━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/10/23(第966号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.ジェネラリストという夢
2.編集後記
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■ 1.ジェネラリストという夢
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昨日切ったネムノキの枝の山は
今朝になってもまだ鹿に食べられていませんでした。
鹿の大ご馳走ということだったけれど……。
昨夜はここに来なかったんだな。
今日もまたずいぶん外仕事をしました。
手作りの外柵に絡まった蔦草を取り除いたり、
その内側に沿って植えてある紫陽花の枝を剪定したり。
これはもう量が多いのでチェーンソーです。
まあまあ今日も働いた。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
ラマナ・マハルシはこう言います。
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ある人が夢を見ます。
それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
しかし目を覚ますとともに、
夢の世界に対する興味はすべて失われます。
目覚めの世界もそれと同じことです。
自分自身の一部であり
自分自身と異ならない夢の世界に対して
興味を失うのと同じように、
もしあなたが目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)
から目を覚ませば、
この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
そして世界は自己の一部であって、
客観的現実ではないということを悟るでしょう。
自分の周りにある物事が
自分自身から分離していると考えるため、
あなたは物を欲しがるのです。
しかし、
もしすべての物事は「想念でできた形態」
でしかないことを理解すれば、
もはや物を欲しがることもなくなるでしょう。
すべての物事は水の泡のごときものです。
あなたは水で、
物事は泡です。
泡は水を離れて存在することはできませんが、
水とまったく同じものではないのです。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p267-268)
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(-||-)
おそらくですが、
『アセンション館通信』を書くエネルギーが
かなりのダメージを受けてしまったらしいのは
マハルシの以上の言葉を読んだことが
関係あるかもしれません。
理屈は一切ありません。
でもこの素朴とも見えるシンプルな言葉の
その潜在的破壊力は相当なものかもしれません。
> ある人が夢を見ます。
> それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
> しかし目を覚ますとともに、
> 夢の世界に対する興味はすべて失われます。
われわれの日常的経験からしても、
このことに疑問の余地はまったくありません。
> 目覚めの世界もそれと同じことです。
> 自分自身の一部であり
> 自分自身と異ならない夢の世界に対して
> 興味を失うのと同じように、
> もしあなたが目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)
> から目を覚ませば、
> この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
このことについて
まったく疑問の余地がないと断言することは
われわれにはできないかもしれません。
でも、そうは言っても、
このわれわれの日常世界が、
すべてがただの想像でしかない意識の内容物を
時間と空間という観念装置を使って再構築して
創造されたストーリーであることは、
これまで何度も何度も反芻して
再確認してきた事柄でもあります。
若い頃なら当然のこととして前提できた
「主体」と「対象物」という二元性は
絶対的真理というようなものではなく
それ自体が物語にリアリティをもたせるための
一つの想像(的工夫)にすぎないらしいことは
もう否定しようもなく明らかです。
だからもしそれについて
毎日の寝覚めの夢ほどに確信しているなら、
間違いなくわれわれは
この日常世界に対して興味を失っているはずです。
そしてそれほど自明になっていないにしても、
この世の現実に向かう態度が、
それなりに希薄化している感じもあります。
> そして世界は自己の一部であって、
> 客観的現実ではないということを悟るでしょう。
この日常世界が
唯一の実在である<意識>の一部、
つまり、
「自分の存在を知っている者」の一部であって、
客観的現実ではないことが
明らかになるだろうというのです。
いわゆるスピリチュアル情報による
“絶対創造主”と“創造神たち”という
ファンタジーふうのお話を信じるにせよ、
あるいは単なる“物語創造プロジェクト”といった
AIシステムによる機械的実現を想像するにせよ、
いずれにせよ、
この多次元大宇宙を構成するあらゆる状況や物語は、
すべて唯一の実在である<意識>の
想像として現れていることは間違いありません。
すべては<意識>が想像し、
<意識>が観た“夢”の中に現れているのです。
> 自分の周りにある物事が
> 自分自身から分離していると考えるため、
> あなたは物を欲しがるのです。
実際、それ以外はありませんよね。
物事の【見かけ】、いわゆる現実が
自分から分離して客観的に存在すると信じるからこそ、
われわれはそれで幸福を得ようとしたり、
それをサバイバルの補強材料にしようとしたりして
欲しがるわけですから。
> しかし、
> もしすべての物事は「想念でできた形態」
> でしかないことを理解すれば、
> もはや物を欲しがることもなくなるでしょう。
しかし、
すべての物理次元の現れは
感覚器官に働きかけて対象像を結ばせるための
一連の感覚刺激信号でしかないらしい。
このことはいわゆる宇宙存在である
アシュタールやバシャールも保証しているわけです。
物理次元の現実とはホログラムによる幻想なのだと。
とはいえ、
役割の違うこの方たちの場合は
バシャールなら
「いい夢を見てください」と言うでしょうし、
アシュタールなら
「自分が望む現実を欲しがってください」と言います。
けっして、ラマナやニサルガダッタのように、
無欲が智慧だとは言いません。
そしてそのラマナ・マハルシも
物事(顕現)の途方もないパワーを
認めることにやぶさかではないようです。
> すべての物事は水の泡のごときものです。
> あなたは水で、
> 物事は泡です。
> 泡は水を離れて存在することはできませんが、
> 水とまったく同じものではないのです。
ミナミAアシュタールふうに言うなら
すべての物事、すべての個性は、
絶対無限の存在に表現を託された
個々のスピリットの表現です。
それら潜在的表現の多様性の全容を
前もって察知することが不可能であるからこそ、
「絶対無限の存在」は無限数のスピリットに
その交流と体験と表現を託したのだと。
「絶対無限の存在」は夢を見て
その夢の中で無限数のスピリットたちが
無量の交流と体験を通じて
無限に多種多彩な表現を展開しているのですと。
ここにいかなる客観的な意味もありえません。
分離し得ないものが分離を夢見ているだけですから。
本屋の息子として誕生させられたpariとは
一つのジェネラリスト的な夢だったようです。
こんな本もあるけれど、
本屋の棚にはまた別のこんな本もあるのだと、
そんな可能性を早くから感じさせられた夢でした。
確かにそれも
創造の一翼を担う夢ではあったのだろうけれど、
けっして創造を目指す夢ではなかったようです。
新しい世界を夢見ようとしても、
それがけっきょく全体にとって
どんな意味があるのかを顧慮せずにはいられなかった。
だからただ創造的であれば良い
という夢ではなかったようです。
それはこの「夢」の意味を問う夢だったのです。
意味を求めればそこには宗教的世界が
広がっているように思えたりもしました。
やがてさらには日常生活の現実の下に
地政学的な背景があることに気付かされたり、
更にその背景には陰謀論として否定されるような世界も
広がっているようでもありました。
でも、そのような批評的な観点の夢自体が、
観られた創造的な夢の一場面でしかありえないことが
わかってしまったわけです。
それはたしかに、
意味を問おうとする夢ではあったけれど、
実際には、
意味を想像(=発明)することはできても、
意味を問うことなどはできないわけです。
なぜなら、世界はただそれぞれの個性エネルギーに
それに見合った多種多様な姿を現じているだけなのですから。
実在するのは真我だけであるということ。
そして現れはすべて
「私は在る」という最初の想念の上に立ち上がった
夢の大伽藍であるということ。
確かなのはそれだけのようでした。
楽しめばいいのです。
もし楽しめるのならば……。
たとえ同じスピリットであろうと、
別の瞬間には
別の夢を観るのですから……。
また何かを書くかもしれません。
今日はこんなところで終わりにします。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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本屋の息子として生まれたpariは、
ジェネラリストの夢を担うべく
誕生させられたのかもしれません。
子供の頃はそんな風には思っていなかったけれど。
マインドの紡ぐ夢は、
透明な鏡を映し出すことはできません。
それはできないということを
言葉で表現できるだけのようです。
今日も暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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