home > 通信 >目覚めの状態も夢見の状態も(J.K):『アセンション館通信』第972号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/12/04(第972号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.目覚めの状態も夢見の状態も(J.K)

2.編集後記
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■ 1.目覚めの状態も夢見の状態も(J.K)
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小動物(アナグマかハクビシンだと思うけど)

への対抗作戦、最終局面に入っています。

北側からの入り口はたぶん塞いだと思うし、

敷地の南東の端のネムノキの下も塞いだし、

今日は庭のゲートまわりも塞いだので、

まずはこれで一通り塞いだはず。

あとは手作りコンポストの様子を見るだけです。(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

ジャン・クラインの『われ在り I AM』。

気が向いたところを、

前の方の節から意味がわかりそうな部分を

順にご紹介していこうと思います。

今回は

「2」節からご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 2
 
 【ジャン・クライン】
 自由は人格と無関係です。
 なぜなら、
 自由とは人格から解放されることだからです。
 基本的に、
 師と弟子は一つです。
 両者はすべての行動と知覚の永遠なる中心軸なのです。
 両者の違いはただ一つ、
 一方は自分が何であるかを「知っている」のに対し、
 他方は知らないということだけです。
 
 【質問者】
 しかし、
 日常生活では人格が非常に重要な役割を果たしており、
 すべてが人格に依存しているのではありませんか?
 
 【ジャン・クライン】
 人格は投影、
 つまり記憶によって生み出され、
 欲望によって育てられた習慣に過ぎません。
 「私は誰か?」と自分に聞いてみてください。
 すると、
 聞く者、
 考える者、
 行為する者、
 受難する者などはすべて
 「われ在り」(I AM)という意識、
 つまり永久不滅の背景の中で
 現れては消えていく形なのだということが
 はっきりと観察できます。
 人格それ自体に現実性はありません。
 いわゆる人格は誤解に基づいています。
 思考や感情、行動などは
 生成消滅を無限に繰り返しながら、
 連続性という幻想を生み出します。
 ある人格、
 あるいはある自我(エゴ)であるという考えは
 記憶によって結びつけられたイメージに過ぎません。
 自分はこういう者であり、
 ああう者であるという考えは、
 あなたの想像、
 あるいは錯覚の一部です。
 師はその無限の現存(プレゼンス)によって、
 またその教えを与えることによって、
 あなたは対象でも自我でもないということを
 理解できるように助けてくれます。
 本来のあなたは対象化できません。
 それは時間や空間と無関係だからです。
 
 『われ在り I AM』(p15-16)
──────────────────

> 人格は投影、
> つまり記憶によって生み出され、
> 欲望によって育てられた習慣に過ぎません。

これ、まったく疑問の余地がないですよね。

> 「私は誰か?」と自分に聞いてみてください。
> すると、
> 聞く者、
> 考える者、
> 行為する者、
> 受難する者などはすべて
> 「われ在り」(I AM)という意識、
> つまり永久不滅の背景の中で
> 現れては消えていく形なのだということが
> はっきりと観察できます。

はい。

すべて現れては消えていく

シンボル、イメージ、想念であり、

またそれらの物質化に他なりません。

> 人格それ自体に現実性はありません。

人格という実体が存在するわけではなく、

すべては記憶から紡ぎ出された物語であり、

またそのなかで自家栽培された欲望によって

さらに増殖しながら習慣的に発生する

ただの想念群にすぎません。

> いわゆる人格は誤解に基づいています。
> 思考や感情、行動などは
> 生成消滅を無限に繰り返しながら、
> 連続性という幻想を生み出します。
> ある人格、
> あるいはある自我(エゴ)であるという考えは
> 記憶によって結びつけられたイメージに過ぎません。
> 自分はこういう者であり、
> ああう者であるという考えは、
> あなたの想像、
> あるいは錯覚の一部です。
> 師はその無限の現存(プレゼンス)によって、
> またその教えを与えることによって、
> あなたは対象でも自我でもないということを
> 理解できるように助けてくれます。
> 本来のあなたは対象化できません。
> それは時間や空間と無関係だからです。

私たちの人生の中核にある人格とは、

想像、錯覚、誤解に基づく

記憶の織物である物語の中核的視点として想定された

習慣的な立場です。

そしてその立場からは

その物語のすべてに気づいているのは

その立場を表現している自分ではない

ということが見えません。

実際にその人格の物語に気づいているのは、

その人格という想像上の登場人物ではなく、

それらの知覚対象物すべてに気づいている

永遠の背景である無限の現存です。

しょせん人格とは

時間と空間で定義された想像上の登場人物にすぎず、

それらに気づいている真の自分は

時間と空間が定義される以前から存在している

永遠の現存なのです。

──────────────────
 【質問者】
 精神的混乱から解放されるには、
 どうすればよいですか?
 
 【ジャン・クライン】
 ただその混乱に気づいていてください。
 いっさい何も変えようと思わず、
 自分がどのように機能しているかを観察してください。
 絶えず注視していると、
 心(マインド)が浄化され、
 遅かれ早かれ、
 あなたは意識的に
 心を超えることができるようになるでしょう。
 
 『われ在り I AM』(p16)
──────────────────

不安や動揺といった精神的混乱から

解放されたいのなら……、

【ただその混乱に気づいていてください。
 いっさい何も変えようと思わず、
 自分がどのように機能しているかを観察してください。】

これさえできるようになればいいわけか……。(-_-;)

それ以上、何を望む必要もない。

(-||-)

──────────────────
 真我(セルフ)の探求では
 うまくいくこともいかないこともあるでしょう。
 なぜなら、
 あなたはまだ物事をその真の観点、
 つまり全体として見ることができないからです。
 その不安定さは、
 あなたが自分を心と体だと思っている間
 ずっと続きます。
 あなたが心の本質を認識するまで、
 心はあなたを間違った方向へ導き続けます。
 しかし、
 過去から自由になって聞くと、
 そのことがわかります。
 師の言葉とともに生きてください。
 そうすれば、
 真理を思い起こさせてくれる合図が
 これらのことに気づかせてくれます。
 これらの言葉にならない合図とは、
 師の言葉によって言及されているものに
 備わった香りです。
 自分自分ではないものに合わせるのではなく、
 この静けさに合わせてください。
 なぜ自分と世界を同一視するのですか?
 あらゆる存在は意識の現れです。
 本来のあなたは原因を持たず、
 完全に自律的です。
 したがって、
 自分を選択の世界に住む
 個別の行為者であると見なすことは、
 自我の幻想です。
 
 『われ在り I AM』(p16-17)
──────────────────

【自分自分ではないものに合わせるのではなく、
 この静けさに合わせてください。
 なぜ自分と世界を同一視するのですか?】

「なぜ自分と世界を同一視するのですか?」

苦しむためにそんなことをする必要が

どこにあるのでしょう?

【あらゆる存在は意識の現れです。】

いずれにせよ、

あらゆる存在が意識の現れであることに

疑問はないのですから。

──────────────────
 あなたは機会の許す限りできるだけ多く、
 この非個人的な背景に帰らなくてはなりません。
 自分の注意が
 常に何らかの対象か思考に向けられていることに
 気づいていてください。
 条件づけすることなく在るという感覚を
 あなたはまったく知りません。
 傍観者になってください。
 生命の自然な流れ、
 自分の行動やその動機、
 そしてそれから生じる結果に気づいていてください。
 あなたが自分の周りに築いた壁を観察してください。
 もっと自分の心と身体に気づくようにすると、
 自己がわかるようになります。
 あなたが思い込んでいる
 物事のイメージが消えてゆくと、
 本当の自分がはっきりとわかります。
 それは心の産物とはまったく異なるものです。
 どんなことが生じても、
 あなたはどんどん
 それに巻き込まれなくなってゆきます。
 そして、
 ある日、
 自分がただ知覚していることに気づくのです。
 ひとたび「私とは私の身体である」という考えや
 その考えの影響から自由になると、
 在るという自分本来の状態に気がつくでしょう。
 この発見に完全に自分をゆだねてください。
 概念や知覚によって知っている要素を投影しても、
 真の気づき(アウェアネス)を得ることはできません。
 理性によって本来の自分を経験することはできません。
 あなたではないものを消し去ったとき初めて、
 あなたはそれに達することができるのです。
 
 『われ在り I AM』(p17-18)
──────────────────

【自分の注意が
 常に何らかの対象か思考に向けられていることに
 気づいていてください。】

間違いなく。(*-_-*)

【傍観者になってください。】

(-||-)

【生命の自然な流れ、
 自分の行動やその動機、
 そしてそれから生じる結果に気づいていてください。
 あなたが自分の周りに築いた壁を観察してください。】

(-||-)

──────────────────
 気まぐれな自我はあなたが在ることを妨害します。
 ですから、
 その場に観照者(ただ見守る者)が入って、
 自我に自分が何であるかを、
 つまりそれは一つの対象であることを
 自覚させなくてはなりません。
 この観照者は在ることへの扉を開く、
 一つの教材です。
 自我は自分自身を「知る」ことができません。
 なぜなら自我は自分を
 自分の考えることや感じること、
 経験することなどと同一視するからです。
 自我には抵抗と防衛と興奮しかありません。
 明るく輝き、
 自我にそれらが何であるか、
 つまりそれらが幻想であることを示すのは観照者です。
 
 静かな観照状態は、
 自分ではないものの発見へと私たちを導きます。
 つまり私たちは自分の身体や思考パターン、
 それまでほとんど意識していなかった
 自分の行動の理由や動機などに気づくのです。
 介入も評価もせず、
 照合することもなく、
 ただ思考を観察していると、
 その観察の中に思考は消えていきます。
 もはや思考過程や思考内容が重視されず、
 観察することそのものが重視されるようになると、
 この観照状態が一つの浄化、
 あるいは手放しになります。
 そこに浄化したり、
 手放したりする人は誰もいません。
 思いもよらないほどのエネルギーを秘めた世界が
 みずらを解き放ちます。
 精神活動はかき乱されなくなり、
 ひとりでに
 それ本来の自然な流れに従うようになります。
 私たちは注意の中で自己を発見します。
 そして、
 私たちは
 「私はこれである、私はあれである」
 という投影を完全に捨て去ります。
 この注意は経験と経験者を超えています。
 それは純粋な気づきなのです。
 
 『われ在り I AM』(p18-19)
──────────────────

【自我には抵抗と防衛と興奮しかありません。】

たしかに。

(*-_-*)

【自我にそれらが幻想であることを示すのは観照者です。】

理屈だけで自我にそれを納得させることはできない。

観照することだけがそれを静かに実現する。

(-||-)

【介入も評価もせず、
 照合することもなく、
 ただ思考を観察していると、
 その観察の中に思考は消えていきます。】

ただ、それだけのこと……

が……できるようになりますように。(-||-)

【もはや思考過程や思考内容が重視されず、
 観察することそのものが重視されるようになると、
 この観照状態が一つの浄化、
 あるいは手放しになります。】

(-||-)

──────────────────
 私たちが世界について考えているときにだけ、
 世界は存在します。
 創世の物語は子供だましです。
 実際には、
 世界は絶え間なく創造されています。
 単に記憶が連続性という
 間違った印象をもたらしているだけなのです。
 個人には独立した実態などありません。
 個人は記憶と習性の織物です。
 それは絶えず動揺し、
 何かを望み、
 不満を持ち、
 何かを集めようとし、
 承認と安心を探し求めます。
 基本的に、
 それはおびえていて
 自分自身について深く問おうとはしません。
 
 時間と結びついたあらゆる知覚、
 およびあらゆる経験ははかないものですが、
 私たちの本質は時間を超越しています。
 しかし、
 明瞭な視野が欠けていると、
 私たちは自分をはかないものと同一視してしまいます。
 時間を超えた永遠の瞬間に呼び求められたら、
 その招きを受け入れてください。
 そして、
 自分がいないところに自己を発見できるまで、
 その瞬間の奥深くに入ってください。
 
 『われ在り I AM』(p16-19)
──────────────────

【私たちが世界について考えているときにだけ、
 世界は存在します。】

間違いありません。

【個人は記憶と習性の織物です。
 それは絶えず動揺し、
 何かを望み、
 不満を持ち、
 何かを集めようとし、
 承認と安心を探し求めます。
 基本的に、
 それはおびえていて
 自分自身について深く問おうとはしません。】

間違いありません。(;_;)

(-||-)

──────────────────
 【質問者】
 以前、
 あなたは「真理しか存在しない」とおっしゃいました。
 それならば、時間もまた真理なのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 「在ること」だけが真理です。
 「在ること」はいかなる原因にも依存せず、
 自律的です。
 もし、あなたが
 まやかしの物事をまやかしであると見るならば、
 それは啓示です。
 そして、
 放棄が起こります。
 そこに放棄する人は誰もいません。
 この選択のない直接的な道において、
 エネルギーが解放され、
 ひとりでに真の存在が確固としたものになるのです。
 
 あなたが存在するから世界は存在します。
 しかし、
 あなたは世界ではありません。
 世界とは意識の対象、
 つまり名称と形です。
 しかし、
 永遠に変わることない現実は
 それらを超越しています。
 純粋に反射作用のせいで、
 あなたは名称と形にこだわっています。
 そして、
 それゆえに現実を見逃してしまいます。
 
 意識の他には何もありません。
 宇宙も、
 あなたの個人的な「私」も、
 すべて意識の中に現れます。
 しかし、
 想像力によって私たちはこの気づき、
 つまりこの意識から切り離されてきました。
 そして、
 私たちは自分自身に取り囲まれ、
 自分を恐れや概念、
 イメージの中に閉じ込めてきました。
 ですが、
 目覚めている状態も夢を見ている状態も、
 私たちが共通して持っている、
 この静かな気づきの上に重ね写しされているのです。
 
 あなたが何をするかはまったく重要ではありません。
 大切なのは
 あなたがどのようにそれをするかということ、
 つまりあなたの内面的な態度なのです。
 世界の舞台で新たが演じる役に意味はありません。
 大事なのはあなたが明瞭な視野を持って、
 その役を演じているかどうかということだけです。
 演技することで自分を見失ってはなりません。
 それは、
 あなたの内なる存在を
 見えにくくすることに他ならないからです。
 
 私心がなく無欲な行動はあなたを束縛しません。
 逆に、
 あなたを完全に自由にしてくれます。
 この瞬間を生きてください。
 そして、
 ただ在るのです。
 記憶に基づいて選択すると、
 すぐにあなたは奴隷になってしまいます。
 「在ること」として生きてください。
 そうすれば、
 至福に気づくでしょう。
 
 『われ在り I AM』(p19-21)
──────────────────

【想像力によって私たちはこの気づき、
 つまりこの意識から切り離されてきました。】

はい。

【私たちは自分自身に取り囲まれ、
 自分を恐れや概念、
 イメージの中に閉じ込めてきました。】

間違いありません。

【目覚めている状態も夢を見ている状態も、
 私たちが共通して持っている、
 この静かな気づきの上に重ね写しされているのです。】

あ……。(@_@)

そうか。

(-||-)

【あなたが何をするかはまったく重要ではありません。
 大切なのは
 あなたがどのようにそれをするかということ、
 つまりあなたの内面的な態度なのです。】

あ!(@_@)

そういうことか……。(-_-;)

(-||-)

【演技することで自分を見失ってはなりません。
 それは、
 あなたの内なる存在を
 見えにくくすることに他ならないからです。】

なんと。(@_@) ⌒★?

【ただ在るのです。
 記憶に基づいて選択すると、
 すぐにあなたは奴隷になってしまいます。】

(*@_@*)

うまく立ち回って

架空のエゴの立場で成功したりすれば、

奴隷状態の永続化にしか役立たないわけか。

ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【目覚めている状態も夢を見ている状態も、
 私たちが共通して持っている、
 この静かな気づきの上に重ね写しされているのです。】

そういうことだったのですね。

ありがとうございました。

(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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