home > 通信 >「リーラ:神の遊び」の話:『アセンション館通信』第957号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/08/21(第957号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇


 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「リーラ:神の遊び」の話

2.編集後記
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■ 1.「リーラ:神の遊び」の話
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今週は親戚に

(普通の言葉で言うなら)不幸が

あったものですから、

ちょっと遠出をして普段の日常とは

違う体験をしたりしました。

向こうの駅近くの電車の中で

わたしが喪服の上着を着ていないことがわかって

いまさら取りには戻れないし、

いやはやドタバタでした。(*^_^*)

でもいまはスマホがある時代。

シャーラが直ちに親戚に窮状を伝え、

お陰さまで喪服をもってきてもらえることになり、

とても助けれらました。

そんなこんなしているうちに

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

若いころというのは大なり小なり

そんなものなのかもしれませんが、

わたしの人生もご多分に漏れず、

十代後半から二十代前半にかけては

架空の問題で酷く苦しんだものでした。

そのころはもちろん、

自分がそんな役柄を演じさせられているなど

思いも及ばないことですから、

ひたすら自分がその問題で苦しんでいると

思っていました。

まるで胸の中心に鉛の棒が入っているような

そんな感じを抱えて生きていたものです。

「こんなもの要らないではないか!」

なぜこんなものがあるのか?

<何故にすべては始まってしまったのか?>

などという“不要不急”どころか、

まったく“無用無益”な架空の思考に

押しつぶされそうになりながら生きていました。

それから不慣れながらも思考と行動が

少しずつこの世でのサバイバルに関わるようになって

人生はある意味少しずつ

軽薄で楽なものになっていったようです。

自分の人生はまるで逆向きに

“撃たれた銃弾が拳銃の筒に戻っていくように”

進んでいるみたいだと感じたこともあります。

要するに、わたしの人生は

ひたすら概念としての“死”のまわりを

うろつくことだったわけです。

そんな人生を

自ら好んで選ぶ人間などいるはずもありません。

これは問答無用で選ばされているわけです。

ただし当人にその自覚はまるでない。

あたかも自分が何とかしてこの人生から

逃れようとしているかのように感じていました。

しかしそののち結婚してからは

サバイバルに向かうことになりました。

でもやっぱり関心は

「これ」がいったい何なのかに向いています。

インドに行ってOshoの弟子になったり、

ラマナやニサルガダッタの本を読んだり、

セイラー・ボブやラメッシ・バルセカールを読んだり、

マイケル・ラングフォードの表現に遭遇したり、

ひろさんのサイトに出会って

ネイサン・ギル、トニー・パーソンズ、

ジョーン・トリフソン、ジョーイ・ロット、

グレッグ・グッド、ルパート・スパイラ

といった方々の言葉にも触れました。

そして2019年の末に

ミナミAアシュタールの情報にも出会いました。

当たり前ですが、

一人として同じ表現というものはありません。

夢から覚めた方々が言うように、

いつまでも情報ばかり漁っていても仕方がない。

どれも違うわけですから。

とはいえ、

情報漁りをすることになっているなら、

情報漁りをするしかないとも言えます。

そこに逆らえる誰かがいるわけでもないですから。

というわけで、

いろいろ好みの覚者方の表現や

チャネルを通じたチャネリング情報を漁っていると

やはり好みの中核みたいなものはでてきます。

それはひとつの言い方では

「アドヴァイタ(非二元論)」です。

で、インドには古くから広く知られていて

この非二元論という観点をも包摂する概念として

「Leela(リーラ:神聖遊戯」というのがあった。

この「リーラ」という概念、

“現象世界とは神の遊び”だという概念は、

おそらくインドでは遠い昔から

教養人なら誰でも知っているほどに広く

一般的に普及している観念なのでは、と想像します。

インドではこれほど誰にも知られていて、

しかもまず信じられることのない話というのも

他には無かったかもしれません。

その意味では、

これはまさに「公然の秘密」でもあったでしょうし、

現に「公然の秘密」でありつづけているようです。

ところが、

昔「意識は誕生できない」ということが

“自分”なりの直感で感じられて、

知的に論証しようとしていた当時のわたしは、

この「Leela(リーラ:神の遊び」という観念を

まったく知りませんでした。

そんな発想は夢想だにしないことだったわけです。

そしていま、

知的にではあるかもしれないけれど、

この「Leela(リーラ:神聖遊戯」というのは

実際に本当のことだと思っています。

そしてそれが本当だと思われて来れば来るほど、

否が応でも「楽に」なってしまっています。

本気で悩む気が起こらない。

現象に起因する苦しみを拡大増幅する気にならない。

もうあまり苦しむ気になれないのは

これまでに十分やり尽くしたからかもしれないし、

肉体年齢から言って当然のことなのかもしれない。

あるいは、

そういうことでもないのかもしれませんが

ただひとつ、今感じられるのは

この「Leela(リーラ:神聖遊戯」という概念は

ある意味とても論理的で

これまで歩まされてきた遍歴のなかで

いろいろ知的に収集させられた情報群のなかに

静かに整合的に収まるということです。

どこにも目立った矛盾がない。

ラメッシ・バルセカールは

小さい頃から「自分にできることは何もない」

ということを知っていたそうです。

言うまでもないですが、わたしの場合は

そんな知識はまったく持ち合わせませんでした。

やる気満々だったと思います。

ただ地上人としての世間知(と言うか人間力)が

人並みに育っていなかったので、

無茶苦茶に恐れ傷ついていただけです。

そして後に知るに至った「リーラ」は

わたしの人生はそのような神の遊びだったのだと

と教えてくれたわけです。

まあ、

そのことを理解する演技もその「リーラ」のなかに

含まれていたようだというわけです。


「Leela(リーラ:神聖遊戯」という概念が

明示的に教えているのは:

(1)存在するのは神だけ

(2)現れているのは神の姿

(3)現れに気づいているのは神

ということだと思います。

そしてこの「リーラ」に概念が

明示的に言及していないのは:

(4)(ただし例外的場合を除き)

   以上の真実は開示されない

ということでしょう。

つまり、「リーラ」のなかでは

たとえ、「リーラ」の概念が説明されても、

それはほぼ誰にもけっして信じられないように

なっているということです。

なぜそうなっているのか?

その理由も明らかです。

「Leela(リーラ:神聖遊戯」の中で

上記の(1)〜(3)が

もし例外以外の形で公然と開示され、

それが真実であることが誰にも明らかであるようなら

「Leela(リーラ:神聖遊戯」そのものが

存続できないことは明らかです。

「リーラ」はたちまち消滅するでしょう。

つまり「リーラ」が存続できないとは、

即、

〈存在〉は表現をもちえないことを意味するわけです。

〈存在〉が表現をもちうるためには

「リーラ」の形をとる以外にはありえません。

なぜなら、実際に、

(1)存在するのは神だけ

というのは真実だからです。

実際には、

唯一の〈存在〉しか実在していません。

なぜなら実在する〈存在〉以外に

“何か”が存在していたとしても、

それが唯一の〈存在〉に知られることはなく、

つまり唯一の〈存在〉にとっては

そういうものは存在できないからです。

そして

唯一の〈存在〉しか実在していないのに、

もしその唯一実在する〈存在〉が

現象として顕現しようとすれば、

“何か”として現れる以外の方法はありません。

「何でもないもの」=「無限の潜在可能性」

としてそのまま姿を顕現させることは

可能ではないからです。

たとえば、

あらゆる姿を取りうる無色透明の〈存在〉が

ただ無色透明の闇のなかに静まっていたら、

その〈存在〉を認識するのが

不可能であることは明らかです。

もしその無色透明の無限の潜在可能性である

〈存在〉が

自らの姿を見ようとしたら、

その無色透明の無限の潜在可能性の一部に

気づきの光を投光照明して、

その一部の姿を浮かび上がらせることで

その部分を姿を知覚するしかないでしょう。

それは無限の宇宙大図書館の一部に光を当てて

書棚の一冊を照らし出すようなものかもしれません。

つまり“何か”として現れるとは、

その“何か”以外のものの存在を暗示しながら、

かつそれらを無視することでしか成立しえないのです。

つまり、唯一実在する〈存在〉を

存在しない虚構の境界線によって仕切り、

実在しない虚構の分離を幻想することによってしか

現象として顕現すること自体が不可能なのです。

これはただ〈存在〉(=〈意識〉)に

“空間”という容積的虚構を取り入れただけです。

しかし“空間”のなかの“何か”は

実際は変化をつうじてしか知覚されえません。

かくて“時間”という

もう一つの虚構概念が取り入れられます。

この“時空間”という意識装置の中でしか

唯一実在する〈存在〉は自らの姿を

顕現することはできないわけです。

しかも、

この唯一実在する〈存在〉の顕現は

変化が止まると同時に消滅します。

なぜなら、

自らを現象として顕現させるためには、

唯一実在する〈存在〉は

自らを「絶対の主体性」という永遠不動と、

現象という永遠の変化に分岐させることによってしか

実現できないからです。

そのためこの〈存在〉の顕現を永続させるために

「Leela(リーラ:神聖遊戯」には

独特の仕掛けが施されることになります。

「リーラ」は変化の動因を自給する永久機関に

ならなければならないのです。

「リーラ」のなかに現れた形態に対して

“注意”という選択的な形の気づきが生まれます。

それらの形態への“一体化”が誘われて

そこから“主体”と“客体”という

「リーラ」における二元性の元型が生まれます。

“主体”と解釈された形態は

現象の中の虚構の主体性としての“自分”になり、

“客体”と解釈された形態は

現象の中の虚構の対象物としての“他者”になります。

それらを取り囲む形態は

“周囲(環境)”という虚構の対象物になり、

それらすべてを包含する

“世界”という概念が生まれるわけです。

それらはすべてそのような観念であるにすぎません。

そして“自分”から

“他者”や“周囲(環境)”に向ける注意から

“興味”“関心”“反感”“嫌悪”……、

“希望”“期待”“欲望”“飢餓”など

様々なタイプの想念が醸成されることになり、

それらはついには

一大自動永久機関を構築するに至りわけです。

「リーラ」をもしひとつの動画に喩えるなら、

この動画には作者集団が内蔵されているのです。

人生がエンタテインメントに似ているのは

偶然ではありません。

人生そのものはまさにエンタテインメントとして

構築されているのです。

この現象世界は

永久機関として内部的に自己展開しています。

そしてこれが「リーラ:神の遊び」と呼ばれるのは、

この「リーラ」のなかでは登場者すべてが

自ら意図してそこに存在する主体であると信じる

「聖なる催眠」がかけられているからです。

ドラマの体験者はすべて

〈意識〉の対象物として表現属性を担って発生する形態と

その形態に一体化して自動的に発生する想念です。

要するに、「リーラ」の体験者は対象物です。

誰がそれを見ているのか。

それをエンタテインメントとして知りながら、

その展開を許しまた愛している者。

そしてそれをエンタテインメントとして

楽しむことのない者です。

それは唯一実在する

絶対主体性としての〈存在〉です。

すなわち〈神〉であり〈真我〉です。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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すっかり晩くなりました。

ガラス戸を開けると涼しいです。

もう寝ます。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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