home > 通信 >永遠の自由への第一歩(J.K):『アセンション館通信』第973号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2022/12/11(第973号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.永遠の自由への第一歩(J.K)

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.永遠の自由への第一歩(J.K)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日もいい天気でした。

先週の土曜日、

ゆるんでいた電動チェーンソーを

手作りの締め具で強引に締めすぎて、

留め金の芯ネジを捩じ切ってしまいました。(;_;)

このRYOBIの電動チェーンソーはちょっと簡易版で

ブレード部分をエンジン本体に

この芯ネジ1本で固定しています。

部品を買って修理できるものかどうか

ちょっと確信がありませんでした。

ちょうど毎週土曜日に

我家の庭に来てくださるパン屋さんに相談したら

「直せるかもしれない」と言ってくれたので、

渡りに船で彼に預けました。

昨日届けてくれたそのチェーンソーを使って

今日は西側の杉の木を2本切りました。

留め金の締め方がまずいのか

途中で何度もチェーンが緩んでしまって…。

いろいろいじっているうちに、

このチェーンソーが1本の留め金で

どうやってブレード部分を本体に固定しているのか

やっとわかってきました。

どうやら留め金の締め方にコツがあったようです。

チェーンソーも使い手と同じで

色んなところが緩んできているようです。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

どんなことも実際に使いこなせるには

いろいろ細部に渡る具体的な知識が必要です。

このメルマガの配達人が

本当に確実に知っていることは何なのか?(-_-;)

本当に確実に知っていることなんてあるのか?

昔はいろいろ確信があったものですが。

……マインドというのは、

けっきょく、

「ああ言えばこう言う」と言うだけのことかなぁ。

マインドが本当に知っていることなんて……、

あるはずないか……。

マインドを落ち着かせることはできません。

そして「落ち着いているもの」は、

浮上しているマインドの状態にかかわらず

そのマインドの背景にあって

「落ち着いている」わけです。

けっきょく、

「マインドには何も期待しない」

というマインドだけが、

マインドに反映された成熟なのかもしれませんね。

現れているマインドに対して

為すべきこともなければ、できることもありません。

“為すべきこと”そのものが

まさにマインド一部であるわけですから。

にもかかわらず、いつもマインドの中で

ああだこうだと振り回されているのです。

いったい誰が振り回されているのか?

真我が振り回されているわけじゃありません。

真我は背後に在って

常にすべてを己の光で照らし出している。

その光の中にこの身体が現れている。

そしてその身体の感覚に自己同化した

思考が現れているわけです。

その思考が落ち着くことはありえません。

次々とどんな思考が現れてこようと、

真我はそれをただ照らし出しているだけです。

「私は在る」。

もし何も存在しないのなら、

もちろん、何の問題もありえません。

しかし、「私は在る」のなら、

その「私」は自分が何であるのかを

知りたくなるのかもしれない。

そして自分が何であるかを知るために、

いろいろな夢を観るのです。

その夢の中には

無限の形態や観念が舞い踊ります。

そして自分がその夢の中の登場人物だと

想像した思考が現れ、自らの想像に合わせて

また新たな解釈を再創造しつづける。

何かであることは創造の機能の中に現れます。

そこに解決の機能はありません。

静寂はその創造の騒音の背後で

常に静まり返っているのですから。

非顕現は非顕現として現れることはできない。

非顕現は顕現としてしか現れえないのです。

そしてあらゆる顕現は非顕現によって

認められないかぎり顕現することはできない。

それにもかかわらず、

自らが実体として存在していると

誤解する顕現は現れ続けるのです……。

毎回こういうことを写経じみたことをしながら、

それが何かの役に立っているのかどうか……、

そんなことはわかりません。

真に実在するものにとっては、

究極的には何も起こっていないわけですし。

ジャン・クラインの『われ在り I AM』。

気が向いたところを、

前の方の節から意味がわかりそうな部分を

順にご紹介しています。

今回は

「3」節からご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 3
 
 
 【ジャン・クライン】
 私たちは身体ではありません。
 しかし、
 そのことを言う前に、
 私たちは「自分ではない身体とは何なのか」を
 正確に知る必要がありそうですね。
 
 身体は五感からできています。
 五感を抜きにして身体について語ることはできません。
 私たちはおもに感覚として身体を経験します。
 私たちは身体を感じるのです。
 私たちに現れる感覚は実にさまざまです。
 たとえば、
 私は重い、軽い、
 暖かい、寒い、
 緊張している、リラックスしている
 などと感じます。
 これらの感覚は私たちが慣れ親しんだ記憶と習慣です。
 それらは「私は身体である」という観念が
 自分の存在を再確認するための手段に過ぎません。
 それらはいわば、
 本来の自然な状態にある身体の上に
 重ねて合成された画像のようなものです。
 したがって、
 「私たちはまず、
  自分が何でないかを知らなくてはならない」
 とは、
 「私たちはこの重ね合わせ合わせられた画像に
  はっきりと気づかなくてはならない」
 ということを意味します。
 
 『われ在り I AM』(p22)
──────────────────

ジャン・クラインという方は、

アドヴァイタのグルであると同時に、

身体感覚については

アートマナンダ・クリシュナ・メノンの法を継ぐ

正統のヨーガのグルですよね。

だから、

【私たちは「自分ではない身体とは何なのか」を
 正確に知る必要がある】とおっしゃるのでしょう。
 
われわれの身体感覚とは、

【「私は身体である」という観念が
 自分の存在を再確認するための手段】のことだと。

つまり、

身体感覚に依存しているかぎり、

われわれは「自分が身体である」ことを

再確認する結果になるしかないわけでしょう。

しかし、

そのような五感による身体感覚とは、

実際は「自己の本来の自然状態」のことではなく、

その上に重ね合わされた合成画像のようなものだと。

──────────────────
 【質問者】
 身体の本来の状態を感じるということについて
 話してくださいましたが、
 どうすればその本来の感覚を
 知ることができるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 先述した通り、
 私たちが「感覚」として知っている諸感覚は
 「私は身体である」という考えに属する、
 条件づられた感覚です。
 そして人格、
 つまり「私」は
 この重ね合わせられた画像を支えにしています。
 なぜなら、
 人格は感覚か観念のいずれかを
 住処(すみか)としなくてはならないからです。
 条件づけから自由になる唯一の方法は、
 記憶抜きで、
 つまり条件づけの共犯者抜きで見ることです。
 心の中にどんな感情が浮かんでも、
 それを視覚化したりそれに集中したりせず、
 放っておくことです。
 観照者である「私」の前に、
 つまり中心も周辺もない注意の前に感情が現れるのを、
 現れるままに放っておくと、
 身体は何段階かの消去の過程を
 超えてゆくことになります。
 なぜなら、
 重ね合わせられた画像は
 この観照者の前で消えてゆくからです。
 あなたは条件づけが手放されてゆくのを
 見ることになるでしょう。
 それまでは人格を確かなものだと信じるために、
 間違って条件づけが重視されていました。
 しかし、
 今や重点は観察へ、
 つまり観照することへ移ります。
 そして、
 まもなくあなたは自分が観照されるものを超えた
 光であることに気づくのです。
 これはあなたの全体的な広がりの本来の状態です。
 それはエネルギーであり、
 空であり、
 光です。
 
 初めのうち、
 この新しい身体感覚は弱くて壊れやすいでしょう。
 そのため、
 あなたは古いパターンに
 引きつけられるかもしれません。
 しかし、
 身体には有機的な記憶、
 つまりくつろいだ、
 それ本来の状態の記憶があります。
 その記憶がひとたび目覚め、
 ある程度持続されれば、
 遅かれ早かれ、
 それが永久に続くようになります。
 古い諸感覚はあなたと相いれなくなり、
 あなたはそれを思い出すことさえ
 難しくなってしまうかもしれません。
 それからあなたは、
 身体は自分の中に、
 つまり気づき(アウェアネス)の中に現れるのであり、
 あなたが身体の中に消えてしまうことはないと
 気づきます。
 
 『われ在り I AM』(p23-24)
──────────────────

では、

どうすればその本来の自然状態を

知ることができるのか?

ジャン・クラインは答えます。

人格(架空の自己、「私=自我」)は、

感覚または観念という形の記憶を根拠にして

その虚構(=錯覚=誤解)を維持している。

だから、

その虚構(=錯覚=誤解)から自由になるには、

(感覚または観念という形の)記憶抜きで

見る以外には方法がない。

【心の中にどんな感情が浮かんでも、
 それを視覚化したりそれに集中したりせず、
 放っておくことです。】

身体感覚がもっともらしく呼び出す

感情を視覚化したり、

あるいはその感覚に集中したりせず、

ただ放っておいて、消えるにまかせる。

これが大力量の第一歩であり、

また最後の一歩でもあるのでしょう。

感情が現れるのをただ放っておくと、

それに応じて、

身体感覚として重ね合わせられた画像は

いつくもの段階的過程を通過して

観照者の前で消えてゆくことになる。

そしてもしそれが起これば、

条件づけが手放されてゆくのが見られると。

それまで誤って重視されていた人格に代わって、

今や観照することが重視されるようになる。

やがて自分が観照されるものを超えた

光であることに気づくことになる。

それが自己本来の自然な状態、

全体的な広がりの本来の状態だというのです。

それはエネルギーであり、

空であり、光だと。

初めのうちは、

この新しい身体感覚は弱くて壊れやすいけれど、

身体はその本来の状態の記憶ももっている。

その記憶がひとたび目覚め、

ある程度持続されれば、

やがてはそれが永久に続くようになる。

古い諸感覚は自分とは相いれなくなり、

いつかはそれを思い出すことさえ

難しくなってしまうかもしれない。

あなたは身体が自分の中に現れるのであり、

自分が身体の中に消えてしまうことは

ありえないのだと気づくことになると。

──────────────────
 【質問者】
 あなたはこの新しい身体感覚を
 エネルギーとして語っておられます。
 では、
 この感覚はある程度じっとしているのでしょうか?
 それとも振動しているのでしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 この新しい身体感覚は筋神経系には属しておらず、
 それよりももっと微細な性質を持っています。
 それはあなたの周りの空間を
 おおい尽くすように広がっています。
 このエネルギーは
 いかなるものにも邪魔されることはなく、
 身体にとっては障害物になるようなものにも
 浸透します。
 それは非常に有益です。
 それは愛です。
 
 【質問者】
 あなたが話されている光は
 触覚に属しているようですね。
 では、他の感覚、
 つまり聴覚や視覚、嗅覚や味覚などの
 本来の状態の経験はどのようなものなのでしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 感覚器は過去の条件づけから解放されると、
 とらわれることをやめ、
 いわば契約を解除して、
 常に新しいものを受け入れるようになります。
 何かを聞いているときは、
 自分がその音に
 とらわれていることに気づいてください。
 そして、
 それを手放してください。
 何にも意識を集中してはいけません。
 このような無方向的な聞き方、
 このような多次元的な聞き方をすると、
 たくさんの音が連続して聞こえてくるでしょう。
 あなたが特にどれかの音を選ぶことも、
 それに対して行動することなければ、
 それらの音は消えてゆき、
 最後には一つの音だけが残ります。
 もしあなたがその音に集中しなければ、
 その音も消え去り、
 あなたはただ純粋に聞いている自己に気づきます。
 同様に、
 口の中からあらゆる味が消えたとき、
 あなたは口そのものの味を感じるようになります。
 話を戻すと、
 最終的に、
 聞くことは純粋な気づきに完全に再吸収されます。
 
 『われ在り I AM』(p24-25)
──────────────────

ここで質問者が聞いていることは

とてもおもしろいですね。

あなたはこの新しい身体感覚を

エネルギーとして語っておられますが、

ということは、

その新しい身体感覚というのは

不動ではないのですね?

むしろ振動しているものなのですか?

と。

ジャン・クラインの回答はこうです。

この新しい身体感覚は

筋神経系には属していません。

それよりももっと微細な性質を持っています。

それはあなたの周りの空間を

おおい尽くすように広がっているエネルギーです。

このエネルギーは

いかなるものにも邪魔されることなく、

身体なら排除したいような対象物にも浸透します。

それは愛なのです。

続いて質問者はジャン・クラインに、

あなたが語っている「光」は、

触覚に属しているようですね、と確認します。

そして、他の感覚、

聴覚や視覚、嗅覚や味覚などの

本来の状態の経験はどのようなものでしょうか?

と尋ねます。

ジャン・クラインは

過去の条件づけから解放された感覚器について

説明します。

記憶への囚われから解放された感覚器官は、

いわば契約を解除して、

常に新しいものを受け入れるようになると。

たとえば、

今の自分が何かを聞いているとき、

われわれはその音にとらわれています。

まずそのことに気づいてください。

そして、

それを手放してくださいと。

(たしかに、

 わたしが聞いているときはその音にとらわれている。
 
 なるほど。(-_-;) )

そして、ジャン・クラインは、

【何にも意識を集中してはいけません。】

と言います。

(生活の問題があるかぎり

 ここは大きな関門ですね。
 
 pariの場合
 
 生活の問題から解放されているわけではありません。
 
 にも関わらず、
 
 だんだんそれを無視するようになってきた。(*^_^*)
 
 まあ、年齢に不足もないしね。(^_-)
 
 ヨーガ的な細部にわたるコメントは、
 
 わたしには手も足も出ないので、
 
 以下、少し飛ばします。)

──────────────────
 【質問者】
 もし何も訓練せずに、
 身体と心(マインド)を
 自然の成り行きに任せていたら、
 それらは野生の荒馬のように暴走してしまいませんか?
 
 【ジャン・クライン】
 身体と心を自然の成り行きに任せるということは、
 私たちが受動的に身体と心の言いなりになることでも、
 それらと自分を同一視することでもありません。
 そんなことをすれば、
 私たちは身体と心の奴隷になり、
 苦しみ、
 みじめになるだけです。
 受動的に野放しにすることと、
 積極的に成り行きに任せることを
 区別しなくてはなりません。
 積極的に任せる場合、
 あなたは百パーセントそこに存在し続け、
 何ものにも巻き込まれることなく、
 明敏な意識で、
 積極的にすべてを注視しています。
 すると、
 自我(エゴ)の力は徐々に弱まり、
 最後には純粋な気づきに再吸収されてゆきます。
 一つの中心から物事を見るのをやめること、
 それは永遠の自由への第一歩です。
 私たちがいかなる形の投影も行わず、
 いかなる期待も抱かなくなったとき初めて、
 永遠の自由が生じます。
 期待を抱けば、
 もともとひとりでに完璧になってゆくはずの
 自然の成り行きを妨害することにしかなりません。
 気づきは明瞭な視野の中で稲妻のように輝きますが、
 重荷を背負った心の中に根づくことはできません。
 
 日常生活において、
 私たちは何かの目的を達成するために
 攻撃と防御を行っています。
 しかし、
 グルに会うときは、
 そういう日常生活で人と会うときの普段の態度とは
 まったく異なる態度で接しなくてはなりません。
 グルとの出会いでは、
 完全に自己を受け入れ、
 グルに身をゆだね、
 喜んでいる彼を受け入れなくてはならないのです。
 そうすれば、
 いっさい偏見を持たずに、
 注意深く聞くことができます。
 師の存在と言葉は、
 あなたがどれだけ
 心を開いて聴いているかを映し出すもの、
 あなたにあなた自身の現存(プレゼンス)を
 思い出させてくれる鏡です。
 それによって、
 道は示され、
 恩寵への扉が開かれます。
 そして、
 気がつくとあなたは真の自己への入口に立ち、
 まさに真の自己になろうとしているのです。
 
 『われ在り I AM』(p28-29)
──────────────────

【一つの中心から物事を見るのをやめること、
 それは永遠の自由への第一歩です。】
 
【私たちがいかなる形の投影も行わず、
 いかなる期待も抱かなくなったとき初めて、
 永遠の自由が生じます。】
 
【期待を抱けば、
 もともとひとりでに完璧になってゆくはずの
 自然の成り行きを妨害することにしかなりません。】

そういうことなんですねぇ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

いわゆるスピリチュアルなさまざまな教えでは、

センタリング(中心を定める)ことが

重視されますよね。

アドヴァイタのグルであるジャン・クラインは

【一つの中心から物事を見るのをやめること、
 それは永遠の自由への第一歩です。】

(-||-)

と教えます。

ま、当然ですが。

今日はこのことを確認すればいいのでしょう。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2022 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡