━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/10/30(第967号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.私たちの行動の根本動機
2.いただいたお手紙から:あきさん
(またもや遅れてごめんなさい。m(_ _)m)
3.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.私たちの行動の根本動機
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
やっと秋らしい秋がきたような。
このところずいぶん
まわりの空間を整理しています。
サンデッキのペンキ塗りや修理。
物の処分、物置の整理。
家の中では襖や障子の張り替え。
もしかして創るよりは片づけるほうが
性に合っているのかも。(^_-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
本当に久しぶりに
最近眺めていない本に触れてみたくなりました。
手近の本棚の中を見回すと
ピンクの背表紙の本が目に入りました。
すぐには誰の本だったかが思い出せない。
でも手元のガラス棚の中のここに並べてあるのだから
とても重要だと思ったことは間違いない。
それなのに誰の本かわからないなんて。(^_-)
取り出してみると
『われ在り I AM』という本でした。
著者はジャン・クラインという方です。
ジャン・クラインって誰だったっけ(?_?) \ゴン(\/U)
(/_;)
どうやらインド発のアドヴァイタを
初めて体得して西側世界に持ち帰った人物らしい。
裏表紙の折り返しに
「ラマナマ・ハルシとクリシュナ・メノンの伝統を継ぐ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ
(不二一元論・学派、哲学)のマスター。
ノンデュアリティー(非二元論)に関する著作が多数ある。
インドで数年間過ごし、アドヴァイタとヨーガを深く極めた。
1955年、ついにノンデュアリティーの真理を体得。
1960年からヨーロッパで、その後にアメリカで指導を始めた。
本書は現代において最も明確かつ直接的にアドヴァイタを
説いた本である」
とあります。
これまでお世話になった非二元論の邦訳書で
著者が西洋人のものはほぼすべて
この方の弟子や孫弟子たちの著書と言って
間違いなさそうです。
以前にご紹介したことさえあるようです。(>_<)
https://www.ascensionkan.com/mm/vol852.html#1
失礼をばいたしました。<(_ _)>
改めて読んでみると、
いや、すばらしいです。
というか……やっと語られている言葉の意味が
そのままの文意で伝わってくるようになったわけです。
本書のほとんど冒頭近く
「私たちの行動の根本動機」を問う質問が
取り上げられています。
今回はこの最初の質問の部分をご紹介しいます。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
【質問者】
私たちの行動の根本動機は何でしょうか?
【ジャン・クライン】
一人でいると、
ふとした瞬間に、
自分の中に深い欠如感を覚えることがあります。
この欠如感は他のすべての欠如感を引き起こす、
中心的な欠如感です。
この欠如感を埋め、
渇きを癒すために、
私たちは考え、
行動します。
この物足りなさは何なのかと
問いただすことさえせずに、
私たちはやみくもにそこから逃げるのです。
私たちはまず、
その欠如感を埋めようと、
次々とさまざまな対象を試し、
絶望します。
つまり、
私たちは次々と色々な組み合わせを試し、
失敗に失敗を重ね、
次々と苦しみの原因を生み、
戦いに次ぐ戦いを繰り返すのです。
これは大部分の人が陥る運命です。
欠如感があるのは仕方のないことだと思って、
その状態に甘んじる人もいます。
逆に、
何らかの埋め合わせによって、
偽りの満足感を得る人もいます。
しかし、
その満足感は一時(いっとき)しか続きません。
やがて、
その埋め合わせに
飽きたり物足りなさを感じたりして、
ほとんどの人はまた
別の埋め合わせを探すことになるのです。
しかし、
中にはその事態を
じっくり観察しようとする人もいます。
ある対象は束の間、
私たちを心底満足させてくれます。
そして、
その間私たちは自分の本質である
充足感に浸ります。
そうやって満たされている瞬間、
私たちは対象をまったく意識していません。
したがって、
その対象は私たちの経験の原因ではありません。
このような、
対象によらない喜びの瞬間を知ることは
非常に重要です。
私たちは習慣的に、
喜びは何らかの原因によって生じると考え、
その対象こそが喜びだとみなしています。
なぜなら、
記憶が喜びとその対象を結びつけるからです。
しかし、
実を言うと両者はまったく異質のものです。
だからこそ、
私たちには
「自分が存在することの喜びを感じるために、
その対象が費やされている」
ということがわかるのです。
『われ在り I AM』(p8-9)
──────────────────
> 【質問者】
> 私たちの行動の根本動機は何でしょうか?
アドヴァイタ・ヴェーダーンタの
マスターであるジャン・クラインが
何を措いてもまず最初にと
この質問から説明をはじめたわけですよね。
いったいわれわれは何ゆえに
行動に駆り立ててられているのかと。
> 【ジャン・クライン】
> 一人でいると、
> ふとした瞬間に、
> 自分の中に深い欠如感を覚えることがあります。
> この欠如感は他のすべての欠如感を引き起こす、
> 中心的な欠如感です。
> この欠如感を埋め、
> 渇きを癒すために、
> 私たちは考え、
> 行動します。
> この物足りなさは何なのかと
> 問いただすことさえせずに、
> 私たちはやみくもにそこから逃げるのです。
自分一人だけでいて、
対人的な対応が強制されていない状況にあるとき、
ふとわれわれは
自分の中に深い欠如感を覚えることがある。
そしてこの深い欠如感こそが
すべての欠如感を引き起こす中心的欠如感なのだと
ジャン・クラインは言います。
通常われわれはただやみくもに
それを感じることを回避することだけを考える。
当面その欠如感を感じなくても済むように
それを他の何かで糊塗するためだけに
行動に駆り立てられるのだと。
そして、この物足りなさが何なのかを
見極めようとすることはまず起こらない。
> 私たちはまず、
> その欠如感を埋めようと、
> 次々とさまざまな対象を試し、
> 絶望します。
> つまり、
> 私たちは次々と色々な組み合わせを試し、
> 失敗に失敗を重ね、
> 次々と苦しみの原因を生み、
> 戦いに次ぐ戦いを繰り返すのです。
> これは大部分の人が陥る運命です。
われわれは通常
その欠如感を埋め合わせするために
さまざまな対象物を手に入れることを試みる。
ところがさまざまの対象物や
それらの組み合わせで試してみても
この中心的な欠如感を根本的に除去することはできない。
かえって失敗に失敗を重ね、
次々と新たな苦しみの連鎖を生み出すことになる。
そして奮闘に次ぐ奮闘を繰り返しているのが
通常われわれの大部分が陥っている運命だ。
> 欠如感があるのは仕方のないことだと思って、
> その状態に甘んじる人もいます。
> 逆に、
> 何らかの埋め合わせによって、
> 偽りの満足感を得る人もいます。
> しかし、
> その満足感は一時(いっとき)しか続きません。
> やがて、
> その埋め合わせに飽きたり物足りなさを感じたりして、
> ほとんどの人はまた
> 別の埋め合わせを探すことになるのです。
そのけっか、
欠如感があるのは仕方のないことだと諦めて
その状態に順応してしまう人々もいる。
またその欠如感を埋め合わせられるような
代替物による偽りの満足感を獲得する人々もいる。
しかし、対象物から得られるどんな満足感も
けっして永続することはありえない。
けっきょく、その埋め合わせに飽き足らず
また別の代替物を探すことになる。
> しかし、
> 中にはその事態をじっくり観察しようとする人もいます。
> ある対象は束の間、
> 私たちを心底満足させてくれます。
> そして、
> その間私たちは自分の本質である
> 充足感に浸ります。
> そうやって満たされている瞬間、
> 私たちは対象をまったく意識していません。
> したがって、
> その対象は私たちの経験の原因ではありません。
> このような、
> 対象によらない喜びの瞬間を知ることは非常に重要です。
しかし中には
そのような欠如感で実際に何が起こっているのかを、
じっくり観察するようなタイプの人も存在する。
そのような人々の観察によると、
たしかに何らかの対象物は
私たちを心底満足させてくれることがあって、
そういうときには私たちは
自分の本質である充足感に浸っている。
ところがそうやって満たされているとき
私たちはその対象物を実際はまったく意識していない。
つまり、私たちの充足感の原因は
実際はその対象物ではないらしいということがわかる。
このような対象物に依拠しない喜びの瞬間を
知ることはとても重要なことだと
ジャン・クラインは言います。
(つまり、さしずめこのpariなどは
そのような対象物に依拠しない喜びの瞬間を
知らないということのようです。(>_<))
> 私たちは習慣的に、
> 喜びは何らかの原因によって生じると考え、
> その対象こそが喜びだとみなしています。
> なぜなら、
> 記憶が喜びとその対象を結びつけるからです。
> しかし、
> 実を言うと両者はまったく異質のものです。
> だからこそ、
> 私たちには
> 「自分が存在することの喜びを感じるために、
> その対象が費やされている」
> ということがわかるのです。
というのも、私たちは通常
喜びは何らかの対象物が原因となって
起こっていると考えているため、
喜びはその対象物にあると見なしている。
欲望の対象が手に入ったときの
過去の喜びの瞬間の記憶によって
そのような連想が強化されているためだ。
しかし、実際は、
欲望の対象物と実際の私たちの充足感とは
まったく異質のものだ。
私たちの充足感は
自分が存在しているという自然な喜びであり、
たまたま欲望の対象物が手に入った瞬間は
私たちは他に何も求めるものがないため、
自分の存在に内在する自然な充足感に
満たされるからにすぎない。
──────────────────
【質問者】
私たちが静かな気づき(アウェアネス)を通して
周囲のものを見ると、
それらは調和のとれた自然な状態になってゆく
というのは本当ですか?
【ジャン・クライン】
私たちの心身の性質を変えることができるのは
静かな気づきだけです。
この変化は完全に自発的です。
もし、
私たちがそれを変えようと努力しても、
せいぜい注意を
ある一つのレベルから別のレベルへ、
あるいは一つのものから別のものへ
移すことしかできません。
私たちは悪循環の中にとどまり続けます。
これはエネルギーをある
点から別の点へ移しているだけです。
それでは、
私たちは依然として苦しみと喜びの間を
振り子のように揺れ動き続けることになります 。
苦しみと喜びは必ず、
対局へと揺れ戻すからです。
私たちの生物学的、感情的、
あるいは心理学的な性質によって行われてきた
条件付けを辞めさせることができるのは、
生ける静寂、
つまり静かであろうとする者さえいない
静寂だけです。
そこには支配者も選択肢も
選択する人格もいません。
何も選ばず、
与えられた状況を生きていると、
どんどん自由になってゆきます。
あなたはもう、
物事の他の側面よりもある面にこだわる
ということをしません。
なぜなら、
こだわる者がいないからです。
あなたが何かを理解し、
形式にこだわることなくそれを生きると、
理解したことは
あなたの開放性(オープンネス)の中に
溶け込んでゆきます。
この静寂の中で、
変化がひとりでに起こります。
問題は解決し、
二元性は終わります。
そしてあなたは、
理解する者も理解されるものもない、
栄光の中に残されるのです。
『われ在り I AM』(p9-10)
──────────────────
> 【質問者】
> 私たちが静かな気づき(アウェアネス)を通して
> 周囲のものを見ると、
> それらは調和のとれた自然な状態になってゆく
> というのは本当ですか?
私たちが自分の周りに起こっていることを
静かな気づきの立場から眺めると、
まわりの出来事は調和のとれた自然な状態になってゆく
というのは本当なのでしょうか?
> 【ジャン・クライン】
> 私たちの心身の性質を変えることができるのは
> 静かな気づきだけです。
> この変化は完全に自発的です。
私たちの心身の性質を変化させられるものは
静かな気づきしかありません。
そしてその変化は完全に自発的なものです。
> もし、
> 私たちがそれを変えようと努力しても、
> せいぜい注意を
> ある一つのレベルから別のレベルへ、
> あるいは一つのものから別のものへ
> 移すことしかできません。
> 私たちは悪循環の中にとどまり続けます。
> これはエネルギーをある
> 点から別の点へ移しているだけです。
> それでは、
> 私たちは依然として苦しみと喜びの間を
> 振り子のように揺れ動き続けることになります 。
> 苦しみと喜びは必ず、
> 対局へと揺れ戻すからです。
たとえ私たちが自分で意図して
心身の性質を変化させようと努力したとしても、
それはせいぜい
自分の注意を向けるレベルを変えたり、
注意を向ける対象物を変えたりできるだけです。
新たに注意を向けたレベルや対象物でも
また同じような問題が起こり続けて、
私たちが悪循環から出ることはできないでしょう。
なぜならそれは、
注意のエネルギーを一つの点から
別の点に移したにすぎないからです。
それではけっきょく、
相変わらず苦しみと喜びの間を
振り子のように揺れ動き続けるだけでしょう。
対象物として感じられる苦しみを忌み嫌い、
対象物として感じられる喜びだけを
求めようとする努力によっては、
苦しみと喜びの両極間を揺れ動いて
苦しみと喜びが必然的に交替する現象の波に
どんな全体的変容ももたらすことは
できないからです。
> 私たちの生物学的、感情的、
> あるいは心理学的な性質によって行われてきた
> 条件付けを辞めさせることができるのは、
> 生ける静寂、
> つまり静かであろうとする者さえいない
> 静寂だけです。
> そこには支配者も選択肢も
> 選択する人格もいません。
> 何も選ばず、
> 与えられた状況を生きていると、
> どんどん自由になってゆきます。
心身機構のまわりに構築されてきた
生物学的、感情的、心理学的性質に基づく
条件づけに終止符を打つことができるのは
現象の背景として現存する静寂、
つまり静かであろうとする意図すら存在しない
自然な状態としての自発的静寂だけです。
その自然な静寂の中には
支配者も選択肢も選択する人格もいません。
あなたが何も選ぶことなく
与えられた状況を生きるなら、
あなたはどんどん自由になってゆくことでしょう。
> あなたはもう、
> 物事の他の側面よりもある面にこだわる
> ということをしません。
> なぜなら、
> こだわる者がいないからです。
> あなたが何かを理解し、
> 形式にこだわることなくそれを生きると、
> 理解したことは
> あなたの開放性(オープンネス)の中に
> 溶け込んでゆきます。
そこではあなたはもう
現象の中のある側面を
他の側面より重要視するということを
しなくなるでしょう。
なぜならそもそも
こだわる当人が存在しないからです。
あなたが自分が気づきであることを知り、
形にこだわることなくその事実を生きるなら、
あなたのその理解は
あなたの開放性の中に溶け込んでゆくでしょう。
> この静寂の中で、
> 変化がひとりでに起こります。
> 問題は解決し、
> 二元性は終わります。
> そしてあなたは、
> 理解する者も理解されるものもない、
> 栄光の中に残されるのです。
すべての変化は
この自然な静寂の中でひとりでに起こります。
すべての問題は解決し、
二元性に終止符が打たれることでしょう。
そしてあなたは
理解する者も理解されるものもない
栄光の中に残されることになります。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:あきさん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
………○…………○…………○………
じつは、今回もまた先月の
『アセ通』2022/09/11(第960号)での応答に
https://www.ascensionkan.com/mm/vol960.html#2
あきさんからご返答をいただいていました。
最初一、二回確認したのですが、
またいろいろ取り紛れて
このアドレスの確認を忘れてしまいました。
あきさん、ごめんなさい。m(_ _)m
だんだんこだわる能力が低くなってしまって……。
ま、物は言いようですが。(*^_^*)
ご海容いただければありがたいです。
早速ご紹介します。
【件名】:
──────────────────
Pari さん
こんにちは^_^
質問にお答えしますね。
タクさんのこと、ご存じだったのですね。
今年の7月13日のブログに紹介されていました。
「私にはまだ脱落が起きていない」という件名です。
「夢へと目覚める」
目次の項目にあると思いますが、
p120 受容、無条件の愛、…
すみません。
項目の番号を間違えたかもしれません。
単一の自己としてあり、
永遠に完璧であらゆるものに浸透している私が、
何かを受け入れ、何かを拒むだろうか。
何かが私を喜ばせ、何かが私を悲しませるだろうか。
まったく動じず、何にもとらわれずにあり続けながら、
私は計り知れないみずからの自己にやすらいでいる。
なるほど^^
あきより
──────────────────
> Pari さん
>
> こんにちは^_^
今回もまたご返事が遅れてしまって
ごめんなさい。
ばんたびでは謝って間に合いませんね。
> 質問にお答えしますね。
>
> タクさんのこと、ご存じだったのですね。
はい、何年か前から知っていました。
何がきっかけで出会ったんだったか……。
こんなブログがあったんだ!(@_@)
と最初は驚きました。
それで、ときどき思い出しては訪問していました。
関西言葉でなければ表現できないノリがあって、
タクさんはその名手ですよね。
> 今年の7月13日のブログに紹介されていました。
> 「私にはまだ脱落が起きていない」という件名です。
あ!
タクさん、この『アセ通』を
読んでくださってるんですね。(*@_@*)
It's a Small World! ですね。^^;;
「私にはまだ脱落が起きていない」というのは
きっと【旧友へのメール:『アセ通』第951号】
https://www.ascensionkan.com/mm/vol951.html#1
のことですね。
たしかに、
【「脱落」というのは起こっていません。】
なんて書いていますもんね。(^_-)
じつは、
ふだん「脱落」というようなことは
考えたこともないのですが、
このメールを宛てた古い友人は
むかし下垂体腫瘍の手術から退院してきたときに
わたしが悟ったと勘違いしたようなのです。
それで彼女に初めて直接メールを送るときに、
その誤解を解いておきたかったのかもしれません。(*^_^*)
それであんな言葉を使ったんでしょうね。
> 「夢へと目覚める」
> 目次の項目にあると思いますが、
> p120 受容、無条件の愛、…
>
> すみません。
> 項目の番号を間違えたかもしれません。
いえ、そのつもりで読み直してみたら
誤解の余地などありませんね。
人間、いろんな状態の混ぜものだから、
当然わかることがわからなかったり。^^;;
> 単一の自己としてあり、
> 永遠に完璧であらゆるものに浸透している私が、
> 何かを受け入れ、何かを拒むだろうか。
> 何かが私を喜ばせ、何かが私を悲しませるだろうか。
> まったく動じず、何にもとらわれずにあり続けながら、
> 私は計り知れないみずからの自己にやすらいでいる。
>
> なるほど^^
> あきより
あー、たしかに。
気づきというのはそういうものですよねぇ。(-_-;)
あきさん、
今回もご投稿、嬉しかったです。
また、気が向いたら合いの手をお願いします。(^人^)
ありがとうございました。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
初めて『われ在り I AM』を読んだとき、
内容はわかったようなつもりで読みましたが、
わたしにはジャン・クラインの語り口が
あまり響かなかったのだと思います。
それが今回は
素晴らしく良かったです。
いま自分にいちばん響く表現
というふうに感じました。
これにすがっていけばいい。
ジャン・クラインさま、
よろしくお願いいたします。(-||-)
夢の中では誰もが自分が消える固有の道を
演じなければならないようですから。
あるいは
演じるものなど誰もいないとも言えるでしょうし。
何も起こっていない、とも言えるのでしょう。
夢は私です。(-||-)
今日はとても暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2022 paritosho
──────────────────
|