home > 通信 >あらゆる出来事は移ろいゆく(J.K):『アセンション館通信』第970号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/11/20(第970号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あらゆる出来事は移ろいゆく(J.K)

2.編集後記
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■ 1.あらゆる出来事は移ろいゆく(J.K)
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今日もけっこう身体を動かしました。

北側の鹿留(ししどめ)の柵の補修が

まだ続いています。

じつはそこに欅の大木があって

以前北側に向いた大枝を切り落としたとき

その太枝が下にあったワイヤーネットの鹿柵を

支柱ごと押し下げてしまったのです。

いろいろ支柱の揚げ方を検討しましたが、

結局それは無理だとわかった。

でそのワイヤーネット鹿柵の消失部分を

以後いろいろ作り直しているというわけです。

まあ、あと少しでつながる

というところまできました。

気の長い話です。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

ジャン・クラインの『われ在り I AM』。

前2回につづいて、

「6」節の最後の部分をご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 あなたが現実だと思っているものは、
 記憶から生じた概念に過ぎません。
 記憶は心から生じ、
 心は観照から、
 観照は真我から生じます。
 あなたは観照者、
 つまり土手に立って川の流れを見ている見物人です。
 あなたを動かず、
 変わらず、
 時間と空間の限界を超越しています。
 あなたは永久不変のものを見ることができません。
 なぜなら、
 あなたがそれだからです。
 
 これまで自分で自分の周りに築き上げてきた観念や、
 他人があなたに対して抱いているイメージを
 助長してはなりません。
 誰にも、
 何者にもならず、
 社会の要請から自由であり続けてください。
 社会のゲームに参加してはなりません。
 そうすれば、
 あなたはしっかりと自律できます。
 
 『われ在り I AM』(p68-69)
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われわれが現実だと思っているものは

実際は今この瞬間にどこにも存在しない

記憶を編集した物語です。

実在する真我から「見ること(観照)」が生じ、

「観照」から「心(想念・思考)」が生じ、

「心」から「記憶」が生じます。

われわれは自分から生じる思考(想像)が

紡ぎ出す対象物の中で迷子になっているけれど、

実際はその思考(想像)が生じるのを

見ている者(観照者)です。

物質次元を生きる対象物の人間になるところまで

自己同化の病いにハマりにハマると、

自分と小動物を区別する鹿留の修理作業に

苦労するところまで行きます。(^_-)

しかし、それにもかかわらず

この現象を見ている「私」自身は

土手に立って川の流れを見ている見物人です。

実際には川にハマって流されることはない。

「私」は永遠の不動であり、

永遠に不変であり、

想像された意識の枠組みである

時間や空間で定義されることもありえません。

「私」はどんなに求めても、

つかの間の光景の意識の対象物を見ることはできても、

その対象物を見ている

永久不変の絶対的主体を見ることはできません。

なぜなら、

その永久不変の絶対的主体が「私」なのですから。

「私」は想像された物語の中の

どんな対象物にもなることはできません。

だから物語の中の対象物に一体化して

その架空の立場から幸福を求めるのは

ユリディスを求める「黒いオルフェ」のように

果のない虚しい彷徨でしかありません。

それは自ら好んで不幸を求めることなのです。

これまであなたがどんな物語を紡いできたにせよ、

これ以上そのような無用な観念に執着し続けたり、

他人があなたに対して抱くイメージを助長したり

するのはおやめなさい。

誰にもなってはいけません。

何者にもならないことです。

社会が求めることから自由であり続けなさい。

社会のゲームには参加しないことです。

そうすれば、

あなたは自由を自らの手に取り戻せます。

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 ヴェーダーンタ
 (訳注:『ウパニシャッド』の別称。
  ヴェーダンタ聖典四部門の最終部門)では、
 世界と現実との関係をよく、
 蛇と紐にたとえて説明しています。
 私たちは片手に蛇、
 もう一方の手に紐を持っているのです。
 蛇はさまざまな対象からなる世界を表しています。
 そこには人々がいて、
 さまざまな考えや感情が渦巻いています。
 他方、
 紐は究極の現実、
 つまり静かな気づきを表しています。
 私たちが紐を蛇だと思わなくなれば、
 蛇という観念は消え去り、
 私たちは紐をありのままに、
 紐であるとみることができるようになります。
 真実が明らかになれば錯覚はその実体を失い、
 消えてしまいます。
 それはごく当たり前のことです。
 思考は幻想にとってなくてはならない部分です。
 ですから、
 思考が私たちの究極の現実を
 明かしてくれることはありえません。
 「在るということ」、
 つまり現存(プレゼンス)はすべての経験の源です。
 そして、
 それは経験するものと経験されるものという
 二元性を超えています。
 思考や知覚よりも気づきに重点を置いていると、
 私たちは筋神経系のレベルでも、
 精神的なレベルでも、
 だんだん深くリラックスしていきます。
 
 自分が経験するあらゆる状態の生成消滅を、
 ただ淡々と観察していると、
 まもなく
 「どの状態、
  どの知覚、
  どの思考も
  無言の認識、
  すなわち在ることとしての認識に
  再吸収されていくのだ」
 ということはわかります。
 この連続体は、
 唯一の現実です。
 活動が始まる以前から、
 それはあります。
 この静けさを感じたら、
 そのたびにその中に深く沈むようにしてください。
 現実が現れるのを期待してはなりません。
 なぜなら、
 それはいつも在るからです。
 しかし、
 出来事は現れたり消えたりします。
 出来事は皆、
 移ろいゆくものだということを
 決して忘れないようにしてください。
 あなたがしなくてはならないことはそれだけです。
 それを守れば、
 目の前に恩寵への扉が開かれるでしょう。
 「私は好きだ、私は嫌いだ」というような
 意見や反応が介入してくるとすぐに、
 あなたは個人的な習慣の中に陥り、
 自分の周りに網を張り巡らし、
 自分の本質を見失ってしまいます。
 期待や共感などの感情もまた、
 あなたを真我から引き離そうとします。
 あなたが抱く変化や進歩、
 改善や悪化などの観念はどれも部分的で個人的です。
 しかし、
 全体から世界を見ると、
 あなたの中で世界が変わるでしょう。
 あなたは世界なのです。
 
 『われ在り I AM』(p69-70)
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古来インドのヴェーダーンタ哲学は

世界と現実との関係を、

蛇とロープの喩えで説明してきました。

実在するのは実際はロープにすぎないのに、

私たちの対象物に対する執着は

それを蛇として幻視させるのです。

蛇として命を吹き込まれた世界には人々がいて

さまざまな考えや感情が渦巻いています。

他方、

ロープとは実在する究極の現実、

つまり静かな気づきを表しています。

私たちが意識の対象物を世界だと思わなくなれば、

蛇という観念は消え去り、

私たちはあるがままのロープを見ることができます。

実在するものが明白に確認されれば、

錯覚はおのずから実体を失い、

消えてしまいます。

その蛇という幻想を創造する要素こそが思考なのです。

だから、

その思考が私たちの究極の現実を

明かしてくれることはありえません。

「在るということ」、

つまり現存こそがすべての経験の源です。

すべてはこの現存から生じているのです。

すべての現れは

本来は二元性を超えています。

だから思考や知覚よりも

気づきに重点を置いていると、

私たちは感覚的にもメンタル的にも、

だんだん深くリラックスしていきます。
 
自分が経験するあらゆる状態の生成消滅を、

ただ淡々と観察していてください。

するとやがて

どの状態も、

どの知覚も、

どの思考も、

無言の認識のなかに、

つまり「在る」という認識のなかに

再吸収されていくことがわかります。

これが実在する唯一の現実です。

あらゆる活動が始まる以前から、

それは存在しています。

この静けさを感じたら、

そのたびにその中に深く沈むようにしてください。

あなたがマインドで期待する何かが

現実として現れることを期待してはなりません。

なぜなら、

それはいつも在るからです。

しかし、

顕現する出来事は現れたり消えたりします。

あらゆる出来事は移ろいゆくものだということを

決して忘れてはいけません。

あなたがしなくてはならないことはそれだけです。

それさえ守っていれば、

目の前に恩寵への扉が開かれるでしょう。

愛着や嫌悪、意見や反応が介入してくるとすぐに、

あなたは個人的な習慣の中に陥り、

自分の本質を見失ってしまいます。

期待や共感などの感情もまた、

あなたを真我から引き離そうとするのです。

変化や進歩、改善や悪化などの観念は

どれも部分的で個人的なものです。

しかし、

全体から世界を見るなら、

あなたの中で世界が変わるでしょう。

それはあなたが世界だからです。

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 【質問者】
 人類にとって、
 戦争や争いは避けられないものなのでしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 争いを起こすのは個人であって、
 人類ではありません。
 あなたの本質である一体性(ワンネス)の中では、
 いかなる争いもありえません。
 努力や競争、
 攻撃などに関わるのは人格だけだからです。
 「私はどれくらい
  自分の意見や習慣に支配されているだろうか」
 と自問 してください。
 それらこそ、
 絶え間ない争いの原因です。
 自分の心の働きを観察してください。
 それがどのように機能するのかを見つめるのです。
 いかなる先入観も持たずに、
 じっと見つめてください。
 そうすればやがて、
 心の中にではなく、
 見つめるということの内に
 自己を発見する瞬間が訪れるでしょう。
 それに続いて、
 あらゆる努力が消えるとあなたは、
 自分が観察するものをも
 超越した輝く光であるとわかるでしょう。
 現実は心の産物でもなければ、
 思考の繋がり全体の結果でもありません。
 現実はただ、
 在るのです。
 知覚の中に本当の自己を
 見つけることは不可能だということに、
 あなたは気づかなくてはなりません。
 私たちが示唆することのできる方法はただ一つ、
 日常生活のさまざまな状況で、
 心がどんな反応をするのかを分析せず、
 ただ観察するということだけです。
 何らかの観念に合わせるために、
 自分の生活を変えてはなりません。
 以前と同じように生き、考え、感じてください。
 そして、
 それらのことを単なる機能として、
 ただ意識してください。
 そうすれば、
 あなたは自然に
 それらのことから自由になってゆきます。
 それから、
 あなたが自分の個性だと思っていたものも消えてゆき、
 後にはただ観照だけが残るでしょう。
 最後には、
 この観照さえも究極の知識の中に消えてゆくでしょう。
 
 予期せぬときに突然、
 何の理由もなく、
 過去とは無関係に波のように押し寄せてくるもの、
 根もないのに芽生え、
 花を咲かせることも色あせて枯れることもないもの、
 まったく緊張がなく、
 最も自然なもの、
 それが真我です。
 
 『われ在り I AM』(p71-72)
──────────────────

「人類にとって、
 戦争や争いは避けられないものなのでしょうか?」
 
努力や競争、攻撃などに関わるのは

何らかの判断基準をもつ人格だけです。

人格とは物語の中の登場人物

(つまり属性を担った対象物)を

自分と誤解した思考です。

対象物に一体化した思考が

それ自体対象物であるのは言うまでもありません。

つまり、人格とは気づきの対象物であって、

人格が現象に気づいているのではないのです。

ただし人格が現れているのは、

あなたがその誤解した思考に気づいているからです。

あなたがそれに気づいていなければ、

何ひとつ現れることはできません。

気づいているあなたには

どんな判断もまた判断基準もありません。

だからどんな戦いも葛藤もありません。

人格である個人たちが紡ぎ出す葛藤に

気づいているのは、

あなたの本質である一体性(ワンネス)です。

自分がどれほど、

いわゆる“自分”の意見や習慣に支配されているかを

自問してみてください。

それらの意見や習慣が

絶え間ない争いを生じさせているのです。

自分の中に湧き上がってくる思考に

気づいていてください。

それらがどんな意見を展開するか

どのように機能するのかをただ見ていてください。

どんな先入観ももたず、

どんな判断もせずに、

自分の心の働きを観察してください。

するとやがて

湧き上がってくる思考や感情の中ではなく、

見ているというそのことの中に

自己を発見する瞬間が訪れることでしょう。

それに続いて、

これまで浮上してくる思考に応じて

身構え対応していたあなたの態度が緩み、

あなたからあらゆる努力が

消失するときが来るかもしれません。

そのときあなたは

自分が浮上してくるあらゆる対象物を超えた

それらを照らし出す輝く光であることを

知るでしょう。

現存するのは

思考が構築する諸々の対象物でもなければ、

それらが連携して生み出される

全体的結果でもありません。

現存するのは

ただ「在る」ことだけです。

感覚によって知覚されるものや、

思考によって想像されるものの中に

本当の自己を見つけることは不可能であることに

あなたは気づかなくてはなりません。

試してもらえるのなら

お薦めできる方法はただひとつです。

日常生活のさまざまな状況で、

浮かび上がってくる思考を

あれこれ分析することなく、

ただ観察することをしてみてください。

たとえば、無思考になるべきだといった

観念の指示に合わせて、

普段の生活を変えてはいけません。

それまでと同じように生活し、

考え、感じてください。

そして、

それらを単なる生の機能として、

ただそれらに気づいていてください。

そうすれば、

あなたは自然に

それらの機能から自由になってゆきます。

そうするうちに、

あなたが自分の個性として

執着していたものも消えてゆき、

後にはただ観照だけが残るでしょう。

最後には、

そうして気づいていることさえも

究極の知識の中に消えてゆきます。

それは思考の想像の網に

かかるようなものではありません。

その逆に、

思考の思考がまったく予期せぬときに

何の理由もなく

過去とは無関係に突然押し寄せてくるものです。

何の原因もなく生じ、

華やかに喜ばすこともなく、

寂しげにしおれてゆくこともないもの。

まったく緊張がなく、

もっとも自然なもの。

それが気づきである真我です。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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自分を人間だと誤解している私たちは

絶えず現れに対する想像の中で

溺れようとする衝動に駆られます。

しかし現れに対する判断が

すべて想像の産物であることは自明です。

現れに対するあらゆる判断は

自らを現れの中の対象物と

誤解した立場から生ずるもの。

現れの中のどんな対象物も、

またそれら対象物からなるどんな構造物も、

またそこから生まれるどんな物語も、

すべて表現属性を担った対象物にすぎません。

そしてそれらの対象物に自己同化したどんな思考も、

それらの現れに気づくことはできません。

気づいている「私」には

どんな判断もありえません。

だから苦しみは誤解の中にしか存在できない。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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