━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2022/11/13(第969号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.慌てて結論を出さずに(J.K 我あり)
2.編集後記
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■ 1.慌てて結論を出さずに(J.K 我あり)
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今日もずいぶん身体を動かしました。
今日は北側の鹿留(ししどめ)の柵を補修しました。
足場が悪いので滑ること滑ること。
まあ、明日は法事に出かけるので、
完成はもう少し先です。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
ジャン・クラインの『われ在り I AM』。
前回の部分に続いた箇所を
ご紹介したいと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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【質問者】
「私たちには映画のフィルムを変えることができない」
という考え方はあまりに運命論的過ぎませんか?
【ジャン・クライン】
運命論的だと思うということは、
あなたが自分をフィルムと同一視し、
それに従っているということを意味します。
しかし実際は、
映画は続いていますが、
あなたはそれを見ている人なのです。
スクリーンから離れてみると、
その映画の実像について、
新たな見方をすることができるようになるでしょう。
この包括的で無限の観点はもはや観点ですらなく、
時空の中にはありません。
そして、
この観点から見ると、
あらゆることが完全に同時に起こっています。
ですから、
変えるべきものは何もないのです。
『われ在り I AM』(p66-67)
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> 【質問者】
> 「私たちには映画のフィルムを変えることができない」
> という考え方はあまりに運命論的過ぎませんか?
この方の気持は、もちろんそれなりにわかります。
ところで、
あなたはどう思われますか?
「映画のフィルムを変えることはできる」
つまり、
ミナミAアシュタールふうに言うところの
「自分の思考でパラレルワールドを
選択することができる」、
という考え方のほうが望ましいですか?
それとも、ジャン・クラインふうに言うところの
「映画のフィルムを変えることはできない」
と揺るぎなく確信できるほうが
望ましいと感じますか?
わたしは(精神年齢というよりは
むしろ肉体年齢のせいだろうと思いますが)、
「自分の思考でパラレルワールドを
選択することができる」と
この上まだ人参を追いかけさせられるのは、
ちょっと、という感じはあります。(*^_^*)
> 【ジャン・クライン】
> 運命論的だと思うということは、
> あなたが自分をフィルムと同一視し、
> それに従っているということを意味します。
まあ、それはそうですね。
> しかし実際は、
> 映画は続いていますが、
> あなたはそれを見ている人なのです。
間違いなく。
> スクリーンから離れてみると、
> その映画の実像について、
> 新たな見方をすることができるようになるでしょう。
この
「スクリーンから離れてみる」というのは、
どのような意味合いなんでしょうね?
映画の中から映画の外に出る、
といったようなことなのか……?(-_-)
> この包括的で無限の観点はもはや観点ですらなく、
> 時空の中にはありません。
意識の内容物からは距離があるということなのか?
> そして、
> この観点から見ると、
> あらゆることが完全に同時に起こっています。
おお!(@_@) ⌒★?
【あらゆることが完全に同時に起こっている】
このことが如実にわかっていたら……。
誰が何を求めるというのか?(-_-;)
> ですから、
> 変えるべきものは何もないのです。
映画の中の登場人物の観点からは
変えるべきものがあるように見えるわけです。
しかし、
意識の中の森羅万象、あらゆる顕現が、
完全に同時に起こっていることが明らかな観点からは
誰かが何かを望むということはありえません。
同時に起こっているその全体のいったいどこに、
何かを望みうるその誰かが
存在できるというのでしょうか?
──────────────────
【質問者】
前の話に戻りますが、
先ほどあなたは
「私たちの知覚が変われば世界も変わる」
とおっしゃいました。
なぜ、そんなことが起こりうるのですか?
【ジャン・クライン】
完全に成熟し、
自己は意識の中にあるとわかっている人は、
社会規範による承認を必要としません。
そのような人は、
誰からもどんな邪魔もされずに、
その状況で必要なことをすぐに行えます。
もしあなたが自分の要求に従って行動するならば、
あなたにはまったく自由がありません。
他方、
もしあなたが
状況によって求められていることをするならば、
あなたは正しいことをしているのであり、
あなたもその周囲のものも自由です。
行動したり、
感じたり、
考えたりするとき、
賢者は自分を一人の人間であるとはみじんも思いません。
自我がまったく存在しないからです。
自我そのものは一つの考えに過ぎず、
二つの考えが同時に形をとることはできません。
ですから、
対象についての考えが脇に追いやられたときにだけ、
自我が生じます。
それから、
自我はこの考えが自分自身のものだと主張します。
「私がそれを見た、私がそれをした」
という所有感は
事実が起こった後になって初めて訪れるのであり、
事実そのものとは無関係です。
このメカニズムが明らかになると、
あなたにも
「以前に現実だと信じていた同一視は幻想だった」
とわかります。
あなたは状況を支配してはいないし、
それに隷属もしていません 。
あなたの本質は状況を超越しています。
静かな気づきとは状態ではなく、
その中ですべての状態やすべての物事が
現れては消えてゆく、
連続体です。
無の状態について語るために、
目覚めた状態で私たちが使う言葉は、
この気づきを表現したものなのです。
あなたが知覚する世界は記憶や恐れ、
不安や欲望などに基づいて作られた
想像の産物に他なりません。
これまでずっと、
あなたは自分自身を
この世界の中に閉じ込めてきました。
慌てて結論を出さずに、
そのことを理解してください。
そうすれば、
あなたは自由になります。
世界から自由になるために
しなければならないことなど何もありません。
世界はあなたの想像の中にしか存在しないからです。
『われ在り I AM』(p67-68)
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> 【質問者】
> 前の話に戻りますが、
> 先ほどあなたは
> 「私たちの知覚が変われば世界も変わる」
> とおっしゃいました。
> なぜ、そんなことが起こりうるのですか?
【私たちの知覚が変われば世界も変わる】とは、
この場合は地球という物理次元に位置しながら
肉体という“三次元VRゴーグル”を
外したような状態のようなことを意味しているのか?
> 【ジャン・クライン】
> 完全に成熟し、
> 自己は意識の中にあるとわかっている人は、
> 社会規範による承認を必要としません。
自己は意識の中にあるつかの間の現れ
ということが完全に自明な観点からは、
見えている現実がまったく違うわけですから
普通われわれがフォーカスしている
三次元ゲーム内の個人的エゴの観点から
現象に関わることはありえないのでしょう。
> そのような人は、
> 誰からもどんな邪魔もされずに、
> その状況で必要なことをすぐに行えます。
大人が
特に問題がないかぎり子供の喧嘩を放置しておくように、
そして子供の喧嘩がある種の限度を超えたときに、
必要な対処をして子供たちを引き分けるように。
> もしあなたが自分の要求に従って行動するならば、
> あなたにはまったく自由がありません。
三次元VRゴーグルをかけた観点から行動するなら、
それは映画に登場する個人としての行動であり、
個人的視野狭窄の拘束下にあって
そこにはまったく自由は存在しないわけでしょう。
> 他方、
> もしあなたが
> 状況によって求められていることをするならば、
> あなたは正しいことをしているのであり、
> あなたもその周囲のものも自由です。
しかし、
もしあなたが三次元VRゴーグルをかけない観点から
そこにある状況そのものが必要とする対処行動を取るなら、
それは全波動現象のハーモニーの一部であって
あなたもその周りにいるものも自由なのです。
> 行動したり、
> 感じたり、
> 考えたりするとき、
> 賢者は自分を一人の人間であるとはみじんも思いません。
> 自我がまったく存在しないからです。
> 自我そのものは一つの考えに過ぎず、
> 二つの考えが同時に形をとることはできません。
個人的観点による視野狭窄がない賢者は、
一人の人間として感じたり行動しているのではありません。
「個人」とは一つの観念にすぎず、
実際は存在しない架空の実体なので、
「自我」の観点の中に現実が現れえないのと同じく、
現実の中に「自我」が現れることもありえません。
> ですから、
> 対象についての考えが脇に追いやられたときにだけ、
> 自我が生じます。
> それから、
> 自我はこの考えが自分自身のものだと主張します。
> 「私がそれを見た、私がそれをした」
> という所有感は
> 事実が起こった後になって初めて訪れるのであり、
> 事実そのものとは無関係です。
したがって
森羅万象はすべて対象物である
という観点が排除されることが起きないかぎり、
自我という観念が生じることがありえません。
つまりそのような状況で生じた自我が、
同じようにして生じた他の対象物を
自分のものだと主張するのです……。
つまりそのような新たな観念が生じるわけです。
なので、
「私がそれを見た、私がそれをした」
といった自我が主張する所有感は
実際に起こった事実とは無関係な、
それらの事実の後に起こる別の観念にすぎません。
> このメカニズムが明らかになると、
> あなたにも
> 「以前に現実だと信じていた同一視は幻想だった」
> とわかります。
自我の主張のこのメカニズムが明らかになると、
以前は現実だと思われていた
現象に対する(自我の)“所有感”が
幻想だったことがわかります。
> あなたは状況を支配してはいないし、
> それに隷属もしていません。
> あなたの本質は状況を超越しています。
> 静かな気づきとは状態ではなく、
> その中ですべての状態やすべての物事が
> 現れては消えてゆく、
> 連続体です。
> 無の状態について語るために、
> 目覚めた状態で私たちが使う言葉は、
> この気づきを表現したものなのです。
実際に気づいているあなたは
起こってくる状況を支配してもいなければ、
起こってくる状況に隷属もしていません。
気づいているあなたの本質は
映画の中の状況を超越しています。
あなたである「静かな気づき」とは状態ではありません。
「静かな気づき」とは
その中ですべての状態やすべての物事が
現れては消えてゆくその永遠の不動です。
> 無の状態について語るために、
> 目覚めた状態で私たちが使う言葉は、
> この気づきを表現したものなのです。
あらゆる事実が起こる以前の
無の状態について語るために、
自我の視野狭窄下にない
覚醒した状態の意識が使う言葉は、
この気づきからの表現だということです。
> あなたが知覚する世界は記憶や恐れ、
> 不安や欲望などに基づいて作られた
> 想像の産物に他なりません。
> これまでずっと、
> あなたは自分自身を
> この世界の中に閉じ込めてきました。
一方、
自我の視野狭窄下にあるあなたが知覚する世界は、
記憶や恐れ、不安や欲望といった
観念(=対象物)に基づいて作られた
想像の産物に他なりません。
これまでずっと、
あなたは自分がこの観念で構築された世界に
閉じ込められていると想像していました。
> 慌てて結論を出さずに、
> そのことを理解してください。
> そうすれば、
> あなたは自由になります。
> 世界から自由になるために
> しなければならないことなど何もありません。
> 世界はあなたの想像の中にしか存在しないからです。
記憶や恐れといった観念に煽られて
慌てて不安や欲望に駆り立てられるのではなく、
まずこのメカニズムを理解することです。
そうすれば、
すべての事実がその中で消滅する
「静かな気づき」であるあなたは自由なのです。
世界がその中で消滅する
「静かな気づき」であるあなたには、
世界から自由になるために
世界の中でしなければならないことなど
何もありません。
世界はあなたの中に
想像として現れているだけだからです。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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無時間的直感として統覚されるべき
このような覚者の言葉を
どこまでも論理的なマインドの言葉として
なぞることに意味があるのかどうか、
わかりません。
しかし、それしかできないし、
それに意味があると思っているので、
こうしてできの悪い生徒よろしく
何年も何年も書き写しています。
まあ、
まったく意味がないと思えば
やらないわけでしょうから、
何がしかの効果を期待しているのでしょう。
それはそれでよしとしましょう。
なかなかエゴも健気じゃないですか。(^_-)
今日も暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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