home > 通信 >直接体験とは「在ること」(R・マハルシ):『アセンション館通信』第959号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/09/04(第959号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.直接体験とは「在ること」(R・マハルシ)

2.いただいたお手紙から:あきさん

3.編集後記
──────────────────

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■ 1.直接体験とは「在ること」(R・マハルシ)
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今日も比較的暑かったですね。

なにか一日ぼんやり過ごしました。

最近ちょっと仕事をしすぎているので。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

何事にもそれなりの時節というものが

あるのでしょうね。

『ラマナ・マハルシとの対話2』は

9年前(2013年)の初版発行時にも

第1巻に続いてすぐに購入できたであろうに、

当時は手が出ませんでした。

熟度がその程度だったということです。

手が出たのは2021年発行の第2刷でした。

そしてこの頃は本といえば

この本をところどころ開いて眺めています。

やっぱり、

どんな言葉が語られても

不動の言葉として安心していられます。

地上の常識からすれば

まるでエクセントリックな話としか言えません。

でもこれが作り話ではない

永遠の真理というものでしょう。

そしてその流れに沿って聴き入るなら、

もう何の不思議もない

本当に当たり前のことが語られているのです。

ちょっとご紹介しますね。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

こんな感じです。

──────────────────
 1938年2月3日
 
 対話450
 
 ヒンドゥー教に改宗したポーランド人女性の
 ウマーデーヴィーが、
 シュリー・バガヴァーンに尋ねた。
 「以前、私はバガヴァーンに、
  私がヒンドゥー教に改宗した頃に
  シヴァの姿を見たことをお話ししました。
  コールトラムにいたときにも
  同じような体験が起こりました。
  これらのヴィジョンは一時的ではあっても、
  至福に満ちたものです。
  私は、
  どうすればそれが絶えず起こるように
  できるのかが知りたいのです。
  どこを見回しても、
  シヴァ神なしでは私の人生はありません。
  シヴァ神のことを想うだけで、
  私は本当に幸せなのです。
  どうか、
  どうすれば神の姿が永遠に現れるのかを
  教えてください」
 
 『ラマナ・マハルシとの対話2』(p317)
─────────────────

マハルシに向けられた質問は

まずはこんな具合です。

この質問者の方は

ずっとシヴァ神のヴィジョンを見続けていたい。

どうすればそれが可能だろうかというのです。

この言葉を受けて

マハルシはこんなふうに話し始めます。

──────────────────
 マハルシ
 あなたはシヴァのヴィジョンについて語ります。
 ヴィジョンとは常に対象です。
 それはつまり、
 そこに主体が存在することを暗示しています。
 ヴィジョンの価値はそれを見る者と等しいものです。
 ということは、
 ヴィジョンとそれを見るものの本性は
 同じ次元にあるということです。
 出現したということは
 消滅することも暗示しています。
 何であれ現れたものは消え去らなければなりません。
 ヴィジョンはけっして永遠ではありません。
 しかしシヴァは永遠なのです。
 
 シヴァ神を目で見るというヴィジョンは、
 そこにそれを見る目、
 視野の背後にある知性(ブッディ)、
 視野と知性の背後にある「見る者」、
 そして「見る者」の根底に在る意識が
 存在することを示唆しています。
 このヴィジョンは、
 人が想像で想い描いたものと同じように、
 実在ではありません。
 なぜなら、
 それは本質的でも本来的でもなく、
 直接の体験でもないからです。
 それはいくつかの
 連続する意識の層を通った結果です。
 これらの意識の層の中で、
 変化しないのは(純粋)意識だけです。
 それが「永遠なるもの」、
 それがシヴァ、
 それが真我なのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話2』(p317-318)
──────────────────

> ヴィジョンとは常に対象です。
> それはつまり、
> そこに主体が存在することを暗示しています。

ヴィジョンというのは

目に見える対象なのだから

それを見ている主体がいることになる。

> ヴィジョンの価値はそれを見る者と等しいものです。

そしてここです。

【ヴィジョンの価値はそれを見る者と等しい】

アッと驚く為五郎!(@_@) ⌒★?

まったくです。

そういうことなのですね。(-_-;)

> ということは、
> ヴィジョンとそれを見るものの本性は
> 同じ次元にあるということです。

数学的な厳密さが直感されます。

われわれが何を見ようと、

それは身分相応だという身も蓋もない話です。

> 出現したということは
> 消滅することも暗示しています。
> 何であれ現れたものは消え去らなければなりません。

そしてここです。

何度も何度も帰ってくる必要のある真実。

現れてくるような対象物を気にすることはない。

それは消えゆくものなのだから。

疑問の余地はまったくありません。

> ヴィジョンはけっして永遠ではありません。

どんなヴィジョンであれ

つかの間の風景です。

> しかしシヴァは永遠なのです。

しかしすべてを実現させているシヴァは

永遠不滅の存在なのだと。

> シヴァ神を目で見るというヴィジョンは、
> そこにそれを見る目、
> 視野の背後にある知性(ブッディ)、
> 視野と知性の背後にある「見る者」、
> そして「見る者」の根底に在る意識が
> 存在することを示唆しています。

シヴァ神のヴィジョンが

つかの間の風景として成立する背後には、

そのヴィジョンを

視野に収めるための道具である「目」、

「目」の背後に控えている

視覚的対象物からの感覚的刺激を解読して

画像として構成するための「知性」、

「目」と「知性」を介して作成されたその風景を

見る主体である「見る者」、

その「見る者」の根底に常在する

「意識」が在ることを意味している。

> このヴィジョンは、
> 人が想像で想い描いたものと同じように、
> 実在ではありません。

そしてそのヴィジョンは

人間が想像で思い描くすべての光景と同じく

ただの想像の産物であって実在ではない。

> なぜなら、
> それは本質的でも本来的でもなく、
> 直接の体験でもないからです。

なぜなら、

それは不可欠の本質的存在ではなく、

また本来的な永遠の存在でもなく、

実際に存在しているものを

直接体験しているのでもないからです。

> それはいくつかの
> 連続する意識の層を通った結果です。

それはそれなりに必要とされる

一連の想像を積み重ねる過程を通じて、

一定の意識の層を通り抜けてきた結果として

創造されたヴィジョンなのです。

> これらの意識の層の中で、
> 変化しないのは(純粋)意識だけです。

それらの意識の層の中では

そのヴィジョンに至るための固有の意識要素は

すべて特定の表現的属性を持つ

いわば観念的要素です。

そこに通底している不変のものは

いかなる表現属性も持たない

絶対の主体性である純粋意識だけです。

> それが「永遠なるもの」、
> それがシヴァ、
> それが真我なのです。

それが「永遠なるもの」であり、

それがシヴァ神と呼ばれている真我なのです。

──────────────────
 ヴィジョンはそれを見る者の存在を暗示しています。
 そして見る者は真我の存在を否定できません。
 意識である真我が存在しない瞬間などありえず、
 見る者が意識を離れることもありえません。
 この意識こそが永遠の、
 そして唯一の存在なのです。
 見る者は自分自身を見ることができません。
 しかしヴィジョンを目で見たように
 自分を目で見ることができないからといって、
 自分自身の存在を否定するでしょうか?
 いいえ。
 それゆえプラティヤクシャ(直接体験)とは
 「見ること」ではなく、
 「在ること」を意味するのです。
 
 「在ること」とは真我を実現することです。
 だからこそ、
 「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)
 と言われるので。
 「私は在る」(I AM)がシヴァです。
 彼なしには何も存在できません。
 すべてはシヴァの中に、
 シヴァゆえに存在しているのです。
 
 それゆえ、
 「私は誰か?」と探求しなさい。
 内面深く沈み、
 真我としてとどまりなさい。
 それが存在としてのシヴァなのです。
 シヴァのヴィジョンが
 繰り返し起こることを期待してはいけません。
 あなたの見る対象物と
 シヴァの違いは何でしょうか?
 シヴァは主体と対象の両方です。
 あなたはシヴァなしで存在することはありえません。
 なぜなら、
 シヴァは今ここで、
 常に実現されているからです。 
 もしあなたが
 シヴァを実現していないと考えているなら
 それは誤りです。
 その考えこそが
 シヴァを実現するための障害だからです。
 その考えを放棄しなさい。
 そうすれば実現はそこにあるのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話2』(p318-319)
──────────────────

> ヴィジョンはそれを見る者の存在を暗示しています。
> そして見る者は真我の存在を否定できません。
> 意識である真我が存在しない瞬間などありえず、
> 見る者が意識を離れることもありえません。
> この意識こそが永遠の、
> そして唯一の存在なのです。

一方、

ヴィジョンが現れているということは、

それを「見る者」が存在することを意味します。

するとその「見る者」は

(「見る」ということが起こる根拠である)

「真我」が存在することを否定できません。

(何事かが起こっていると言うなら)

そこに〈意識〉が存在するということですから。

これを要するに、

絶対の主体性である「真我」が

そこに存在しない瞬間はありえないのです。

また「見る者」が〈意識〉を離れて、

〈意識〉と別個に存在することもありえません。

この〈意識〉こそが

無始無終の唯一のかつ永遠の「存在」なのです。

> 見る者は自分自身を見ることができません。
> しかしヴィジョンを目で見たように
> 自分を目で見ることができないからといって、
> 自分自身の存在を否定するでしょうか?
> いいえ。
> それゆえプラティヤクシャ(直接体験)とは
> 「見ること」ではなく、
> 「在ること」を意味するのです。

人が自分の「目」をじかには見られないように、

「見る者」は

見ている自分自身を見ることはできません。

しかし見ている自分を対象物のように

見ることができないからと言って、

自分が存在していることを否定するでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。

あなたは自分が存在することを自分で知っている。

あなたがどんな証明も必要とせずに、

自分で直接知っているのは

あなたが「存在する」ことです。

ゆえに、直接体験とは

「見ること」ではなく、「在ること」なのです。

> 「在ること」とは真我を実現することです。

その意味では、

真我を実現するとは

「在ること」だと言えるのです。

> だからこそ、
> 「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)
> と言われるのです。
> 「私は在る」(I AM)がシヴァです。
> 彼なしには何も存在できません。
> すべてはシヴァの中に、
> シヴァゆえに存在しているのです。

だからこそ、

ユダヤ教の神ヤハウェの

「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)

という言葉があるのです。

シヴァ神とは

その「私は在る」(I AM)のことです。

この「私は在る」という言葉で表現される

“存在の感覚”という根拠の上に

すべての意識の大伽藍は構築されています。

すべての現象は

この“存在の感覚”という根っこから

生えてきたものだと言ってもいい。

この“存在の感覚”がなくては

何ひとつ存在することはできません。

すべてはこのシヴァ神の中に、

このシヴァ神ゆえに存在しています。

> それゆえ、
> 「私は誰か?」と探求しなさい。

だから、

この「私は在る」の

「私」とは何なのかを探究しなさい。

> 内面深く沈み、
> 真我としてとどまりなさい。
> それが存在としてのシヴァなのです。
> シヴァのヴィジョンが
> 繰り返し起こることを期待してはいけません。

想念が生まれる内面に深く探り入って、

そこで絶対的主体性としてとどまりなさい。

それが存在としてのシヴァ神です。

シヴァ神のイメージが

繰り返し起こるようなことを期待してはいけない。

> あなたの見る対象物と
> シヴァの違いは何でしょうか?
> シヴァは主体と対象の両方です。

あなたが見るというシヴァ神のイメージと、

真のシヴァ神との違いはなんでしょうか?

シヴァ神とは

絶対的主体性とそれが姿となって現れた対象物の

両方を指す言葉だということです。

> あなたはシヴァなしで存在することはありえません。

あなたが自分とみなしている

そのあなたの身体も

存在感覚というシヴァ神なしには在りえないのです。

> なぜなら、
> シヴァは今ここで、
> 常に実現されているからです。 

そして

意識の起源である存在感覚(シヴァ神)は、

今ここで常に実現されているのです。

> もしあなたが
> シヴァを実現していないと考えているなら
> それは誤りです。

もしあなたが、

自分はシヴァ神を実現していないと考えているのなら、

そう考えることが誤りなのです。

> その考えこそが
> シヴァを実現するための障害だからです。
> その考えを放棄しなさい。
> そうすれば実現はそこにあるのです。

その実現していないという考えこそが、

常に実現されているシヴァ神を否定し、

シヴァ神の実現を妨害する障害物なのです。

その考えを放棄しなさい。

そうすれば

シヴァ神は永遠に常に実現されているのです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

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■ 2.いただいたお手紙から:あきさん
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▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

じつは、先月8月半ばに

あきさんという方からご投稿をいただいていました。

このところ色々重なったものですから、

そちらのメールアドレスの確認を忘れていました。

あきさん、

大変失礼をいたしました。m(_ _)m

半月以上も無視されて、

お腹立ちのことかと思います。

ご海容いただければありがたいです。

早速ご紹介します。

【件名】:止まるということ(←これはお名前でしたか?)
──────────────────
 こんにちは。
 
 最近、タクさんのblogで、
 Pariさんのメルマガを知りました。
 
 60を過ぎたおばさんです、
 私もとてと変わり者になるのでしょうか?
 とても分かりやすく、
 Pariさんの人柄も温かみを感じ、
 ハマって読ませて頂いています。
 
 今も、
 息子とのドタバタ劇が繰り広げられて、
 思わずPariさんにメールしたくなりました。
 これからもよろしくお願いします^_^
 
 
     あきより
──────────────────

> こんにちは。

あきさん、こんにちは。

せっかくの嬉しいご投稿なのに、

気がつくのが遅れてごめんなさい。m(_ _)m

そして、ありがとうございます。

> 最近、タクさんのblogで、
> Pariさんのメルマガを知りました。

ほう、そうなんですか。

ヒロさんのblogならわかるのですが。

タクさんのblogというのは……。(?_?)

> 60を過ぎたおばさんです、

わたしは何と言ったらいいのか。(*^_^*)

> 私もとてと変わり者になるのでしょうか?
> とても分かりやすく、

もし『アセ通』が

「とても分かりやすく」ということでしたら、

間違いなく、

かなり「変わり者」だと思います。(^_-)

> Pariさんの人柄も温かみを感じ、
> ハマって読ませて頂いています。

ありがとうございます。

> 今も、
> 息子とのドタバタ劇が繰り広げられて、
> 思わずPariさんにメールしたくなりました。
> これからもよろしくお願いします^_^

こちらこそです。

ところで、お名前の欄に

【止まるということ】とあったのですが、

これはお名前にすべきでしたか?

でも最後に【あきより】とあったので、

あきさん、とさせていただきました。

もしかして、そのとき

止まるということ J・トリフソン
https://www.ascensionkan.com/mm/vol910.html

を読んでいらっしゃったのかなと思って、

わたしも読んでみました。

ジョーン・トリフソンという方は

本当に一風の方ですよね。

ああいう方の文章を読むと救われます。

ところで、毎週書いていますが、

合いの手を入れてくださる方は

めったにいないものです。

これからはもっと真面目にチェックしますので、

どうぞこれに懲りずに、

よろしければ、これからも

ご投稿をいただければ嬉しいです。(^人^)

ありがとうございました。m(_ _)m

(-||-)


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

マハルシの言葉は素晴らしいですね。

唯一確かなことは「私は在る」。

あとはすべて想像の産物なんですよね。

問題となるのはすべて想像の産物。

これほどはっきりしたことなのに。

なかなか想像をやめられなくて……。

今日もすっかり晩くなりました。

ガラス戸を開けると涼しいです。

もう寝ます。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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Copyleft(C)2022 paritosho
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