風もやんでいます。
ガラス戸を開けると涼しい。
もう寝ます。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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